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第44話:さよならの準備、嵐の向こうの約束

 ゴォォォォォ……!


 窓ガラスが割れんばかりに悲鳴を上げ、古い木造の家全体がミシミシと不気味な音を立てて軋んでいる。


 世界の境界線が崩壊へと向かう地響きの中、翔大は自分の勉強机に向かい、静かに、けれど迷いのない手つきで作業を続けていた。


 彼が握りしめているのは、あの素朴なオカリナ。そしてその手元にあるのは、冬休みの間、モナに内緒でこっそり作っていた小さなレプリカのチャームだ。モナが大事に持っているあの不思議な指輪を真似て、針金とプラスチックのパーツを不器用にいじくって作った歪な代物。


 翔大は手首に巻かれた赤い紐をそのままに、手元にあった別の黒いゴム紐を手に取ると、その不器用な手作りのチャームと一緒に、オカリナの首へ固く、二度と解けないようにしっかりとくくりつけた。


(指輪の形……ぜんぜん似てへんな。不格好もええとこや)


 心の中で苦笑しながら、不器用な手先で絆を刻み込んでいく。


 40年後の未来では、ただのホコリをかぶった古い楽器だったかもしれない。けれど今、モナが愛を込めて編んでくれた手首の赤い紐と、この不格好なチャームを宿したオカリナは、二人が確かにここで生き、愛し合った証そのものへと変わる。


「……よし。これで、ええな」


「ダーリン……? 何をしてるっちゃ……?」


 背後から、目元を真っ赤にしたモナが、息を潜めるように覗き込んできた。


 ふと、モナが「あ……」と小さな声を漏らし、自分の小さなリュックの底から、一冊の古いノートを取り出した。表紙には、覚えたての不器用なひらがなで『だーりんのとりあつかいせつめいしょ』と大きく書かれている。


「モナ……それ、なんや?」


 翔大が怪訝そうに尋ねると、モナは少し恥ずかしそうに、けれど愛おしそうに頬を赤らめてそのノートを両手で差し出した。


「これね……もし時空が閉じて、うちが星に帰ったり、ダーリンが元の……本当の50代のおじさんに戻っちゃったときの、『お世話のきまり』を書いたっちゃ」


「なっ……!?」


 翔大が息を呑んでページをめくると、そこにはモナのたどたどしくも丁寧な文字で、びっしりと項目が書き連ねられていた。


【ダーリンの取扱説明書】


 •そのいち: お酒を飲みすぎちゃダメだっちゃ!(次の日、頭が痛いって絶対文句言うからダメ!)


 •そのに: オカリナは毎日1回は吹くこと!(うちとの思い出を忘れないおまじないだっちゃ)


 •そのさん: 会社で嫌なことがあっても、ため息をつきすぎないこと!(ダーリンはかっこいいんだから、胸を張るっちゃ)


 •そのし: 休みの日は一日中寝ちゃダメだっちゃ!(ちゃんと外に出て、お散歩するんだっちゃ)


 •そのご: うちのことは……忘れてもいいっちゃ。(でもね、たまに夜空の星を見たとき、綺麗だなって思ってくれたら、それだけでうちとの約束は完了だっちゃ)


 •そのろく: 疲れたときは、空を仰いで深呼吸するっちゃ。(地球のどこにいても、うちの星の光はきっとダーリンに届いてるから)


 •そのしち: ……そして、絶対に、自分の人生を諦めないこと。(ダーリンは、うちが宇宙で一番愛した、最高にカッコいいヒーローなんだから!)


 ページが進むにつれて、鉛筆の文字はどんどん大きくなり、いくつもの箇所がぽつりぽつりと滲んでいた。


 翔大の胸が、激しく、痛いくらいに締め付けられた。


 自分が元の50代の冴えないおじさんに戻ったとき、モナの記憶がどうなるのか。この青春が夢だったのか現実だったのか、わからなくなるかもしれない。そんな未来の不安を、モナは一人で抱え込み、泣きながらこのノートを綴っていたのだ。


「モナ……お前、こんなもん……」


「うちはね、もしダーリンがうちのことを忘れちゃっても、この取扱説明書があれば、ダーリンはちゃんと生きていけるって思ったっちゃ。だって、うちが愛したダーリンは、宇宙一優しくて、不器用で、愛しい人なんだもん……」


 あふれ出る涙を拭いもせず、モナは満面の、世界で一番切なくて可愛い笑顔を浮かべた。


 翔大はこみ上げる熱いものを抑えきれず、そのノートをぎゅっと胸に抱きしめると、モナの体を壊れそうくらい強く引き寄せた。


(忘れるもんか……!こんなに俺を愛してくれたお前のこと、50代だろうが何だろうが、魂の深くまで刻み込んたるわ……っ!)


