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第二十二章「逆転の曙光」

第二十二章「逆転の曙光」

                   1


 時刻は既に、深夜の二時を回っている。

 雲の上まで聳え立ったイーリアス=タワーの地上249階フロアで、頂上を目指す祐樹と隼人は、いよいよ最後の休憩を取っていた。

目的地となる最上階まで、もう間もなくだ。

 実質あと数回の空間転移で到着する。

 文字通りの頂上決戦を前に、高揚感と焦燥感が綯い交ぜになって、人気のないフロアの空気に溶け込んでいた。嵐の前の静けさに浮き足立ち、落ち着きなく視線を彷徨わせていた祐樹が、そのうち、ふと口を開いて呟く。

「梨香たちは、大丈夫だろうか……」

 独り言のようなその問いに対し、隼人は寄りかかっていた柱の面から背を浮かせつつ、冷静な口調で答えた。

「勝算は大いにある。なによりも、あの三人はチームとしてのバランスがいい」

 祐樹は神妙な面持ちで振り返り、隼人の解説に耳を傾けた。

「――格闘戦は梨香、能力戦は真帆、頭脳戦は和明というように、それぞれの得意分野に役割を分担することで、互いの短所をカバーしあい、また、それぞれの長所を最大限に引き出すことが可能になる……。例えば、梨香は近接格闘において絶大な力を発揮するが、能力戦には弱い」

「……超感覚系の能力者である梨香じゃ、敵の操る毒の能力には対応できない?」

 祐樹の言葉に、隼人は「そうだ」と言って低く頷いた。

 それは、これまでの戦いにおいてもたびたび露見して来た、彼女の弱点。

 そもそも〝精神感応〟という能力自体が、戦闘にはまったくもって不向きであり、梨香の攻撃力・防御力は、それこそ純粋な身体能力に頼りきったものだ。

 いくら彼女がずば抜けた運動神経の持ち主といえど、それにも限界がある。

「真帆は逆に格闘戦はからっきしだが、彼女の操る〝水遁〟は三人の中にあって唯一、敵の能力と拮抗し得るものだ。故に、事実上の戦闘は前衛の梨香と後衛の真帆、二人の連携によって賄われる。――だが、恐らく鍵を握っているのは和明の存在だろう……」

 アルテミスは、格闘戦と能力戦の両面において優れた敵であると、隼人は語った。

「恐らく敵の実力は、格闘戦において梨香を凌ぎ、能力戦においては真帆を上回る。よって二人が連携を連ねるだけではまだ及ばない。たとえ一時的に拮抗したとしても、馬力で相手が勝る以上、どう足掻いたってジリ貧になる。もとより長期戦は不利。奴を倒すには瞬発力で一気に飛び越えるしかない。だが、それは一種の賭けだ。失敗すれば後がない。 だからこそ、それを成功に導くための〝戦略〟が必要になる――」

 ……格闘戦・能力戦、どちらにおいても不得手な和明は、ある種、戦場において最もフリーな状態だ。

「――故に、その間を利用して冷静に戦況を俯瞰し、敵の戦力を把握。限られた時間と、少ない情報の中から迅速且つ、適切な判断力によって最も効率の良い方策、すなわち戦術を組み立てベストなタイミングで指揮を執る。それが和明に与えられた〝作戦参謀〟としての役回りだ。戦線の兵士を生かすも殺すも、すべては軍師の手腕に掛かっている」

 和明に要求をされるものの恐ろしさを知った祐樹は、緊張に汗を滲ませ、ごくりを喉を鳴らした。そして、おずおずと問い掛ける。

「……出来るのか?」

 核心を突いた一言。

 隼人は険しい表情で、言葉を濁した。

 ――和明には軍師として指揮を執った経験もなければ、ノウハウもない……。

 隼人はいずれ、時間を掛けて一つずつ、彼にその心得を教えていくつもりだった。

 しかし、霊石を奪われたことによって事態が急変したため、現状、隼人は和明に対してほとんど何のレクチャーもしていない状態なのだ。

 そもそも、即興で組み立てた戦術のみを用いて敵を倒すことに関していえば、隼人でもあまり自信がない。これまでプロメテウス、メデューサと罠にかけてきた彼だが、あれはあくまでも、予めあらゆる可能性を考慮した上で予防線を張り、失敗した時のリスクを軽減しつつ戦う以前から備えていたもの。

