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第二十一章「三嶋の宿命」

 ――張り詰めた静寂が漂う中、

 ミス・ロンリーは不意にうっとりと目を細め、溜息まじりに呟いた。


「懐かしい響きですこと……。何年ぶりかしら、その名で呼ばれたのは……」


〝やはり、そうだったのか〟と――。

 梨香はアルテミスの反応を見て、ある種の確信と新たな疑問を同時に抱く。

 しばし懐古に浸っていた魔人令嬢は、宙に彷徨わせていた視線を下げ、妖しく光る眼で梨香を見据えた。

「お父様やお母様から、ワタクシのことは聞いているのかしら?」

 冷笑を絶やさないミス・ロンリーの問いに、梨香は低く訝るように返答した。

「ええ。けれど、とうに死んだと聞かされていたわ。まさか、生きていたなんて」

「フフ、まぁ、いっそ亡き物にしてしまいたいという気持ちは、わからないでもありませんわね。あの人達にとって、ワタクシの存在は人生最大の過ちだったのでしょうから」

 梨香は青ざめた顔で、殊更に表情を険しくする。


 ――〝三嶋伊織〟

 彼女について知っている情報はそれほど多くない。

 むしろ、その存在はいまだ多くの謎に包まれていた。

 あれは、今から十年以上前――。

 まだ三嶋の家も、両親も、健在だった頃――……。


 幼少の梨香はいつものように竹刀を握り、多くの門下生に交じって稽古に励んでいた。

 そして、ある日の休憩時間のこと。

 タオルで汗を拭き、壁際に座り込んで水を飲んでいた梨香は、すぐ側で兄弟子同士が、雑談の流れで不意にその名を口にするのを偶然耳にした。

『しかし伊織ちゃんは強かったよなぁ。まだ八つとかそこらだったんだろ?』

『ああ。俺も、最初あの子に負けたときはびっくりしたよー。だってあんな小さい女の子に大の男が完敗するなんて普通考えられないじゃん。それも手加減なしにだぜ? 俺、正直かなり落ち込んだよ……。まぁ、あとあと誰もあの子には敵わないんだと知ってちょっとホッとしたけどさ?』

『いやぁ、あの子は天才だったよ。ああいうのを〝神童〟っていうんだろうな。噂によれば、あの先生ですら伊織ちゃんには敵わなかったって話だから……――』


 兄弟子たちの雑談を盗み聞きしていた梨香は、年齢が近いこともあって、伊織という少女に興味を持った。

 一体どんな子なんだろうと頭の中で想像を膨らませながら、彼らの会話を聞いている。


『――ホント、惜しいことしたよなぁ……。あのまま大きくなっていれば、今頃は凄かっただろうに……』

『あんなことになってしまってな、先生もさぞかしお悔やみになったことだろう……』

『奥さんの方もかなり落ち込んで、一時期は心を病んでしまわれたって話だよ……』

『お、おいっ……!』

 不意に、梨香がすぐ側で聞き耳を立てていることに気づいた兄弟子たちは、途端にその話題を打ち切って、バツの悪そうな苦笑いを浮かべた。彼らはそれから、互いを咎めあうように肘でつつきあいながら、そそくさとその場を離れて行く。

 そんな彼らの態度が、ますます少女の興味を加速させたのは言うまでもなく、梨香は稽古を終えた後、家に帰って父と母に〝伊織〟という少女のことを尋ねた。

 しかし……。

 その名を口に出した瞬間、暗雲のような気配が立ち込め、食卓の空気が、ずんと重たくなるのを梨香は感じていた。

 父の表情は平生よりも尚険しく、母の相貌には悲愴な影が滲んでいて。

 結局、両親は堅く口を閉ざしたまま、その場での回答は得られず、梨香は自分が何かとんでもない過ちを犯してしまったような気分になって酷く不安になった。

 まだ三嶋の夫婦と打ち解けて間もない時期だったため、梨香はせっかく家族になれたものを自分が壊してしまったんだと激しく落胆した。

 そしてその夜、母と同じ布団に入った梨香は、わけもわからぬまま、そのことを詫びた。

 自分を嫌いにならないで欲しい、捨てないで欲しいと必死に訴えた。

 母は怯えたように謝罪の言葉を繰り返す梨香を優しく宥め、それから明かした。


 梨香が養子として三嶋の家にやって来る前、父と母の間には、実の娘がいたということ。

 そして、それが(くだん)の――〝三嶋伊織〟であるということを。

 ただ、それでも母は、やはり多くを語らなかった。

 伊織は病で亡くなったと、それだけを梨香に告げて。

 

 梨香はそのとき、内心では気づいていたのだ。


 母がまだ、何かを隠しているということに――……。


 梨香には、人の心を覗き見る異能があった。

 故に、知ろうと思えば、いつでも知ることが出来た。

 しかし彼女は、〝精神感応〟という力を持っていながら、その真相を確かめなかった。

 いや、人の心に直接触れる異能を持っていたからこそ、覗いてはならないものがあるということを、彼女は他の誰よりもよく知っていた。

 梨香は誰よりも人の心の動きに敏感で、慎重で、覗かれたくないものがあるという人の気持ちを慮っていた。

 事実、伊織のことを思い出しながら話す、母は本当に辛そうで、悲しそうで。

 もうそれ以上、そのことに触れるべきじゃないと思った。

 自分は、それを知るべきじゃないんだと感じた。

 そしてなによりも、梨香は父と母を、心から信頼していた。

 二人が言わないということは、きっと知らなくてもいいことなのだ。

 いつか必要なときが来たら、きっと話してくれるとそう思っていた……。

「――……」

 じりじりと鍋の底を焦がすような面持ちで、梨香はアルテミスに視線をぶつけた。


 この女こそが、三嶋伊織――。

 存在自体を秘匿され、闇に葬り去られた、かつての天才少女。


 ――敬愛する父・三嶋早雲と、母・薫子との間に生まれた実の娘。


 ――そして、三嶋家の養子である梨香にとっては、義理の姉にあたる人物……。


 ミス・ロンリーの容貌に、今は亡き父と母の面影を探してみるが、魔人令嬢の顔立ちは派手な化粧分を差し引いてもおよそ日本人離れしていて、懐かしい父と母の匂いなんて、そこには欠片も残ってはいなかった。