 胸の奥のエンジンが、轟音を立てて限界突破する。


 翔大はゆっくりと振り返り、優しく、けれどこれまでにないほど力強い、本当の「男」の眼差しをモナに向けた。


「モナ、これな。俺が作ったお前の指輪のチャームを、このオカリナに付けたんや。……俺たちの青春は、間違いなくここにあったんやで。たとえ時空が閉じて、記憶がどうなろうと……俺が元の、加齢臭漂う50代の冴えないおっさんに戻ろうと、お互いの手首に結んだこの紐とこのオカリナだけは、俺たちの絆を未来へ繋ぎ止めてくれる。俺、死んでも忘れたりせえへんからな」


 その言葉には、未来を恐れて震えていた少年の影はもうなかった。56年の人生の酸いも甘いも噛み分け、住宅ローンの重みも胃の痛みも知った上で、もう一度ここで命がけの恋を知った――峰川翔大という一人の男の、凄まじい底力と覚悟が宿っていた。


 モナは涙で濡れた瞳をしばたたかせ、オカリナに結びつけられたチャームを凝視した。


「……ふふっ。ダーリン、これ……なんだか駄菓子屋の端っこで売ってるおもちゃみたいだっちゃね」


「コラーッ!駄菓子屋の玩具と一緒にすな!中身は50代のおっさんやから、いくら体だけ高校生でも手先がついていかへんねん!やけど命削って夜な夜な作った最高傑作やぞ!」


 翔大が顔を真っ赤にして言い返すと、モナはふっと柔らかく微笑み、その愛おしそうに歪んだチャームをそっと指先で撫でた。


「……うん! 宇宙で一番、かっこいいっちゃ」


「……っ!」


 不意打ちの直球の褒め言葉に、翔大は言葉を詰まらせ、思わず顔と体をそむけた。


(あかん、こんなん反則やろ……。おっさんの胸に効きすぎるわ……っ!)


 モナはそんな翔大の大きな背中を愛おしそうに見つめながら、キュッと唇を引き結んだ。


 別れの恐怖に怯えていたのは自分だけじゃない。ダーリンだって本当は怖いはずなのに――今、目の前にいる彼は、誰よりも強くて、最高に泥臭くて、そして宇宙一格好いい、自分の大好きなダーリンだった。


「ねえ、ダーリン」


「なんや……」


「もしもうちが星に帰っても、このチャームの思い出と一緒に、ダーリンのこと……毎秒ごとに思い出すっちゃ」


「毎秒は息が詰まるわ!せめて一日一回にしとけ!」


「やだ!毎秒、毎瞬、ダーリンのバカ!って言いながら思い出してやるっちゃ!」


 嵐の激しい雨音の中、二人は子供のように顔を見合わせ、声を上げて笑った。その笑顔の裏で、お互いを想う熱い涙が雨水と混ざり合い、二人の絆を永遠のものへと変えていく。


「さあ、行こうか、モナ。さよならの準備やない……お前を絶対に離さないための、俺たちの始まりの準備をしにな!」


「……ダーリンっ!」


「おう、行くで、モナ!」


 翔大はオカリナをしっかりとポケットに押し込み、モナの手を力強く握りしめた。二人は嵐が荒れ狂う夜の街へと飛び出した。


 叩きつけるような土砂降りの雨の中、向かったのは――かつて二人が初めて手を繋ぎ、モナが他のお姉さんに激しく焼きもちを焼いて大騒ぎした、あの地元の小さな遊園地だった。


 足元の泥水を蹴り上げ、なりふり構わず闇を切り裂いて走り続ける。雨粒が容赦なく顔を打ちつけ、視界を奪う。ハァ、ハァと荒い吐息が雨音に消えていく。


 視界が激しい雨で白く霞んだその瞬間、足元のぬかるみに足をとられ、モナが大きくバランスを崩した。


「あっ……!」


「モナ!」


 翔大は咄嗟にその小さな手を強く引き寄せ、自分の腕の中にしっかりと抱き止めた。冷たい雨粒と泥まみれになりながら、モナは胸に押し寄せる恐怖と不安に耐えきれず、熱い涙を一気にこぼしながら、涙声で叫んだ。


「ダーリン……!うちは怖いっちゃ!40年後のオジサンに戻っちゃったダーリンが、もしもうちのことを忘れちゃったらどうしよう……!このまま二度と会えなくなったら、どうしたらいいかわからないっちゃ……!」


