後編
遺伝の話はふんわりした気持ちで読んでいただけると幸いです~
最近、リリアが冷たい……かもしれない。
「あっ、カイル様! おはようございます! ではー!」
朝、屋敷の廊下で顔を合わせると、彼女はあいかわらずの明るい笑顔で挨拶をしてくれる。
軽く手を振り、そのまま小走りで去っていった。
以前と変わらぬ光景だ。
けれど、距離を置かれているように思えてしまう。
『お飾りの妻でしかない君に口を出す資格はない』
先日、口から飛び出した、あまりにも心無い言葉。
もし時間が巻き戻せるなら、あの瞬間の自分を殴り飛ばしたい。
しかし過去には戻れないのだから、今、なんとかするしかない。
謝りたい、という気持ちはある。
ただ――
(謝って、どうなる? 彼女に許してもらうことで、罪悪感を和らげてもらいたいだけじゃないのか?)
むしろ俺はこのまま苦しみ続けるべきではないだろうか。
そんな自罰的な思考がぐるぐると頭の中を巡っていた。
結果、リリアには何も言えないまま日々が過ぎていく。
いつもなら待ち遠しいはずの研究報告会さえ憂鬱に感じられてしまう。
負のスパイラルに陥った思考のせいで、領主の仕事もあまり捗らなかった。
「参ったな……」
カイルは執務机で呻きつつ、引き出しを開く。
中には赤いスカーフが入っている。
それはグランデル公爵家当主の“あかし”であると同時に、カイルにとっては大切な父の形見だ。
公爵位を継いでからというもの、悩みや迷いが生まれたときはいつもこのスカーフを眺めていた。
そうすると父がそばにいるように感じられ、難しい決断でも下す勇気が生まれてくる……のだが、今回は心に何も湧き上がってこなかった。
(それもそうか)
契約結婚とはいえ、これは夫婦のいざござだ。
もし天国というものがあるとするなら、そこにいる父はきっと
「ワシに相談されてもなぁ……」
とボヤいているだろう。
たとえ親子であろうとも、夫婦の関係に口出しなどするものではないからだ。
「……気分転換でもするか」
カイルはひとりで呟くと執務室を出た。
そのまま屋敷の裏口へと向かう。
すでに日は沈み、空には月が浮かんでいる。
夜の散歩へと出かけるつもりだった。
「カイル様、いってらっしゃいませ。きっと奥様もお待ちですよ」
途中、廊下でばったりとメイドに出くわしてしまう。
『公爵様には夜這い趣味がある』という噂は以前から流れていたわけだが、カイルやリリアが訂正しなかったこともあり、もはや屋敷の使用人たちのあいだでは一種の常識として定着していた。
夫婦仲を疑われるよりはいいのだが、いずれ訪れる離婚のことを考えると胸が重くなる。
カイルは深くため息を吐いて、外へと踏み出した。
「……まだ少し寒いな」
上着をもう1枚着てくるべきだったかもしれない。
そう思いつつ、足早に歩き出す。
身体を動かせばすぐに温まってくるだろう。
いつもの散歩コースを辿ると、すぐにリリアの工房が見えてくる。
「夜遅くまで頑張ってるんだな……」
寝室のある2階は暗く、代わりに研究室のある1階には明かりが灯っていた。
ちょっと寄ってみようか。
そんな考えが頭に浮かぶが、足が動かない。
戦場においては勇猛果敢な英雄であるカイルだが、このときは一人の臆病な青年となっていた。
もし彼女に拒絶されてしまったら、どうする。
ありえない想像とは分かっているが、それでも「もしかしたら」という思いを捨てきれない。
そうしてリリアの工房の近くで懊悩に苛まれながら立ち尽くしていると――
「わっ!」
「うわあっ!?」
突然、背後から誰かに肩を押された。
リリアだ。
カイルは驚きのあまり声を上げ、すぐに振り返ろうとした。
だが、彼にしてはめずらしく足がもつれ、そのまま転びそうになる。
「危ない!」
リリアは慌てて右手を伸ばし、カイルの左腕を掴んだ。
けれど成人男性の体を支えるには、やはり力が足りない。
重心を崩したカイルを止めきれず、結果として、二人してそのまま地面に倒れ込んでしまった 。
「すまない、怪我はないか」
尻餅をついたまま、カイルが問う 。
「大丈夫です、昔から街や野山を駆けまわってましたから! 転ぶのは慣れっこです!」
リリアは明るく答えながら身体を起こす。
幸い、どちらも怪我はなかった。
「私こそごめんなさい。驚かせちゃって」
リリアはそう言いつつ、カイルの左腕を掴んでいた右手を放す。
「これって『接触最小限』に抵触しちゃいますか」
「構わないさ。俺が倒れないように気遣ってくれたんだろう?」
「まあ、二人とも転んじゃいましたけどね」
「そういうこともある」
そう言いながら、ふと目が合う 。
どちらからともなく笑いがこぼれた。
さっきまでリリアの手が触れていた左腕には、彼女のぬくもりが残っているような気がした 。
ただ、それを意識するのが気恥ずかしくて、カイルは話題を変えるように口を開いた 。
「ところで、こんなところで何をしているんだ」
「気分転換の散歩です。途中でカイル様を見かけたので、せっかくだから驚かせてみようかな、と。……やりすぎちゃいましたけどね」
「確かに、見事な奇襲だったな。戦場だったら討ち取られていたかもしれない」
カイルは冗談めかした口調で言いながらフッと笑う。
リリアもそれに釣られるように穏やかな笑顔を浮かべた。
「カイル様はいつもの散歩ですか? それとも、もしかして私にご用事とか」
「それは……」
散歩といえば散歩だが、リリアに用事がないわけでもない。
カイルは言葉に詰まってしまう。
「むむ、なんだか困り顔ですね。悩んでいるなら相談してください! カイル様にはお世話になってますし、解決に手を貸しちゃいますよ!」
いつもどおり、勢いよくリリアが問いかけてくる。
普段のカイルならここで曖昧に誤魔化していただろう。
けれど、この日は違った。
久しぶりにリリアと長く話しているため、心の壁が低くなっていたのかもしれない。
「悩んでいるのは、君のことなんだ」
「えっ?」
リリアが驚いたように瞬きをする。
カイルはすぐに目をそらし、言葉を取り消した 。
「すまない。今のは忘れてくれ」
またも失言をしてしまった。
後悔が胸に湧き上がる。
これではまるで彼女に非があるようではないか。
「私、気に障ることをしちゃいましたか。ごめんなさい」
「違うんだ。その……」
慌てて、カイルは首を横に振る。
