3話 少女と時代遅れな機械頭
朝が来ても、この街は明るくならない。
太陽が昇っても、光は濁り、壁にこびりついた煤の色を変えることはなかった。
アザゼルは、リドの住む古びた酒場の屋根裏で目を覚ました。
風の隙間から差し込む薄明かりは冷たく、木板の床に散った埃が光を吸い込んでいる。
夢も見なかった。眠るというより、ただ意識が沈んでいた。
階下に降りると、マリィが椅子に乗って鍋をかき混ぜていた。
小柄な体でお玉を持ち上げる姿は、まるで背伸びした子猫のようだった。
「おはよう、アブお姉ちゃん!」
「……おはよう。アザゼル、だ。」
「うん、アブお姉ちゃん!」
訂正は、今日も虚しい。
リドが奥で煙草を咥え、煙の向こうから笑う。
「諦めな。マリィは一度気に入ったら変えねぇんだ」
「ふふ、アブって柔らかい感じするもん」
「は???」
マリィの言葉に、アザゼルは少しだけ肩を落とした。
食後、三人で荷運びの手伝いをした。
腐臭の漂う倉庫、錆びた鉄骨の下。
リドは冗談を飛ばしながら働き、マリィは瓶を拾い集め、アザゼルは黙々と木箱を運んだ。
そのたび、皮膚が切れ、血が滲む。
天界にいた頃――こんな痛みは感じたことがなかった。
だが、今の痛みの方が確かだ。
肉が軋むたび、自分が「ここにいる」とわかる。
(……何のために、私はまだ歩いている?)
(天界に戻る? あの光の中へ? ――そんな資格が、まだ自分にあるのか?)
(こんなことしてる場合じゃないんだがな...)
空は曇り、街の屋根は煤に沈んでいく。
リドが声を上げた。
「今日はここまでだ。マリィ、パンでも買ってこい」
「うん!」
マリィは跳ねるように駆け出し、アザゼルの手を掴んだ。
露店が軒を連ねる細い通りは、人と熱気で溢れていた。
香辛料の匂い、油の焦げた臭い、甘ったるい果実の腐臭――この街の空気そのものが、混沌としていた。
マリィは小さな銅貨を差し出し、パンを買う。
その瞬間、背後で「チリン」と金属音が鳴った。
一枚の金貨が、地面に転がっていた。
「おっとぉ、落としちまったか。拾ってくれんの? お嬢ちゃん」
陽気な声が、雑踏を裂いた。
そこにいたのは、真紅の外套を羽織った男。
金髪を乱暴に撫でつけ、首には女物の香水の匂いを纏っている。
腰には、二本の剣。片方は刃が欠け、もう片方は血で錆びついていた。
目元は鋭く笑っているのに、心底から楽しそうだった。
「ありがとよぉ。いやぁ、助かる助かる。こういうときはね、礼にキスでも――」
マリィの前に、リドが立った。
「やめろ。子どもに何してやがる」
「おっとぉ、怖い怖い。冗談だろ? 俺、子どもは守る派よ。たぶんな」
その男は、リドを見てニヤリと笑い、視線をアザゼルに移す。
銀の髪。淡い光の残る瞳。
瞬間、男の笑みがわずかに変質した。まるで、退屈を吹き飛ばす玩具を見つけた子供のように。
「おいおいおい……何だよその顔。
美人ってレベルじゃねぇな。天女ってやつか? あ、触っていい?」
アザゼルは黙って彼を見返した。
その無表情が逆に気に入ったのか、男は指を鳴らした。
「名乗りが遅れたな。俺の名はザント。ドロスタ聖騎士団・第4番隊。
――けど、そんな肩書はどうでもいい。酒と女があれば、生きていけるタイプでねぇ」
ザントは、まるで人間を模した精密な玩具のようだった。
長身で、鍛え抜かれた体躯。
しかし、その皮膚の下に潜むのは筋肉ではなく、滑らかに光る金属の線。
首筋や関節の隙間からは淡い青光が脈打ち、時折、静電気のような音が弾ける。
皮膚は人工的な再生組織で覆われており、一見すれば生身の人間に見える――だが、目の奥に宿る光がそれを否定していた。
