皇帝陛下と・その三
今夜は回廊の端で降ろされることはなく、そのまま陛下の書房の手前まで来て降ろされた。
隅の小房室で休むことなくそのまま書房へ促される。これまでの対応と、ちょっと違いすぎませんか。
書房に入るとすぐに両膝をついて叩頭し、
「薛才人にございます。お呼びにより参上いたしました」
「よい。立て」
間髪入れず陛下のお声がかかって、上体を戻して立ち上がる。
今日の陛下は夜着に着替えておられ、榻の端に腰掛けて黄色の表紙の書状を手にされていた。その傍には、宦官が立っている。
「今宵はここまでにしよう。こちらを回しておけ」
「はっ」
陛下に示された書状を抱え上げて宦官が頭を下げ、早足で退室していく。
お仕事の邪魔をしてしまったのでは……。
「薛才人、こちらに来て座れ。そこにいてはよく見えん」
「は、はい」
わたしが陛下の方へ近づいていくと、奥の帳が開いて侍女が現れた。
あ、秀英の伯母さまという方だ。
茶盆を捧げ持つ彼女の邪魔をしないよう、おそるおそる榻に近づいて靴を脱ぎ、乗り上げて正座をする。侍女は隅にあった卓を手前に移すと茶盆を置いて、下がってしまった。
陛下がわたしを見る。
うう、ここまで傍近くに来たのは初めてだ……。
「報告はあったが、傷はほとんど見えないな。知っていなければ分からない」
「はい。お見舞いを頂きまして、ありがとうございました」
「いや」
花に罪はありませんから。ええ、あの黄色の器をどうしたらよいのか困っていますが……。
秀英はそのまま花器として使うつもりみたいだけれど、どう見ても陛下の品を見せびらかしているように感じて、見るたびに仕舞いこんでしまいたい衝動にかられていますけれども。
陛下の視線がわたしからはずれた。手を伸ばして酒器をとり、酒盃に注いでそのまま口元に運ばれるのを黙って見守る。
「才人に上がった途端に、災難だったな」
「はい……」
いや待って。肯定してよかった?
「侍女が単独で企んだわけでもあるまいが、婕妤までは罰してはおらぬ。気が静まらないのではないか?」
「そのようなことはございません」
「そうか?」
くつり、笑われる。
いや確かに、怒っていますけれど。張婕妤は陰険で好きではないし、やっぱりいつか何かで復讐したいとは思うけれど。
「才人では叶わぬが。九嬪や妃なら婕妤より位は上だ。やり返してやりたいなら上げてやっても構わん」
「……ご冗談を」
冗談、ですよね?
笑おうとして顔が強張っていることに気づく。
「いや。悪くない。後宮というものを嫌っている其方のことは買っている」
やめて!
「まあこの現状を憂えていると言う宮女は、他にもいるがな」
「そ、そうですか」
ですよね。むしろこれが普通とか受け入れたら駄目だと思いますよ。
「だが、なあ……」
「はい?」
なんでしょう。
陛下は酒盃を持ったまま、しばし考え込まれた。黙って待っているとそのまま間をおいて杯をあおり、わたしの方を向かれた。
「位が嫌なら別のものを与えようか」
「いえ」
「一族の栄華を望むならそれもよし。寵愛を望むもよし。ただ、帰してくれという願いは聞けぬな」
笑っているようで笑っていない冷たい瞳。
「駄目で、しょうか?」
後宮にはたくさんの女性がいるというのに。
「嫌でもどうにもならないことはある」
「前にもそう仰いました。陛下にもそのようなことが──失礼しました」
「よい。……八つ当たりのようなものだな。ゆえに、其方になにか言い分があるなら聞いてやろうと思ったまでだ」
「言い分……」
わたし、陛下に八つ当たりされているのか。いえ、そのようなもの、でしたね。
「ですが、仮にわたしが位を得て張婕妤にやり返したりしたら陛下はそのことを厭われるのではないですか?」
陛下が後宮が嫌いだと仰るのは、そこにいる女性たちの振る舞いに大きな原因があってのことだと思う。それは張婕妤よりも位が上になれば、同じように難癖つけたり嫌がらせの仕返しは出来るでしょうけれど。
でもそんな風に位を上げたら、ますます帰れなく……いや、陛下は帰さないと仰っているのだから……。
「どうだろうな。別に気にならないが……やはり怒っているのではないか」
「痛かったですし驚きましたから。それなりには。ただ、我が身の心配をしております」
目線だけで先を促された。
「陛下は仰いました。寵愛を望むもよしと──そのように簡単に与えられたご寵愛は、また簡単に失われるのではないでしょうか。位もまた……」
「得る前から失う心配か」
呆れたような声を聞いて頬が熱くなる。
だって……!
「そういうものだと、理解しておりますゆえ。黄帝と金蓮の故事もございますし」
有名な昔話だ。
金蓮は黄帝と歳の近い従姉妹同士だった。歳若い黄帝は美しい少女だったという金蓮を見初めて彼女に誓う。「黄金の宮殿と黄金の輿をあげるから、妃になって欲しい」と。
数年後、金蓮は黄帝に嫁ぎ太子妃となった。だがさらに数年がたち、黄帝が帝位についた頃には黄帝の寵愛は別の女に移っていた。金蓮の元に残された黄金の宮殿と黄金の輿だけが、過去の寵愛を物語っていた。
という詩人にもよく詠われる題材である。
「其方、少し考えすぎなのではないか?」
「ですが。わたしの容姿は、後宮でも目立つようなものではございませんし、踊りの名手などということもなく……」
「謙遜も過ぎれば美徳ではない」
そのようなつもりは、ないのですが。
「だが、分かった。今すぐどうこうしようという気はない、少し考えねばならないこともあるようだ」
「は、はい」
正直、ほっとした。
その後は陛下に日常のことを問われ、普段の暮らしぶりについて話して終わった。
最早、わたしは陛下の適当な話し相手として呼ばれているような気がした。