「先日、俺はひどいことを言ってしまった。熊退治のシビレ薬、風邪の看病、政務の代行――君にはいろいろと世話になっているのに『お飾りの妻』だなんて、あまりにも失礼だった。すまない。そもそも母親のことや公爵の座をレーベに譲ることだって俺のほうから話し始めたのに『口を出すな』なんて自分勝手すぎる。君はただ、気を遣ってくれただけなのに……」
しどろもどろになりながら、どうにか胸の中に蟠っていたものを告げる。
言葉を探しながら喋っているせいで、我ながら情けないほど内容にまとまりはなかった。
だが、それでも――彼女には伝わっていたらしい。
「確かに、失礼で自分勝手でしたね! 正直、かーなーりー傷つきました!」
語気は強めだったが、声色は明るく、冗談めかしたものだった。
「というわけで、ひとつ賠償を請求させてもらいます!」
「遠慮なく言ってくれ。俺に可能な範囲で応じよう。なんなら――」
契約の延長でも構わない、と口が滑りかけて自制する。
(俺は何を言おうとしているんだ)
契約結婚が今より長くなったところで、リリアにはあまりメリットがない。
エストラ子爵家および商会の財政状況を考えれば、公爵家からの資金援助はすでに十分なのだ。
であれば、一緒にいる時間が増えることで得をするのは――。
その答えに至る直前に、リリアが口を開いた。
「ではでは血縁鑑定の薬が完成しましたら、カイル様がずっと心に抱えている疑問――先代当主のクラン様と血が繋がってるかどうか、調べさせてください!」
「……できるのか?」
クランはすでに故人だ。
血液を採取することはできないはずだが、いったいどうやって。
「ふふん、実はちょっとした裏技があるんです。なんてったって、私は魔女の末裔ですからね!」
「頼もしいな」
カイルは苦笑しつつ、言葉を続ける。
「君の要求は分かった。好きに調べてくれていい」
「ありがとうございます! それじゃあ血液を頂いてもいいですか? ちょっと痛いですけど我慢してくださいね」
その後、カイルはすぐにリリアの工房に引っ張り込まれ、左手の親指にチクリと針を刺された。
意外に痛かったが「これも償いのひとつか」と考えて、呻き声ひとつ上げなかった。
血液の採取が終わったあとはハーブティとお菓子でちょっとした夜のお茶会をして――
屋敷に戻るころには、罪悪感で重たかった胸はすっかり軽くなっていた。
**
ほどなくして、春休みに入ったレーベが公爵邸に戻ってきた 。
雪解けの風に揺れるコートの裾を払いながら、玄関で晴れやかに声を上げる 。
「兄さん、リリアさん、ただいま戻りました。シビレ薬のこと、王都でも話題になってましたよ」
「あちこちでセルヴァン侯爵が宣伝してくれているらしいな」
「おかげさまで商会の売上も伸びてますし、大感謝ですね」
カイルとリリアがそんなふうに言葉を交わしていると、ふと、レーベがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そういえば兄さん、ユリウスのことは覚えてますか」
「セルヴァン侯爵の息子さんだったな。寮でもおまえのルームメイトだったか」
「はい。彼、去年から王立騎士団の早朝訓練に混じって身体を鍛えてるんです。いつか兄さんを剣でボコボコにするって息巻いてましたよ」
「カイル様、なにか恨まれるようなことでもしちゃったんですか」
リリアがきょとんとした顔でカイルを見つめる。
「思い当たる節はない……こともないな」
カイルは返答に詰まり、わずかに視線を逸らした。
頭をよぎるのは、以前にセルヴァン侯爵から聞いた話だ。
ユリウスはリリアに一目惚れしている。
彼にしてみれば、カイルは「初恋の相手を横取りした憎き恋敵」なのだろう。
失恋をどう乗り越えるかは当人次第だが、訓練の厳しさで有名な王立騎士団に混じって身体を鍛えているということは、本気で決闘を挑んでくるつもりかもしれない。
とはいえ、それをリリアに言うのは憚られた。
ユリウスだって、秘めた恋心を他人にばらされたくはないだろう。
男としてその気持ちがよく分かるので、カイルは余計なことを言わず、話題が自然と流れていくのを待った。
**
「薬についてリリアさんに訊きたいことがあるので、工房に行ってきてもいいですか」
「もちろんだとも。毎回、俺に確認を取らなくてもいいんだぞ」
「分かりました。兄さんも一緒にどうですか」
「行けたら行くとしよう。……この時期はどうしても書類が多いからな」
そんな会話をレーベと交わしたのが数日前のことだ。
3月下旬というのはアークランド王国の貴族にとっては忙しい時期である。
領内の各地から収支報告書が届くため、それを基にして王宮に提出する書類を揃えたり、国庫に納めるべき税金を計算せねばならない。
もちろん多くのことは官僚や使用人たちがこなしてくれるものの、最終的な責任は領主に伸し掛かるので、数字のひとつひとつを細かくチェックしていく。
カイルもそんな仕事に忙殺され、執務室から身動きできないでいた。
さらに2日が経ち、ようやく時間的な余裕ができたカイルは大きく伸びをしながら廊下に出た。
近くを通りかかった年配の、女性の使用人に声を掛ける。
「仕事中にすまない。レーベがどこにいるか知らないか」
「今日も奥様の工房だと思いますよ。姉弟みたいに仲良しで、見ているこっちもほっこりしますねえ」
「あいつ、毎日ずっとリリアのところに通ってるのか」
「あらあら旦那様、嫉妬ですか。ダメですよ、男はドーンと構えてなきゃ」
おどけたように肩をすくめる使用人の言葉に、カイルは曖昧な笑みを浮かべる。
(嫉妬しているわけじゃないんだがな)
心の中で呟きながら、軽く礼を言ってその場を離れる。
レーベがリリアの工房を訪れるにあたり、いちいち確認を取らなくてもよい、と告げたのは自分だ。
なのに――
(どうしてこんなに胸がざわつくんだ)
落ち着かない。
まるで大切な宝物が盗まれようとしているかのような焦燥感がある。
ふとすると、レーベとリリアが工房で親しげに談笑している光景が脳裏に浮かび、険しい表情になってしまう。
「俺はただ、出資者としてリリアの研究の進捗を確認したいだけだ……」
誰ともなく言い訳めいた呟きを零しながら、カイルは屋敷を出た。
足はそのまま外へ――リリアの工房へと向かっていた。
そのまま堂々と玄関の扉をノックすればいい……のだが、カイルはそっと窓の外から中を覗き込んだ。
研究室にはリリアの姿があった。
