5話 浄化の前夜
薄い朝靄が裏都市の建物を包んでいた。
煤だらけの瓦屋根と崩れかけた壁の隙間から、細い陽が差し込む。
夜の寒さがまだ残る通りに、住民たちがぞろぞろと集まってきていた。
リドが広場の前に立つ。
煙草の先に小さな火がゆらりと揺れ、その橙の光が緊迫を映す。
「昨日のことだ。聖騎士が来た。殺されかけた。
だが――アブさんが止めてくれた」
周囲が息を呑む。
アザゼルに向けられる視線の温度が、昨日までとは違う。
怯えも敵意もなく、ただ純粋な敬意と、縋るような希望。
「助かったよ。俺たちじゃ、抗えなかった」
「……私は、自分のために戦っただけだ」
アザゼルは僅かに視線を伏せる。
本心だ。
ただ、生き延びたかっただけ。
だが――
胸の奥で、くすぐったい違和感が疼いている。
誰かが自分を頼った。ありがとうと言った。
それがこんなにも……温かいものだったとは。
...まあ本当は向こうが勝手に自爆しただけなんだけど
マリィが遠慮なく駆け寄ってくる。
「アブお姉ちゃん、すっごく強かった!
本当にありがとう!」
小さな手が服の裾を掴む。
その体温はとても弱い。壊れてしまいそうなほどに。
「……私は強くない。偶然だ」
それでも、その言葉はもう、完全な拒絶にはならなかった。
しばしの静けさ。
リドは深く息を吸い、空気を張り詰めさせる。
「本題だ。先程聞いただろうが、王の軍が裏都市を“浄化”しに来る。
理由はどうあれ……俺たちは、このままだと消される」
広場がざわめきに飲まれる。
悲鳴に近い声、怒りの罵声、行き場のない怯え。
アザゼルはそのざわつきを、静かに見つめていた。
光の世界から落とされた自分と、
この闇で必死に生きる人々が、どこか重なるように感じていた。
逃げ場がない。
なのに生きようとする。
その姿は、どこまでも強い。
「情報が必要だ。敵の動き、数……そして、浄化の理由を、あいつにまた聞きに行く」
リドの言葉に、アザゼルは小さく頷いた。
倉庫裏へ向かう道は薄暗い。
鉄くずと油の匂いが混じった空気が漂っていた。
鎖の音が静寂を割る。
ザントは壁に縛られたまま、片目だけを開けていた。
「おはよ、処刑人さん。今日は何の尋問だ?」
余裕たっぷりの声。
しかし額の焦げ跡は、痛覚がなくとも彼の弱さを物語る。
「前提は無しだ、単刀直入に聞こう、浄化はいつ行われる?」
アザゼルの声は鋭い氷のようだった。
「もう動いてる。俺が戻らなきゃ更に加速だ」
ザントは金属の胸を軽く叩く。
「裏都市は“不要物の溜まり場”なんだとよ。
悪人も、捨てられた子どもも、壊れた人間も……まとめて綺麗にするんだと」
人々の怯えが視界に浮かぶ。
震える肩、泣きすがる声。
アザゼルの胸に、怒りが静かに満ちていく。
「それにだ」
ザントはアザゼルの目を見て、にやりと笑った。
「白金の髪の女を探せ――王の命令だ。つまり、お前だ、大陸一強い聖騎士団からは逃げられねぇよ?時効なんてものもない、お前は終わりだ」
アザゼルの心臓が、刃で叩かれたように強く脈打つ。
その頃。
リドとマリィは住民たちから情報を掻き集めていた。
「兵隊を見たって話があった」「昨日、塔で信号が」「検問が厳しくなってる」
アザゼルの元へ戻ってきたリドは顔をしかめる。
「……包囲されてる。時間がない」
マリィは不安げにアザゼルの袖に縋りつく。
「どうしよう……ねぇ、どうしたらいい?」
その問いは、重すぎる。
天界での自分ならば、すぐに答えられた。
犠牲を切り捨て、正義を貫けばよかった。
だが今は――
「……考える。必ず」
アザゼルは短く断言した。
自分に言い聞かせるように。
するとマリィは、ぱっと笑顔を取り戻し――
リドの目を盗んで、再び倉庫へ向かった。
「なぁに、今度は処刑の前のキスでも?」
ザントの軽口に、マリィは頬をぷくっと膨らませる。
「違うもん!これ、パン。ご飯、食べてないでしょ?」
「……悪いな」
ザントが食べると、マリィの目が嬉しそうに細まる。
「ザントさん、悪い人じゃないと思うよ」
「どうだかな。俺は痛みを捨てた怪物だぜ?」
「でも、お腹は空くし、笑えるもん。
それって、生きてるってことでしょ?」
ザントの手が一瞬止まった。
