第九話 「ホタルクラゲとオタマジャクシ」
●ホタルクラゲの夜に
「駄目だったなぁ」
ティニー達が乗る船が出る明後日までの間、と一日歩き回って結局なんの収穫も無く、ハリマはティニー達の待つ部屋の近くまで戻ってきた。玄海はまだ三太郎を直すのにかかりきりで手が離せず、マスターの方でも店の片付けに追われ――誰も何の手がかりを掴めずにいた。
ただ、昼過ぎに気付いたのだが、ハリマの後をずっと尾行している者がいる。見事な和音だ。歩幅とリズムがハリマのそれに巧く溶かされており、気付いたのはほとんど偶然といってよかった。彼が足を下ろした場所にあった何かの破片が乾いた音を立てたとき、初めて和音が崩れた。
これも手がかりといえば手がかりだ。捕らえて締め上げればと思うのだが、なかなかどうして、相手はいっこうに隙を見せる様子がない。かなりの腕とみえる。だが、もう帰路も残りわずか、このまま連れて帰る事も出来ない。しかもこの様子では相手から動くつもりはないようだ。
ハリマが先にしかけた。呼吸をずらし、二息続けて吐いた。歩幅を大きく、そのまま身体を跳ねあげて路地に飛び込む。相手が手馴れていればいる程に効果的なはずだった。追跡者が追い着くまでに確実に1秒は稼げる。
その一瞬で、ハリマは荷車の陰にすべりこんだ、相手の錬度を思えば即座に気付かれる事は間違い無いが、その一瞬の判断に生まれる逡巡こそが、今ハリマの欲するところであった。チャンスは一度で良い。だが、待ち伏せるハリマを追う気配はそれきり、途絶えてしまった。念のため、さらに半時ほど息を殺してさらに待ったが同じだった。
「……行ったか……」
ふうと吐いた息が曇り、視界を一瞬曇らせた。
素手で刃を打ち払った。驚きは体の反応よりも確実に数瞬遅れて感じられた。もし仮にその順序が逆であったならば、避けきれた一撃ではない。
裂けた手の甲から、鮮血が薄闇に散った。
斬撃は軽かった。打ち払った角度もあって傷は骨と筋肉には達していない。動く。軽いその飛沫が地面に落ちるより早く、続けざまに足を払う蹴りがハリマを襲った。蹴りの一撃目をあえて受け、その勢いを借りて地面を転がり間合いをとったが、態勢を立て直すよりも早く追撃が入る。庇う腕が、骨の芯から悲鳴を上げているのが分かる。剣舞の動きに合わせて舞う緋色が青白く光る雪を彩った。
それだけ犠牲にして1秒、そして同じ時間だけ右手の自由を得た。懐から取り出した炸裂閃光弾を背後の壁に叩きつけた。握った手のひらを金槌で叩きのめしたかのような衝撃が走り壁が砕け、目も眩む光が路地を満たした。かえす左手で、襟首を掴んで投げ飛ばす。手応えが軽い。飛ばれたから、受身は取られただろうがそれを確かめる余裕はない。
どこをどう走ったのか、記憶が定かにならぬほどに走った。ただ幸いなことに、相手の目的はハリマの命ではなかったようである。そうでなければ、確実に命は無かった――そう確信できるだけの力の差があった。人波にまぎれて初めて、恐怖を咀嚼する余裕ができた。痛みが体中から噴出すのが分かる。握り締めた左手、脂汗と血のぬめりが乾いて、こわばりひきつっている。
その拳の隙間から、血に汚れた革紐がはみだしていた。
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「あ、どしたの。可愛いじゃないこれ、お土産?」
ヒカリが手のひらで弄んでいるのはペンダントに見えた。お世辞にも可愛いとは言えない不細工な猫で、焼き物にガラスの目が光っている。いかにも安物といった風情だ。革紐もあまり質の良い物とは言えず、だいぶ痛んでいるのが見て取れる。そのために簡単にちぎれてしまったのだろう。
「尾けられた、捕まえて締め上げようと思ったんだが……逃げられた。信じられん手練だ、半刻、息の曇りすら見せなかった。必死でそれだけふんだくった」
「ふうん、じゃあ怪我もそのせいなんだ」
傷はヒカリのかけた治癒法術でほとんどふさがっていたが、衣服に染みた血の汚れまでは拭いがたい。
「手がかりと言えば、手がかりね」
「着替えを取ってくる」
「その格好じゃあね。分かった、こっちは任せてよ。……そうだ、部屋に戻るんだったらついでに頼まれてくれない?」