湯気が立ち上る鍋を、彼女はゆっくりとかき混ぜている。
「るらら~♪ らららら~♪」
明るい鼻歌が窓の外にまで聞こえてくる。
きっと薬の調合中なのだろう。
レーベは……いないようだ。
カイルはホッと安堵のため息を吐く。
(何を安心しているんだ、俺は)
自分自身にそんなツッコミを入れた時だった。
「兄さん?」
「うわっ!?」
背後から声をかけられ、カイルは思わずその場から飛び退いた。
慌てて振り返ると、そこには不審げな表情を浮かべたレーベが立っていた。
「いったい何をしてるんですか? 女性の家を覗くのはよくないことですよ」
「違う、誤解だ。たまたま通りがかっただけで――」
「あはは、冗談ですよ、冗談」
レーベは肩を竦めてクスッと笑う。
「そんな早口にならなくてもいいじゃないですか。後ろめたいことがあるわけじゃないでしょうし」
「ああ、まあな」
カイルは曖昧な笑みを浮かべて頷く。
実際のところは“たまたま通りかかった”のではなく、レーベとリリアが2人きりになっていることが頭に引っ掛かり、わざわざ工房へ足を運んだ挙句、正面から尋ねるのではなく窓から様子を覗いてしまったわけだ。
自分の行為に対して後ろめたい気持ちがないかと言われれば……ある。
とはいえ、それを白状することもできず、カイルは言葉少なく視線を逸らすことしかでき鳴った。
兄の沈黙をどう受け取ったのかは分からないが、レーベは苦笑しながら告げる。
「そういえば、公爵邸に戻ってから兄さんとはあんまり話ができてませんでしたね。ちょっと歩きませんか」
「構わないが、おまえはいいのか」
レーベはこのところ毎日、リリアの工房に来ているらしい。
であれば、今日もこれから向かうところだったはずだ。
そう考えての問いかけだった。
「最近、リリアさんの研究をちょっと手伝わせてもらってますけど、僕がいないと進まないわけじゃないですからね。ほら、行きましょう」
レーベは軽やかに歩き出す。
工房とは反対の方向だ。
カイルも弟の横に並んだ。
「おまえ、背が伸びたな」
「伸び盛りですからね。もしかしたら兄さんを追い越すかもしれませんよ」
得意げにレーベは胸を張ってみせる。
今のところ、弟の身長はカイルよりも頭半分ほど下だ。
だが、昨年の今頃は頭ひとつ分ほど差があった。
順調に伸び続ければ、数年後には追い越されるかもしれない。
そんな未来が、ふと現実味を帯びて感じられた 。
「リリアさんから聞きましたよ。月に1度、研究報告会をしているって」
「ああ、おまえの意見を取り入れさせてもらったよ」
――リリアさんがどんな研究をしているのか、支援している人間として知っておいた方がいいんじゃないですか。
今ではすっかり定例となった研究報告会だが、もともとはレーベの指摘がきっかけだ。
もし弟が何も言わなければ、自分がリリアと顔を合わせる機会はもっと少なくなっていただろう。
「暴れ熊の退治にシビレ薬を提供してもらえたのも、研究報告会でちょくちょく話をしていたおかげかもな」
「リリアさんは優しい人ですから、何もなかったとしても手を貸してくれましたよ」
「だろうな」
リリアはグイグイくるタイプだし、自分からシビレ薬を売り込みに来たことだろう。
それはそれで面白そうだ……と感じるのは、彼女に対して気を許しているからか。
「報告会のあとはハーブティでお茶会をしてるらしいですね」
「そんなことまでリリアは話したのか」
「僕が訊いたんです。兄さんとはうまくやれているのか、って。……仲が良さそうで安心しました」
レーベは微笑んだ。
なのに、どこか寂しそうなのはカイルの錯覚だろうか。
いつしか空は茜に染まり、二人の影が足元に長く伸びていた。
まだ肌寒さの残る春先の夕刻 。
カイルは意を決して、以前から気になっていたことを訊ねる。
「レーベ、おまえはリリアのことをいつから知っていたんだ?」
弟が自分に対して隠し事をしていた。
それを責めるつもりはない。
だが、声には棘があるように感じられ、カイルは慌てて言葉を足す。
「怒っているわけじゃないんだ。おまえが熱を出して、彼女に看病されたという話を聞いたから……」
「ああ、バレちゃいましたか」
レーベは悪びれもせず、肩を竦めて答える。
その仕草は、正体を突き止められた怪盗のような、どこか吹っ切れた潔さがあった。
「ちょうどよかった。春休みのうちに、はっきりさせておきたいことがありましたから」
弟が足を止める。
カイルも、数歩遅れて立ち止まった。
近くには小さな池が広がっている。
そこは兄弟にとって懐かしい場所だった。
まだレーベが幼かったころ、お互いに近くで拾ったいい感じの枝を剣に見立てて『斬り合いごっこ』をしていた。
無邪気な笑い声が響いていた記憶が、カイルの脳裏に蘇る。
だが、あのころとはもう違う。
自分は大人になったし、弟も純真な子供ではない。
「兄さんが考えている通りです。僕は、契約結婚の前からリリアさんのことを知ってました」
夕焼けが、レーベの横顔を朱色に染めていた。
その表情は真剣で、迷いがなかった。
「兄さんが契約結婚の候補者を探すとき、誰に頼みましたか」
「……執事長のギリアムだな」
いきなりの質問に戸惑いつつ、素直に答える。
ギリアムは屋敷の使用人のなかで唯一、契約結婚について把握している人間だ。
さらには候補者の選定、身辺調査なども行ってくれた。
「こんな言い方はよくないですけど、短期間の契約結婚でもあっても黒目黒髪で『魔女の先祖返り』なんて言われる女性が候補に挙がるのって、不自然に思いませんでしたか。もっと当たり障りのない相手だっているはずなのに」
レーベの指摘は当然のものだろう。
当時、カイルも違和感を覚えないでもなかった。
とはいえ「契約結婚を足掛かりにしてカイルを篭絡し、公爵夫人になろう」などという考えを持たず、『恋愛禁止・接触最小限・子ども厳禁』を3年間きっちり守ってくれる女性であること――つまり内面を最優先にした結果、リリア・エストラという女性が候補に挙がったのだろう。
そんなふうに解釈していた。
「実は、僕がギリアムさんにお願いして、候補にリリアさんを入れてもらったんです。まあ、兄さんが彼女を選ぶかどうかは賭けでしたが」
「……どういうことだ」
カイルは動揺とともに問いかける。
足元の感覚が曖昧だった。
レーベが、リリアを契約結婚の候補に入れさせた?
何のために?