両の腰には、左右対称に一本ずつ刀が下げられている。
どちらも緑色の木製の鞘に収められ、使い込まれた擦り傷が走る。
武骨な金属の体に似合わぬ、温もりのある木の質感――それが逆に、彼の異質さを際立たせていた。
鞘口からは、鈍く光る刀身がわずかに覗く。研ぎ澄まされた金属の輝きと、草のように淡い緑の鞘。その組み合わせは奇妙に調和していた。
顔立ちは整っている。
薄く笑えば、女が振り返るほどの顔。
だが、その笑みはいつも温度を欠いていた。
表情の奥で、機械仕掛けの神経が軋む音がする――そんな錯覚を覚えるほどに。
右目の下には、焼け焦げたような傷跡が一本走っている。
そこだけ、合成皮膚が剥がれ、鈍い銀の金属が覗いていた。
戦いの傷ではなく、あえて“残している”ようにも見える。
飾りか、警告か、それとも――彼なりのユーモアか。
彼の動きは、人間のそれよりも滑らかだった。
呼吸のリズムさえ正確で、まるで時間に合わせて動く機械のよう。
しかし歩けば、床板が軋む。
生身よりも重く、確かな“質量”を持っていた。
金属の身体に、皮肉なほど整った笑顔。
正義を掲げる国・ドロステ王国の聖騎士でありながら、
その背中から漂うのは――人の正義とは程遠い、鉄と血の匂いだった。
リドの表情が引き締まる。「……聖騎士、だと?」
「おうよ。ちょいと聞きてぇ。あんたの名前は?」
「……アザゼル」
「アブ? おお、虫みてぇだな! いいねぇ、そういうの嫌いじゃねぇ!」
ザントは笑いながら、アザゼルの頬の近くまで顔を寄せる。
香水と血と酒の混ざった匂い。
その眼は笑っていながら、殺意を隠そうともしなかった。
「なぁ、アブ。聞き覚えがあんだよなぁ、その名前。
確か……うちの国から脱獄したやつだったか...なんだったがなぁ...」
「関係ない」
アザゼルの声は低く、冷たかった。
「ほぉ……関係ない、ね。
じゃ、試してみっか。生きたまま捕まえろって命令されてんのよ、俺」
金色の瞳が細められた瞬間、空気が軋んだ。
ザントが抜刀した。刃は陽を反射し、音を立てずに走る。
「おっと、怖い顔すんなよ。俺だってさ、ほんとは穏やかに話したいんだ。
でもよぉ――仕事だから、仕方ねぇ!」
剣が閃いた。
アザゼルは咄嗟に身を翻し、頬を掠めた刃が空気を裂く。
その一撃で、背後の石壁が砕け散った。
「ハハッ! やっぱ勘は鈍ってねぇな!」
ザントは笑いながら、刃を肩に担いだ。
その笑いは、戦いを“遊び”としか思っていない者のものだった。
「お前みてぇな顔の女、滅多にいねぇ。
殺すのはもったいねぇけど――ま、捕まえるだけなら楽しめるだろ」
マリィが悲鳴を上げる。リドが彼女を抱え、後ろへ下がる。
アザゼルは無言で拳を握りしめた。
(……まただ。どこに行っても、戦いからは逃れられない)
胸の奥で、何かが軋む。
自分が目指していた「天界」への道は、遠ざかる一方だ。
今や、自分が何を望んでいたのかすら曖昧だった。
(私は、まだ……戻りたいのか? あの光へ?)
(それとも、もう――この暗闇で、生きるしかないのか)
ザントの声が弾む。
「おーい、アブちゃん。そろそろ反撃してくれよ。
じゃねぇと俺、退屈で死んじまうぜ!」
彼の笑い声が、裏都市の通りに響く。
人々が遠巻きに息を潜め、誰も近づこうとはしなかった。
金と血の匂いが混ざり合う。
アザゼルは静かに一歩踏み出す。
その瞳は、決意よりも――疲れの色をしていた。
そして、風が震えた。
裏都市の片隅で、アザゼルの初めての戦いの音が始まろうとしていた。




