第十章「光と影の少年」
第十章「光と影の少年」
1
――プロメテウスによる襲撃から、一週間が経った。
隼人は付き添いの梨香を連れ、沈鬱な面持ちで真帆の自室に赴く。
彼女は相変わらず塞ぎこみ、ベッドに横たわったまま啜り泣いていた。
「真帆、傷の具合を見せてくれ」
隼人はゆっくりと落ち着いた声でそう告げると、ベッドの脇に椅子を引き寄せ、診察鞄から薬品や包帯、ガーゼなどを取り出して準備する。
その間に梨香が泣いてばかりで要領を得ない真帆を促し、寄り添って宥めながらパジャマを脱がせてゆく。
自然、上半身を露出させる格好となるため、傷口にかからないよう胸元をタオルで隠しながら、梨香が背中でそれを押さえる。
「うっ、うぅ……ぐすっ、……っくぅ」
傷痕が残るかもしれない――。
隼人がそう告げてから、真帆は精神的に不安定な状態が続いていた。
火傷よりも、そちらの方がよほど深刻の様子だ。
まだ確実に痕が残ると決まったわけではないのだから、知らせるべきではなかった、とは思わない。
告知せず、実際に痕が残ってしまえば、彼女はもっと大きなショックを受けただろう。
彼女には知る権利があった。そして自分にはそれを知らせ、彼女の悲痛を正面から受け止める義務があると隼人は考えていた。
「ガーゼと包帯を替えるぞ?」
隼人は包帯を解きながら、真帆を励ます梨香の言葉を聞いていた。
「ほら、いつまでも泣いていたってしょうがないでしょう? んん? みんなも真帆のこと心配してるんだよ? 大丈夫、誰もあなたのことを嫌ったりなんかしないんだから」
体の傷はともかく、心の傷に男の自分は踏み込めない。その点、梨香は根気強く彼女を支えようとしていた。彼女の直向きで気丈な部分には本当に助けられていると、隼人は感じた。
「ひっ!」
傷口を覆ったガーゼを剥ぐ一瞬、真帆はビクリと痛みに肩をわななかせて硬直した。
極力そっとやったつもりだが、それでも熱傷を負った肌は風が吹くだけでも痛むほどにデリケートなものだ。
「……ん」
傷口を確認すると、焼け爛れて赤く晴れ上がった皮膚の下から、ピンク色の薄い皮膜が覗いていた。本来であれば、まだあと一週間は化膿した状態が続くと思っていたのだが、予想以上に治りが早い。彼女の持つ能力が何か関連しているのかもしれないなと、隼人は少し考えた。これなら望みはありそうだ。
「消毒するぞ? 少し痛むかも知れんが、我慢してくれ」
ピンセットで消毒液を染み込ませた脱脂綿を傷口に当てる。
「あっ……んむぅっ、くぅぅっ……!」
真帆は白いシーツをぎゅっと握り締め、目を瞑りながら小さく苦悶の声を上げた。
それから抗生物質の注射を打ち、ガーゼと包帯を新しい物に替えると、診察を終えた。
梨香と共に、真帆の自室を後にする。
廊下に出たところで、隼人は梨香に謝辞を述べた。
「すまんな、手間をかけさせて」
「いいわよ、そんなこと」
梨香はなんとも思ってないという風に笑みを見せるが、隼人の表情は優れない。
「――もし自分の所為だって思ってるなら、それは間違いよ?」
きっぱりとした彼女の口調に、隼人はふと顔を上げて梨香を見た。
「あなたの策がなかったら、あの子も、私たちも、きっとこの程度の怪我じゃ済まなかった。たぶん死んでたわ……」
女流剣客は真っ直ぐな眼差しを向けて、懇々と訴えかける。
「隼人は、やるべきことをやったの。実際、私はあいつに掠り傷一つ付けられなかったもの……。それを一人で倒しちゃうんだから、やっぱり凄いわよ。みんな、あなたを頼りにしてるの。だから、もっと誇りを持ちなさい」
隼人は小さく苦笑して「そうか」と答えた。
「私もあなたのことは心配してない。頼りにしてるんだからね?」
「おいおい、あんまり買い被るなよ」
梨香は悪戯っぽく笑みを浮かべて、さっさと廊下を歩いて行く。
「……」
隼人はその凛とした後ろ姿を見送りながら、パイプに火をつけ、気持ちを新たにした。
2
中庭のベンチにちょこんと腰かけ、ぼんやりとしている和明の姿を見かけた僕は、少し話しでもしようと近寄って行った。
「――あぁ、ユーキくん……」
僕に気づいた和明は、なんだか力のない笑みを浮かべて小さく手を振った。