「エストラ子爵家が財政難であることも、あちこちの貴族家がリリアさんの才能に目をつけていたことも、僕は把握していました。――騎士学校の男子寮には、貴族家のお嬢さんたちがよく遊びに来ますからね。適当に仲良くしておけば、こっちの心証をよくするために情報をポロポロと吐いてくれる」
冷酷なほどの割り切りに、カイルの内心は大きく動揺していた。
自分にとっての弟は、優しく、素直で、どこまでも純真な「少年」だった。
だが、今、目の前にいるのは思惑と計算のもとに人間関係を利用していく「貴族の男」だった。
いつのまに、レーベは変わってしまったのだろう。
「そんなにショックを受けないでください。内心はどうあれ、他の貴族家の人間と繋がりを持つのは大事なことでしょう?」
「……まあ、そうだな」
裏と表。
本音と建前。
そういうものを巧みに使い分け、自分と家に利益をもたらす。
貴族にとっては重要かつ当然のことだ。
ただ、カイルはそういうものが苦手だった。
家では貞淑な妻を演じつつも数多くの男性と関係を持っていた母親のことがトラウマになっていたのだろう。
そんな「貴族らしからぬ貴族」であるカイルが今日まで貴族社会でやってこれたのは、戦場での華々しい活躍のおかげだろう。
一方、レーベは自分の知らないところで「貴族らしい貴族」に育ちつつあったのらしい。
「話を戻しましょう。エストラ子爵家が困窮していることを考えると、どこかの貴族が資金援助を条件としてリリアさんを妻に望むかもしれない。いえ、すでにそんな動きがいくつもありました。……けれど、僕にはどうすることもできない。だから――」
「ギリアムに頼んで契約結婚の候補に入れさせた、ということか」
「はい。でも、僕が頼んだからってホイホイと言うことを訊いてくれる人じゃないってことは知ってますよね。ギリアムさんは、リリアさんのことをきちんと調べて、才能を認めたからこそ契約結婚の候補に入れたんです」
その声はどこか誇らしげだった。
ギリアムがリリアを認めたことは、弟にとっても嬉しかったのだろう。
振り返ってみれば――
契約結婚が始まったばかりのころから、執事長のギリアムはリリアに好意的だった。
それは彼女の人柄ゆえだろうと思っていたが、もしかすると、他にも理由があったのではないか。
ギリアムはグランデル公爵家に心からの忠誠を誓ってくれている。
家のためならば文字通り、身を粉にしてくれるだろう。
そんな彼にしてみれば、リリアは公爵家をさらに発展させうる人間だ。
将来への期待込みで、彼女に対して暖かな視線を向けていたのかもしれない。
「契約結婚が終わるのは、今から2年後ですよね」
レーベの声が、そっとカイルの意識を引き戻す。
確認するように、そして、念を押すように。
「離婚のあと、兄さんは僕に公爵の座を譲る。……合ってますか」
「ああ、そのつもりだ」
カイルはわずかにためらいながらも、肯定した。
この未来はずっと前から定めてきたものだ。
揺らがせてはならない 。
「よかった」
レーベは安堵したように、小さく頷いた 。
「僕は公爵になったら、リリアさんに求婚します。彼女のことが好きですから」
その言葉は、あまりにも静かで、率直だった。
けれど確かな意志が込められていて、カイルの胸の奥に――まるで鈍く重たい刃物のように突き刺さった。
「本気か、レーベ。……さすがに、それは、他の貴族からどう思われるか」
咄嗟に反論を試みるも、カイルの声は弱々しいものだった。
兄の妻だった女性を娶る。
アークランド王国の貴族社会においてはありえない話ではないが、好奇の目を向けられる行為ではある。
実行したならば、あちこちで心無い噂を立てられるかもしれない。
だが、その程度のことでレーベが諦めるだろうか。
かつてないほど強い視線でこちらを見上げてくる弟を前にしていると、戦場においては百戦不敗のカイルであっても気圧されそうになってしまう。
「周囲の評判なんて、どうでもいいでしょう。王都にいるあいだ、いつも彼女のことを考えていました。兄さんがリリアさんと定期的にお茶会をしているのが羨ましくて仕方ないし、もしかしたら『契約結婚』の枠組みをうっかり踏み越えるんじゃないか、と不安に駆られたことだって1度や2度じゃありません」
一歩。
レーベがこちらに踏み込んでくる。
カイルは思わず、背後に下がっていた。
「兄さんはどうですか。リリアさんのことをどう思っていますか」
その問いは、鋭い声でもってなされた。
カイルはまるで喉元に刃を突き付けられているように感じつつ、答える。
「彼女のことは……好感の持てる人柄だと、思っている」
「それだけですか」
レーベの声音が、わずかに低くなる 。
「リリアさんに対して恋愛感情を持っていない。そう認識していいですね」
ああ。
本来ならそう答えるべきだろう。
なにせ『恋愛禁止』が契約結婚のルールなのだから。
けれど、カイルの喉はなぜか言葉を紡ぐことができなかった。
息が詰まりそうなほどの沈黙が続く。
やがて――
「冗談ですよ」
にこっ、と。
昔ながらの無邪気な笑顔を浮かべて、レーベが言った 。
「……は?」
カイルは思わず間の抜けた声を漏らす。
先程までの張り詰めた空気が、一瞬で崩れる 。
「半年ぶりに屋敷に帰ってみたら、なんだか兄さんとリリアさんの距離が近くなっていたから、ちょっとカマをかけてみただけです。まあ、演技に熱が入り過ぎちゃいましたけど」
あはは、と笑うレーベ。
「そもそも僕がリリアさんに恋愛感情を持っていたら、研究報告会をするように提案なんかしませんよ。それがきっかけで兄さんが彼女を好きになっちゃったら、恋敵を増やすだけですし。そうでしょう?」
「……まあ、確かにな」
レーベの発言は、理屈で考えれば納得のいくものだった。
しかし、どこか釈然としないのは、カイルの考えすぎだろうか。
「実はやっぱりリリアさんのことが……みたいな話なら、相談してくださいね。兄さん、女性の扱いはあんまり上手じゃなさそうですから」
「なんだと」
「わっ、兄さんが怒った!」
からかうように声を上げると、レーベは小走りに逃げ出した。
カイルはその背中を追いかけつつ、自分自身に問いかけていた。
(俺は、彼女のことをどう思っているのだろう)
**
その夜――。
執務室でランプの灯が静かに揺れる中、カイルは1人の男を呼び出していた。
相手は、祖父の代からグランデル公爵家に仕える老執事、ギリアムである。
「契約結婚の候補にリリアを入れたのは、君だけの判断か」
問いを投げかけられた直後、ギリアムの白い眉がわずかに動いた。
いつもの慎み深い口調のまま、穏やかな声で答える。
「そう仰るということは、レーベ様からすでに話はお聞きになられたのですね」
「元々はあいつの推薦だったらしいな」
「はい。ただ、わたくしの方でも綿密に調査した上で候補者とさせていただきました。――個人的な見解を申し上げるなら、多くの候補のなかでもカイル様が契約結婚において最も心穏やかに過ごせる相手であろう、と予想しておりました」
