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1話 気色の悪い地上

野に叩きつけられた痛みが、なお身体の芯に残っていた。

アザゼルはうつ伏せに倒れたまま、重く沈む瞼を開く。


 視界に広がっていたのは、天界では決して目にすることのない景色だった。

 空は深い藍色を溶かし込んだように広がり、太陽は雲の隙間から金色の光をこぼしている。

 遠くには山脈が連なり、その麓には広大な森が波打つように揺れていた。

 草木は風にざわめき、大地には乾いた土と瑞々しい緑が混じり合う。

 色彩――そう呼ぶべきものが、天界にはなかったほどの鮮烈さで迫ってくる。


「……これが……地上……」


 アザゼルは息を呑んだ。

 白銀に凍りついた天界にはなかった「生」が、目の前に広がっていた。

 草の匂い、土の湿り気、鳥の影。すべてが彼にとって初めてのものだった。

 思わず顔を上げ、空を仰ぐ。

 そこには太陽があった。天界で永遠に均質な光を浴び続けていた彼にとって、眩しさと温かさを併せ持つその存在は、まるで初めて出会った異邦人のように鮮烈だった。


 その刹那――。


「怪しい影を発見!」

 鋼の甲冑が鳴る音と共に、数十の影がアザゼルを取り囲んでいた。

 陽光を反射する銀の鎧、掲げられた剣先。

 間もなく、自分の周りを完全に包囲される。


「名を名乗れ!」

 一人の騎士が声を張る。


 アザゼルは身体を起こし、視線を向けた。

 だが――喉が詰まる。声が出ない。

 天使としての名を告げようとしたが、言葉がひりつくように喉で千切れ、消えていった。


「……」

「答えぬか。ならば――魔か」


 剣が突きつけられる。

 騎士たちの目には、怯えと憎悪が入り混じっていた。


「この国は正義の旗の下にある。不審者はすべて、裁きの座へ」


 その中に、一人の女騎士がいた。


 彼女は、鎧に身を包んでいた。

 ただしそれは、戦場の泥にまみれるような無骨なものではない。

 白銀の金属が月光を映すように光を放ち、肩当てには翼の意匠が刻まれている。

 栗色の髪を後ろで束ね、額には小さな傷が一筋――それが、彼女の戦いの証だった。

 整った顔立ちは冷たく、美しく、まるで彫像のようだ。

 だが、その瞳の奥には、長い任務に疲れた兵の翳りがある。

 声は低く、よく通る。

 剣を握る手には、迷いがない――にもかかわらず、どこかに微かな人間味が滲んでいる。

 鉄と信念に縛られた女――そんな印象を抱かせる存在だった。


「待て。……ただの異国の放浪者かもしれぬ。王に裁かせよ」


 その声により、刃はわずかに退いた。

 だが次の瞬間、分厚い鉄の枷が両手に打ち込まれる。


 連行された先は、王国の地下に広がる冷たい牢獄だった。

 石造りの牢は、荒野の乾いた風を遮断するように冷え切っていた。

 鉄格子の向こうには松明の灯りが揺れ、苔むした壁に淡い影を落としている。

 天界の光に慣れたアザゼルにとって、この閉ざされた暗さは異質だった。


「ほら、ここだ」

 鎧の音を響かせながら、女騎士が扉を開ける。彼女の手は無駄なく動き、アザゼルを中へと押し込んだ。


「……」

 アザゼルは抵抗せず、ただ鈍い足音を響かせて牢に入った。


「黙り込むだけとは、つまらない囚人だな」

 女騎士は鉄格子を閉ざすと、冷ややかに言い残して立ち去った。


 静寂が訪れる。

 だが次の瞬間、暗がりの奥からかすかな声がした。


「……珍しいな、若い女がここに来るとは」

「しかも珍しい、白金と金の髪とはねぇ」


 アザゼルが目を向けると、牢の隅に腰を下ろした老婆がいた。


 牢の鉄格子の向こうに立っていたのは、ひとりの老婆だった。

 背は小さく、腰は大きく曲がり、身体全体が乾いた木の枝のように細っている。

 白髪は乱れ、まるで古びた蜘蛛の巣のように肩に垂れ下がっていた。

 しわに覆われた顔には、しかしどこか不気味な光が宿っている。

 瞳だけが異様に澄んでおり、深い皺の谷間から覗くその瞳は、若者のように鋭く、油断すれば心の奥を見透かされそうだった。

 布切れのような外套を纏い、裸足のまま石床に立っている。歩くたび、乾いた音が響き、その存在は幽霊じみて現実離れしていた。