 それどころか、見れば見るほど、理解は遠ざかってゆく。

 事実認識が齟齬を起こす。

 中世ヨーロッパ風のドレスが――。

 美しく巻かれたブロンドの髪が――。

 透き通るような桃色の瞳が――。

 想像の中で思い描いていた〝三嶋伊織〟の姿とは、あまりにもかけ離れすぎていて。

 この豪華絢爛に着飾った麗人が、かつて汗のにおいと熱気で渦巻く、あの道場で修業を積んでいた少女であるという事実が、どうしても頭の中で繋がらない。

 人は、果たしてここまで変わることが出来るのだろうかと、疑問に思う。

 妖しく嗤ったミス・ロンリーは、そんな梨香の心中を知ってか知らずか、軽やかに口を開いて言う。

「お父様とお母様は、息災ですか?」

 いけしゃあしゃあと、今更のようにそんなことを訊いてくる魔人令嬢に対し、梨香は激しい怒りを込めて、舌鋒鋭く吐き捨てた。

「二人とも、死んだわ……! アンタたちが起こしたテロのせいでねッ……!」

「そう、それは残念です」

 細い眉を八の字に曲げて悲嘆の表情を浮かべてみせるアルテミスだが、その実、なんら心が動いていないことなど、見え透いていた。

〝白々しいッ――〟

 梨香は憎悪を込めて魔人令嬢を睨みつける。

 対するミス・ロンリーは、そんな梨香のことを可愛らしいとさえ思っているような余裕の表情で、それを見つめ返していた。

 そして、堂々と口を開く。

「あなたはまだ何も知らないようですわね、梨香さん? お二人が亡くなられたということは、もはや真実を知る者も、ワタクシ一人……」

 愁いを帯びて呟くその様は、どこか芝居がかっていてひどく鼻についた。

「ッ……!」

 梨香は胴田貫の柄を握り直しつつ、気を強める。

 アルテミスは一人、舞台劇を演じているかのようなオーバーアクションで、ばっと両腕を広げ、無知で愚かな義妹を尊大に見下ろした。

「――語りましょう、過ぎ去った日々のすべてを。そして知りなさい。自らに注がれた愛の正体が、何物であったのかということを――」


 …………

 ……

 …


第十五章「三嶋の宿命」

                   1


 それは、今から三十年近く前の話――。

 三嶋家第二十八代目頭首・三嶋早雲と、その妻・薫子との間に、懐妊が発覚した。

 しかし、妻の薫子は生まれつき病弱な体質であり、出産は命に関わる危険性があるとして、医者から辞退を奨められた。

 それでも母は意志を曲げず、難産の末、一人の長女が誕生した。

 跡継ぎとして期待されていた男子ではなかったものの、二人は等しくその誕生を喜んだ。

 娘に母としての愛を注ぎつつ、薫子は夫である早雲に自らの非力さを詫びた。

長女の出産は母体に深い傷跡を残したため、彼女はもう二度と、子供を産めない体になってしまったのだ。

 しかし、早雲は妻の悔恨を快く笑って一蹴した。

 跡継ぎは男子であらねばならないなどという考えは、もはや太古のものであると説き、もとより三嶋流の原点は女流剣客によって拓かれたものだとして、長女を次期頭首とすることに一抹の不安も抱いてはいなかった。

 そして父は、かの剣豪・宮本武蔵の弟子である宮本伊織からその名を取って、長女に〝三嶋伊織〟という名を授けた。語感においては女性名のようであるが、本来は男性名として使用されるものであったというところに、新しい時代を築き上げて行って欲しいという父の想いが込められていたのだ――……。

 長女・伊織は、当初、母からの遺伝で虚弱体質になることを危惧されていたが、そんな周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。

 伊織は五歳の頃から、父親の命で剣の道を教え込まれることになる。

 そうして、はじめて竹刀を握らせたとき……。

 父はすぐさま、娘の持つ天性の才能に気がついた。

 ――構え方、姿勢、相手との間合いの取り方、腕の振り方……。

 本来、大人でも数ヶ月かかってようやくモノに出来る剣術の基礎的な部分を、伊織はほんの数時間のうちにすべて網羅してしまったのだ。

 伊織が生まれながらにして持っていたのは、フィーリングや、センスなどと呼ばれる、理屈では語りえないもの。

曰く。

 ――天才と凡人を分かつ壁は、頭の中に思い描いた理想の形を、どれだけ現実のモノとして再現出来るかというところにある。

 つまり言い換えれば、脳と感覚神経との同調(シンクロ)率だ。

 例えば、遠く離れた位置にある小さな籠の中に、ボールを投げ入れるという理想の形を思い描いたとしよう。

 しかし実際に投げてみれば、ボールはてんで見当違いの方向に飛んで行ったり、力が足りず、或いは強すぎて、思い通りにいかない。齟齬が発生する。

 多くの人間の場合、理想を体現しようとしても、感覚の方が付いて行かない。

 頭の中にある設計図が百パーセントの形であるとすれば、どんなに頑張っても、現実に出来る形は、それ以下の劣化したものにしかならないということである。

 だからこそ人はそれを現実の壁などと呼び、自らの理想と現実との間にある落差に思い悩み、もどかしさや、激しい苛立ちを覚える。

 そして多くの人間の場合、訓練を重ねることによって、再現率を少しずつ向上させてゆく。最初は30%であったものを、50%、70%、90%といった具合に、感覚を慣らすことによって徐々に徐々に、理想の形へと近づけてゆく。

 人はそれを〝努力〟と呼び、美徳としている。

 だが、ごく稀に……頭の中に思い描いた理想の形を、いきなり百パーセント、もしくはそれ以上の驚異的な再現率で、現実に出来てしまう者がいる。

 それが俗に、天才と呼ばれる者たちだ――……。


 ――三嶋伊織は、間違いなく天才だった。

 早雲が教えたことを、その場ですぐに、そして完璧なまでに再現してみせる。

 戸惑いがない。迷いがない。探りがない。

 娘が類稀なるセンスを持っていることを知った父は、たいそう喜び、次々とその奥義を教え込んでいった。そして、伊織がそれらを悉く吸収し、我が物として扱う姿を目にするたび、思わず身震いがするような心地だった。

 僅か七歳であらゆる奥義を会得し、目覚しい成長を遂げた伊織は、全国規模の剣道大会を総なめにするなど、もはや同年代の少年少女では及びもつかぬほど強大な存在として名を馳せ、世間の脚光を浴びた。瞬く間にスターダムを駆け上りはじめた伊織の姿に、父・早雲はますます娘の持つ才能の輝きに惚れ込み、伊織を名実共に〝最強の女剣士〟へと育て上げるべく、血道を上げて指導に明け暮れた。

 そして、ある時期を過ぎた頃になると、もはや中学生や高校生ですら十歳近く歳の離れた彼女を相手に手も足も出ないような状態が続き、あまつさえ大人の剣道家をも圧倒するほどの凄まじい実力を、伊織は発揮していった。