「よぅ、元気?」
僕も微笑を携えて、彼の隣に腰を下ろす。
「ユーキくんこそ、背中の傷はもういいの?」
「あぁ、まだちょっと痛むけどね。日常生活に支障を来たすほどじゃないよ」
「そう、よかった……」
「カズは?」
何の気なしに尋ねると、童顔の彼は薄っすらとした笑みを浮かべ、俯きがちに答えた。
「僕はもともと、どこも怪我なんてしてないからさ……」
「へぇ、そりゃあいいことだ」
「……ホントに、そう思う?」
「え?」
僕は彼の問い掛けに少々困惑した。
「怪我なんて、しない方がいいに決まってるじゃん」
「……そうかなぁ……」
囁き混じりの細い声。
なんだか、和明は酷く虚ろだった。
彼の愁いを帯びた瞳の切先に、真帆のいる部屋の窓があることを知って僕は得心する。
「真帆が怪我をしたこと、悔やんでるのか?」
和明は薄い下唇を甘く噛みながら、ショートボブの髪を揺らして小さく首肯した。
「真帆ちゃんは、僕の代わりになったも同じだから……」
「別にわざとやったわけじゃないだろ? あのときは仕方なかったさ」
「……でも、ユーキくんはあのあと、僕と真帆ちゃんを庇ってくれたよね? それで背中に傷を負った」
「いや、それは……」
僕は図らずも言葉に詰まってしまう。どう答えたらいいものか。
気まずい雰囲気が漂い始めたところ、折良く廊下の方に梨香の姿が見え、僕は咄嗟に手を挙げて彼女を呼んだ。
「おーい、梨香ー!」
彼女は訝るような笑みを浮かべて、腰に手を当てながらこちらに歩いて来た。
「なによ? 二人とも辛気臭い顔しちゃって、どうかしたの?」
僕はちょうど良い話題転換の糸口を見つけて、彼女に尋ねた。
「――真帆の様子を見て来たんだろ? どんな具合だった?」
「うぅ~ん、そうね。隼人が言うには、順調に回復してるって」
「そ、そうかぁ!」
それを聞いて安心する。
「ほら、カズ、聞いたかよ? やっぱり気に病むほどのことはなかったんだよ!」
肩を叩いて宥め賺すが、彼は答えない。
ふと顔を上げて梨香を見た和明は、哀しく達観した言葉を、悄然と投げかけた。
「真帆ちゃん、泣いてたでしょ? 傷痕が残るかもしれないって……」
僕は唖然とし、梨香は真顔になって沈黙した。
「……そう、なのか?」
声を落として訊ねると、梨香はややあって肩を竦めるように短く息を吐いた。
「知ってたの?」
空っぽで、しかし満ちた笑みを携えて、和明は独言のように甘い声を浮かべる。
「盗み聞きをするつもりはなかったんだけどね。真帆ちゃんの部屋は、ちょうど僕の部屋の真下にあるから……。夜になると、彼女のすすり泣く声が聞えて来るんだよ……」
重圧の中、彼は足元の石ころを一つ拾い上げて、手のひらに乗せてみせる。
物質発光の能力によって、何の変哲もない石ころに、茫と光が点った。
美しく、幻想的な輝き。
しかしそれを見つめる和明の瞳には、劣等感が飼い慣らされていた。
「こんな力、何の役にも立たない。僕はみんなが勇敢に戦っているのを、ずっと遠くから眺めているだけだった。それならせめて、僕が代わりに怪我をすればよかったんだ」
彼はふと自嘲の笑みを浮かべて、四方をビルに囲まれた箱庭の中から、吹き抜けの空を見上げた。遠く、その果てにあるものを夢想するように。
「僕にも、タクちゃんや、ハヤトくんのような力があれば……。みんなと一緒に戦えたのかな……」
亜麻色の少年は永遠とも呼べるその刹那、虚空を仰いでいた。
真っ青に澄み渡った大空を、黒い点となって鳥の群れが羽ばたいている。
どこまでも高く高く、飛翔して行く鳥の群れを、水晶玉のように澄んだその瞳いっぱいに映し出して、和明は届かぬ思いに遠く身を馳せているようだ。
だが、少年の儚き夢想を真っ向から睥睨し、叩き斬る者があった。
「――脚があるのに歩こうとしないアンタは、きっと翼があったって、飛ぼうとはしなかったでしょうね」
梨香はいきなり、僕もちょっと面食らうぐらいの唐突さで語気を強めた。
鋭い刃のような彼女の瞳は、まるで和明のそれとは対極を成すように、堅く、熱く、そして揺るがない。確固たる信念と誇りを持ち、彼女の心はメラメラと青白く燃えていた。
