氾婕妤
後宮におけるわたしというものは、一応、陛下のお気に入りということに、なっている。
実態はどうあれ。
わたしと陛下が実際にはどういう関係なのか──と聞かれても困るのだけど──ということとは関係なく、陛下に呼ばれた頻度、凶事のときの見舞いなどからそういう風に受け止められているだけだ。
だから、
「薛才人は、さすが陛下のお気に入りですわね」
そんなことを嫌味たっぷりに言われても、自分のことのように思えない。
それ、誰のことでしょうね。思わず固まってしまった。
「あら、お返事もしてくださらないの?」
飾り紐をたくさんつけた団扇で優雅にあおぎながら、わたしよりも年嵩な、目元のほくろが印象的な女性が微笑む。
「い、いえ。申し訳ありません、わたしは決してそのような者ではありませんので」
「謙遜なさらなくてもよろしいのに」
ころころと鈴が鳴るような笑い声をたてているのは、氾婕妤。
今日は月に一度、宮女たちが衣装のための布を賜る日だ。麗明園近くの宮女たちは揃って、一番位の高い婕妤である氾婕妤の宮に集まっていた。わたしもまた、呼ばれて来たのだ。
房室の奥で氾婕妤が椅子に腰かけ、少し離れた下座にもう一人の婕妤である張婕妤の椅子があるがのだけれど、そちらからの視線が痛い。
氾婕妤がちらりと張婕妤を見やって鼻で笑った。あ、なんかすごく嫌な予感。
「本当に、薛才人が謙遜なさる必要なんかないのよ? ここにいる婕妤など、陛下の邪魔をした咎で侍女を罰されているのですもの。怖いものなどないでしょう?」
「決してそのようなことは、ございません」
「そう? 思い上がった宮女など、見苦しいものよね。本当に。陛下のお怒りを買うなんて有り得ないわ。貴女も大変だったわね」
「あの、その、さほどのことはございませんでしたから」
何故、わたしが張婕妤をかばわなければならないのだろう。
心底不思議に思いながら大したことない、と繰り返す。
「つまらない人ね」
本当につまらなそうに団扇で顔を覆う。張婕妤は今はわたしではなく、そんな氾婕妤を睨んでいた。
このお二人、近くに住んでいるだけあって大変仲がよろしくないらしい。以前はどちらが上か、寵愛の差だとか歳の差だとか色々やりあっていたらしい。けれどわたしと張婕妤の一件以来、完全に氾婕妤が上になってしまったと侍女たちからの情報がある。
だから、氾婕妤はわたしに対してはそう悪い感情はないのではないか、と言っていたけれど……挨拶して顔を上げた途端、嫌味が飛んできましたが。
その内容のせいで、一緒に立っている同位の才人たちからもなんだか睨まれている気がしますが!
「よいわ、もう。わたくしたちの分はもうもらったからお前たちがお選びなさい。でも」
一度言葉を切って、氾婕妤がくすりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「薛才人の分は別に分けられていたから、そちらを持ち帰ってちょうだいね」
空気が凍りついた。
「陛下は本当に、薛才人をお気に入りなのね」
悪気もなさそうにころころと笑いながらそんなことを言う。追い討ちをかけられて、なんとか声を絞り出した。
「ご配慮いただき、ありがとうございます……」
「いいのよ。だって貴女は陛下のお気に入りだもの」
やめてください。
わざとですよね。
絶対に、わざとですね。
突き刺さる視線に頭を抱えたくなりながら宦官の元へ向かう。気の毒そうにわたしを見た宦官は、つみあがった布の中から四つ巻ほど渡してくれた。
すぐに体の向きを戻して再び頭を下げる。
「氾婕妤さま、張婕妤さま。ありがとうございました」
「またいらしてね。何か困ったことがあったら相談に乗るわ」
「ありがとうございます」
絶対に、来ることはありません。
そのまま早足で外へでる途中、すれ違った才人の誰かがわたしの裙裳の裾を踏んだ。転ぶ前にのけられたので気にせず、そのまま外へ出た。
裙裳が多少乱れたけれど、気にしていられない。
「秀英」
待機していてた秀英が近づいてきてわたしから布を受け取り、顔を覗き込んでくる。
「花琳さま、顔色が悪うございますわ……」
「ええ、ちょっと……早く帰りましょう」
「はい」
その場には張婕妤、そして他の才人たちの侍女もいる。彼女たちからも冷たい空気を感じて、それ以上の会話は避けた。
秀英の先導で清花宮に戻った途端、榻に座り込んで、行儀が悪いけれど思い切り伸びをする。
「ああ、もう。ものすごく、疲れたわ」
「花琳さま、お帰りなさいませ」
茶器を捧げ持つ桂英が出てきて、わたしの前に置いてくれる。独特の香りにほうっと息を漏らした。
「宮女さまがたが集まられる場所は、空気が悪いようでございますね」
「空気……ね……」
それですますのもどうかと思うけれど。
賜った布を確認していた秀英が、何かに気づいたように顔を上げた。
「花琳さま」
「どうしたの?」
秀英が卓の上に布を広げる。紫の絹地の布には、黒い大きな染みがついていた。
完全に乾ききっておらず、かすかに墨の匂いがする。
「露骨な嫌がらせね……他のは大丈夫かしら?」
「確認いたします」
四つの布を三人で広げて確認したところ、幸いといっていいのか、染みをつけられていたのは一つだけだった。
秀英が胸に手をあてた。
「ようございました。こちらも墨のようですから、洗えばきっと落ちますわ」
「そうね」
「それにしても、どなたが……氾婕妤でしょうか」
「確証がないからやめましょう」
わたしも、氾婕妤だとは思うけれど。あそこは氾婕妤の宮だから、他の者が手を出せたとは思えない。氾婕妤のところに来るまでに汚された可能性は、染みの乾き具合からいってなさそうな気がした。
でも、証拠もなく疑うわけにもいかない。わたしはすでに随分と恨みを買ってしまっているから、疑わしい人は他にもいる。まともに顔を合わせたのは今日が初めてのはずの才人たちからすら、感じたきつい視線を思いだすと。
もうため息しかでない。