 もはや、向かうところ敵なしといった境地まで、あっという間に上り詰めてしまった娘に対し、それを見守る父の心境は、その頃から少しずつ変化しはじめていた。

 確かに伊織は、強かった。

 ほんとうに、強かった。

 天才だった。

 最強だった。


 だが――……。


 父は心に巣食った小さな黒点が、徐々にその輪郭を広げ、何かもやもやとした感情が次第に大きく膨れ上がって行くのを、感じていた。

 伊織は、早雲が望んだ通り、最強の女剣士に育った。

 いや、もっと言えば、早雲が望んだよりも、ずっと強くなった。


 しかし言い換えれば、――ここまで望んでいたわけじゃない。


 伊織は、あまりにも強すぎたのだ……。


 父はいつしか、これまで大切に愛しんできた娘の才能に対して、戦慄を覚え始める。

 燦々と希望に照り輝いていた青空が、いつの間にか、決して晴れることのない暗雲によって覆われていたかのような心境。

 初め、娘の持つ才能の片鱗を見つけて喜んでいたが、蓋を開けてみると、それはとんでもない規模だった。これは、とても自分の手に負えるような代物じゃない。

 どことなく危険な香りが、張り詰めた糸のような緊張感が、常に漂う。

 鍛え抜かれた武闘家としての勘が、娘を警戒していた。

 このまま行けば、今に手が付けられなくなるのではないだろうかと。

 想像を遥かに超えた伊織の潜在能力に、早雲は得体の知れない恐怖を感じたのだ。

 そして、ふと考え始める。

 もしかすると――。

 自分は選択を誤ったのではないか……。

 何かとんでもないものを、作り出してしまったのかもしれないと。

 そんな不安は日増しに大きくなり、頭から離れないようになっていく。

 だが、早雲はそんな心境を決して娘には悟られぬよう注意を払った。

 ここまで望んでいたわけではない、などと、それは親の勝手な言い分というものだ。

 いうまでもなく切欠を作ったのは自分であり、すべての責任もまた己にある。

 それにまだ辛うじて最後の枷は外れていない。

 最強とはいえ、伊織はまだ、父である早雲にだけは敵わなかったのだ。

 しかし、それももはや時間の問題だと父は考えていた。

 このまま、娘をこの道に進ませるべきではない。

 何か善からぬ事態を招きかねない、そんな予感があった。

 やはり、ここは少し距離を置かせた方がいいだろうと結論を出し、ある日の稽古終わりに、早雲は伊織を道場に呼びつけた。

 門下生たちが帰ったあとのだだっ広い道場で、父と子は向き合い、話をする。

『――伊織、今後はしばらく稽古をお休みし、学業に励みなさい』

 早雲の申し付けに、伊織は可愛らしく首を傾げ、そのわけを問うた。

『お父様? 何故、急にそのようなことを仰るのですか? ワタクシが、見込みのない未熟者だからでしょうか?』

 鳶色の瞳が、くりくり動いて父を見る。母に似て整った顔立ちと真っ直ぐな黒髪をもどかしく思いながら、早雲は渋面をおして首を振った。

『いいや、お前はよくやった……。十分に見込みはある。しかし、これまで修行に明け暮れ、お前はあまり自由な時間を持ってこなかっただろう。これからは学校の友達と遊ぶなり、自分の好きなことをやりなさい。暇なら、何か他の習い事をするのもいい』

 しかし伊織は人懐っこい笑顔を浮かべ、いやいやをするように首を横に振った。

『構いません。ワタクシはここより高みを目指します。もっと、もっと――。今だかつて誰も辿り着いたことのない境地へと至りたいのです』

 それは、とても十歳の少女が口にする台詞とは思えない。

 早雲は、娘の見せる笑顔の裏に、何か異様な気配を感じた。

 やはり、間違っている……。

 このままでは、娘が道を踏み外す危険性があるとして。

 いよいよ自らの考えに確信を抱いた父は、説得を試みた。

『伊織、武の道を進むということは、何も稽古を積んで技を磨けばよいというものではない。まずは正しき心から育ていかなければならん。森羅万象を見て回り、特に人の世を知る必要がある。お前はそれを知らぬまま、あまつさえ力と技を持ちすぎた。それは俺の責任だ。このままではお前の将来に差し支える。一度ここで剣を置き、やり直すのだ』

『どうしてですか? ワタクシには他の者たちにない力があるのですよ?』

 まだほんの子供である伊織には、恐らく理解できないだろうと、そんなふうに考えた早雲は心を鬼にして娘を退けた。

 それが、最後にして、最大の失敗であったとも知らず。

『ならん! ともかく、今後しばらくの間は道場に立ち入ることを禁ずる。竹刀を握ることも、胴着に袖を通すことも控えなさい。それがお前のためなのだ、伊織――……』

 こうして、父・早雲は、決定的に選択を誤った。

 娘の了承を待たず、親の権限で一方的に抑圧するという愚行を犯してしまった。

 もしもこのとき、――〝子供だから〟――〝まだ理解は難しい〟――などと思わず、何度でも繰り返し言い聞かせ、娘が納得するまで、根気強く対話を続けてやっていれば。


 そうすれば、この先に続く未来も、少しは変わっていたのかもしれない……。


 あまり納得した様子ではなかった伊織だが、父の命令とあってはそれを破るわけにもいかず、それからしばらくの間は大人しくしていた。

 これまで稽古に費やしていた時間が空いて、何でも好きなことが出来るようになったというのに、伊織は同級生と積極的に遊ぶこともなく、自室に一人篭もりがちだった。

 伊織には剣術の他に、もう一つ趣味があったのだ。

 それは人形のコレクション。

 父が以前、知人から海外旅行のお土産として貰って来たフランス人形を与えたところ、すっかりそれが気に入ってしまったようで、以来、伊織はたびたび気に入ったものがあると、母にそれをねだるようになっていた。

 伊織の趣向は些か変わっており、日本製の可愛らしくデフォルメされた人形にはあまり興味を示さない。彼女の好みは、もっぱら外国産の精巧な人形らしく、それらはどれも、事情を知らない者からすれば、少々、不気味に思えるほどリアルな作りをしていた。

 彼女の部屋には、既に十体を越える数の人形が飾られており、伊織は毎日それらを大切に愛で、時に話しかけながら、一人、至福の時を過ごしていた。

 中でも一番お気に入りなのは、ピンクのドレスを着たフランス人形。

 最初に父親から貰ったこれだけは特別扱いで、棚ではなく机の上に置き、毎日寝る時は枕元に立てておくほど、伊織はえらくご執心だった。

 つばの広い帽子を被り、レースの日傘をちょこんと肩にかけた異国情緒溢れる人形の姿。

 生気を感じさせない白くなめらかなその肌に――。

 美しく巻かれたブロンドの髪に――。

 綺麗に磨かれた桃色の瞳に――。

 伊織は、憧れ以上の想いを感じさせる異様に熱の篭もった視線を向け、暇さえあればこの人形をうっとりと眺めていた。

 ――そして。

 生身の人間よりも、静物である人形を溺愛する娘の姿に、父はまた一つ、心の中で疼くような不安を覚えていた。

 人形に限った話ではない……。

 伊織はどうも、完璧なモノに異常なほど執着する性分らしく、わかりやすくいえば、重度の潔癖症だった。

 醜い物や、不完全なモノを毛嫌いし、決して許容しようとはしない。

 あまつさえ、率先して排斥、または矯正しようとする。

 その姿勢はある意味、品行方正とも取れるが、伊織の場合は少々、度が過ぎていた。

 それもこれも、天才であるが故の感受性と信じたいが、そんな親心とは裏腹に、やはりなにか、言い知れぬ危険を孕んでいるような気がしてならなかった。

 ……しかし、剣術を半ば強引に止めさせた上、本人の趣味にまで口を出すのはいくらなんでも可哀想だと思い、父は娘を長い目で見守ることに決めたのだ。


 それからしばらくの間は、何か目立った問題が起きることもなく、気はそぞろながら、一見すると平穏な日々が続いていた。


 ――だが、父・早雲は、その薄曇りのような平穏さが、まるで崖の上にかけられた一条の橋の如く。不安定で、かくも危険な均衡の上に成り立っているのだということを、まだ真に理解してはいなかった……。


 そして、思わぬところから、それは崩壊してゆくことになる――……。


                   2


 ――事の発端は、最近この界隈に進出して来た新興企業が、近々周辺に大規模なレジャー施設を誘致するという、開発計画の噂が流れ始めたときのことだった……。


 ある日、三嶋家に地元の興行団体を名乗る数人の男たちが尋ねて来た。

 端的に言えば地上げ屋の類である。

 彼らは企業と結託し、開発を行うための用地買収を担う、暴力団関係の人間だった。

 三嶋家を訪れた自称・営業の男たちは、あれやこれやと回りくどく話を進め、つまるところ、この土地からの立ち退きを要求して来たのだ。

 無論、早雲はそれを断固拒否した。

 いくら土地の評価額の倍、補償金を支払うと言われたって、先祖代々受け継がれてきたこの家を、道場を手放すことなどありえない。金の問題ではないのだ。

 取りつく島もないとはまさにこのこと。

 三嶋家・第二十八代目頭首としての貫禄と威厳を見せつけ、早雲は瞬く間に営業の男たちを追い返してしまった。

 だが、相手もこの計画に莫大な金利が絡んでいると見え、そうそう諦めて引っ込むような連中ではなかった。

 それからは毎日のように、興行団体の者が交渉にやって来た。

 口八丁手八丁で、何とか承諾を得ようとしつこく食い下がる。

 早雲はそのたびに毅然とした態度で、門前払いを食わせていたのだが……。

 敵も早雲の頑なな姿勢を見て、今度はもっと性質の悪そうな連中を差し向けてきた。

 ぞろぞろと、ガラの悪い黒服の男たちを引き連れてやって来た、顧問弁護士を名乗る男は、早雲の前にいきなり古い証文を突きつけ、『――過去の文献を紐解いて調べたところ、この土地はもともと○○家の私有地だった。我々は子孫である○○さんから了承を受け、この土地の権利を買い取ったのだ』と急に出方を変え、今度は一転して、強制立ち退きを命じてきたのだ。悪徳弁護士は、難解な専門用語をこれでもかと並べ立て、場合によっては法的手段に訴えると、脅しをかけてきた。