「鳥が遥か高みを駆けるのは、鳥に翼があるからよ。それ以外に理由なんてない。無益に空を仰ぐより、地を這い進むために、いま何が出来るのかを考えなさい」
卓抜とした口調で言い切った彼女は、険しい表情のまま踵を返し、迷いのない足取りでその場を去って行く。
出涸らしのような空気に包まれ、僕は和明と二人でしばし呆気に取られていた。
「厳しいこと言うね、三嶋さん……」
ぽつりと和明の漏らした一言に頷き、同意を示す。
「ああ。――だけど、僕も賛成だ」
女の子みたいに綺麗な顔をした少年が振り返り、潤んだ瞳で僕を見る。
今にも何処かへ消えてしまいそうな、儚く頼りない雰囲気。
見えない何かに押し潰されそうで、助けを請い、叫んでいるようにも見えた。
僕は心を込めて告げる。
「君にも、きっと出来ることがあるよ。それを探すんだ」
「ユーキくん……」
「どうやらこれ以上、僕の出る幕はなさそうだね」
丸っこい和明の頭にぽんと手を乗せ、僕も梨香を倣ってその場から離れた。――
――祐樹が去って、一人その場に残された和明の姿を、物陰から密かに見守る者があった。パイプ煙草を燻らせつつ、三人からは死角となった位置で壁に背を預けていた隼人は彼らのやり取りをぼんやりと思い返し、少し考えを巡らせてみる。
「……」
しばしの黙考ののち、なにやら妙案を思いついたように薄っすらと微笑み、白衣を纏った策士は、最後に項垂れる和明を一瞥してから、人知れずその場を去った。
3
夕方近くになって、琢磨から遊楽のお誘いを受けた僕は、野郎二人でストック・ファームに赴いていた。前回、梨香や真帆たちと一緒に訪れた際は廻れなかった、主に如何わしい雰囲気の店を中心に見てまわろうというのが今回のプランである。
「なるほど、そんなことがあったのか……」
道中、僕が参考までに昼間あった出来事について話すと、金髪の悪童はもっともらしい表情をしてウーンと唸った。
「それじゃあ、カズも一緒に誘えば良かったなァ?」
「いや、どのみちそれは遠慮されてたと思うけど」
「んん? そうか? 気持ちが湧かないときは、こういう遊びが一番いいんだぜ?」
「それは琢磨の話だろ。カズは見るからに繊細な感じだもん」
僕はふと思い返して、しみじみと言った。
「それにしても、あのときの梨香は凄い迫力だったなぁ~。なんだか、僕まで一緒に怒られてるような感じがしちゃったよ」
頭の後ろで手を組んで、琢磨は歩きながら空を見上げている。
「あいつは気が強いからなァ。細かいことにうるさいし、腕は立つし、参っちまうぜ」
辟易したような言葉とは裏腹に、彼の表情は妙に穏やかだった。
その瞳には、信頼や友情を超えた、深い愛情が見え隠れしている。
僕は予てより疑問に思っていたことを、この機会に尋ねてみた。
「なぁ、琢磨? ひょっとして、梨香に気があるんじゃないのか?」
目を丸くして僕の方を振り向いた琢磨は、それから誤魔化すように高笑いを飛ばした。
「ガッハッハッ!! そいつァ、面白ェ冗談だぜ大将! 恋だの、愛だの、そんなものは所詮、素人の戯言だ! 女ってのはな、少しずつからかって遊ぶのが一番楽しいんだよ!」
「またそんなムチャクチャ言って」
「さてはお前、信じてねぇなァ? よぅし、それじゃあこの桐生琢磨様の底力、とくと見せてやろうじゃねぇか!」
軽口を叩き、あてつけのように擦れ違う女の子に声をかけては、一斉に素通りされる。琢磨は絶対、好きな子をいじめて困らせるタイプだなと、僕は密かにほくそえんだ。
――それにしても、ストック・ファームは相変わらずの賑わいである。
八車線分もある巨大な道路にあらゆる露店が並び立ち、見渡す限りを人の背が埋めつくすその光景は、何度見ても壮観だった。
人の濁流に揉まれて歩きながら、僕はふと胸中に浮かんだ疑問を口にする。
「そういえばさ、何でここ『ストック・ファーム』って言うんだ?」
「んん? そんなこと、俺に訊かれたって知らねぇよ。俺がこの街に来た頃には、もうそういう風に呼ばれてたんだ」
飄々と切って捨てた琢磨だが、しばらくして何か思い出したように口を開く。
「そういや、今の話にまつわる都市伝説があったっけ……」
「都市伝説?」