 その言葉に、翔大の胸が締め付けられるように痛んだ。けれど、彼は怯えたりしない。雨粒と泥にまみれながら、自分の胸をドンと力強く叩いて、笑い飛ばすように声を張り上げた。


「アホなこと言うな!前にも言うたけど、俺が何歳になろうが、お前が宇宙の果てに行こうが、俺はいつだって『モナ!』って叫び続ける!お前も、俺の名前を呼べ!どんな姿になっても、お互いの名前を忘れへんかったら、絶対にまた見つけ出せる!」


「……っ、うん……!ダーリン!」


「モナ!」


 二人はお互いの手を再び強く握り締めると、激しく降る雨の中を、満面の笑みで叫びながら駆け抜けた。その声は未来への不安を完全に振り払い、二人の胸に消えない「絶対の誓い」を刻み込んでいく。


(40年後の俺なら、100メートル走っただけで膝が笑って、息が切れて倒れてた……。会社とボロアパートを往復するだけで、何のために生きてんのかも分からんようになってた……)


 翔大は、自分の大きな手に包まれたモナの小さくて温かい手のリズムを感じながら、胸の中で強く叫んだ。


(でも今は、モナの手を握っとるだけで、どこまでも走れる気がする。肉体は17歳やからか? 違う! 俺がモナを愛する気持ちは……この50年の人生の中で、今が一番本気やからやっ!)


 脳裏には、この世界で駆け巡った眩しい日々が走馬灯のように駆け巡る。


(玉田のやつ、いっつも「否!否!科学的じゃねーよ」って知ったかぶりしやがって……。荻中は名古屋弁でギャハギャハ笑って女追っかけて、村上は「玉プィー」とか言って甘えて……。そやけど、やけど、親父もおかんも彰宏も……みんな、みんな最高に温かかった!)


 熱く重厚な想いとともに、隣で息を弾ませるかけがえのない存在を見つめる。


(全部、俺の宝物や。誰が何と言おうと、この青春は偽物なんかやない……!)


 泥まみれになり、膝をすりむきながらも、二人はついに閉園して静まり返った遊園地の敷地へと侵入した。


 その時だった。


「あ……ダーリン、見てっちゃ!」


 モナが息を呑んで指をさした。二人が足を踏み入れた瞬間、モナの胸元の指輪が放つ神秘的な青白い光に呼応するように――嵐の闇に沈んでいた古いアトラクションの電飾が、バチバチッ!と音を立てて、一瞬だけ色鮮やかに点滅したのだ。


 暗闇に浮かび上がる、かつて二人で乗ったコーヒーカップ。

 しっかりと手を繋いだ時のモナの赤くなった頬、アイスクリームを落として半泣きになった顔、嫉妬で頬をふくらませて「だっちゃ!」と怒った可愛い笑顔――。思い出の残像が、嵐の雨粒の中でキラキラと光の粒子になって弾けた。


「綺麗な……光だっちゃ。あの日の遊園地と、おんなじだっちゃ……」


「……ああ。俺たちの思い出が、ここでずっと待っといてくれたんやな」


 二人は光の余韻を背に受けながら、敷地の最奥にある「思い出の丘」の頂上へと辿り着いた。丘の上からは、重く垂れこめた嵐の雲の隙間から、まるで世界の終わりと始まりを告げるように、紫色の雷光が空間をパチパチと悲鳴を上げて引き裂いているのが見えた。時空の歪みが、まさにここで閉じようとしている。


「ダーリン、もうすぐだっちゃ……!歪みの中心が、すぐそこまで迫ってるっちゃ!」


 モナの指輪が、かつてないほど激しく眩い光を明滅させ、嵐の雨粒すら弾き飛ばすような圧倒的なエネルギーの波動を放ち始める。


 翔大は雨に濡れた髪をざっとかき上げ、一歩前へ踏み出した。迫り来る時空の嵐を、真っ正面から睨みつける。その背中には、もう「冴えないおっさん」の面影など微塵もなかった。


「来いや、時空の嵐でも何でも!俺とモナの絆は、こんな嵐なんかじゃ絶対に引き裂かれへんぞ!!」


 翔大はポケットの中のオカリナと赤い紐を強く握りしめ、隣で涙を流しながら自分にしがみつくモナの肩を、その逞しい腕で力任せに抱き寄せた。


 さよならのカウントダウンが、嵐の咆哮とともに、いよいよ最終局面へと突入していく――。

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