 恐らくは、早雲がその手の話に疎いと踏んでの作戦だったのだろう。

 だが、早雲もまた、そんな敵の目論見を見抜いており『訴訟を起こすなら好きにしなさい。こちらも弁護士を雇って話をする』と、慌てたふうもなく告げた。

 すっかり当てが外れた連中はあえなく退散し、結局その証文とやらも出鱈目だったのだろう。なんら法的手段に訴えてくる様子もなかった。

 しかし、その一件は、本格的に両者の対立を生むきっかけとなり、もはや交渉の余地なしと判断した連中は、三嶋家に対して執拗な嫌がらせを行うようになった。

 三嶋家の周辺を四六時中、チンピラもどきの胡乱な輩たちが徘徊し、道場に通う門下生や、近隣住人とたびたびトラブルを起こした。夜になると暴走族がやって来て、家の前で大騒ぎ。警察沙汰になったこともあったが、狡猾なことに、実行犯として捕まる者たちは皆、名目上は興行団体と関わりのない浮浪者ばかり。恐らくは金を掴まされ、念入りに口止めをされた上で、事に臨んでいるのだろう。会社の名前に傷をつけることなく、表面上は無関係の下っ端を使って荒っぽい手段に打って出る、暴力団組織の常套手段だ。

 そのうち妙な噂まで流布されて、近隣住人の不満の矛先は次第に、三嶋の家へと向けられることになっていく。

 着々と外堀を埋め固め、早雲に精神的な揺さぶりをかけることが敵の狙いだった。

 それから何度も興行団体の者が尋ねて来た。もはや、まともに示談交渉をする気なんざさらさらないと言った様子で、大声を張上げ、次々に挑発的な言葉をぶつけてくる。

 父は激しい怒りに苛まれつつも、なんとかそれを堪えていた。

 絶対に手を出してはいけないとわかっていた。怒りに我を忘れて、こちらが暴力に頼った瞬間、一気につけ込まれる。そうなったら、それこそ敵の思う壺だ。

 しかし、我慢にも限度があった。

 門下生に被害があってはいけないと、道場は一時閉門し、近隣住人からの苦情を一手に受ける母は心労で体調を崩してしまった。怒りを抑える父もまた、もはや爆発寸前といったところまで追い込まれており、三嶋家は崩壊の危機に立たされた。


 一方で――。

 そのとき、まだ誰も知らなかった。

 あれほどその危険性を憂慮していた父でさえも、目の前の事態に手一杯で。

 誰もが忘却していた。失念していた。気づかなかった。

 ――彼女の存在に……。


『……ん?』

 ふと、門の前に悪質な張り紙をしていた男の一人は、奇妙な気配を感じて、辺りを見回した。

『おい、どうした』

 仲間からの問い掛けに、男は首を傾げる。

『いや、なんだか今、誰かに見られてるような気がしたんだが……』

 男は分厚いカーテンで閉ざされた二階の窓辺に目を留めた。

 そこに薄っすらと、一瞬小さな影が佇んでいるように見えたのだが――。

『気のせいか……』

 そう結論づけて、男は一抹の疑念を振り払った。

『なんだァ、幽霊でも出たか?』

 仲間の男から茶化すようにあしらわれ、不愉快そうに顔をしかめながら、男は車に乗り込みその場を去って行く。

 …………。

「――――」

 小さく翻ったカーテンの隙間から。

 鳶色の無垢な瞳は、醜い大人たちの争いを。

 密かに、その生態系を観察し、品定めするかのように。

 ほの暗い部屋の中から、人知れず深淵を覗き込んでいた……。



 そして、とうとう事件は起きた――。



 それは、ある晩のこと。

 父・早雲は寝込んでしまった母・薫子の看病をしていた。

 表には今日も胡乱な輩達が集い、大声を張上げて乱痴気騒ぎに興じている。

 薫子の苦しげな表情を見るたび、窓の外から聞えて来る男たちの笑い声に、早雲は激しい怒りを募らせていた。

 ……今日という今日は、もう我慢ならない。

 いよいよもって堪忍袋の緒を切らした早雲が、表の連中を懲らしめてやろうと立ち上がったとき。

『――?』

 突如、宴の声が途切れ、代わりに怒号と、混乱と、断末魔のような悲鳴が、堰を切ったように飛び交いはじめた。

 おかしい……。何か妙だ。

 只ならぬ気配を感じた早雲は、すぐさま妻の部屋を出て、玄関へと向かう。

 その間も、外からは男たちのものと思われる阿鼻叫喚の声が聞え続けていた。

『なっ、なんだこいつ!?』

『お、おいっ! しっかりしろッ!』

『ひっ、ひぃいッ!?』

『こんのッ、ガキ……!』

『ぐがぁあああああああああああ――っ!!』

 天を突くように轟いた銃声。

 早雲は驚愕する。

〝何だッ、一体何が起こった!?〟

 すかさず玄関の戸を開け、表に出た瞬間――。

『ッ……!!』

 思わず言葉を失う。

 真っ赤に塗りつぶされる視界。

 早雲の目の前には、血の海が広がっていた。

 バケツをぶちまけたような血溜りの中に、黒い塊がごつごつと浮いている。

 黒服を着た男たちが十人ばかり、ぐったりとして横たわっていた。

 みんな死んでいた……。

 首を、胸を、腹を、眉間を――切り裂かれ、貫かれ、抉られて。

 声を上げる者も、もういない。

 生ぬるい風が、さーっと草木を薙いで、通り抜けるだけ。

『――――』

 そして、目を覆うような惨状の中に、忽然と立っていた小さな影。

 返り血で、服や体が汚れることを嫌ったのだろう。

 ピンクのレインコートを着て、頭まですっぽりフードを被っている。

 手には台所から持ち出したと思わしき、出刃包丁を握っており、およそ十人の男を殺傷するために用いられた包丁は、尖端が折れ、刃の部分が欠け、無残に変形していた。

 男たちも反撃を試みたようだが、すべて無駄に終わったらしい。足元には、匕首や拳銃がいくつも転がっていた。

 早雲は、現実を疑い、己の正気を疑い、ありとあらゆるものを疑ったあとで、愕然と息を呑んだ。血に濡れたレインコートの裾が、ひらひらと揺れる。

 父は放心状態のまま、その名を呼んだ。

『……伊織』

 瞬間、少女はくるりと振り返り、立ち尽くす父に向かって、いつものように微笑んだ。

『――はい』

 早雲は恐ろしくて声も上げられなかった。

 もはや疑いようもない。

 これが、自らの手で育て上げてきた、愛娘・伊織の、真の姿……。

『これが人の世というものですのね、お父様?』

 三嶋家に生まれ育った異端児は、嬉々として語った。

『なんと浅ましく、なんて脆いのでしょう。ワタクシ、知りませんでしたわ。人の世というものが、これほどまでに醜く、値打ちのないものだということを――』

 返り血の跳ねた幼い頬に、無垢な笑みを浮かべてみせる伊織。

 何か得体の知れない生き物が、少女の皮をかぶって生きているような錯覚に陥る。

 これまで幾度となく感じてきた不安の正体がそこにあった。

 これが……。

 この〝怪物〟が――本当に、自分と妻との間に生まれた子供なのだろうか!?