「ああ、よくある眉唾モンの与太話だよ。――なんでも此処の仕組みを最初に考えて、施行を促したのは『OLYMPOS』の連中なんだと。俺も実際に行ったことはねぇが、此処と同じようなところが、他にもこの関東圏に集中していくつかあるらしいんだよ。それも含めて、何か奴らの陰謀じゃないかって噂が出回ってるんだ」
深く考えるまでもなく、僕は失笑した。
「そんなの理屈が通らないよ。地方の復興は差し止めておきながら、一方で貧民街の流通を助けるだなんて、おかしな話だ。第一、目的がわからない」
「だから言ったろ? 単なる都市伝説だって」
琢磨は楽天的に伸びをしながら論う。
「まぁ陰謀論だとか、そういう怪しいネタを振り撒くのが好きな輩なんて、どこにでもいるからな」
「けど、結局、由来は判らないのか……」
「そもそも成り立ち自体が、テロ直後の混乱から始まってるんだ。どういう経緯で、誰の発案によって生まれたものかなんて、わかりっこねぇよ。それこそ雲を掴むような話だ」
どこか釈然としない、しこりのようなものが心に残る。
「まぁ、名前なんてそんなのどうだっていいじゃねーか。それより、お楽しみはこれからだぜ? イッヒッヒ!」
邪に満ちた琢磨の笑顔に促され、僕もそっちに気持ちを切り替えることにした。
4
自室に篭もった和明は、一人机に向かったまま、思索の胞衣に包まれていた。
梨香から告げられた言葉が、痛烈な響きを持って彼の心に突き刺さっている。
“――無益に空を仰ぐより、地を這い進むために、いま何が出来るのかを考えなさい”
全くその通りだと思った。卑屈になっていたって始まらないのだ。
しかし逸る心とは裏腹に、思考は虚しく、同じ道を辿って空の螺旋を描き続ける。
出口が見えない。静かな焦りは、淡々として募るばかり。
そっと目を閉じ、静寂の中で今一度、噛み締める。
“自分には一体、何が出来るのだろうかと……”
優れた能力も、高い身体機能も、武芸の心得もない。
多少、機械に知識があること以外は、何の取り柄もないのである。
そんな自分が戦うためには、やはり何か強力な武器が必要だと、結論に達した。
しかし、刀や銃を扱うには修練が必要だ。
今から始めるのでは、とても間に合わない。
誰にでも扱えて、尚且つ、自分にしか作れない武器でなければ……。
「――」
ふと伸ばした足に固いものが触れ、視線を下ろす。
失敗作の蓄電器が、まるで自らの存在を誇示するかのように鎮座していた。
和明は筆を取り、広げたノートに黙々と設計図を書き込んでゆく。
5
当初の目的通り、怪しい雰囲気の店を二人で冷やかしてまわる。
何軒ほどまわったところか、ふと通りかかったアクセサリーショップの店先から、よく見知った背の高い影が現れた。
「――あれっ? 隼人じゃないか?」
僕と琢磨が声をかけると、こちらに気づいた隼人は片手を挙げつつ、もう片方の手を白衣のポケットに突っ込んだ。
琢磨は隼人の出て来たアクセサリーショップの店先を覗き込みながら、軽佻に言う。
「へぇ~、お前もこういうのに興味があるとは意外だなぁ?」
「変か?」
「いんや、なにも変ってわけじゃねーけどよ」
確かに僕も、彼の人物像からすると、少し意外な取り合わせだと思うのだが……。
「ユーキ? どうした?」
「あ、いや別に」
――僕の目にはさっき、彼が手に持っていた何かを隠したように見えたのだ。
そちらの方が気になってしまう。
「何買ったんだ?」
琢磨の問いに、隼人は落ち着いた笑みを浮かべて、右の耳元を示す。
シルバーの大きなイアリングが光っていた。
太陽の中心を一本の矢が射留めている、凝ったデザインの装飾。
特注品だと、隼人は語った。
「おぅ、なかなかいい趣味だな」
琢磨に便乗する形で、僕も思い切って尋ねてみる。
「ポケットの方は、誰かへの贈り物?」
隼人は少し驚いたように、三ミリほど目を大きくして、
「ああ……。強いて言えば、そうだな……」
曖昧な口調でこそあったが、意外にもあっさりとそう答えた。
「おいおい、まさか女にやるわけじゃねぇだろうなァ? どうなんだよ~?」
琢磨はニターッとした笑みを浮かべながら、隼人の脇をぐいぐいと肘で突く。
白衣の彼は苦笑を交えつつ、はぐらかすように言った。
