3友達と友達は友達じゃないのだ
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夕暮れの部室でフミが本を読んでいる。海外のファンタジーで、聞いたこともないタイトルの分厚いやつだ。
授業中すら掛けないのに、本を読む時だけ、フミは眼鏡を掛ける。眼鏡ででこぼこした横顔の輪郭を、視線でなぞる。薄い唇は引き結ばれていて、完全に集中しているようだった。
だからどうせ、気がつきやしないだろうと高を括っていた。少し離れた席から、ほくろの位置や唇のかさつきを観察していると、不意にばっちりと目が合った。
「何?」
心臓が跳ねる。読書に没入しているフミの意識が、まさかこちらに向けられるとは思っていなかった。
「何って、何?」
「何って何って、なんだよ。天音、ずっと僕のこと見てたよね」
栞を挟んだフミがこちらに向き直った。表情は逆光でよく見えない。
「もしかして、次の部誌のこと? 当てるよ。天音、まだ原稿ができてないんだな。残念ながら締め切りは伸びないから」
くすくすと笑みを零すフミのシルエットから目が離せなかった。それと、締め切りが伸びないのは本当に困るので焦った。
「とか言って、実はまだ猶予あるんでしょ」
「何それ、ダメ作家ごっこ?」
「たぶん、一週間は余裕」
「だめ。僕が編集する時間がなくなっちゃうから」
「じゃあ、手伝えばいいってことか」
「手伝う労力はあるのに、締め切り守れないの?」
「みんなと違って私は遅筆なの」
「ああ……天音は一文ずつ真剣に言葉を選ぶからかな」
この時、フミと同じ時間を共有しているという感覚が芽生えた。同じ空間に二人きりでいて、互いに互いのことを考えている。甘い時間に身震いさえしそうだった。
たまたまテーブルに放られていた、いつかのバックナンバーを手に取るフミ。薄い部誌をぱらぱらとめくって、「これだ」と呟いた。
「僕、天音の語り方すごく好きなんだよね。正直な感じがする」
私の頭の中を、心の中を、フミが読み解いている。羞恥心で死にそうだけれど、恥ずかしさの底に微かな喜びが潜んでいるのは、自覚している。そして喜んでいる自分を自覚すると、また恥ずかしくなる。
「思ったままのことを語ってる感じが、好きだな。普段の天音は捻くれてるのに、面白い」
「別に、捻くれてないよ!」
むきになりすぎてしまった、と思った時には、フミは声を上げて笑っていた。でも、フミの笑い方にはからかいの色こそ混じっているが、嫌な感じがしないのだ。不思議だ。いや、私がフミに好意を持っているからそう思うのだろうか。
今なら言える、と強く思った。今しかない。そんな根拠のない自信が私を突き動かした。
「あのさ、フミ」
気が付けば、口が勝手に動いていた。
「私、フミが好き」
空気が固まった。
私もフミも、呼吸を止めていた。風になびくカーテンだけが、時が静止したわけではないと証明していた。
どれくらい時間が経っただろうか。フミが立ち上がって、パイプ椅子をがたりと鳴らした。
「ごめん。僕は天音の気持ちに応えられない。……でも、これからも友達として一緒に部活をやっていけたら嬉しいと思ってる」
耳鳴りが酷い。ノイズがうるさい。頭が埋め尽くされる。そんな、そんなことが――
「なーんてね、うそうそ! ありがとう天音、僕も天音が……るかが好きだよ」
「え?」
「ふふ、可愛いるか。こっちにおいで」
「フミ……!」
「大好きだよ、るか」
「起きるっぴ!」
耳障りなハイトーンボイスに鼓膜を責め立てられ、現実に引き戻された。意識の外で聞こえていた警報のようなアラーム音が急接近してきて、慌てて枕元のスマホを探る。
「危うく寝坊するところだったっぴ」
サイドテーブルの上でちょこんとふんぞり返る、ライトパープルのウサギモドキ。「起こしてやった」とばかりに偉そうだが、こちらとしてはいい迷惑だ。せっかく素晴らしい夢を見ていたというのに。夢の中のフミは妄想上のフミであり、偽物であることは明白だったが、私の持てる全ての記憶力が注がれたフミの姿は、とても忠実に再現されていた。輪郭も、ほくろの位置も、穏やかな声音も――
「痛い痛い痛い、痛すぎる」
「……どうしたっぴ?」
堪えきれずに毛布を殴り出した私に、ピッピはぎょっとしていた。
「あー、最悪。この妄想癖やめたい」
「楽しい夢を見るのはいいことじゃないっぴ?」
「楽しいからこそ、空しいし痛いんでしょ」
「……はあ、人間は大変っぴね」
「ねえピッピ、夢を現実にする魔法、教えてよ」
「そんな都合のいい魔法はないっぴ」
「じゃあ、ピッピがいつもやってる記憶消すやつ」
「魔法少女の風上にも置けないっぴね。魔法の私物化は許さないっぴ」
街の平和を守っているというのにそれほどの役得すらないなんて、けちが過ぎるのではないだろうか。役得といえば精々、ロリータファッションをもらえることくらいだが、私にそんな趣味はない。
ベッドの上であのことを考えては掻き消して、埋まりたい衝動に駆られては悶絶する、という無意味な行動を繰り返しているうちに、スヌーズに設定されていたアラームが再び鳴り出した。そろそろ動き出さないと、本当に遅刻してしまう。このどろどろとした重い気持ちにかまけていたら、日常生活すら送れなくなってしまう。そんなことは自分でもわかっている。
