0話 天使堕ちちゃった
天界は美しかった。
だがそれは、死骸のように冷たい美しさだった。
見渡す限りの白亜の大地。氷の彫刻のごとく輝く宮殿。
そこに「影」はない。太陽は沈まず、夜も訪れず、ただ均一な白い光が世界を焼き尽くしている。
花は決して枯れず、風は決して土を舞い上げない。
そこにあるのは、永遠という名の「停止」だけだ。
「神は絶対、掟は絶対」
幾千の天使たちが列をなし、一糸乱れぬ声で歌う。
その歌声はあまりに完璧な調和を保ち、まるで精巧なオルゴールのようだった。彼らの瞳はガラス玉のように透き通り、そこには喜びも、悲しみも、疑問すらない。
だが、その完璧な絵画の中に、ただ一滴の「染み」があった。
アザゼル。
白金に銀の鋭さを混ぜた髪、そして何より――底知れぬ深淵を宿した「翡翠の瞳」。
彼だけが、この世界で唯一、退屈という名の猛毒に蝕まれていた。
「……反吐が出る」
アザゼルは塔の縁に立ち、眼下に広がる白の世界を睨みつけた。
背中の翼は純白でありながら、見る角度によっては不吉な「黒」の残像を帯びる。
彼は知っていた。この美しい世界が、ただの美しい牢獄であることを。
彼が求めていたのは、この下――遥か眼下に広がる「人の世」だった。
そこには夜があり、闇があり、汚れがある。
だが、そこには天界にはない「熱」があった。
命が生まれ、叫び、あがき、そして死んでいく。その刹那の輝きこそが、彼の心を焦がしてやまなかった。
その時だ。
完璧な讃美歌の隙間を縫って、ノイズのような、けれど鋭い「音」がアザゼルの耳を刺した。
『……神様……どうか、お願い……』
それは、掟によって遮断されるはずの、下界からの祈り。
か細く、震える母親の声。
『あの子を……助けて……』
隣にいた天使が、眉ひとつ動かさずに言った。
「雑音だ。耳を貸すな。人は弱く、愚かで、救う価値もない」
それが天界の常識だ。掟だ。正義だ。
だが、アザゼルの中で何かが弾けた。
「価値がないだと?」
アザゼルは笑った。獰猛で、天使にあるまじき激情の笑みを浮かべて。
「その『雑音』の方が、お前らの機械みたいな歌より、よほど魂に響くぞ」
次の瞬間、アザゼルは塔を蹴っていた。
制止する声を置き去りに、彼は純白の空気を切り裂き、禁断の地上へと真っ逆さまに堕ちていった。
***
夜の荒野は、血と泥の匂いがした。
天界の無臭の世界とは違う、生々しい「命」の匂いだ。
廃墟と化した村の中心で、一人の女が死にかけている我が子を抱きしめていた。
彼女は泣いていた。絶望の中でなお、見えない空へ向かって祈り続けていた。
(これが、弱さか? 愚かさか?)