「男かもしれんし、女かもしれん。そいつは“シュレディンガーの猫”だ」
金髪の悪童はポカンとした表情で首を傾げる。
「猫にやるのか?」
「いや、そういう意味じゃないと思うけど……」
「じゃあどういう意味なんだよ?」
僕は要領を得ない琢磨のために、噛み砕いて説明した。
「シュレディンガーの猫っていうのは、確か思考実験の一つだったと思う。――蓋のある箱を用意して、その中に猫を一匹入れる。箱には毒ガス装置がついていて、更にスイッチが二つ。一方のスイッチを押せば、箱の中に毒ガスが流れて猫は死ぬ。だがもう一方のスイッチを押せば毒ガスは流れない。被験者はこのスイッチを、どちらがどちらであるか判らないという状態で、どちらか片方だけを押す。箱の中にいる猫が生きているのか、死んでいるのか、その確率は五分と五分。――結論を言えば、蓋を開けて中を確かめるまでの間、二つの可能性は重なり合っている。猫は半分死んで、半分生きている状態にあるって解釈になるんだよ」
「おいユーキ……。お前は一体、何を言ってるんだ?」
なんだか本気で頭の具合を心配されてしまった。
「結局、隼人は誰にプレゼントをやるんだよ? 生きてる猫か? 死んでる猫か?」
「いや、だから猫っていうのは物の例えなんだって」
「じゃあ実際はどういう解釈なんだよ?」
「だからそれは、そのぅ――半分男で、半分女……?」
「おいユーキ……。お前は一体、何を言ってるんだ?」
「僕にもわかんないよっ!! っていうか、もう隼人に直接聞けばいいだろッ!」
なんだか前にもこんなことがあった気がする。
あのときは確か、バタフライ効果だっけ。
「要は不確定なのが問題なんだ」
そしてまた、隼人はあのときと同じように、意味深な言葉で僕らを煙に巻いた。
「――シュレディンガーの猫に対する解法は一つ、蓋が開くまでしばし待て」
6
アジトに帰って夕食を取った後、僕は中庭のスペースを借りて、もう一度、射撃の要領を確認することにした。
梨香と琢磨が後ろについて見守る中、コルト=パイソンを抜いて弾を込め、念入りにその感触を確かめながら、構えを取る。
狙いは十五メートルほど先の地面に立てて置かれたレンガ。今回はちゃんと梨香にも許可を取ったので、怒られる心配はない。
慎重に照準を定め、引き金を絞る。
「ッ――!」
瞬く閃光、轟く銃声。硝煙のにおいが鼻につく。
真っ直ぐ狙い通りに飛んだ弾丸は、古びたレンガの一つを粉砕した。
「何だ。ちゃんと当たるじゃねーか」
食後の一服に煙草を咥えながら、琢磨が意外そうな顔をしてのたまう。
僕は続いて連射を試し、残り五つのレンガも難なく撃ち貫いた。
「へぇ、やるじゃない。この間のアレは、何が原因だったの?」
梨香の問い掛けに、僕は銃を収めながら小首を傾げる。
「それがわからないんだよなぁ……。何だったんだろう……」
「本番でアガってたんじゃねーのか?」
「いや、そりゃあ全く緊張しなかったわけじゃないけどさ? そこまでガチガチになってたわけでもないんだよ。グリップやトリガーの感触も今とほぼ変わらなかったし。弾が不発ってわけでもなかった。なにより三十発近く撃って掠りもしないなんて、やっぱりどう考えてもおかしいんだよ……」
「まぁともかく、腕が落ちたわけじゃないと判っただけでも良かったじゃない?」
梨香の言葉に一応は頷いたが、僕は尚も、解せない思いに苦虫を噛んでいた。
7
――その夜。数時間を費やし、図面を完成させた和明のもとに来客があった。
コン、コン――。
ノックの音と共に、低く落ち着いた声が扉の向こうから耳に届く。
「和明、ちょっといいか?」
ペンを置いて、机から立ち上がる。
ドアを開くと、白衣の長身が姿を覗かせた。
「ハヤトくん……」
彼は小さく手を挙げて、和明を再び椅子に座らせた。
「どうしたの? こんな時間に」
「あぁ、少し相談したいことがあってな」
いつになく柔和な隼人の言葉を聞き咎め、和明は目を丸くして訊き返す。
「相談? ……僕に?」
「そうだ」
不思議そうな顔をする和明の瞳を、隼人は正面から受け止める。
それが己の役割であるかのように、真っ直ぐと。
「これは、お前にしか出来ないことなんだ」
“――!!”