「どういうことだ」
カイルは首を傾げながら続きを促すとギリアムは――それこそカイルが赤子の頃からすでに屋敷にいた老執事は、まるで我が子を案じるような口調で答えた。
「失礼ながらカイル様はお母上のことがあり、女性というものを信用できなくなっておられました。特に、貴族家の女性というものに対しては嫌悪感さえ抱いていらっしゃったかと」
「……否定はしない。自覚もしている」
カイルは視線を逸らしながら頷いた。
自分が女性不信を拗らせていることは理解している。
ただ、それをギリアム――幼い頃から自分を見守ってきた人物の口からあらためて指摘されると、どうにも居たたまれない気持ちになってくる。
「わたくしが調べたかぎり、リリア様の人柄は『貴族家の女性』という枠組みからは完全に外れておりました。明るく、打算や計算といったものとは無縁で、恋愛や貴族社会のゴシップにも興味がない。研究に夢中な一方で、周囲を気遣える優しさもある。……この方なら、カイル様の心を悪い意味で掻き乱すことはなかろう。わたくしはそう判断いたしました」
心を悪い意味で掻き乱すことはない。
含みのある言い方がどこか引っ掛かるものの、言われてみればその通りだ。
この1年、リリアとの生活においてカイルが女性不信を刺激されるようなことはなかった。
騎士学校の男子寮時代に比べると、精神状態は天と地ほどの差がある。
「お気づきかどうかは分かりませんが、現在のカイル様はずいぶんと穏やかな表情をしてらっしゃいます。わたくしとしては、リリア様には心から感謝しております」
「君がそんなふうに誰かを褒めるとは珍しいな」
自分にも、他人にも厳しい男。
カイルの持つ、ギリアムという老執事のイメージだ。
そんな彼がリリアを評価していることが、なぜだか、自分のことのように嬉しかった。
つい、口元が綻んでしまう。
(リリアが来てから俺はよく笑うようになったかもしれない)
などと考えつつ、カイルは頭の中を整理する。
思い出すのは、庭でのレーベとの会話だ。
(あいつは「冗談ですよ」なんて言っていたが――)
ギリアムに対してリリアを契約結婚の相手として推薦したこと。
それは本当だった。
(だったら、やっぱりレーベは彼女のことを好きなのか)
だが、そうだとするなら矛盾が生まれる。
なぜ研究報告会などという、カイルとリリアの距離が縮まるような提案をしたのか。
レーベ自身も言っていたが、どうにも引っ掛かる。
(もしも俺があいつの立場だったなら――)
彼女のことを諦めるために、あえて自分にとって不利な提案をするかもしれない。
自分と弟は、ものの考え方において似通ったところがある。
そういう意味ではありえない話ではない。
だが、諦めるつもりだったなら、なぜ今になってリリアへの恋心をカイルに告げたのか。
(分からん)
カイルはさらに思考の渦に沈み込んでいく。
ギリアムが穏やかな声で語り始めたのは、そんな時だった。
「わたくしは先々代のころから公爵家に仕え、カイル様とレーベ様を幼き頃よりお傍で見て参りました。図々しい言い方となってしまいますが……お2人のことは、息子や孫のように思っております」
「……俺も、君のことは第2の父親のように感じている」
ハッと現実に意識を引き戻されつつ、カイルは答える。
「領主として今日までやってこれたのもギリアムのおかげだ。心から感謝している」
「恐縮です。そう仰っていただけると、老体に鞭を打ってお仕えしている甲斐があります。クラン様が亡くなられてから今日までのあいだに、カイル様はすっかり公爵に相応しいお人柄になられましたし、レーベ様も王都に出られてからはめまぐるしい勢いで成長しておられます」
「確かに、あいつは大人になったな」
レーベは、もはや子供ではない。
今日の会話でもずいぶんと思い知らされた。
――適当に仲良くしておけば、こっちの心証をよくするために情報をポロポロと吐いてくれる。
自分の思惑を隠しつつ、人間関係を構築して利益を得る。
貴族らしい貴族としてのふるまい。
弟はそういうものができるようになっていた。
自分には無理だ。
今のところは戦場での華々しい活躍によって貴族社会での立場を保っているが、長期的に考えるなら本音と建前を使い分けながら周囲との関係を構築すべきだろう。
「俺はやはり、自分よりもレーベの方が公爵にふさわしいと思うよ。父上の血を引いているかどうか分からないし、なにより、まだまだ子供だ」
結局のところ、貴族らしい貴族としてのふるまいができないのは母であるイザベラによって刻み込まれたトラウマのせいだ。
自分の年齢としてはとっくに成人しているが、親の重力に囚われたままなのだから、精神的には大人になりきれていないのだろう。
そう思うと、心の奥に、小さな痛みが走った 。
「……人は誰もが子供の部分を抱えたまま大人になるものです」
ギリアムが諭すように呟いた。
「わたくしも子供の部分がありますとも。いまだに冷えたトマトが食べられません」
「意外だな」
それはカイルの本心だった。
執事長として屋敷を取り仕切るほか、領政の補佐や契約結婚における事前調査やエストラ子爵家との交渉など数多くのタスクを完璧にこなしてきた老執事に、苦手なものがあるとは考えもしなかった。
「まったく気付かなかったぞ。俺には好き嫌いをするな、と言っていたのに」
「それが、大人というものです」
微笑みながらギリアムが小さく肩をすくめた 。
「自分の中の子供を隠す、あるいは、誰かに補ってもらう。そうやって折り合いをつけていくものです」
「君は、生きるのが上手だな」
「そうでなければ、執事長など務まりません」
冗談めかして返しながらも、ギリアムの声はどこか誇らしげだった。
「カイル様はレーベ様のことを大人と仰いましたが、まだまだ子供の部分も残っていらっしゃいます。自分自身を持て余して、本心とは異なる言動を取ることもありましょう。やがて後になってから『なぜあんなことを』と頭を抱えるものです。わたくしもそうでした」
「想像もつかないな。少なくとも俺は、君が失敗したところなど見たことがない」
「先々代様のころは当時の執事長からよく叱られたものでした。ご興味があるなら、いずれお話ししましょう。ともあれ――」
ギリアムはゆっくりと、言い聞かせるように告げる。
「何事も急いでひとりで決める必要はございません。一度決めたことであっても、ご自身と周囲が納得するなら変えても構わないのです。そのことは、心に留めてくださいませ」
「……覚えておこう」
カイルは複雑な面持ちで頷いた。
ギリアムが言おうとしているのは、レーベに公爵位を譲ることについてか。
あるいは、カイルが自身に課している3つの原則についてか。
恋愛禁止。
接触最小限。
子ども厳禁。
契約結婚における条件として定めたこの3つは、もともと、己の中にあったものだった。
自分は、クラン・グランデルの子供かどうか分からない。