 我が子、なのか……? 

 伊織なのか……。

 とても信じられなかった。信じたくなかった。

 何かの間違いだと、そう思いたかった……。

『お父様は仰いましたよね? 武を極めるためには、人の世を知らなければならないと』  

 まるでこの場の状況にそぐわぬ、愛嬌たっぷりの表情と声が、逆説的に伊織の姿を一層おどろおどろしいものとして目に映す。

『ワタクシ、その答えを見つけましたの♪』

 褒めて欲しいといわんばかりに瞳を輝かせ、伊織は立ち尽くす父を見た。

『――武とは、この穢れきった人の世を壊すためのもの。ワタクシはこれを成し遂げてみせます。穢れた者たちを排除して、いつかきっと完璧な世界を作り上げてみせますわ』

 わくわくと胸を躍らせ、狂った夢を楽しそうに語る少女の笑顔は、されど歳相応のあどけないものに見えて、やはり……どこまでも狂っていた。

 伊織はふと、べったり血に汚れたレインコートの生地を引っ張り、少し困った顔をする。

『お洋服を汚してしまいました……。ごめんなさい』

 悪戯がばれた子供のように、眉を八の字に曲げて笑い、伊織はちょこんとお辞儀する。

『人を斬ると、あんなふうに血が飛ぶなんてわからなかったの……。髪の毛もお顔も、ベタベタでちょっと臭いです。今日はたくさん石鹸をつけて、しっかり洗わないといけませんね。お父様? ワタクシはお風呂に入って着替えたいので、お先に失礼します』

 何食わぬ顔でそう言った伊織は、立ち尽くす父を置き去りにして、さっさと家の中に戻って行った。

 真っ白な夜に、静謐が満ちる。

『…………』

 残された死体の山と血溜りを前に――。

 早雲は途方に暮れた面持ちで、ぼんやりと佇んでいた。

 

                   3


 その後――。

 伊織は警察に逮捕され、史上稀に見る年少殺人犯として世間を騒がせた。

 十歳の少女が、暴力団関係者を次々に殺傷したというこの衝撃的なニュースは、マスコミを通じ、各メディアによって大きく取り上げられた。

 同時に、地元興行団体による強引な用地買収にもスポットが当てられる運びとなって、癒着が発覚した企業は激しいバッシングを受け、社長が後退、レジャー施設を誘致するための開発計画も頓挫して、事態は一気に収束に向かった……。

 しかしそれは、あくまでも世間の見方である。

 ――三嶋家の状況は収束どころか、完全に泥沼化していた。

 今回の事件で、もっとも痛手を被ったのは、なんといっても地元の興行団体だ。

 新興企業との一大ビジネスを白紙に戻され、十人も組員を殺されて、あまつさえマスコミによる情報拡散のせいで、これまでのような強引な手段に訴えることも出来なくなってしまった。しかし、このまま黙っているような連中ではない。

 父・早雲は、相手側の弁護士から莫大な慰謝料と賠償金を請求された。

 それこそ家や道場を売り払っても足りないくらいの、法外な額だった。

 だが、早雲は粛として、それを了承した。

 理由はどうであれ、娘が人としての禁忌を犯したことは事実なのだ。

 その責任は自分が取るべきだと考えていた。

 もとより心労が祟っていた母・薫子は、伊織の犯した事件を知って以降、すっかり生きる気力を失い、毎日のように『死にたい』と病床から訴えかけてくる。

 早雲はそんな妻を励ましつつ、たった一人世間の矢面に立って、冷たい風に晒されながらも、ひたすら頭を下げてまわった。

 そして……。

 事件から三ヶ月ほどが経ち、世間の関心がすっかり別の事柄へと移ってしまった頃。


 ――足音を忍ばせ、それは世界の裏側からやって来た……。


〝娘さんのことで、少しお話ししたいことがあります〟と――。

 ある日、国家の研究機関員を名乗る男たちが、早雲のもとを尋ねて来た。

 それが……当時、秘密裏に動いていた『ゼウス=プロジェクト』の関係者であり、端的に言えば、三嶋伊織をスカウトしたいという申し出だった。

 今回の事件を通じて彼女の存在を知った彼らは、その類稀なる身体能力に目をつけ、ちょうどそのとき被験者を募っていた、第一次特殊能力者開発実験に、伊織を参加させたいというのだ。

 そして〝――実験への参加と、その後の彼女を国の管理下に置くことを了承してくだされば、興行団体との間に取り交わした賠償金の一切はこちらの方で請け負います〟と、彼らは破格の条件を提示して来た。


 …

 ……

 …………


「――フフ」

 話を一段落させたミス・ロンリーは、梨香に向かって感想を求めるような流し目を送る。

〝ようやく繋がった……〟

 何故、三嶋伊織が、これまでその存在を秘匿されて来たのか。

 彼女がどうやって異能の力を手に入れるに至ったのか。

 これで大体の経緯はわかった。

 しかし、梨香にはまだ一つ、解せないことがあった。

 それは最後の最後に判明した事実。

 彼女は口を開いて、語気を強める。

「嘘よ。父がそんなことを許すはずがないわ!」

 そうだ。現実に今の彼女が能力者である以上、その勧誘に乗って実験に参加したということは事実だろう。しかし、これまでの話の流れからして、あの父・早雲が、それを簡単に認めたとは思えない。そうでなければ、まるで父が、借金のために娘を売り払ったみたいじゃないか。

 実際、それはどちらかと言えば、梨香の勝手な願望なのだろう。

 幼くして両親から育児放棄され、僅かな金子と引き換えに研究機関へと売り払われた梨香だからこそ、親が子を見捨てるということに対して、特別な想いがあった。

 確かに伊織のやって来たことを考えれば、見捨てられても仕方がないのかもしれない。

 普通の親に、そこまで求めるのは酷かもしれない。

 だが、それでも、早雲と薫子なら――。

 ――あの二人なら、なんとかして彼女を愛そうとしたのではないだろうか。

 梨香は、三嶋の両親を愛していた。信じていた。

 故に、まだ何かあるような気がしていた……。

 あの父が、娘のことを諦めざるを得ないような、決定的な何かが――。

 くすりと鼻を鳴らして笑ったアルテミスは、一つ注解する。

「あなたは何か勘違いなさっているようですわね? これはお父様の物語でもなければ、お母様の物語でもありません。――とりもなおさず、ワタクシの物語なのです」

 ミス・ロンリーは愚かな猿を見下ろすお釈迦様のように目を細め、朗々と語った。

「確かにあなた言う通り、お父様はその申し出を断ったそうです。もとより道場は畳み、親子三人で一からやり直す心積もりをしていたようですわ。しかし、先ほど申し上げました通り、これはワタクシの物語なのです。すべての決定権は、このワタクシにある……」