 その場の思いつきで敵を術中に嵌めることとは、根本的に難易度が違う。

 それこそ隼人は、プロメテウス戦において一度、セカンド・アビリティという不確定要素に阻まれ、即興戦術を失敗しているのだ。

 隼人ですら、その成功率は決して高くない。

 にもかかわらず。

「――ぶっつけ本番の和明に、どこまでやれるか……」

 苦々しい表情で祐樹が呟いた。

 隼人は低く肝を据えた声で断じる。

「信じるしかあるまい。あとはただ――閃くか、閃かないかだ……」

 それこそまさしく、アルテミス戦の鍵を握る、最大の争点だった――。


                   2


 風を切って走る。

 流れる髪、迸る汗、光る双眸。

 猛然と長い足を跳ね上げ、梨香は疾駆する。

 空中浮遊の能力を使って虚空を滑るように移動しながら、ミス・ロンリーは笑った。

「ホォ~ホッホッホッホッ!! 空も飛べぬ者が、無様ですこと!」

 スカートのフリルが、大きく帆を広げて小気味良く跳ねる。華麗なバックステップでくるくると踵を返し、アルテミスは陽気な高笑いと共に宙空を舞い踊る。

「チッ……!」

 助走から勢いをつけ、膝を屈伸、肉感豊かな太ももに力を溜めた梨香は一気に跳躍。

 雷霆の如き一太刀が、妖しく嗤う鬼の面を打ち砕こうと切迫した。

「チェストォオオオ――!!」

 桃色の瞳が、修羅を宿して振り返る。

「――遠矢射る」

 出現と同時に空中を直角にカーブし、前後から挟み撃ちを狙って飛び交う物毒の矢。

 瞬間、大気がうねる。

 滞空状態から、豪快に胴田貫を振り翳した梨香はすかさず対抗した。

「三嶋流妙技・一陣薙ぎ!!」

 ∞に弧を描いた剛剣の一振りが、火花を散らしてどうと旋回する。前後から一斉に肉迫する異能の毒矢を、まとめて斬り払った。梨香は重力に従って落下する。

 間髪入れず、魔人令嬢の背後から無数の黒い塊が、打ち上げ花火の如く四散した。

 そして、炸裂する。


「毒針千本――」 


〝聖なる水よ、厚く清らかなる盾となりて、賢者を守り賜え〟


「三嶋流奥義〝焔剣山(ほむらけんざん)〟――!!」


 天井を覆い尽くす勢いで頭上に広がった無数の毒針が、嘴を突き立てて一斉に空から舞い降りて来るカラスのように、四方八方から猛然と襲い掛かった。

 ばっと傘を広げたように出現した水流のベールが、半球状に梨香の全身を覆い隠して彼女の盾となる。瞬間、ズダダダダダダ――と激しい水飛沫を上げて、機関銃をぶっ放したが如く分厚い水の盾に突き刺さる毒針の嵐。

「くぅっ……!」

 だが、真帆の力では、すべてを防ぎきることが出来ない。

 魔の尖端が獰猛に水壁を突き破って、内側の梨香へと迫る。次々と強行突破して来る毒針の進撃を、梨香は奥義で迎え撃った。

「ハァアアアアア――――ッ!!」

 超高速で放たれる〝突き〟の乱れ撃ち。凄まじいピストン運動から繰り出される閃光のような剣先が、押し寄せる毒針の大群を鋭角に捉え、片っ端から打ち砕いてゆく。

「……!!」

 刹那の殺気。

「ヒュッ――」

 独特の呼吸法と共に、頃合を見計らった魔人令嬢が、ひらりと頭上から降下する。

 落下の勢いを乗せて打ち下ろされた猛毒の刃を、半回転しつつ胴田貫の強靭な峰で受け止め、そのまま真一文字に切り払う。互いに背を合うような格好から、振り向き様に一太刀交わし、脇を潜り抜け、懐へ踏み入る間合いを探り合いながら二太刀交わす。


