表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
信孝なんかに『本能寺の変』のとばっちりで殺されていられません~信澄公転生記~   作者: 柳庵


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

504/504

504話 南伊勢攻略戦 終局

第七回一二三書房WEB小説大賞コミカライズ賞をいただきました。ありがたいことです。

犬山城での仕置の後、麓にある表御殿で一泊した信長は、早朝、御殿の庭から金華山を眺めた。遠く、金華山の山頂、岐阜城の山頂の殿主櫓には自身が選ばせた金箔を張った飾り瓦が吹いてあるはずである。

太陽の加減か、あるいは見間違いか。金華山山頂に僅かに煌めきが見えた気がした。


木曽川を渡り、少し行けば、そこには居城である岐阜城がある。このまま一度、岐阜城に帰って数日の休息の後に大河内城に戻って良かった。濃尾に南近江を抑え、幕府の後ろ盾となっている信長に対して誰が文句など言えようか。


そして、丹羽長秀と滝川一益には北畠勢との和睦を命じてある。岐阜城に戻ったことを両名に伝え、和睦がなるとの報告を岐阜城でゆったりと待つこともできるのだ。


だが、信長はその選択をしなかった。

籠城戦では自分の気の短さ、性急に結果を求めてしまう点が悪い方向に働いたことは、大河内城から離れて見てよく分かった。しかし、しかしだ。


今回の南伊勢攻めは自身が総大将として出馬している。そのつもりで、家臣達も従い、大河内城を今も囲んでいるはずなのだ。城攻めが少しばかりうまく行かない一人、勝手に引き揚げては己が沽券に関わるし、家臣からの信も失う。


ゆえに信長は、ゆっくりと時間をかけて大河内城に戻るという選択をする。それは、和議の交渉にあたる丹羽、滝川両名に時間を与え、焦らせないという意味も持っていた。

津島神社の堀田道空邸、桑名城城下、神戸城城下、伊勢上野、安濃津城城下、木造城近くの源浄院、松坂は継松寺などを経て、大河内城を包囲する陣に戻った。


その間、丹羽長秀と滝川一益は和睦に向けて動く。

滝川一益は源浄院主玄と木造具政の名前で幕府に織田家と北畠家の仲裁を願い出る。今回、織田信長が戦の大義としたのは、『もともと北畠家の一門である木造家が織田家を頼ってきた。すると、北畠家が圧をかけて木造領を奪い取ろうしてきた。その結果、木造家がそれを防いでほしいと願い出てきたので、織田家としては北畠家に制裁を加えなければならない』というものであった。故に、木造家が両家の戦をこれ以上望まないので将軍家、幕府に仲裁して欲しいとするのは、理には適っている。


しかも、織田家から折れたという形で無い為、信長の体面にも傷がつかない。

また、幕府にしても足利義昭を支える勢力同士の戦を望んではいないし、和議を斡旋することで織田家と北畠家は将軍家の意向と威光に従うことを天下に見せられるのだ。


そして、丹羽長秀は京都での行政経験で得た伝手を使い、北畠家が南北合一以降、付き合いのある幕府昵懇公家衆の日野家、本家筋の中院家、久我家などに仲裁の斡旋を依頼する。


武家、公家両方から和議の交渉に臨むよう求められた北畠具教、具房は流石に折れた。

北畠家にしても、後詰も援軍も期待できないなかでの籠城戦の継続は、兵糧不足による餓死か打って出ての惨敗かしかないことは分かっている。

そして、信長が戦線を一時的に離れたことで、典型的な籠城戦となった大河内城内では兵糧が日一日と減っていく。鳥屋尾満栄が集めた蓄えた兵糧も、滝川一益の策で逃げ込ませた非戦闘員が着実に食いつぶしていく。滝川一益による北畠御所の焼き打ちはすぐには効いてこなかったが、籠城戦の継続で遅効性の毒のように効いてきたのだ。


そして、もう一つ。

皆様は覚えておいでであろうか?北畠具房の異名を。

この大河内城の戦いのなかで織田軍の誰かが北畠勢を挑発するために発した罵詈雑言の一つを。

そう、北畠具房の異名、それは『大腹御所の餅喰らい』。


その侮蔑的な形容の通り彼は大食漢でわがままボディの持ち主であった。総重量100キログラム近くなる鎧武者のその背に乗せて駆けるという日本在来馬を以てして、その背に乗せることができないほどのわがままボディの。


そんな彼の食事が長きにわたる籠城戦を踏まえてわずかでも減ったならば。そして、そこに和議の話が持ち上がったならば。北畠具房が和議推進派筆頭になってしまうことは火を見るよりも明らかであり、必定であった。


北畠家自ら請うのではなく、第三者の調停による和議という事で立つ面目。城内の厭戦気分と(ひも)じさ。北畠家の父子で異なる継戦への熱量。対織田で一丸であったはずの城内の心は割れはじめる。

かくして、大河内城内は和議へ舵を切ることとなる。


永禄十二年十月三日。ついに和議がなる。

そして、翌十月四日には、北畠具教・具房父子は大河内城を退去したという。


北畠家を相手にした戦は終わりを告げた。永禄十二年十月、伊勢の大部分は信長の勢力下となったのだった。

和睦については『足利季世記』の足利義昭が動いたという説を採用。織田家がなんらかの和睦に向けてなんらかの動きをしたとするのが妥当と思われるので、資料的価値の低いのは分かっていても足利季世記の内容を一部取り入れました。ただ、あの北畠家が将軍家の意向にすぐに従うか疑問だったので、公家衆も少し動いた形にしてます。ご存知とは思いますが、北畠家は本来は公家なんで。村上源氏久我家、中院家より分かれた家柄なんですよね。ちなみに、源氏と言うと源頼朝、足利義昭などの清和源氏の中の河内源氏が武門の棟梁として有名ですが、公家の家格的には村上源氏のほうが明らかに格上。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