苦い
右へ左へ、瞳は小さな脳みそから断ち切られたかのように、自分でぐるぐると動いていた。アドレナリンが、もう出ないのだ。
興奮状態でここまで何とか乗り切ってきたが、限界は近かった。なにせ日頃運動どころか自転車も漕いでいないのだ。
目を回して、自分のおいたかごに何とかたどり着く。
「あれ、結構・・・・」
冷蔵コーナーの冷気、自分のこれからしなければいけないこと、呼び込みの声とひんやりとしてきた革靴。何よりポケットに入った一万円札のせいで、案外簡単に目は冴えた。
この後はレジに行くだけだ。並ぶほど人もいない。
ちょっとばかりふらつきながらレジに現れた男。店員なんて、意外と何も考えずに仕事をするものである。
この女は、一味違った。詩は知らないが、地域では、年確の横田なんて異名が付けられ、非行少年、非行少女に恐れられる存在。
「ひ、百三十円になります・・こちらタッチを・・・・」
と、通った・・・・?
あっけなく、とてもあっけなく俺はタッチパネルを押し込む。袋に甘いお菓子、しょっぱいお菓子、よくわからないビールが滑り込んでいく。
後ろを向くが、保護者はいない。俺の買い物だ。俺が買ったのだ。勝ったのだ。
ーー「これが俺の弟。こいつはな、妹くらい頭がドカンで、妹より頭いいんだよ。こいつぁ最強だと思ってる。彼は未知のびょーきだ。触ったら頭がおかしくなるかもな!」
去年付き合っていた、脳みそが中々いかれてる男は、よく弟の紹介をしていた。彼はまずいと。弟の名前は・・・・
「君、名前は?」
「ぃ・・石和詩!」
『あ・・・・』と俺は目を大きく広げる。
これじゃあ、学校に報告が・・・・
何か考える男。警戒して観察する女。
「北野高校一年六組、石和詩だ」
「え・・・・?」
ーー「彼は未知のびょーきだ。触ったら頭がおかしくなるかもな!」
「ちなみに学校の電話番号はーー」
「やっぱ言わなくていい! 病人は早く出ていきなさい! うつったらたまったもんじゃないわ!」
「びょう・・き・・・・?」
驚いたのは、お互い様であった。
こうして、詩の心の高波を無視すれば、難なくイベントの『材料』を手にすることが出来た。
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大きめの靴をパカリと鳴らし、有料のはずがタダでもらったビニール袋を片手に下げて、十六の少年は不思議な表情で街を歩く。おまけに寝巻のスウェットを身にまとい、これを奇妙と言わないとしたら渋谷のハロウィーンか土日の原宿か。
郊外の駅で一人浮いたというよりは沈んで目立った格好をした俺はハンバーガー屋を通りすぎ、指名手配の掲示板を掃くように見ていく。ここに乗ったなら、間違いなく俺は彼女の監視対象になるだろうか・・・・
「何言ってんだ俺は・・・・」
どれだけ彼女に惹かれているのだろう。ここに乗るようになればとうに人生は詰んでしまうではないか。
ただ、悪い気はしない。人生が詰むことではなく、ここまで彼女に惹かれる自分が。バカみたいに人を好きになって、普通に青春している小童の自分を、今の俺は嫌いになれない。
悪さをするときにはライン引きが必要なのだ。
条件としては『他人を侮辱するような迷惑はかけないこと』『今後顔を合わせる人間には嫌われないこと』『自分の損失は最低限に抑えること』。
今一つこれに対して言えることがある。
「間違いなく俺の損失は抑えられていないな」
交番の前の丁度よい位置にマンホールを見つけ、そこにすっぽりと入る。
人通りは少なく、タクシーとバスの走る音しかしないが、警官は今日も座っていた。彼は普段何の仕事をしているのだろうか。
『仕事を増やしてしまう』ことになんだか申し訳なさを感じないほどに暇そうだ。ここ一、二年で突然治安が良くなったせいで人を減らすことは難しいのかもしれないが。
警官のおじさんと目が合い、なんだか気まずくなって後ろを向く。
ビニール袋の中から買った覚えのないチューイングガムを取り出して、口に放り込む。強く噛み潰すと、脳内麻薬がちょっぴりだけ出る。功がよく『アドレナリンは腹から出てるんだぜ?』と言ってきたが、やはり実際に出してみてもそんな感覚はない。
菓子のゴミを袋の中に詰めると、ひんやりとした銀色の缶をすれ違いに取り出す。
途端に呼吸が荒れ、心拍が早まるが、必死に抑える。
「落ち着け俺・・・・大丈夫だ・・ふう、大丈夫・・」
チューイングガムは半分ほど口の中に残っている。
関係ない。あぶく銭で買ったものだ。
冷たさの浸透したプルタブに指をかけ、引く。
手の震えで空ぶるが、すぐにもう一度、今度は中指をかけ強く引く。
ぱしゅっ、と爽快な音を立ててco2が溢れだす。
一息つき、飲み口に強く吸いつく。
一口目を飲み、俺は発見をする。『これはおいしくない。とても苦い』と。
一気に口へ流し込んでいく。口には貯めず、口内はただの通路として滑らせるように喉へ流す。
動き回って疲れた体に、三百五十ミリリットルは一息で飲み切るのに大した根性を必要としなかった。
喉が気持ちのいい音を立てるが、その前に通った舌からはいやな味を吸収し続けた。
この瞬間だけは、世界が止まったように静かになり、俺の立つマンホールだけが別の次元で違う時を進んでいるようだった。
後ろの彼がどんな顔をしてこちらを見ているか、俺にはまだわからない。
砂の落ちるような雑音とともに、街の静かな音は帰ってくる。
缶は持っていても気づかないほど軽くなっていた。
不自然に回れ右をして交番を見ると。
彼は鼻をほじって遠い目をして紙を見ていた。
「くっそこいつ・・・・」
しばらく空き缶を持って警官を見つめるが、一向にこちらを向く気配はない。
「はあ」と強くため息をつく。一分ほど、彼は俺に目を向けることはなかった。
痺れを切らし、交番に近づく。横開きの戸を開けると、男は目をパチクリさせ、こちらの世界に戻ってくる。俺より彼のほうが自分の世界に入っていたのではなかろうか。
空き缶を机の上に置くと、瞬きをやめて目を丸くする。
「あの・・・・どうしました?」
予想通りと言えば予想通りの言葉であったが、話の進まなさに頬がひくつく。
あんなに緊張したのに、拍子抜けだった。
財布から学生証を取り出し、空き缶の隣に並べる。
「すみませんでした」
と頭を下げる。