〝聖なる水よ、猛々しき砲火となりて、邪悪を打ち砕き賜え〟――……


 真っ白に渦を巻いた水の砲弾が、アルテミスを目掛けて飛来した。

 梨香と刃鳴りを散らしつつ、素早く横目にそれを見た魔人令嬢は、すぐさま左手を後ろ向きに翳す。瞬間、水の砲弾は黒々しく染まって落下、煙を上げて瞬く間に霧散した。

 間髪空けずに、梨香が踏み込む。ミス・ロンリーも踏み込んだ。

 共に、短く息を吸って吐き、腕を伸ばして引き絞る。上段・中段・下段、袈裟掛けに逆袈裟と目まぐるしく軌道を変えて縦横無尽に飛び回る剣戟の応酬。

 正道を歩む〝紛い物〟と、邪道を歩む〝本物〟の対決は、互いに三嶋流の骨子である捻りの動作を余すところなく発揮してぶつかり合い、曲芸めいた圧巻の様相を呈する。

 素早く、大きく、なめらかに、螺旋を描いて火花を散らす両者の太刀筋は、目にもともらぬ速さで、闇夜に尾を引く閃光と化していた。


「っ……」

 ――嵐のような戦況を見守りながら、和明はずっと考えていた。

 梨香とアルテミス。

 機動性・俊敏性・反応速度・剣術の技量は、ほぼ互角。

 厄介なのは、やはりあの毒を統べる能力だ。

 現状、真帆の水遁によってなんとか相殺しているものの、一瞬でも触れたら最期、命取りになるというあの能力の持つアドバンテージはあまりにも大きい。

 なんとかして、あれを封じることは出来ないだろうか。

 あれさえ使えなくしてしまえれば、一気に勝利は近づくのだが――。

「……」

 光を操る少年は、一度静かに目蓋を下ろし、隼人のやり方を思い出す。

 隼人はこれまで、危機的状況と限られた時間の中にあって尚、数少ない情報の中から手掛かりを拾い集め、最善の方策を考え出してきた。

 いまの自分が、作戦参謀として彼の代わりを要求されているのだと肝に銘じた和明は、細い記憶の糸を手繰りながら、徐々に思索を深めていく。

 きっと、どこかにヒントがあるはずなんだ。

 何か……。何かあるはずだ……。

 記憶を遡って行く。

 頭の中で様々な情報が錯綜する。

 もとより、彼の脳内フォルダにおいて、アルテミスに関するデータはごく限られていた。

 関係性のないものを次々と排除しつつ、その範囲、可能性を次第に絞り込んでゆく。


 ――魔人令嬢と初めて邂逅したのは、アジトの一室で、捕縛に成功したメデューサの口から『ゼウス=プロジェクト』に関する重大な証言を取った直後。

 悄然とした空気の中、突如として現れたミス・ロンリーは、瞬く間に衆道を粛清、父なる霊石を奪って逃走したのだった……――。


 …………ん?


 いや……ちょっと待て……。


 何か引っ掛かる。


 何だろう。この漠然とした違和感の正体は……?


 和明は記憶の波を手探りに掻いて、その正体を探る。


 ふと脳裏を過ぎったのは――〝琢磨の証言〟

 あの日、琢磨はメデューサの異能で暴徒化した市民を足止めするため、繁華街に一人残った。そして、そこでアルテミスと対戦している。

 つまりはだ――和明らがメデューサと交戦している際、既にアルテミスは貧民街の地を踏んでいたということになる。

 無論、それはメデューサが任務に失敗したときのことを考えて、もしくは始めから彼自身の死を予定に組み込んだ上の二重作戦だったのかもしれない。

 どちらにせよ、アルテミスはあのとき、メデューサの影に控えていたのだ。

 メデューサが倒されれば、すぐさま自分が出て行こうと備えていたのだろう。


 しかし――。

 実際にミス・ロンリーが現れたのは、それから数時間後のことである――。

 やっぱりおかしいと、和明は疑念を募らせる。


 何故だ……。


 何故、あのとき――。



〝――すぐに襲って来なかったんだろう……!?〟



 それほどすぐ近くまで来ていたのだから、襲おうと思えばいつでも襲って来れたはずだ。

 それならばいっそ、衆道と決着をつけた直後、心身共に疲弊しきっているところを襲撃した方が、当然のことながら効率は良かっただろう。恐らく、相手方もそこまで考えて準備をしていたはずだ。それなのに、どうして……。