そんな人間が血を残すべきではない。
だから――
恋愛はしない。
異性との接触も控える。
子供なんてもってのほか。
そんな決意とともに生きてきた。
リリアが来てから『接触最小限』はずいぶんとグラついているが。
「おっと、ずいぶんと説教くさいことを言ってしまいましたな。ご容赦くださいませ」
「構わないとも。君の気遣いに感謝する」
「そう仰っていただけることがなによりの喜びです。……ああ、そうそう」
ギリアムは一礼すると、彼にしては珍しく、冗談めかした口調で告げた。
「冷えたトマトが食べられないことは、どうか内密に」
「いいだろう。墓まで持っていくとしよう」
2人の間に、静かな笑いが生まれた。
**
数日後の夕刻、カイルの執務室に控えめなノックの音が響いた。
「兄さん、少しいいですか」
入ってきたのはレーベだった。
表情にはどこか緊張の色が浮かんでいる。
「どうした。何かあったのか」
カイルが書類から視線を上げて問いかけると、レーベは頷いた。
「明日は、研究報告会があるんですよね。そのことで相談がありまして」
「おまえも来るか? 俺は構わないが」
そう告げると、レーベは一瞬だけきょとんとまばたきをして、続いていたずらっぽく笑った。
「いいんですか? 僕、リリアさんを狙ってるのに」
「その話は冗談だったんじゃないのか」
「ええ、まあ、そうですね」
レーベは曖昧に頷いたが、カイルは半ば確信していた。
弟のリリアへの気持ちは、やはり本気なのだろう。
とはいえ、今すぐにでも兄嫁を奪い取ろうというわけではなく、ちゃんと(?)離婚を待っているわけなので、咎めるわけにもいかない。
これが普通の結婚ならば「諦めろ」ということもできるのだが……。
(ちょっと待て。どうして俺はレーベにリリアを諦めさせようとしているんだ)
自分の感情を掴みあぐね、カイルは眉をひそめる。
その表情が誤解を呼んだらしく、レーベが申し訳なさそうに問いかけてくる。
「やっぱり研究報告会に来るのは迷惑でしたか」
「そういうわけじゃない。最近、領主の仕事が忙しくてな。少しばかり疲れているだけだ」
「僕もお手伝いしますよ」
「気持ちだけ受け取るとしよう。おまえは春休みなんだから、しっかりと休むといい。ところで、相談と言うのは、研究報告会に参加したい、ということだけか?」
それだけなら、レーベも緊張した表情を浮かべはしないだろう。
兄としての直感が告げていた。
本題は別にある、と。
「さっきリリアさんに会いまして、伝言を頼まれたんです。血縁鑑定の薬が完成したから、兄さんがグランデル公爵家の血を引いているかどうかはっきりさせられる、って。よければ明日の研究報告会で鑑定薬の実験をしてくれるみたいですけど、どうしますか」
「……おまえは、どう思う」
レーベに問いを投げ返したのは、カイルの中にまだ迷いがあったためだった。
血縁について調べて構わない、とリリアには言った。
だが、実際に薬が完成したと聞かされると、やはり心が揺らぐ。
もしも本当に、自分がクランの子ではないと証明されてしまったら――
(落ち着け。何も問題はないはずだ)
そもそもの話、カイルは「自分は公爵家の血を引いていない」という想定で動いていた。
レーベに公爵の地位を譲ることだって、そのひとつだ。
母親が不倫をしていた。その現実を正面から受け止めて生きてきた……つもりだった。
だが、実際にはどうなのだろう。
本当にすべてを割り切れているなら、今、どうして心臓の鼓動がうるさいのか。
ドクン、ドクンという音が身体の外にまで響いているようにも感じられた。
「僕は、きちんと調べてもらうべきだと思います」
レーベは、まっすぐにカイルを見据えて答えた。
「公爵家の血を引いていないかもしれない|から。そんな曖昧な理由で地位を譲られるなんて、正直、納得できません。……兄さんの気持ちも分かるし、どうにか受け入れようとしてきましたけど、やっぱり無理でした。血縁についてはっきりさせたいです。けど……」
「どうした? 遠慮するな。最後まで言うといい」
「兄さんが嫌なら無理強いはしません。リリアさんにも、血縁鑑定は中止するように伝えます」
「そういうわけにはいかない。以前、リリアには許可を出している。俺がグランデル公爵家の血を引いているかどうか調べてもいい、と」
「兄さんはいつもそうですね」
いつも穏やかなレーベにしては珍しく、その声にはわずかだが怒気が混じっていた。
「前に言ったから、意見を変えるわけにはいかないから。いつも理屈ばかり。……僕は、今の兄さんの気持ちが知りたいんです。それとも、弟にも本音は話せませんか」
「俺は……」
カイルは視線を彷徨わせる。
俺の気持ち。
自分のことなのに、うまく言葉にならない。
こんなとき――迷いがあるとき、いつもならどうするか。
執務机の引き出しを開く。
中には赤いスカーフが入っていた。
父親の形見。
それに手を触れて、うすく、瞼を閉じる。
『カイル、迷ったら前に進め』
ふと、頭をよぎったのは父親であるクランの言葉だった。
『わたしも、おまえの祖父も、曾祖父も、グランデル家の男は皆そうしてきた。
一番よくないのは足を止めることだ。進めば、いずれどこかに辿り着けるからな』
その言葉は、カイルにとって導きになった。
(ありがとう、父さん)
瞼を開き、スカーフから手を放す。
引き出しを閉じ、まっすぐにレーベを見据えた。
答える。
「俺は、心のどこかでは期待していたんだ。もしかしたら父さんと血が繋がっているんじゃないかって。血縁鑑定でそれが否定されるのが……恐い」
「じゃあ、断りますか」
「いや。――やろう」
カイルは椅子から立ち上がる。
表情から迷いは消えていた。
強い口調で告げる。
「俺も知りたい。自分が、誰の子供なのか」
「じゃあ、リリアさんにもそう伝えますね」
ふっとレーベの表情が和らぐ。
兄が本心を明かし、決断を下したことを喜んでいるのかもしれない。
「それには及ばない。俺が言おう」
「おや、僕がリリアさんとおしゃべりするチャンスを横取りするつもりですか」
「おまえだって兄の妻を横取りしようと狙ってるんだ、お互い様だろう」
互いに、軽口を交わして小さく笑い合う。
カイルは、レーベとの距離が前よりも縮まったように感じていた。
「ところで、実際のところはどうなんだ。俺は父さんの子供と思うか」
「はい」
即答だった。
強い確信を込めた口調で、レーベは言い切る。
「根拠もありますよ」
「ほう?」
「戦場では華々しく活躍しているのに、屋敷では別人みたいにクヨクヨ、オロオロ。情けないところが、父さんそっくりですから」
「……どうして俺は悪口を言われてるんだ」
「いいじゃないですか。今からリリアさんとお喋りするんでしょう?」
「違う。血縁鑑定について改めて許可を出すだけだ」
「はいはい。僕は自室で本でも読んでますから、夕食までには帰ってきてくださいね」
だが――