「だから――」


 アルテミスは内なる狂気を剥き出しにして、悪魔のように笑った。


「ワタクシは自ら進んで、〝神へと至る施し〟を受けましたの……! 更なるチカラを手に入れるために――!」


〝!?〟

 梨香は愕然と理解する。

 これは、いうなれば価値観の違いだ……。

 父と母の愛を受けながら共に暮らす方が幸せだというのは、あくまでも梨香の個人的な考え方であって、誰もがそれに賛同するわけではない。

 とりわけ、三嶋伊織は違った。

 伊織は最初から、父と母の存在など眼中になかった。

 両親から注がれる愛情など、彼女はもとより欲していなかったのだ。

 三嶋伊織が求めていたものは、偏に――〝チカラ〟である。

 穢れなき新世界を作り上げるという、崇高な理想を実現するために。

 自らを高みへと押し上げてくれる力。

 人々を都合良く動かし、思うがままに支配できる力こそ、彼女が最も欲していたものであり、降って沸いたように持ちかけられた『第一次特殊能力者開発実験』への参加は、伊織にとってみれば、それこそ願ってもない好機だったのだ。


 …………

 ……

 …


 交渉にやって来た研究機関の男から、既に伊織本人の承諾を得ていると聞かされた早雲は、大いに驚き、心を痛め、また、同時に僅かな希望を見い出した。

父はそのとき、責任を感じた娘が自らの身を売って、償いを果たそうとしているのだと、そんなふうに思ったのだ。

 伊織の身柄が、警察の手から研究機関のもとに移されていると知った父は、すぐさま娘との面会を求めた。

 しかし、実際に会って話をしてみれば……。

 嬉々として特殊能力を授かった暁のことを語る伊織の表情に、反省の色や、後悔の二文字など皆無であり、父は自らの想像が全くの思い違いであったことを知った。

 それから何度も足を運び、何度も話をしたが、伊織は一向に耳を貸す気配がない。

 それこそ『糠に釘』や『暖簾に腕押し』といった慣用句が当てはまるくらい、何を言っても飄々としてすべて受け流されてしまったのだ。

 ……しかし、父も譲らなかった。

 何が何でも娘を止めてみせると、早雲は心に誓っていたのだ。

 そうして度重なる説得の末、あるとき、伊織の方から一つ条件を持ち出してきた。

 それは――父と子の一対一で試合を行い、負けた方が勝った方の意思に従うという、至極シンプルな〝決闘〟の申し出だった……。


 ――そして、約束の日。

 古くから慣れ親しんだ三嶋家の道場で、二人は静かに対戦した。

 早雲と伊織は、袴姿に木刀といった出で立ちで、正面から向かい合う。

 戦いの行方を見守る者はいない。そして、今回は審判も無し。

 勝敗は点数制ではなく、どちらか一方が降参するか、倒れるまで。

 これは伊織からの要望であり、あくまでもスポーツ格闘技としてではなく、より本物の、生死を賭した決闘に近い形で行われる。――


『……始めるぞ、伊織』

 凛と張り詰めた空気の中、早雲は低く押し殺した声で伺いを立てる。

 気合いの入った父とは対象的に、娘は飄々と、微笑を交えて頷いた。

『ええ、いつでも結構ですわ、お父様?』

 やがて、早雲の発する号令と共に、戦いの火蓋は切って落とされた。

 娘の余裕を慢心と見て取った父は、最初から全力で、怒涛の如く攻め込んだ。

 早雲は紛れもなく本気だった。

 この期に及んで、手加減などする気はない。

 場合によっては、腕や足の骨を叩き折ってでも、伊織に負けを認めさせる。

 これが、娘を引き止める最後のチャンスなのだ。

 これ以上、伊織に修羅の道を歩ませるわけにはいかない。

 絶対に勝つ。勝たなければならない。

 父親として、三嶋流頭首として。

 負けるわけにはいかなかった。

『ウオォオオオオオオオ――ッ!!』

 開始早々から、戦局は圧倒的に父が優勢だった。

 次々と繰り出される早雲の技に、防戦一方の伊織。

 激しく剣戟を打ち交わしながら、父は血を吐くような思いで娘に訴えかけた。

『――伊織、俺が悪かったッ……! 俺が教育を間違えたのだ。お前の才能に気づいたとき、俺はついついお前の将来に、まだ見ぬ、最強の女剣士の姿を思い描いてしまったッ……! だが、それは間違いだったのだ。すべての責任は俺にある。だからもう一度やり直そう。母さんと家族三人で、ゼロから始めるんだ。俺はそのために剣を捨てる。お前のためなら、この家も、三嶋流も、潰してしまったって構わん! 今ならまだ間に合う! 帰って来いッ、伊織ッ!!』

 早雲は叫んで、伊織の得物を一気に叩き払った。

 弾き飛ばされた木刀が、床を滑って足元に転がる。

 すぐさま拾い直そうとしゃがみ込む伊織だが、そこに生じた隙は、あまりにも致命的だった。勝利を確信した父は、娘の首筋目掛けて木刀を振り下ろす。

 恐らく、この一撃で伊織は気絶するだろう。

 もはや勝負は決したも同じだった。

『これで、終わりだ……!』

 早雲の木刀が、素早く風を切って降下する。

 瞬間、伊織は、しゃがみ込んだまま顔を上げて早雲を見た。

『ええ、終わりですわね……お父様?』

 刹那、真っ暗な眼窩が、ニンマリと嗤う。


「――魔刃・焔旋風……」


〝!?〟

 突如として炸裂した、邪悪なる必殺奥義が、早雲の打ち下ろした木刀を見事なまでに粉砕して、彼の腹部に深々とめり込んだ。

「がはぁっ――!」

 驚嘆と苦痛の入り混じった空咳を吐いて、早雲の巨躯が枯れ枝の如く吹き飛ばされる。

 隙を突こうと踏み込んだ瞬間、その隙を突かれた――。

 天井と床がぐるりと反転し、背中から床に倒れ込むまでの刹那。

 早雲はスローモーションのような時の中で理解する。

 自分は罠に掛かったのだ――と。

 あれは、父の油断を誘うためのモーションだった。

 伊織は最初からこれを狙って、得物を落としたのだ。


 ……曰く、狩りで最も危険なのは、獲物を仕留めた瞬間だという。

 勝利を確信したその瞬間こそ、最大の隙が生まれるのだ。


 伊織の作戦は、一見単純なようでいて実に巧妙だった。

 三嶋流の骨子は、捻り――だが、奥義を放つための準備として、捻りの動作を加えるその一瞬こそ、三嶋流を操る者の、唯一にして最大の死角である。

 彼女がその弱点を補うためにおこなったのは、いってみれば一種の〝擬態〟だ。

 しゃがみ込む前に、〝落とした得物を拾い上げる〟という明確な動作の理由を暗に示しておき、まんまと奥義を放つための準備動作を、その中に紛れ込ませた。

 早雲からしてみれば、伊織の行動は、弾き飛ばされた木刀を拾い上げようとしてしゃがみ込んだようにしか見えなかった。だが実のところ、しゃがみ込んだ時点で、彼女は〝焔旋風〟の体勢を既に整えていたのだ。あとは上から下に振り下ろされるだけの一刀と、圧縮したエネルギーを螺旋状に放出する必殺奥義、ぶつかりあったときにどちらが勝つかなんて、自明の理である。

『くっ、うぅッ……!』

 遠ざかる意識の中、早雲は必死に身を捩った。

『伊織ぃ……!』

 倒れた父を見下ろして、娘はどこか哀しげに口を開いた。

『――お父様? ワタクシ、これまで嘘をついていましたの。……だって、お父様は三嶋流の頭首ですもの。たくさんのお弟子さんたちを率いて行くためにも、三嶋流最強の称号は、お父様が持っていなければいけなかった。だからワタクシも、これまでずっとお父様にだけは敵わないふりをして来たんです』