 ――どうしてわざわざ、あのタイミングで数時間も間を置いた? 

 アジトへの帰還を許し、あまつさえメデューサの口から機密情報が漏れてしまうような隙まで与えて……いくら結果オーライとはいえ、明らかに二重作戦としてのメリットは減少している。それでは予め彼女が衆道の影に控えていた意味がない。

 やはり、敵側に何か予期せぬアクシデントがあったと考えるのが妥当だろう。

 ならば、それは何だ?

 あの空白の数時間に――一体、何が遭った!?

 考えろ。考えろ。考えろ。

 その答えが、もう喉元まで出かかっている。

 そんな予感めいたモノがいっそう心を逸らせる。

 もどかしい思いを抱えたまま、戦況を確認するために一旦目を開けた和明は、熾烈に鍔迫り合いを繰り広げる梨香とアルテミスの姿を見た。

 あの細く白い腕のどこにそんな力があるのかと訝るほどの怪力に押され、梨香はじりじりと後退を余儀無くされている。魔人令嬢は胴田貫越しに猛毒の刃を彼女の額へと迫らせながら余裕の笑みを浮かべていた。

 真帆の水遁が奔流となって梨香を援護し、ミス・ロンリーの足を引っ張ろうと背後から伸びる。瞬く間に形成された猛毒の障壁が、アルテミスを庇うように立ち塞がって、それを受け止めた。……だが、防壁に衝突してあさっての方角に跳ねた、バケツ一杯分程度の水が、宙を舞い、偶然にも重力に従って、ミス・ロンリーの頭上へと――。

「……!」

 刹那、優勢であった梨香との鍔迫り合いを唐突に打ち切って、アルテミスは弾かれるようにその場から飛び退いた。水の塊は一瞬前までアルテミスの立っていた位置に落下、飛沫を上げてびっしゃりと床を濡らす。


〝!?〟


 ――その光景を見て、和明の顔色が変わった。

 急速に浮上した一つの可能性。

 瞬間、かあっと記憶の扉が開いた。

 そういえば、と思い出す。

 そうだ……。確かにあのとき……。

 アレは、そういうことだったのか。

 自らの推理が正しければ、すべての辻褄が合う。

 確証はない。だが、試してみるだけの価値はあると思う。

 どのみちこのままでは手詰まりだ。

 長期戦になればなるほど、こちらが不利になる。

 ならばもう、ここは一つ賭けるしかない――!