そう言って財布を取りだし、銅貨を数枚ハリマに手渡す。
「かまわないが、何を買ってくるんだ。調べものもあるし、遅くなるかもしれないぞ」
「熱冷ましの頓服を三日分、アスコットちゃんが熱出しちゃってさ……久し振りにお姉さんに会えて、はしゃぎすぎたのかも」
「なるほど、分かった」
「角を曲がってすぐのうどん屋さんならまだ開いてたと思うよ。今晩と明日の分はあるから、なんだったら色町で遊んできたってかまいやしないわよ」
確かに、ここへ戻る途中で昆布の香りがしていた気がする。ハリマは銅貨を受け取るとそっと家を離れた。ヒカリはしばらくの間、ハリマを見送っていた。
「あの、どなたかいらっしゃいましたか」
奥から出てきたティニーがたずねる。
「ああ、ハリマが戻ったきたから、お使い押し付けちゃった」
照れ隠しなのか、慌てた様子のヒカリだったが、すぐにいつもの調子に戻って問い返した。
「いい匂いね、お夕飯は何かな」
「ええ、ちょうど出来あがった所だったんですが、どうしましょう? 冷めちゃいますよね」
「いいわよ、大丈夫」
悩むほどの事じゃない、笑みを浮かべてヒカリが答えた。
「私が二人分食べるから」
「あ、美味しい」
「そうですか……お口に合ってよかったです」
持たない間を埋めようとヒカリが話しかけるのだが、人見知りするタイプなのか、もともと無口なのか、ティニーを黙り込ませてしまうばかりだった。しばし会話をあきらめて目の前の食事に専念する。アスコットは熱冷ましの薬が効いたか、部屋で気持ちよく眠っている。ハリマがありがたく思えるというのも珍しいことだ。あんな朴念仁の無神経でも、間をとりもつくらいには役に立つのだなとしみじみ感じ入る。
ティニーが食器を片付けている間に、ほっと息をつく。ふと窓の外に目をやると、ホタルクラゲが光っている。蛍月は文字通り彼らの恋の季節だ。ふわふわと所在なさげに飛ぶ彼らに悩むことはないのだろうか、それともやはり人並みに煩うのか。そんなヒカリの思いをよそに、彼らは必死で胞子を振りまき始める。
「ああ」
その情景に思わず声がこぼれる。ほのかに青白く光るそれはまるで、おとぎ話に聞く 「空から降る雪」 のようだ。はるかに遠いずっとずうっと昔、人の子らの頭上にはスカイシートや鉄の天井ではない、もちろん雪の海にも閉ざされていない―― 「空」 というどこまでも広がる限りない空間があったという。
スカイシートに映し出される紛い物でない本物の空。それがどんなものか誰も知らないし、知りたいとも思ってはいなかった。今、白い道を淡く照らす夜空は優しく優雅であったし、描かれたような昼間のくすんだ空も十分に美しかった。何より空から水がふりかかる 「雨」 という不可解な現象が必要とは到底思えない。
「それでも、子供の頃は信じてたかな」
まだ大人というには幼く、子供という立場に甘えることも難しい自分をもどかしく思う。それなりに仕事をしているという自負はある。それでも結局、叔父であるハリマの庇護がなければ暮らしてはいけないのだ。背伸びがしたいわけじゃない。でも、大人になれば何かができるんじゃないか、そういう気がした。
「綺麗ですね」
いつの間にか傍らに立っていたティニーがつぶやいた。物思いに耽るヒカリの体を温かな香りが包む、テーブルの上の食器が下げられ、紅茶が注がれたカップが温かな湯気をたてていた。
「どうぞ、窓の近くは冷えますよ」
「ありがと……ねえ、変な事聞くけど、ティニーってほんとはいいとこのお嬢様だったりとか、する?」
ヒカリがぶしつけなことを――少々の自覚を含みつつも尋ねた。といっても別に他意あっての事と言うより、隠し事が苦手な自分の性格を鑑みて正直な疑問を口にしただけで、ハリマとマスターの話を盗み聞いたわけでもない。
「え、どうして、ですか?」
「ほら、こんなところに……鉢植えの花とか、あるじゃない。特別な日の切り花だって、なかなか手の届かない物だって思ってたから……かな? 別に、貧乏人の僻みって訳じゃないんだけどさ、ティニーってなんかこう……お嬢様みたいな雰囲気があるのよ」
「それ……すみれの花、ですね母が好きだったそうです。なんでも、髪の色と同じとかで……父が生きていたとき、随分と無理をして手に入れたそうですよ。プロポーズの時に、指輪の代わりに渡したのだと、聞いています」