和明がハッとした表情を見せる中、隼人は不敵な笑みを浮かべて語り始めた……。
8
…………。
『OLYMPOS』本部――神へと至る塔の最上部。
深い暗闇の中、無数の星が瞬くように、天井及び床一面にあしらわれた電飾の光が、薄っすらと煌く。まるで宇宙空間のようなVIP専用のブリーフィング・ルームは、しばしの沈黙に包まれていた。
四人の魔神が取り囲むテーブルの上では、先ほどから既に立体映像が再生されている。
流れているのは、入道とセカンド・チルドレンとの戦闘の模様。
諜報員が数人がかりで記録していたものだ。
空間操作、雷遁、水遁、女流剣客、拳銃使い。――それぞれが、それぞれの能力・得物を駆使した連携を仕掛け、トラップによって入道が倒れるまでの一部始終が、アングルを変えながら克明に記録されている。
“神”と畏怖される四人もまた、それぞれの面持ちでそこに向かっていた。
漆黒の統率者は机上に両肘を突き、手を組んだ姿勢で険しい表情。
妖艶な貴婦人は、長閑に紅茶を嗜みながら、微笑を浮かべている。
猟奇の殺人鬼は、座る者の居なくなった隣の席に足を乗せ、気だるげにガムを噛んでいる。映像の方には、さしたる興味もないようだ。
「……」
アフロヘアーの衆道は、複雑な面持ちで鬼人の足かけとなった僧侶の席を、ぼんやりと眺めていた。彼の瞳に宿った悲哀の情は、特殊加工のサングラスによって遮られ、他の者からは窺えない。
映像が終了し、室内に照明が戻る。
「フフ、思ったより美しい演舞ではありましたけれど、やはり個々の力量は微々たるものですわね。残念ながら、ワタクシの敵ではありませんわ」
婦人の発言を聞き咎め、漆黒の男は厳かに警告を発した。
「油断は禁物だ。入道はそこに足を掬われた……」
「へっ、そんなこと気にするようじゃあ、テメェも高が知れてるなァ?」
揚々と口を挿み、殺人鬼はぷくっとガムの風船を膨らませた。
「お黙りなさい。直人様はワタクシの身を案じてくださっているのです」
「いや、どちらかといえば、憂慮すべきは貴様の方だが」
「おいおい、俺をあんな間抜けと一緒にするんじゃねーよ。ナメてんのか!? あぁん!?」
「あくまでも冷静な分析の結果だ」
益体のない問答を早々に切り上げ、漆黒の男は仕切り直すように言った。
「本題に移ろう。――霊石を回収する役目についてだが……」
三人を順繰りに見渡した男は、アフロヘアーの陰間に目を留めて告げた。
「衆道、貴様が適任だ」
一人話の輪から外れ、漫然と物思いに耽っていた衆道は、突然の名指しに戸惑いの表情を浮かべて、自らを指差す。
「あ、あたし?」
「そうだ。お前の能力が最も円滑に事を運べる」
二人のやり取りを聞いていた殺人鬼は、途端に手を叩いて卑しく笑った。
「ケッケッケッ……! そいつはいい! 賛成するぜェ!?」
衆道は鬼人が殺意の塊のような目をしていることに気づき、思わずぎょっとした。
「ワタクシも、特に異存はございません」
囀るような声でそれに便乗した病毒の女神も、表情こそ猫の背を撫でるように穏やかだったが、衆道を見つめる視線にはゾッとするほどの冷気が込められている。
二人は彼の背中を後押ししているようでいて、その実、健闘を祈ろうなどとは露ほどにも考えていないのだ。そこにあるのは、単に嘲笑と侮蔑の感情。
劣等な箇所の多い者を精神的に追い詰め、狼狽した姿をじっくり観察してやろうという、禍々しき悪意そのものである。