 和明は〝精神感応〟によって繋がれた見えないパイプを通して、二人に呼びかけた。

 手早く掻い摘んで今回の作戦内容を説明する。

 梨香の方から、こっちはいつでもOKだと返答があった。

 だが真帆の方は、大量の水を使用するため、水源の掌握に少し時間がかかるらしい。

 彼女が一か八かの大技に備える間、どうしても梨香の援護が手薄になる。

 しかしそこは和明が、真帆に代わって素早く彼女のフォローにまわった。

〝行くよ、三嶋さん!〟

〝ええ……!〟

 息も尽かさぬ居合いから、魔人令嬢と刀を交わす梨香は、思考及び視覚情報を和明とリアルテイムで同期させ、ぴったりとその呼吸を合わせてゆく。

 猛毒の太刀を振り上げ、今にも斬りかからんとするミス・ロンリーに対し、梨香はこちらも踏み込むと見せかけて弧を返し、刹那、胴田貫の刀身をくるりとちらつかせた。

 瞬間、和明の〝物質発光能力〟によって、透き通るような凶刃の肌が真っ白に照り輝く。

「っ――!?」

 強烈に瞬いた閃光は、ピンポイントでアルテミスの目を焼き、視界を眩ませる。

 梨香はその間隙を突いて一気に踏み込み、ここぞとばかりに剣戟を振るった。

 ミス・ロンリーもすぐさま体勢を持ち直して来るが、二人の追撃がそれを許さない。

 絶妙のタイミングで、激しく不規則に点滅を繰り返す閃光の刃。

 和明と思考を共有している梨香にとっては予定調和の出来事であっても、アルテミスの目からしてみれば、鬱陶しいことこの上なかった。

 繰り返される鮮烈な明暗によって視神経が錯覚を引き起こし、視界からその刃が消えてゆく。また、発光の不規則なリズムが、反撃に転じるタイミングを悉く狂わせていた。

「おのれ、小癪なッ……!」

 絶妙なコンビネーションによって、一気にミス・ロンリーを追い詰める梨香と和明。

「――――」

 その間にも、真帆は着々と準備を進めていた。

 彼女の操る水遁の発生方法は二通りある。空気中にある水蒸気を凝縮して自ら精製する方法と、近隣にある水源から召喚する方法の二種類だ。

 少量であれば前者の方が早い。しかし今回、和明の説明によれば大量の水が必要とのことなので後者を選択した。地上五百メートルの高層ビルに水源など存在するのかと思うかもしれないが、むしろこの環境は好都合だった。貧民街とは違い、イーリアス=タワーには当然のようにきちんと整備された水道が通っている。水道管に走る水を片っ端から掌握し、制御下に治めていく。水源は十分すぎるほどにあった。あとはそれを操る真帆の能力が、どれだけの時間持続するかという点にかかっている。

 いよいよと準備が整い、深呼吸を一つ、真帆は意を決して二人に呼びかけた。

〝カズくん、リカちゃん……!〟

 瞬間――。

 三人の呼吸が揃う。

『――今だ!!!!』

 和明の合図で、梨香がミス・ロンリーの間合いから一気に飛び退いた。

 真帆はすかさず詠唱する。


〝聖なる水よ、恵み潤す豪雨となりて、邪悪なる者を清め賜え――……〟


 刹那、堰を切ったように天井から産み落とされる大量の水滴。

 真帆の能力によって発生した大粒の雨が、一瞬のうちに空間を埋め尽くし、ダーッと床に叩きつける。掠め過ぎる雨粒の残像でフロア中が白く霞むほどの勢いだ。

「……何ッ!?」

 顔色を変えたのは、アルテミスだった。

 猛烈な勢いで降り注いだ雨粒が、ミス・ロンリーの体に当たって次々と弾け、綺麗な顔を、桃色の瞳を、フリルのドレスを、ブロンドの髪を濡らして、滝のように流れ落ちる。

「クッ!」

 見れば、雨に打たれた猛毒の太刀が崩れ始めていた。

 熱いアスファルトの上に立てて置かれたチョコレートアイスのように、黒い猛毒の衣が斑に溶け出し、芯である傘の表面が剥き出しにされてゆく。

 その光景を目にした三人は、同じ雨に打たれながら正鵠を射たりといった顔つきになってぐっと拳を握り締めた。和明の推理が当たったのだ。


 土砂降りの雨……雨――雨!!!!


 ――そう。あの日も確か、こんなふうに雨が降っていた。


 メデューサを倒した直後から降り出した雨は、瞬く間に雷を伴う大雨となって、以降の数時間、ちょうどアルテミスがアジトに出現する直前まで降り続いていたのだ――。

 プロメテウス戦で負った傷が癒えずに寝込んでいた真帆と、メデューサとの戦いによって昏倒していた梨香には、どうあっても気づくことが出来なかった事実。

 この場において、和明だけが唯一それを知っていた。

 そして、そこに潜む可能性に気づくことが出来た。


 病毒の女神・アルテミスの弱点が――〝雨〟――。

 延いては――〝水〟であるという可能性に……。


 曙光を呼び込んだ少年は、痛恨の表情で額に手を当てる。

 どうしてこんな単純なことに今まで気づかなかったのか。

 よくよく考えてみれば――〝万物を穢すモノ〟である毒が、それを洗い流し、浄化する作用を持った〝水〟に弱いというのは、ある意味、当然の摂理ではないか。

 そして、これは深読みかもしれないが、アルテミスがあれほど執拗に梨香を挑発し、責め立てたのは、こちらの気を惹くためのパフォーマンス……今にして思えば、アレは一種の〝陽動作戦〟だったのではないだろうか。