 早雲は今度こそ痛感した。

 もはや、自分では娘を止められないと――。

 その瞬間、父と子の力関係が崩れた……。

 ――最後の枷が外れたのだ。


『最後にどうしても、本気のお父様と戦ってみたかった。それが叶った今、もはや思い残すこともありません。ワタクシの我が侭にお付き合い頂き、ありがとうございました』


 伊織は優美にお辞儀をして、ふふと微笑む。


『安心してください。今日のことはワタクシとお父様だけの秘密です。明日からも三嶋流最強の称号はお父様のもの。ワタクシはただ、三嶋流を極め、最強であるお父様を倒したのだという事実だけを胸に此処を去ります。家名に傷がついては申し訳ないので、ワタクシのことは破門という形にしてください。ワタクシもそのケジメとして、今後一切、三嶋の妙は口に致しません。そして、生まれ変わり、新たなステージを目指すことにします。長い間お世話になりました。さようなら』


 薄れゆく意識の中、父は去ってゆく娘の姿を見送った。

 入り口の扉が音を立てて閉ざされ、同時に、世界が暗黒に包まれた――。


 …

 ……

 …………


 そうして、三嶋伊織は――〝神へと至る力〟を手に入れた。

〝病毒の女神・アルテミス〟として生まれ変わったのだ。


 真実を知った梨香は、目の前に立つ女が正真正銘の魔女であることを実感し、唇を噛んだ。その業の深さに、思わず眩暈がする。

 類稀なる才能によって三嶋流を極め、異能の力によって神の称号を我が物とし、純潔の世界を作り出すという理想を実現するため、破壊の限りを尽くした。

 欲望の赴くがままに、すべてを手に入れたといっても過言ではない。

 それでも尚、躍進を続けるミス・ロンリーに対し、梨香は胸中にある疑問を思い切りぶつけた。

「アナタはこれ以上、一体、何を望むと言うの!?」

 かつて三嶋伊織だったモノは、俄かに笑った。

「――愛です」

 予想だにしなかった返答を受け、梨香は思わず眉をひそめる。

「愛……?」

 アルテミスは両腕を大きく広げ、嬉々としてそれを語る。

「この上、ワタクシが望むものは〝あの方〟の愛! あの方とお会いして、ワタクシは気づかされました。どれだけ高みに上り詰めようとも、どれだけ煌びやかにこの身を着飾ろうとも、心までは満たせません。心を満たせるのは心だけ。ワタクシに唯一足りないものは心を共有できるパートナーでしたの。しかし、こればっかりはいくらお金を積もうと、異能の力を振るおうとも手に入るものではありません。もとより、ワタクシと釣り合うほどの殿方なんてそうそういるものじゃありません。しかし、あの方はその資格を有しておられました。完全無欠にして、太陽すら支配してみせる――〝直人様〟だけがワタクシの主足り得た。そしてワタクシがこれほどまでに愛を捧げ、また、ワタクシを愛することが出来るのも、あの方だけですの!」

 ミス・ロンリーはふとそこで目線を落とし、表情に哀の色を滲ませた。

 いじらしいその仕草は、どことなく片想いに焦がれる乙女のそれを思わせた。

「残念なことに、現状、あの方はワタクシを見ていません。あの方の尊いお心は、アテナという機械仕掛けの女神へと向けられています。そして口惜しくも、あの方の理想を実現するためにはアテナの存在が必要不可欠でした。ワタクシでは役者不足だったのです……。ワタクシは生まれてはじめて、欲しいものが手に入らないというもどかしさを知りました。そしてそれを他人に奪われるという悔しさを知ったのです。ワタクシは、かつてないほど並々ならぬ意欲に燃えました。そして、決めましたの。あの方が太陽ならば、ワタクシは月になろうと――。だからこそワタクシは〝月〟としての役割に徹し、今こうしてアテナを守るための任に就いているのです。しかし、それも今日が最後ですわ。この計画が完遂されれば、もはやアテナは用済み……。ワタクシはアテナに代わって、今度こそあの方の愛を一身に享受します! ――ワタクシが、あの方の〝女神〟になるのです!!」


 愛……。よりにもよって、愛だと……。


 両親から注がれた愛を蹴って力を求め、人の心を、生命を、ありとあらゆるものを踏み躙った結果、最終的に求めたものが最初に拒絶したはずの愛だなんて、そんなことが許されるのか。――いや、許されるわけがない……。

 ――絶対に許さない。

「ふざけるなッ!!」

 瞬間、梨香は凄まじい怒りに燃えた。

 一気に飛び上がり、猛然と斬り掛かる。

「クスクスクス……!」

 嵐のように剣戟を打ち交わしながら、魔人令嬢は冷ややかに笑う。

「三嶋梨香さん? あなた、まだ自分のことがお分かりになっていないようですわね?」

「何ィッ!?」

 修羅を宿した桃色の瞳が、不気味に照り輝く。

「よくよく考えてごらんなさいよ? 世間から忌み嫌われる異能持ちのアナタを、どうしてあのお二人が引き取ってくれたと思います?」

「何が言いたいのッ……」

 梨香の表情に、焦りとも恐れともつかぬ感情が浮かぶのを見たミス・ロンリーは、それが期待通りの反応であったとみえ、ニンマリ嗜虐的な笑みを浮かべてみせた。

「あなたはですねぇ、所詮ワタクシの身代わりなのですよ。……寂しがりやの子供が抱いて眠るぬいぐるみ、年老いた独身者に買われる仔犬、そして、娘を失った両親の寂しさを埋め合わせするために選ばれた子供――それがあなたです」

 梨香の顔色が俄かに翳る。

 アルテミスは、怯えて揺れ動く少女の瞳を間近で覗き込みながら、その心をじわりじわりと侵食していくような口調で告げる。

「お父様とお母様が真に愛していたのはあなたではなく、ワタクシだったのです。ワタクシへの愛情を胸に留めたまま別れを迎えてしまった両親は、日々膨れ上がるワタクシへの想いで今にも胸が張り裂けそうな心地だったのでしょう。それを吐き出すために、その対象となる子供が欲しかった。けれどお母様は子供が産めない体なんです。そこでどちらからともなく養子の話が持ち上がった。知人からあなたの噂を聞いたご両親は、きっとこんなふうに考えたんだと思いますよ。――〝ちょうどいい代役が見つかった〟ってね……」

「くっ――」

 魔人令嬢は言葉巧みに梨香を責め立て、容赦なく心を抉った。

「お母様はあなたの姿に幼少期のワタクシを重ね、また異能持ちであるという点において、お父様は遂げられなかったワタクシとの未来さえ、そこで昇華なされたんでしょう……。おわかりですか? ご両親は、あなたを可愛がっているように見えて、その実頭の中では常にワタクシの姿を思い描いていたのです。あなたと暮らしながら、ワタクシとの生活を夢想し、それがもう叶わぬことと知って、嘆いていたのです。こう言い換えた方がわかりやすいかしら? 三嶋のご両親が望んでいたのは、あなたではなかった。つまりあなたは〝紛い物〟なんです。いくら家宝の胴田貫を持たせてもらったからと言って、勘違いしてもらっては困りますよ? あなたが仰せつかったのは、あくまでもワタクシの代役、おままごとのお人形さんですからねぇ?」