「そうだったんだ……なんかいいね、そういうの」
「ですから、お嬢様!歩組み手いただいたのは光栄ですけど、私の両親も、私も……さほど凄い家、ということではないです。でも、ひょっとしたら、私のご先祖様は、こういうカップを揃いで持てるくらいには裕福だったのかもしれませんね」
彼女が差し出したカップは、自ら手にしたそれとは不揃いながらも、それぞれに金箔の細工やエナメルの絵図柄が施された、それ相応に値が張る物と見て取れる。その手のものに詳しくないヒカリだが、これらを新品で買うとなると、だいぶん仕事を重ねなければ無理だろう。
「もっとも、今はこのカップ同様、すり減ってしまってみる陰もありませんが」
謙遜混じりに、カップの摩耗と自らの身を重ねるティニー。
「うん。ごめんね、変な事聞いた……ねぇ、寒いかもしれないけどベランダでお茶にしない」
「えと、ベランダっていうには少し小さいけれど、かまいませんか」
その酔狂な提案にティニーは少し驚いたようだったが、特に反対はしなかった。
「いいよ、行こ。かして……私が持つよ。」
カップを受け取りティニーに続いて会談を上る。ベランダでは先客のホタルクラゲがデートの真っ最中だったが、彼女らの足音に気づいて慌てて逃げ散った。その様子があまりにおかしくて、二人は声を上げて笑った。
その時は気づかなかったが、それはヒカリが初めてみる彼女の笑顔だった。それまでにも、笑顔らしき物を作っていた彼女だったが、それは多分、笑顔ではなかったのだろう。
あらためて見回すと、それこそいたるところに淡い光が舞っている。夜空をバックに踊る光のダンスは二人を飽かすことなく続いていた。カップと、自分たちの体の冷めるのもかまわず、その光景を楽しんだ。途中でさすがに寒さに耐えかね、部屋から持ち出した毛布に、二人でくるまってベランダにしゃがみこんだ。話すことはどれもこれも他愛なくて、くだらなかったのに、楽しくて仕方がなかった。会ったばかりと思えないくらい、色んなことを話した。「くしっ」 と小さくもれたヒカリのくしゃみを、心配そうにティニーが気遣った。
「寒くないですか?」
「ありがと、大丈夫。でも贅沢を言うならカッコいい男の子に抱き寄せられながら言われたいなぁ」
鼻をすすりながら軽口を叩くと、つられてティニーも笑っていた。
「言われたこと……あるんですか?」
「残念ながら、なし。ティニーは? あたしよりずっと男の子受けしそーな感じだから、たくさんあるんだろーなぁ」
「え、そんなの。ないです」
「ホントにー、嘘ついちゃってもう。照れなくてもいいのに。泣かせた同級生とか、多いんじゃないかな」
ティニーの顔が、ふっと曇る。―ああ、まただ―。軽く茶化すつもりで彼女の顔色をうかがっていたヒカリは、胸を締め付けられる思いがした。
「ごめん、気にしないで。ちょっと悪ノリしちゃったかも。でも、ティニーさんがかわいいのは本当、絶対モテてると思うよ」
「え、やだヒカリさんたら」
ヒカリの繕いにティニーが笑みを返すが、作り笑いは明らかだった。―ああ、失敗したかな―さっきまでの、自然な笑顔はどこにも残っていなかった。
沈黙が降りる。今年最後のホタルクラゲがゆらゆらと漂いながら家路へとついて消えていく。そこかしこにあった周りの賑わいも、いつしか静かに消えていた。ヒカリが立ち上がってつぶやく。
「終わったね」
ティニーは膝を抱えたままじっとしている。幼子のように毛布をギュッと抱きしめ、うつむいたままで動こうとしない。
「ねえティニー……聞いてもいいかな」
ティニーはそれには答えず、代わりにうつむいたままの頭を少し、縦に振った。ヒカリにはそれが辛くて、何も言えなくなる。
「魔法を使われる方には……隠せないですよね」
「……」
本当のことを言うと、それに気付いたのはティニーが意識を取り戻して随分立ってからである。ほんのついさっきのことだ。
「あれは、もう十年も昔の話です。私の記憶……その 『片方』 があるのは、ちょうどそこから」
ティニーの口から言葉がこぼれはじめても、彼女の顔を、目を見ることができなかった。
「その少し前、私は南からの流通ルートでこの街に運ばれてきたんです」
……何を言ってるの?