布団から這い出した後の動きは早かった。機械的に身支度を済ませて、朝食の席に滑り込む。父も妹も既に家を出ていたが、幸い私はまだ間に合う時間だ。二人と違って、私が通っているのは徒歩圏内の県立高校である。弁当箱を母から受け取って、家を出た。朝の準備で時間短縮できたので、この調子なら急がずとも間に合うだろう。「突如、怪物が出現して退治しなくてはならない」みたいな事態にならなければ。
いつもの通学路。国道沿いの道から右の道に曲がると、私と同じ紺色のブレザーの生徒たちが風景に溶け込んでいた。この辺りの道で、電車通学組が合流する。そのため通学時間は騒がしくなり、近隣住民から苦情を寄せられることもしばしばだ。
「るかちゃん、おはようっ」
背後から爽やかな挨拶が飛んできた。と、思ったら、私が振り返る間もなく、声の主は私の前に躍り出た。すぐ横を駆け抜けた瞬間、柔軟剤と制汗剤が混ざり合ったような匂いが鼻を通った。
「鈴子、おはよう」
愛嬌のある垂れた目尻にぎゅっとしわを寄せて、鈴子は笑う。その間も、足元は絶えず足踏みをしている。彼女は毎朝、ランニングをしながら登校しているのだ。
「るかちゃん、昨日は部活来なかったね。寂しかったよう」
鈴子につられて緩んだ口元は、その一言で完全に固まった。
運動神経が良くて、軽快で溌剌とした彼女だが、実は私やフミと一緒に文芸部に入っているのだ。
「なんで昨日来なかったの?」
言葉に詰まった。「怪物と戦っていたから」なんて口が裂けても言えないのは当然だが、怪物の出現がなかったとして、果たして私は部室に顔を出すことができていたのだろうか。
「えっと……フミは、なんか言ってた?」
「フミくん?」
きょとんとした鈴子の反応に、失敗を悟る。この言い方ではフミと何かあったのだと自己申告するようなものではないか。取り繕って言葉を重ねた。
「ほら、無断欠席しちゃったから。フミ、部長だし」
「ああ。でも、うちってそんな厳しくないし、全然大丈夫だよ。昨日なんて私とフミくんの二人だけだったし」
「ああ、うん。そうだよね……」
軽く笑い飛ばしてくれたので、胸を撫で下ろした。鈴子が心の機微に疎い方で助かった。私の気まずさを他の部員にまで伝染させるのは申し訳ないし、気まずいと思っていることがばれるのは、なんだか嫌だ。
そんな会話の間も、鈴子の足は今にも走り出しそうだった。先に行ってくれ、と伝えると、鈴子は軽やかに走り去っていった。揺れるショートカットの後ろ髪は、あっという間に小さくなっていく。つむじ風のような彼女に、生徒たちはぎょっとして道を譲っていた。
「るか」
再び声を掛けられた。今度は私が振り返る前に追い抜いてきたりしないタイプの友人たちだった。歩調を緩めて、二人の隣に並ぶ。
「莉々、小巻、おはよう。昨日はありがとうね」
「昨日?」
「バナナオレ」
「ああ、あれ」
昨日の私の惨状を思い出したらしい、莉々は息を漏らして笑った。笑われても仕方がないくらい、昨日の私は魂が抜けていた。
「あれはね、小巻が買ってきたんだよ。ね?」
「まあね。うちくらいのマブダチになると、るかの好みなんて把握済みだし」
「私はコーヒー牛乳推しだったんだけどねえ」
「ばか、それは莉々の好みじゃん」
弾むように進む二人の会話を聞いていると、自然と笑顔が溢れた。一年生の頃から一緒にいるだけに、二人といると楽だ。例えるなら、体に適した水温の水槽で漂っているような感覚になる。
「ていうかさ、声掛けようとしてたのにびっくりしたんだけど」
「え?」
いつもはきはきしている小巻の声のトーンが、微妙に落ちている。その時点で、小巻が何のことを指しているのかは勘づいた。
「さっきいた、るかと部活が一緒の」
「……ああ、鈴子?」
小巻の視線は、鈴子が走り去っていった辺りを彷徨っていた。
「結構、仲良くしてるんだね」
「まあ、さっきのは、そういう感じじゃなかったけど。ほら……鈴子はすぐ行っちゃったし」
切れ味が鋭い小巻の口調に対して、私の言葉はどんどん濁りがかっていってしまう。小巻の言いたいことはわかるし、気持ちもなんとなくわかるが、同調することは憚られた。
「なんか不思議な子だよねぇ、飛田さん」
莉々のやんわりとした物言いにすら棘を感じてしまうのは、たぶん、私の感じ方に問題があるからだ。
莉々を味方につけた小巻の声は、さらに鋭利になった。
「あの子がっていうか、文芸部って不思議系? みたいなの多くない? あ、るかは違うけどね」
「うーん、言われてみれば? あんまりるかの雰囲気に合ってないよね」
「そうそう。るかって、いい意味で普通じゃん。あ、いい意味でだからね? ま、うちらも普通だから、三人で仲良くやれてるわけだ」
「確かに。私たち、性格も成績も普通、みたいな?」
「ばか莉々、成績は言うなよー」
小巻や莉々が言う通り、私たちと鈴子では「ジャンル」が違うのだろう。
私は文芸部の空気に馴染めるし、小巻と莉々と共にいる時間も楽しいと思える。だが、だからと言って、二人を部室に招いてみんなでお喋りができるとは思えない。「ジャンル」が違う人間同士を混ぜても、良い化学反応は起きない。まさに、「混ぜるな危険」なのだ。