「やめて……!」

「あなただって、本当はわかっていたんじゃありませんこと? 随分と熱心に三嶋流を〝崇拝・信仰〟しているようですけれど、それは不安の裏返しだったのでは?」

「お願い、もう言わないで……」

 今にも泣き出しそうな顔をして懇願する梨香。

 アルテミスは滲むように目を細め、核心に迫った。

「フフ、可愛らしいこと。あなたは、そう、まるで――……」

〝!?〟


「――飼い主から捨てられることに怯え、必死に媚を売る仔犬みたい」


 その言葉を最後に、がっくりと膝から地面に崩れ落ちる。

 アイデンティティーを壊されたのだ。

「うっ、うぅ……!」

 梨香は跪き、細い肩を震わせながら堰を切ったように嗚咽を漏らし始める。

「可哀想に……。愛されなかったのね、梨香ちゃん……」

 ミス・ロンリーは力なく項垂れ打ちひしがれる少女の姿を、哀れむような瞳で見下ろしていた。そして猫の背を撫でるような口調で言う。

「ワタクシの可愛い妹……。何も心配はいらないわ。さぁ、お姉さまの許にいらっしゃい……?」

 まるで本物の神様みたいに、すべてを包み込む声音と表情で、傷ついた梨香の心を、死の淵へと誘惑する。

「ワタクシが、痛みも苦しみもない甘美な世界へ、連れて行ってあげる。そして骨の髄まであなたを愛し、その証をたっぷりとその身に刻み込んであげるから……――」

 魔人令嬢はそう言って、手にした猛毒の太刀を大きく振り上げた。

 しかし、悲しみに暮れる梨香は、それを見てもいない。


 瞬間、少年の叫びが天を突き、鉛のような空気を頭から叩き割った。


「――聞くなッ!! 三嶋さんっ!!」


 突如として割って入った和明の声に、すっかり二人だけの世界に入り込んでいたアルテミスと梨香は、はたと振り返る。

 柱の陰から躍り出て、その無防備な体を堂々と曝け出した光の少年は、怒涛の勢いで、声を振り絞った。

「君は〝紛い物〟なんかじゃない! 惑わされるな! そんな女が一体、何を知ってるって言うんだ!? 僕はッ、僕たちは誰よりも近くで君を見て来たんだ! 僕は知ってるッ、僕たちが知ってる! その女が何を言おうと、三嶋流は君のものなんだよ梨香!! 愛されていなかったなんて嘘だ! 少なくとも僕たちが居る限り、君は一人じゃない! それを忘れないでくれ!!」

 あと一歩というところで水を差された魔人令嬢は、不愉快そうに眉をひそめた。

「耳障りですわ……」

 ミス・ロンリーの背後から出現した猛毒の矢が、素早く風を切って、和明に迫った。

「ッ……!」

 しかし彼は動じない。閉じそうになる目蓋を必死に抉じ開けたまま、まるで信頼の強度を示すかのように力を込めて立つ。

 勢い良く飛来した猛毒の矢は、次の瞬間、真帆の水遁によって絡め取られ、効力を失った。

「梨香ちゃんっ!!」

 真帆も和明と共に、頼りない声を精一杯張上げて言った。

「私たちを頼って! みんなで戦うの!」

 駄目押しとばかりに和明が叫ぶ。

「そんな女の言う事とご両親の愛、君はどっちを信じる!? その女と僕たち、どっちを選ぶんだッ!? 答えろッ!! 梨香ッ!!」

 二人に気を取られていたミス・ロンリーは、目の前で蹲った梨香が、そっと刀を握り直す気配に、一瞬気づくのが遅れた。

「――!」

 決意を宿した瞳が、濃霧のような暗闇を照らす。

 あらゆる感情を振り払う、不意打ちからの豪快な一閃。

 カクテルピンクの瞳孔が、驚愕に見開かれた。

「……ッ!?」

 間一髪飛び退いたアルテミスだが、翻ったスカートの裾を思い切り劈かれ、一気に腿の付け根まで風に晒される。切り飛ばされたスカートの隙間から、細長い足と純白のガーターベルトがぽっかり覗いていた。

「くっ……!」

 苦虫を噛んだように不敵な相貌を崩したミス・ロンリーに対し、大きく天に向かって刀を掲げるような格好で立った梨香は、凛然とした面持ちで口を開いた。

「悪いけど、私はアンタを信じない――」

 梨香の導き出した答えに、魔人令嬢は冷ややかな無表情を向け、和明と真帆は安堵の面持ちでそれぞれの拳をぎゅっと握り締めた。

「父と母がどんな気持ちで私に接してくれたのか、本当のことはわからない。もしかしたら、アンタの言うとおりなのかもしれない。それでも……――私は幸せだったの。愛を知らない私にそれを教えてくれたのは、確かにあの二人だった。たとえそれが〝紛い物〟だったとしても、私にとっては〝本物〟だった! それだけでいい。それだけで十分なの。私にとって、あの二人が両親だったって事実は変わらないから! 私は三嶋の妙を誇りに思う! 嘲笑うなら、嘲笑えばいい! 私はただ、戦うだけよッ!!」

 アルテミスは興が削がれたといわんばかりに、白々しい顔で嘆息する。

「はぁ、退屈ですわねぇ……。そんなに熱くなっちゃって、全然面白くありませんわ」

 そうして何やら含みのある苦笑いを浮かべ、いけしゃあしゃあと真実を明かす。

「そうそう、お察しのとおり、今の話はすべてワタクシの想像です。というか、そもそもワタクシはあれ以来、一度としてご両親にお会いしたことはありませんでしたので、お二人の真意などわかるはずがないでしょう? ついでに言うと、あなたの存在を知ったのも実際はつい最近のことです。繁華街での騒動を記録映像で拝見した時、その〝胴田貫〟を見てはじめて、あなたが三嶋流の縁者だと気づいただけのこと。あなたの素性も、諜報員を使って少し調べさせた程度なので、詳しいことは何も知りません。とんだ茶番でしたわね? もう少しは楽しめると思ったのですけれど、残念ですわ……?」

 いいように弄ばれていたことを知り、梨香はキッと唇を噛んだ。

 所詮はすべて、魔女の手のひらの上だったというわけだ。

 しかし、これでようやくスッキリした。

 すべての謎が解けた今こそ、心置きなく戦える。

「……」

 梨香は精神感応によって繋がれた見えない糸を手繰り、和明と真帆に想いを伝えた。


〝――ありがとう。和明、真帆……。あなたたちが居てくれて、本当に良かった。それから、ごめんなさい……。私、すっかり頭に血がのぼって、周りが見えなくなっていた。一人で戦おうとしていたの。けれど私一人じゃ、あの女には勝てない。私は一人じゃ、戦えない……。だからお願い、力を貸して――? 私と一緒に戦ってくれる?〟


 心の声が聞こえる。

 二人の意思が、勿論だとばかりに強く応えてくれる。

 強い絆に、精神感応の糸がみるみるうちに太く成長し、思考を共有した脳裏がまるで大輪の花を広げたかのように、温かな光で満ちてゆく。

 和明と真帆が、本当はこんなにも頼もしいだなんて……。

 これまで非力な二人を自分が守らなければいけないと思い続けて来た梨香は、自らの慢心と二人への軽視を深く恥じた。

 そして、今度こそ確信する。


〝三人でなら、勝てる――!!〟


 瞬間、その場の雰囲気が、がらっと変わった。

 青白い炎がメラメラと音を立て、地獄の底から燃え上がるように。

 先頭に立った梨香は宣戦布告の意を込めて、胴田貫の鋭い切先を、まるでホームラン宣言の如くミス・ロンリーの首元へと突きつける。そして、和明と真帆共々、気持ちを新たに眼前の強敵を真っ向から睨み据えた。


「――行くわよ、魔神ッ……!」




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