カイルは執務室を出たところでギリアムに遭遇し、さらには領内の街から届いた収支報告書に不自然な点があるとのことでチェックに時間を取られることになってしまう。
結局、自由な時間を得られたのは夜になってからだった。
「あらまあ、カイル様。今夜も奥様のところへお散歩ですか。どうぞごゆっくり」
廊下で鉢合わせた古参のメイドから暖かい視線で見送られつつ、屋敷を出る。
(いろいろと勘違いされている気がするな……)
リリアのところに向かう、という点では合っている。
だが、あくまでも彼女に会って話をするだけだ。
屋敷の者たちが想像しているようなアレコレは存在しない。
何をどう間違えても存在しないはずなのだ。
(落ち着け)
不埒な妄想が浮かびかけるのを、頭を振ってかき消した。
ほどなくして工房に到着する。
一階の窓からは光が漏れていた。
(まだ起きているみたいだな)
寝ているようなら出直すつもりだったので、ホッとしながら玄関の扉をノックする。
「カイルだ。こんな時間にすまない。少しいいだろうか」
「はーい! 大丈夫ですよー!」
返事はいつもと変わらぬ明るい声だった。
カイルは自然と頬が緩むのを感じていた。
建物の中からパタパタと軽快な足音が響き、ギィ、と扉が開く。
「こんばんは、カイル様。何でしょう?」
リリアはチェック柄のエプロンを身に着けていた。
その端には薬草と思しき緑色の破片がくっついている。
「作業中だったか。邪魔をしてしまったな」
「いえいえ、お気になさらず! もう終わりましたから! そもそもカイル様からのご用事とあらば最優先ですよ!」
最優先。
その言葉が妙にくすぐったく感じられた。
(何を喜んでいるんだ、俺は)
カイルは我に返ると、己の感情を握りつぶすように右手を自分の胸元に当てた。
リリアとしては「出資者からの用事なのだから最優先する」くらいの意味だろう。
気を取り直して、会話を続ける。
「明日の報告会について、伝達事項があるんだ」
やけに固い言い回しになってしまったのは、自制のためか。
あるいは、重要な決断を伝えるからか。
カイル自身も分からないが、一瞬の間を置き、本題に入ろうとしたところで――
「立ち話もなんですし、とりあえず中に入りませんか?」
リリアはにこやかに提案した。
するりとカイルの後ろに回り、両手で遠慮なく背中を押してくる。
「まだまだ外は寒いですからね。さあさあ、どうぞ」
「わ、わかった……」
その無邪気な勢いに抗うことはできず、カイルは建物の中へ足を踏み入れる。
玄関から廊下、そして実験室へ。
部屋の中には清々しい香りが満ちていた。
テーブルのひとつにはすり鉢とすりこぎ棒が置かれており、近くに何種類かのハーブが並べられている。
どうやら薬の調合をしていたらしい。
「あっ、すぐに片付けますね。ちょうど終わったところですし」
リリアは手慣れた様子で器具などをしまうと、さらにティーセットを並べ、ハーブティとクッキーを用意してくれた。
「せっかく来てくださいましたし、夜のお茶会でもしましょうか」
「気を遣わせてしまったな、すまない」
「そんなことありませんよ。せっかく来てくださったんですから、おもてなしをするのは当然のことです。ご用事は、明日の報告会についてでしたっけ?」
「ああ」
カイルは小さく頷きつつ、ハーブティに口を運ぶ。
だが、その香りを楽しむほどの余裕はなかった。
「血縁鑑定の薬が完成したそうだな」
「はい! お屋敷の人たちで試させてもらいましたが、きっちり鑑別できてましたよ!」
リリアは頼もしい調子で答える。
表情からして、薬の出来にはかなりの自信があるようだ。
「レーベ様から聞いているとは思いますが、明日の研究報告会では、カイル様がグランデル公爵家の血を引いているかどうかをその場で調べようと思ってます。いかがですか」
「……頼む」
躊躇は、一瞬だけ。
意を決して、答えた。
「俺が誰の子供なのか、はっきりさせてくれ」
「合点承知です! カイル様ならそう仰ると思っていました!」
カイルの重い決断に対し、リリアは歓迎するように満面の笑みを浮かべ、胸を張って応じた。
「断られるとは思ってなかったのか? ……以前に許可を出したのは俺だが、血縁鑑定というのは複雑な問題だ。前言撤回だってありうるだろう」
「カイル様がそんなことをするはずありませんよ。だって、とっても勇敢な方じゃないですか! 蛮族が攻めてくるたび、ご自身が最前線に立って戦っていらっしゃいますし、この冬だって、直接、騎士たちを率いて暴れ熊の退治に向かわれましたよね」
「無事に退治できたのは、君のシビレ薬のおかげだがな」
そう答えつつ、カイルは困ったように頬を掻く。
蛮族の撃退。
暴れ熊の討伐。
いずれも領主として当然の責務を果たしただけ。
カイルとしてはそう思っているし、賞賛の言葉を聞き流すことは慣れているのだが、リリアに褒められると胸の奥がくすぐったくなる。
「俺が勇敢でいられるのは戦場だけだよ。普段は、自分の生まれにクヨクヨしてばかりの情けない男さ」
ぽつりと、弱音とも自嘲ともつかぬ言葉が零れ落ちた。
普段なら絶対に人前で口にしないような内容だ。
重大な決断を伝え終えた安堵で、気が緩んでいたせいか。
あるいは――
彼女の前だからこそ、素直な気持ちを明かしてしまったのかもしれない。
「そんなに卑下しないでください。……人間は、誰も生まれから逃れられませんから」
リリアの口調は穏やかで、カイルの心にじんわりと染み入るようなものだった。
思わず彼女を見つめる。
そこには普段の明るい笑顔とは異なる、優しくも真剣な表情が浮かんでいた。
「私は黒目黒髪で『魔女の先祖返り』なんて言われてますしね。おかげで、貴族家のお嬢さんたちからは距離を取られていましたし」
「……そうらしいな」
現在、リリアは多くの者から評価されているが、かつては貴族社会において爪弾きにされていたらしい。
当時の彼女がどれほどの冷たい視線を浴びせられ、孤独を感じてきたか。
それを思うと、カイルの胸には小さな痛みが走る。
「黒目黒髪って、この国だと暗く思われるじゃないですか。不気味がられるのも嫌だったので、子供の時からどんなときも明るく振る舞うようにしてたんです。私が元気にしていると、両親も安心してくれますし」
「……君も、自分の生まれには苦労していたんだな」
考えてみれば、当然のことかもしれない。
黒目黒髪で生まれただけで『魔女の先祖返り』と呼ばれ、偏見と好奇の視線に晒される。
そんな環境で、何も感じずにいられる人間などいない。
ただ、リリアはそんな生まれを笑顔で塗り潰して生きてきた。
(強いな。俺よりもずっと)
素直に、そう感じた。
「まあ、今となってはこれもアリかな、って思ってますけどね!」
リリアはひょいと肩をすくめて、いつもの明るい調子に戻った 。
「社交界に居場所がないぶん、お茶会とか舞踏会とかに行かずに済んで、研究に打ち込めましたからね。カイル様の生まれについても、いつか『別にいいや』って思える日が来ますよ! たぶん!」