「……」
衆道は二人の思惑通り、動揺を隠し切れずに居た。
血生臭い入道の最期が、嫌でも脳裏を掠め過ぎる。
自分も失敗すれば、きっとあんな風になるのだろう。
「気にするな」
漆黒を纏った男の言葉に、衆道はハッとして顔を上げた。
「直人様……」
漆黒の男は取り出した腕時計型の精密機器を、陰間の前に差し出す。
「――空間転移装置だ。転送先の座標は此処に固定してある。霊石の回収が済み次第、それを使って直ちに帰還しろ。いいか? お前の役目はあくまでも霊石の回収だ。それを忘れるな。くれぐれも不要な交戦は避け、回収の任務に徹しろ。二次の餓鬼共など、放っておいて構わん」
男の口調はあくまでも事務的なものであったが、衆道の精神状態からすれば、彼の態度は優しさ以外の何物にも感じられなかった。
サングラスの奥の瞳に、ぽっと思慕の情が宿る。
アフロヘアーの男は、親愛の笑みを浮かべて柔らかい声を出した。
「直人様、安心してください。必ずや務めを果たしてみせます」
「頼んだぞ、衆道……」
「はい。アフロディーテとお呼び下さい?」
細い体をくねらせて、衆道はちょこんとお辞儀をした。
「――おい、アフロ」
「ちょっとぉ! 勝手に略さないでちょうだい!」
殺人鬼は一気に白けた表情をして、粘着質に脅しをかけた。
「テメェ、失敗したらわかってんだろうなァ?」
衆道にとっては、もっとも耳に痛い言葉のはずである。
しかし元気を取り戻した彼は、鬼人の恫喝にも挫けることなく言葉を返した。
「悪いけど、アーレス。あんたのお望みの展開にはならないわよ」
「……へぇ、あっそ」
ペッと勢い良く吐き捨てられたガムが、衆道の厚底ブーツにべったりと付着する。
殺人鬼は低く笑いながら、見下すように顎をしゃくった。
「おもしれぇじゃねーか。だったら楽しみに待たせてもらうぜ? 覚悟しとけよ……」
アフロヘアーの長身痩躯は、眉間に皴を寄せて鬼人を睨み付けた。
それから退出しようと席を立ったところで、衆道の前に貴婦人が立ち塞がる。
カツカツと、高らかにガラスの靴を鳴らして近寄ってきた淑女は、彼の耳元でそっと囁いた。
「……好い気にならないことね?」
ピンクのドレスを纏った貴婦人は、女の嫉妬という側面においてただ暴力的衝動に優越した鬼人よりも、一層激しい敵意を衆道に注いでいた。
「直人様はその広いお心を持って、あなたのような〝怪物〟にもお情けをかけてくださっているの……。今一度鏡でも良くご覧になって、自らの分を弁えたらどうかしら? 己の醜さに恐怖して、石の如く凍えるがいいわ」
くすくすと嘲り、貴婦人はあてつけのように主人の許へとすり寄って行った。
それを横目で見送りながら、衆道は寂としてブリーフィング・ルームをあとにする。
――失敗すれば、命はない。
例え、漆黒の主が許してくれたとしても、あの二人は止まらないだろう。
案ずることはないと、自らの心に言い聞かせる。
入道を倒したとはいえ、相手はまだほんの子供だ。
しかもファーストである自分より、ずっと力の弱いセカンド・チルドレンではないか。
本来、負けることなどありえないのだ。
この際、入道のことは運が悪かったと割り切った方がいいだろう。
痩せても枯れても、自分は“六師魔道”の一員であるというプライドがあった。
そして何よりも、自らを必要としてくれた愛しの主に報いたい。
負けるわけにはいかないのだと、衆道は高い気位を持って、戦いの場に臨む。