冥狼が去った村
少年クライドが一族の村を追放されてから三日が過ぎた頃。
村の中央広場では、カリムをはじめとする血気盛んな村の若手戦士たちが、鍛錬を行っていた。
「ハッ! フッ!」
鋭い踏み込みとともに木剣が風を切り、背後の天狼が眩い光を放つ。
カリムの動きは洗練されており、集まった村人たちからは「流石は一族随一の天才」「あんな出来損ないとは違う」などと、賞賛の声が上がっていた。
「……フン、あの出来損ないが消えて、空気まで美味くなったな」
カリムは額の汗を拭い、冷笑を浮かべる。
昨日のクライドに負けた不覚は、「油断しただけ」「呪いの力に一瞬怯んだだけ」と自分の中で処理していた。天狼の加護を持ち村でも上位の力を持つ自分が、あんな村の恥さらしに負けるはずがないのだと。
――だが、その平穏は、唐突かつ最悪な形で打ち破られた。
ドォォォン……ッ!!
山全体を揺らすような重低音が響き渡り、村を囲む防壁の一部が豪快に吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
「襲撃か!? 悲鳴……南門からだ!」
広場に集まっていた村人たちが青ざめる。
煙が巻き上がる南門の破片を押し散らして姿を現したのは、一頭の巨獣だった。体長は五メートルを超え、岩石のような皮膚と、血に飢えた巨躯を持つ上位魔獣――『ディザスター・ベア』。
本来なら人里離れた大森林の最深部に潜み、めったに人前に姿を現さないはずの凶悪な災厄であった。
「グオオオオオオオオオッ!!」
「ひっ、ヒィィィッ!?」
「なぜだ!? なぜこんな化け物が村の結界を破って……!?」
村人たちがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
族長のガラハドが白銀の天狼を従え、怒声を上げた。
「動揺するな! 狼の戦士たちよ、武器を取れ! 追い払うのだ!」
「俺に行かせろ、族長!」
カリムが前に躍り出た。背後の天狼を実体化させ、光の魔力を全身に巡らせる。
(良い機会だ……! 俺が一族の真の英雄だと証明してやる!)
「ハァァァッ! 天狼閃撃!」
カリムの身体が光の弾丸となり、ディザスター・ベアの首元へ目にも留まらぬ一撃を叩き込む。神速の突進。天狼の加護を受けた渾身の斬撃が、魔獣の皮膚を捉えた。
ガキンッ!!
甲高い金属音が響き、衝撃波が駆け抜ける。
────だが
「な……ッ!?」
カリムの目が驚愕に見開かれた。
渾身の剣は、魔獣の岩のような皮膚に傷一つつけられず、逆にカリムの手から弾き飛ばされたのだ。
「グ……ア?」
ディザスター・ベアは痛がりもしない。ただ鬱陶しそうに巨大な前脚を振り下ろした。
ドカァァァン!!
「ガハッ……!?」
衝撃波だけでカリムの身体が吹き飛び、広場の石柱を破壊しながら転がっていく。背後にいた天狼の幻影は、一瞬で砕け散った。
「カ、カリムが……たった一撃で!?」
「馬鹿な! あのカリムが傷一つつけられないだと!?」
族長のガラハドは、信じがたい光景に血の気が引いていくのを感じていた。
村を襲撃したのは、このディザスター・ベアだけではない。ディザスター・ベアに続いて次々と押し寄せてきたゴブリンの群れ、空を埋め尽くすワイバーン、そして並大抵の攻撃では傷一つ負わせることができない硬い鱗を持つアースドラゴン――。
古よりこの村は、天狼の聖域として魔物を寄せ付けないはずだったのではないのか?
その時、ガラハドの脳裏に、寒気のするような思いつきが走った。
(……待て。まさか……)
これまで村の周辺に強い魔物が寄り付かなかったのは、本当に「天狼の結界」のおかげだったのか?