 対戦者の中に天敵である水の能力者がいることを知ったミス・ロンリーは、決してその弱みを悟られまいと先制して話題を放り込んだ。三嶋流の因縁という一際目を引くトピックスでまんまとこちらの注意を惹きつけ、それ以外の余計なことに気が回らぬよう、ミスリードを仕向けていたのではないか……。


 ――ともあれ。

 この致命的な弱点が発覚した以上、ミス・ロンリーはもはや丸腰も同然だ。

 最大のアドバンテージであった異能が使用不可能となった今、形勢は完全に逆転した。

 この機を逃すまいと、梨香は一気に斬りかかる。

 振り下ろされた胴田貫の一閃を振り返り様に受け止めるアルテミスだが、既に猛毒の障気は完全に剥がれ落ち、得物は元の日傘に戻っていた。

 梨香は魔人令嬢の屈辱的な血相を刀越しに見て、歯を食い縛りながらニンマリ笑った。

「アンタも、ようやくあの薄気味悪い笑顔を消したわねッ……!」

 刀を押す腕に力を込めて、ギチギチと鍔迫り合いを演じながら、これまで散々詰られてきたことへの意趣返しとばかりに、皮肉を吐いた。

「ほら、傘を持ってるんなら差したらどうなのッ……? 雨、降ってるわよ?」

「チィッ、小賢しいッ――!」

 ミス・ロンリーは悔しげに歯噛みして柳眉を逆立てた。


                  3


 深夜未明――。

 僕は隼人と共に、とうとうその場所に辿り着いた……。


 其処は人の住まいし大地から、遠く離れた天界の地。

 泥よりも、雲に等しく近い、選ばれし者の領域。

 全長1,059メートルにものぼる高層ビルの天辺。

 『OLYMPOS(オリュンポス)』本部――神へと至る塔(イーリアス・タワー)の最上階


 ――地上259階フロアにて。


「着いたぞ……」隣に立った隼人から、ここが頂上だと告げられたとき、僕が最初に抱いた感想は、真っ暗で何も見えないということだった。

 これまで遠くから見上げることしか出来なかったイーリアス=タワーの頂上が一体どんな場所なのか、僕には想像もつかなかったが、これは些か予想外であり、ある意味、予想通りだった。

 雰囲気からかなり広い空間だということはなんとなく察しがつくのだが、辺りは一面深い暗闇に覆われ、一寸先も見渡すことが出来ない。

 ごーという機械の駆動音が低く鼓膜を揺らし、足元には薄っすらと白い霧が漂っていた。

「行くぞ……」

 隼人の声に従い、僕は彼の後ろについて歩き出す。

 絡みついてくる靄を引き裂いて、奈落のような暗闇の中を手探りに進んだ。

 視覚が機能しないぶん、その他の感覚が鋭敏になってくる。

 如何とも形容しがたい、無機質で何故か妙に心地いい機械の香り。こつこつと刻まれる二人分の足音は心なしか大きく反響し、ブゥウン……――という何かの重 低音が永続的に鳴り続いて、時間の感覚や集中力を俄かに弛緩させる。