「……誰だ」

「クヒヒヒヒ……名を名乗れぬ囚人に言われたくはないがね」

 老婆は気色の悪い声で笑った。


「わしはキアリク。なんの特別な者でもない……ただの万引き常習犯だよ」


「……そうか」

「お前は?」

「名など、言う意味はない」

「ふふ……頑なだねえ」


「...」


 キアリクは満足げに頷き、話を続けた。

「退屈だろう? 私はね、退屈が嫌いなんだ。だからこうして喋ってるんだよ。……でも、あんたはもっと退屈そうだね」


「……うるさいだけだ」

「クヒヒヒ……いい返事だ」


 それから数日、老婆は飽きもせず話しかけ続けた。

 アザゼルが一言も答えなくとも、まるでそれを楽しんでいるかのように。


 三日目の夜。

 牢の外では看守の足音が遠のき、静けさが戻っていた。


「……あんた、ここで一生過ごす気かい?」


 いつものように、隣から老婆の声がした。

 キアリクは笑いながらも、その瞳の奥だけは妙に冴えていた。


「牢を出たいか?」


「……何が言いたい」


「少しだけ手を貸してやる。ただし、出るのは自分の力でだ」


 そう言うや否や、キアリクは杖の先で鉄格子を軽く叩いた。

 瞬間、光が一閃し、アザゼルの身体がふっと軽くなる。

 気づけば、鉄格子の外にいた。


「ここまでしかできない。後は自分で考えな」


 老婆は薄く笑い、闇に溶けるように消えた。

 まるで幻だったかのように。


 アザゼルは息を潜め、牢獄の通路を見渡した。

 衛兵の足音が、石畳を打って規則正しく響いている。

 天使としての力は封じられたまま――魔力の流れは寸断され、羽も失われている。

 だが、その分、感覚は研ぎ澄まされていた。


(……風が、動いている)


 壁の隙間から微かに空気が流れ込む。

 通気口。狭いが、人ひとりが通れる程度の穴が上部にあった。

 鉄格子の外に出られたとはいえ、この牢獄は多層構造。

 通路を抜ければ、次は番兵の詰所だ。


 アザゼルは石壁に手を当て、耳を澄ます。

 足音の周期、鎧の擦れる音、松明の位置――。

 一瞬の隙を読み取る。


(巡回は三分間隔……左の角を回ると、視界が途切れる)


 心の中で刻み、壁に掛けられた桶をそっと倒す。

 水が音を立ててこぼれ、遠くの通路へ流れていく。

 その音に気づいた衛兵が、舌打ちしながら駆け寄る。

 その隙に、アザゼルは影のように背後をすり抜けた。


 鉄製の扉を抜けると、階段の下に古びた工具箱があった。

 錆びた釘、折れた針金、そして小さな鉄片。

 アザゼルはそれを拾い上げ、枷の鍵穴に差し込む。

 天界の機械構造とは違うが、理は同じ。

 数秒後、「カチリ」と音を立てて枷が外れた。


 呼吸を殺しながら、彼女は階段を上る。

 壁の隙間から、かすかに街の明かりが見えた。

 だが、その先にはもう一枚、鋼鉄の扉が立ちはだかる。

 鍵穴は複雑に刻まれており、普通の手段では開かない。


(……ここで力を使えば、探知される)


 アザゼルは考えた末、扉脇の換気管に目を留めた。

 中からは涼しい風が流れている。外へ通じている証拠だ。

 彼女は身を屈め、細い管を辿って手を伸ばした。

 針金を曲げ、内側の連結栓を外す。

 金属音が鳴り、空気の圧が抜けた拍子に、扉の錠がわずかに緩む。

 その隙間を押し開けると、ひんやりとした夜風が吹き込んだ。


 外――そこは王都の裏通りだった。

 昼の華やかさとは対照的に、薄暗く、湿った匂いが漂う。

 排水溝の音、軋む扉、そして影のように歩く人々。

 裏都市バスティオン――王国の表が隠すもう一つの顔。


 アザゼルは壁際に身を寄せ、息を整える。

 天界では感じたことのない「自由」が、皮膚を刺すように痛い。

 背後では警鐘の音が鳴り始めていた。脱獄の報せだ。


(……見つかるわけにはいかない)


 アザゼルはフードを深く被り、群衆の闇に溶けていった。

 遠く、誰かが彼女の名を呼んだような気がした。

 だが振り返らず、彼女はただ前へ――地上の混沌の中へと歩き出した。


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