違う。
アザゼルは、その姿に戦慄した。
泥にまみれ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも他者のために命を燃やす姿。
それは、あの白く冷たい宮殿の誰よりも気高く見えた。
「天使……様……?」
降り立ったアザゼルを見て、母親が息を呑む。
アザゼルは何も言わず、ただ幼子の胸に手をかざした。
掟では、人に干渉することは大罪だ。
だが、彼の指先から溢れたのは、躊躇いのない光だった。
幼子の青白い頬に赤みが戻り、止まりかけた心臓が再び力強く脈打ち始める。
「あ……ああ、あぁ……!」
母親は崩れ落ち、ただアザゼルの足元で感謝の言葉を繰り返した。
その涙が、アザゼルの足元の土を濡らす。
温かい、と思った。
天界の光よりも、この泥塗れの涙の方が、はるかに温かい。
「礼はいらない」
アザゼルは短く告げ、空を見上げた。
頭上の雲が渦巻き、まばゆい光と共に追手たちが降りてくる。
彼は静かに、しかし確信を持って呟いた。
「俺は、こちら側だ」
***
白亜の玉座の間。
そこは絶対零度の静寂に包まれていた。
玉座に座すのは、天界の王――ソロモン。
黄金の冠の下にある瞳は、氷河のように冷たく、感情というものが欠落している。
「アザゼル」
ソロモンの声が響くだけで、大気が凍りつくようだった。
「お前は掟を破った。秩序を乱し、救う価値なき者に情けをかけた」
縛り上げられ、床に膝をつかされたアザゼルは、血の滲む唇で嗤った。
「価値がない? 笑わせるな、ソロモン。あいつらは必死に生きていたぞ。永遠の中に停滞する俺たちなんかより、よほど『生き物』だった」
「それが愚かなのだ」
ソロモンは無機質に断じた。
「情は判断を鈍らせる。変化は混沌を招く。完全なる秩序こそが唯一の救い。お前の行いは、その秩序への反逆だ」
「秩序が冷たい石になることだと言うなら……」
アザゼルは叫んだ。
「俺はそんなもの、くれてやる! 俺は石像であることより、泥にまみれて生きることを選ぶ!」
一瞬の沈黙。
ソロモンが、ゆっくりと指を振った。
「ならば、望み通り泥に還れ」
処刑の合図だった。
「ぐ、がぁあああああッ!!」
背中に走る激痛。
光の鎖がアザゼルの翼に食い込み、無慈悲に引きちぎっていく。
肉が裂け、骨が砕ける音が生々しく広間に響く。
舞い散る白い羽根は、床に落ちた瞬間に黒く変色し、灰となって消えていく。
それは「天使」としての死であり、永遠の追放を意味していた。
床が割れ、眼下に底なしの奈落が口を開ける。
だが。
意識が遠のくほどの激痛の中で、アザゼルの体にある異変が起きていた。
翼をもがれた傷口から、力が抜けていくのではない。
――逆だ。
何か、とてつもなく強大な「力」が流れ込んできていた。
「……な、んだ……これは……?」
それは皮肉にも、彼を裁いたソロモンの持つ権能の一部。
「完全なる光」が、アザゼルという「混沌」の器に触れ、変質して流れ込んだのだ。
アザゼルの心臓が早鐘を打つ。
熱い。身体中が焼けるように熱い。
失った翼の代わりに、生命の奔流が背骨を駆け抜ける。
奈落へ落ちていくアザゼルの視界の端、玉座のソロモンが初めて眉をひそめたのが見えた。
「アザゼル……貴様、何を……」
アザゼルは虚空へ投げ出されながら、力の限りに叫んだ。
「見ているがいい、ソロモン!! 俺はただでは死なん! いつか必ず這い上がり、お前のそのすました顔を恐怖で歪ませてやる!!」
光の世界が遠ざかり、闇が彼を飲み込んだ。
***
ドスンッ!!
巨大な衝撃と共に、アザゼルは荒野に叩きつけられた。
全身の骨が軋み、翼を失った背中からは鮮血が止めどなく溢れ出す。
「はっ……はっ……」
激痛に霞む視界。
乾いた大地。不毛の荒野。
彼は地を這い、血に濡れた手で土を掴んだ。
その時だ。
彼が触れた場所から、突如として緑の芽が吹き出した。
芽は瞬く間に成長し、茎を伸ばし、黄金の穂を実らせる。
「……?」
アザゼルが血を垂らして歩くたび、足跡から次々と「命」が芽吹いていく。
枯れ果てた荒野が、見る見るうちに黄金色の麦畑へと変わっていく。
風が吹いた。
黄金の波がざわめき、甘やかな実りの香りが漂う。
それは天界の冷たい美しさとは対極にある、力強く、温かい生命の光景だった。
アザゼルは理解した。
翼と引き換えに自分が手に入れたもの。
それは、不毛の地に命をもたらす、皮肉なほどの「豊穣」の力。
麦畑の中、血まみれの堕天使は立ち尽くす。
その背中にはもう翼はない。
だが、その翡翠の瞳は、かつてないほど鮮烈な野心の光を宿していた。
「……いいだろう」
アザゼルは歪んだ笑みを浮かべ、天を仰いだ。
「ここからが始まりだ。この穢れた大地で、俺が本当の『国』を創ってやる」
風が黄金の麦を揺らし、新たな王の誕生を祝福するようにざわめいた。