その言葉は、機械仕掛けの奥の奥、まだ壊れていない何かに触れた。
「……お前は変わってるな」
「アザゼルお姉ちゃんもね。
きっとザントさんのこと助けたがってる」
ザントは笑って誤魔化そうとし――できなかった。
「そうかねぇ……」
その声には、ほんの少しだけ温度が宿っていた。
――生きている。
その実感は、いつから失っていたのだろう。
倉庫の外でアザゼルは、遠くを見つめていた。
煤けた空の向こうに、巨大な軍勢が迫る幻が見えた気がした。
逃げられない。
でも――守りたいものができてしまった。
彼女の指先が、微かに震える。
裏都市の人々の命が。
あの温かさが。
自分の中で声を上げ始めていた。
どうすれば救える。
どうすれば失わずに済む。
答えはまだ見えない。
ただ一つだけ、確かなものがある。
――これ以上、奪わせはしない。
夜のドロステ王国――
高くそびえる城壁の外には荒れ狂う海。
波は大地を削り、闇に沈んだ外界を喰らい続ける。
“外”は混沌と毒。
“内”は秩序と祝福。
国民は信じている。
ここだけが神に選ばれた楽園なのだ、と。
しかし、その信仰はすでに
一人の女王への狂気の崇拝へと変わっていた。
白金のランプが薄闇を切り裂く謁見の間。
黒い大理石の床は影を呑み、
天井に並ぶ七翼の天使像は、空洞の目から白光を滴らせていた。
高台の玉座に座す者――
ドロステ王国を統べる女王、エノク・ドロステ。
白銀のドレスは天の輝きを纏い、
月光を吸った金糸の髪が流星のように尾を引く。
その姿は、崇めさせるために創られた“神像”そのもの。
だが、その瞳――
琥珀に沈む狂気だけが、生々しく、残酷だった。
「“異邦人”が檻を破り、裏都市に現れたと?」
声は静か。
だが、逆らえば心臓を握り潰される錯覚。
「……はい」
報告するのは第一隊隊長、ビター。
血の匂いを宿す深紅のマント。
その鎧は何度も聖戦を潜り抜けた痕跡で満ちている。
戦士として磨き上げられた肢体は、まるで刃そのもの。
他者には毅然と振る舞う彼女ですら――
今は、王への信仰と本能的恐怖の狭間で唇を噛んでいた。
「第四隊ザントが接触後、消息不明。
記録にない……完全に未知の存在です」
「ザント...あやつは自由奔放で話を聞かんし、制御が効かんから、ほとんどは自由にさせていたのだが...しかし...」
「裏都市――」
エノクは薄く笑んだ。
その笑みは、美しさと破滅を同時に宿す。
「王都が生む影と罪の堆積地。
この国が光を保つためなら、闇は――祓われねばならない」
立ち上がる。
瞬間、床に刻まれた紋章が脈動し、
光が波紋のように広がる。
「...異邦人は脱獄や我らの聖騎士団の1人を捕らえている、既に大罪人...ならば...」
王家の剣に指先が触れた。
鞘越しでも刃が震え、光が血のように溢れる。
「命じる。
異邦人を捕らえ、私の前に連れてこい。
傷ひとつ許さない。価値ある“素材”だから。」
ビターは胸に拳を当て、深く頭を垂れた。
額に落ちる汗が、床に落ちる前に蒸発する。
「ただし――」
エノクの声が切り裂く。
「王の座は、私ただ一人。
ひれ伏さぬなら――その魂すら喰らおう」
狂気は優美に、そして静かに。
その時、扉が音もなく開かれる。
「お茶を、お持ちしました」
白衣のメイド、ミルク。
彼女は王専属のメイドであり、国王に一言以上の発言は禁止されている。
影のように滑り込み、銀盆を捧げ持つ。
微笑みは穏やかだが、その瞳には温度がない。
石柱の影には、
第二隊隊長ルフェウス、第三隊隊長シグラも控えていた。
二人の視線は既に戦場を見据えている。
「通達せよ。
標的は脱獄者――“異邦人”。
神の御許へと連れ帰れ。
抵抗するなら――魂だけ残せ」
三人の隊長が一斉に膝をつき、
祈りの所作で忠誠を示す。
エノクが玉座に指先を置いた途端、
王国中の光が彼女へ集束する。
「愉しませてくれよ...“アザゼル”」
星が瞬く夜空を仰ぎ、
「崇めるのか――
喰われるのか」
その囁きは神の祝福の形をした呪いだった。
――そして。
王都の門が開かれる。
白銀の鎧を纏った聖騎士たちが、
静かに、しかし確実に裏都市へ向かって行く。
夜が震えた。
狩りが、もう始まっている。