 不意に、先導していた隼人が足を止め、片腕を広げて制止を促した。

 少しぼうっとしていた僕は慌てて立ち止まり、神経を張り詰めて周囲の気配を探る。

「――!」

 そのとき。

 底知れぬ暗闇の渦中から、ガットギターの旋律が響き渡った。

 途端、心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。

 いよいよ、そのときがやって来たのだ。

 巧みなフィンガーリングから弾き出される目まぐるしく力強い曲調。

 闘争と情熱を思わせる激しい演奏が、来たるべき邂逅を予感させ、心をかき乱す。

 じりじりと鍋の底を焦がすような緊張感に、肩の力が入る。

 気づけば全身がじっとりと汗ばみ、呼吸が乱れていた。

 期待と不安がたちどころに膨れ上がり、限界点を越える。

 僕はある種、絶望的なまでに高揚し、浮き足立っていた。

 今か今かと身構え、腕や足の筋肉がガチガチに凝り固まって震え出す。

 ともすれば息をすることさえ忘れてしまいそうで、気が気じゃなかった。

 そうして重厚なギタープレイも終盤に近づき、荒々しく叩きつけるようなストローク五小節が曲のラストを結ぶ。最後の余韻が闇に溶け込んで、再び静寂が訪れる。

 瞬間、世界から音が消え、自分の心臓の音だけが頭の中でドクドクと鳴り響いた。

〝来るぞ……!!!!〟

 思わず息を呑んで、カッと目蓋を抉じ開ける。

 隼人もジリリと踵を擦って身じろぎした。


 刹那――。


 バッと、室内の全照明が一斉に点灯した。

 燦然と、世界が眩い輝きに満ちる。

「ヌゥッ!?」「ッ……!!」

 暗闇で開ききっていた瞳孔にいきなり煌々とした光が差し込んで、視界が一瞬、真っ白に染まった。まるで空間を焼き尽くすのではないかと思うほど、眩しい光が辺りを照らし出す。思わず顔を背けた僕と隼人は、素早く手のひらで庇を作り、焼かれた目を慣らすように眇めながら、前方を見据える。

 そこには――。


〝!?〟


 神々しくライトの光を浴びて照らし出された、高さ四メートル級の巨大なドーム。

 分厚い合金の壁で四方を囲まれ、その天辺は天井を通し、屋上にある巨大なパノラマアンテナへと接続されている。

 子宮を模したドームの壁面に記された『Parthenon.』の文字――。

 背筋を駆け上がる電気ショックのような感覚に、ゾクゾクと鳥肌が立つ。

 僕は目の前に広がったその光景に思わず圧倒された。



 ――これが、女神の檻……!!

 この向こうに〝ティアラ〟がいるのだ――!!!!



 腹の底が劇的に燃え上がり、足元から史上最大級の震えがやって来る。

「ユーキ!」

 隼人の叱咤を受け、呆気に取られていた僕はその瞬間はたと我に帰った。

「気をつけろ!」

 いつになく警戒心を剥き出しにした隼人の雰囲気にぎょっとする。

 そして、気づいた。

 彼の煮えたぎる双眸が一心に捉えた先、女神の檻の前に一人の男が傲然と立ち塞がっている。眩い逆光の中で、仁王立ちする男の姿は真っ黒なシルエットになり、一際大きく浮かび上がる。

「――遅かったな」

 影から届いた声に、僕と隼人は途端、ズザッと半身になって身構えた。

 遂に姿を現した、最強にして最大の特殊能力者サイキック・コンテナー――。

「待っていたぞ、叛逆者の諸君……」

 魅惑的な低い声が、僕らの到着を讃えるように響き渡る。


 この男こそ、かつて反逆の信徒を従えて国家に仇為し、その凄まじき力によって首都を陥落せしめた〝破壊の神〟――数多の人類を超越した才を持ち、魑魅魍魎の如き異能の者たちを統率する支配者――。


〝アポロン〟――!!!!



 この男を倒せば、僕たちの勝利だ。


 天下分け目の頂上決戦。


 いよいよ、最後の戦いが幕を開けようとしていた――。











今回、和明の機転と真帆の能力によって形勢を逆転させた梨香たちですが。

しかし、雨の中での戦いというのは、なんとなく

主人公サイドにとっては“敗北フラグ”であることの方が、多いような気が致します……。

フフフ……。それでは、また来週。


次回、アルテミス編・完結――第二十三章「地を這う者たちの叫び」


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