違う。あの『出来損ない』――クライドが契約した『冥狼』の圧倒的な捕食者としての気配を恐れ、魔獣たちは村に近づけなかっただけだったのだ。
それを、自分たちは「忌むべき悪獣」「一族の恥」と罵り、自らの手で追い出してしまった……。
「そんな……バカな……! あの出来損と契約した冥狼が、村を守っていたというのか……!?」
ガラハドの膝が、ガクガクと震え出す。
だが、絶望に浸る猶予すら与えられなかった。
「グオオオオオオオオオッ!!」
ディザスター・ベアが地響きを立てて突進し、家屋を紙くずのように叩き潰す。
「ヒッ……ヒイィィィッ!?」
その光景を間近で見たカリムは、ガタガタと全身を激しく震わせた。
一撃で弾き飛ばされた際の恐怖、そして目の前の巨獣が放つ本物の殺意。天狼の加護で守られ本物の恐怖を知らない、『井の中の蛙』に過ぎなかった十八歳の少年は、生まれて初めて突きつけられた『死』の恐怖に、完全に心が折れていた。
「や、やめろ……来ないでくれ! 俺は……俺は一族随一の天才なんだぞ! こんなところで死ぬわけには……っ!」
すっかり戦意喪失してしまったカリムは、自らの武器すらその場に投げ捨て逃げ出した。
そして、自分を慕って救援を求めてきた幼い弟や、怪我をして動けない村人たちを突き飛ばし、背を向けて脱兎のごとく走り出したのだ。
「か、カリム兄さん……!? 助けて、カリム兄さん!」
「助けてくれカリム! 戻ってきてくれ!」
すがるような村人たちの叫びが背中に突き刺さる。しかし、カリムは振り向きもしなかった。
鼻水と涙で顔をグチャグチャに歪め、恥も外聞もなく命乞いを叫びながら、ただ自分だけが助かるために無様に逃げ惑う。
「嫌だ! 死にたくない! 助けてくれ! 誰でもいい、助けてくれぇぇぇっ!!」
かつてクライドを「出来損ない」「恥知らず」などと蔑み、圧倒的な強者として振る舞い、将来の村の英雄と呼ばれたカリムの姿はどこにもなかった。
そして、一族を束ねる族長ガラハドもまた、例外ではなかった。
「族長! 族長助けてください!」
「結界の指示を! 戦士たちを指揮してください!」
取り乱す村人たちがガラハドの元へ押し寄せる。
だが、ガラハドの頭の中を支配していたのは、一族の誇りでも村人の命でもなく、己の保身だけだった。
(ダメだ……勝てるわけがない! 早く逃げねばわしの命が……!)
「ええい、鬱陶しい! 離れんか、愚か者どもめ!」
ガラハドはあろうことか、自分に助けを求めて縋りついてきた怪我人を、自らの手でディザスター・ベアの目の前へと押し投げた。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
身代わりとなった村人が魔獣の犠牲になる隙を突き、ガラハドは威厳に満ちた族長服をなりふり構わず脱ぎ捨て、裏手の抜け道へ一直線に逃走を始めたのだ。
「ぞ、族長……? 今、俺たちを……盾に……?」
「嘘だろ……ガラハド様まで、俺たちを見捨てて逃げた……!?」
周囲にいた村人たちの顔から、血の気が引いていく。
勇敢で誇り高き一族の天才・カリム、そして、重厚で慈愛に満ちた絶対的指導者・ガラハド。
村人たちが全幅の信頼を寄せ、クライドを追い出す原動となった二人の「光の象徴」が、自分たちを肉の盾にして、惨めに命乞いをしながら真っ先に逃げ出したのだ。
「俺たちは……何を間違えたんだ……!?」
突きつけられた残酷すぎる現実。
地獄と化した村に残されたのは、圧倒的な魔獣の暴力と、自分たちが信じていた「誇り」がただのメッキだったと思い知らされた、村人たちの絶望的な悲鳴だけだった。
――数時間後。
かつて「天狼の聖域」と誇っていた村は、見る影もなく崩壊していた。
壊滅寸前の村から、命からがら逃げ延びたカリムとガラハドは、生茂る草むらの中で冷たい地面に這いつくばり、股間を湿らせながらガタガタと震え続けていた。
「ハァ……ハァ……っ! 助かった……助かったんだ……」
己の弱さと無様さを棚に上げ、冷たい地面の中で必死に呼吸を繰り返す。
自分たちが「出来損ない」と蔑み捨てた少年こそが、自分たちの命と平和を支えていた唯一の存在だったのだと、逃亡者となった彼らはこの先、骨の髄まで思い知ることになるのだった。