「私、人間じゃないんですよ。……人間として扱われなかった。という事じゃなくて文字通りの意味で」
言葉の意味を理解しようと逡巡しているヒカリに微笑みかけ、ヒカリ自身も感じてはいたけれど……信じたくはなかった。だが、目を背けていたり慌てていただけで、思い返せるようなことはいくつもある。まず最初に違和感を感じたのは、朝、目覚めたときだ。いかに温めや治療術を総出で当たったとは言え、凍傷の一つもなく、翌日すぐに動けるほど、元気になれるというのは、並みの人間の壮健さでは考えにくいことだ。ことに、疲れや痛みの見えやすい肌が、あれほど綺麗なままに保たれていた時点で、気付いておくべきだったかもしれない。
ティニーが続けた。
「ヒカリさんは、クリオネフラワー……『水晶花』 という薬草をご存じですか?」
「……これでも、魔法使いの端くれだからね。一応……そんな高級なモノ、見たことも、使ったこともないけれど」
この地では一般に冬鯰夏花とも呼ばれる希少な薬草の、西の都――今はアラクシアの支配下にある一帯での呼び名が水晶花だということはヒカリも知っていた。古くは、古の神上の国において、不死の薬とも言われた冬虫夏草という伝説の薬にちなむ名が冬鯰夏花であり、その美しき装いを現すのが水晶花という呼び名だ。協会やギルドにも常に在庫、それも粉末でさえ滅多にあるわけではないような希少品で、首都の研究所や大商人お抱えの錬金術師でもなければ、まずお目にかかれない代物である。調合によっては驚異的な治癒力を発揮し、一説には、「落ちた腕さえ生えてくる」「止まって腐った心臓をもたたき起こす」 とも言われていた。
その治癒力がどこからくるものかは今も謎に包まれていたが、おそらくはナマズの驚異的な生命力を糧に、ナマズにすら寄生しうるその根の中に、ナマズの有する力が凝縮されているのだろう、という推察が論文に出されている。
だが、残念なことにその効果と推論を実証する実験を行った者はいない。試料があまりにも貴重過ぎるのだ。
その植生――または生態なのかもしれなかったが、それも極めて特殊で、良質な個体の採取は極めて困難でもあり、当然にして高価である。おいそれと浪費できるような物ではない。なぜなら、その薬草が採取できるのは、生きたナマズの頭部周辺の表皮、または腹腔内の一部からのみであり、他に記録された例はなく、それも数十体のうち一体に一本生えているかどうかと言うほどに珍しいものだからだ。
捕獲されたナマズの頭部の皮を苗床に栽培が試みられたこともあったが、ただ朽ちゆくのみで、ごく普通のカビしか生えてこなかったという。
「それじゃあ、その裏の用途もご存じですよね」
「ええ、そのままでも、混ぜモノとしても極めて高価な麻薬として使われる……という話は聞いたことがあるわよ。勿論、規制は厳重だし、麻薬に使うならもっと手頃で簡単に手に入るモノがあるから、そんな風に使う人もいないでしょうけど」
その他に、年頃の女の子としては-主にティニーを気遣ってのことだが-口に出すのをはばかる用途もあった(ヒカリ自身は耳年増というか、そうした話題には極めて無頓着である)。
「私が、人間じゃないと言っても……ヒカリさんは、私と笑ってくださいますか?」
ティニーは笑っていた。見たこともないほど哀しげに。風はもう、完全に止まっていた。
ヒカリが答え惑ったその刹那、何かが闇を切り裂いて走った。
ヒカリの目の前、ティニーの背後で通り向かいの家が明るく輝く。一瞬遅れて猛烈な爆風が二人のいたベランダへと押し寄せた。正確に言えば、どちらが先だったのかは全く判然できなかった。意識と体を激しく揺す振られながら屋根瓦が砕けて空に舞うのを見た。ただ、その内の一かけが、スローモーションで近づいてくるのが見えた――