「……そこは断言してほしかったな」
カイルは苦笑する。
胸の中は不思議と暖かくなっていた。
いつか。
たぶん。
不確定な未来を語る言葉に過ぎないが、リリアから聞かされると現実味を帯びて感じられた。
自分の生まれについて、肯定的に捉えられる日が来るかもしれない。
そんな期待を抱くことができた。
きっと、彼女の持つ明るさのおかげだろう。
一緒にいると、まるで焚火のそばにいるような暖かさを感じる。
だが――
「これは仮定の話なんだが」
ぬくもりを意識すれば、失う時のことを考えてしまうのがカイルという男である。
それはもしかすると母親の裏切りによって刻まれたトラウマの発露かもしれなかった。
「血縁鑑定の結果、俺が公爵家の血を引いていないことが分かったとしよう。その場合、君は契約結婚を続けるのか」
「え?」
リリアは意外そうに瞬きをする。
どうしてそんなことを訊くんですか、と言わんばかりの表情だった。
「続けますよ。だって契約内容とは無関係じゃないですか。離婚の条件は『恋愛禁止・接触最小限・子ども厳禁』を私が破った場合ですし」
「……すまない、変なことを訊いてしまったな」
答えながら、カイルは己を恥じる。
(なぜ、リリアが離れるかもしれない、なんて考えたんだ)
これが一般的な婚姻関係であり、なおかつ、相手が一般的な貴族家の女性であったなら、カイルが正統な公爵家の人間ではなかったことを理由として離婚を求めてくるだろう。
そのまま妻としての立場を維持していても、貴族社会では『はずれくじを引いた女』として笑い者にされるだけだし、自分の子供が次の公爵になれるわけでもないからだ。
だが、自分達の関係はあくまで契約結婚で、リリアは「一般的な貴族家の女性」の枠からは大きく外れている。
彼女が離れていく可能性など最初から考える必要がない。
(無意味な質問をしてしまったな……)
後悔しつつ、だが、同時に安堵していた。
自分が何者であろうと、少なくとも契約結婚の期間中、彼女はここにいる。
その事実が、カイルの心に温度を齎していた。
**
翌日――
工房の実験室には、リリアとカイル、そしてレーベの姿があった。
空気がいつもより堅いのは、今日の研究報告会の内容ゆえだろうか。
「それじゃあ、血縁鑑定を始めていきますね! まずは例をお見せしましょう!」
リリアは明るい声で宣言すると、棚から小さな薬瓶を3つ取り出した。
それぞれ「オットー」「テレサ」「カイル」という手描きのラベルが貼られていた。
いずれも、瓶の中では無色透明の液体が揺れている。
「この3つは私の父、このお屋敷のメイドさん、そしてカイル様の血液から作成した鑑定薬です。血縁関係を知りたい相手の血液と混ぜまして、血の繋がりがあれば濃い青色に変わります。まずは例をお見せしましょうか」
そう言ってリリアは戸棚から平たいガラスの容器を2つ取り出した。
いずれも微量だが赤い液体……血液が入っている。
「これはどっちも私の血液ですね。鑑定薬と混ぜてみます」
今になって気付いたが、リリアは左手の小指に包帯を巻いていた。
おそらく針か何かでチクリと指先を刺して血液を絞り出したのだろう。
以前、カイルも鑑定薬の作成のために同じことをやられたが、意外に痛かったのを覚えている。
「まずは父と私の血縁関係から確かめましょうか」
リリアは小さなスプーンで試薬をすくうと、自分の血液と混ぜる。
最初、鑑定薬は血液の色――赤色に染まったが、ほどなくして青色に変わった。
「次は比較対象として、テレサさんとの血縁関係を見ますね」
ちなみにテレサというのは、カイルがよく廊下で出くわす中年のメイドの名前だ。
リリアのことがお気に入りらしいので、喜んで試薬の材料を提供してくれたのだろう。
テレサ由来の鑑定薬は、血液と混ざると赤色に染まり……そのまま変化しなかった。
「親子ではないから青色にならなかった、ということか」
「正解です!」
パチン、と指を鳴らしてリリアが頷く。
「厳密に言えば、共通する『イデンシ』が少ないから色が変わらなかったんですけどね」
「『イデンシ』の多くが共通していれば鑑定薬は青色になる。そういうことでしょうか」
そう質問したのはレーベだ。
口ぶりから考えるに、弟もすでにリリアから『イデンシ』についての説明を受けていたのだろう。
タイミングとしては屋敷に戻ってから今日までのどこか、といったところか。
自分がいないところでリリアに会うことを許可したのは他ならぬカイル自身だが、改めて意識すると、胸の奥が焦げ付くような感情が浮かび上がってくる。
(落ち着け。今はもっと重要なことがあるだろう)
カイルは深呼吸をすると、気持ちを切り替える。
リリアの血液を用いたデモンストレーションは終わった。
本番はここからだ。
自分がグランデル公爵家の血を引いているかどうか。
人生を左右するほどの審判が、これから下される。
ただ、疑問がないわけではない。
カイルの父、クラン・グランデルはすでに故人だ。
血液など残っているはずもないのだから、血縁関係を調べることは不可能のはずだ。
この時、カイルは見落としていた。
おそらくは亡き父への思いが強すぎたせいだろう。
クランの血液そのものがなくとも、自分がグランデル公爵家の血を引いているかどうかは調べられるのだ。
「レーベ様がお訊ねになったように『イデンシ』の共通点が多ければ鑑定薬の色は変わります。今回、カイル様の血縁を調べるにあたってはこの原理を利用します」
そう言いながらリリアは戸棚から小さな瓶を取り出す。
中にはたくさんの細い針が入っていた。
「というわけでレーベ様、血液を頂いてもよろしいでしょうか」
「待ってくれ」
小さく手を上げ、カイルは疑問を口にする。
「なぜレーベの血が必要なんだ? 俺が公爵家の血を引いているかどうか調べるなら、父上――クランの血液から試薬を作るべきじゃないのか?」
「いえいえ、レーベ様の血液で大丈夫ですよ。以前に申し上げたように、親から子供には『イデンシ』という成分が受け継がれます。つまりレーベ様の血液には、先代公爵であるクラン様の『イデンシ』が入っているんです」
「……ああ、なるほど」
カイルは納得の声を上げる。
「俺が父上の子供であるなら、当然、その『イデンシ』を継いでいる。鑑定薬をレーベの血液と混ぜたなら色が変わるはず、ということか」
逆に、カイルは母親とその不倫相手との子供であるなら、レーベとのあいだに『イデンシ』の共通点はない。
鑑定薬と血液を混ぜても色はそのままとなる。
「親がすでに亡くなっていても、存在は子供に受け継がれている。それを応用して血縁関係を調べる、ということか」
「大正解です! ではではやっていきましょう! レーベ様。指先をチクッと刺しますけど、我慢してくださいね」
「平気です。僕も、グランデル公爵家の男ですから」
レーベは、ふんす、と腕まくりすると右手をリリアに差し出す。
刺すのは指先なのでわざわざ袖をめくる必要はないのだが、それだけ気合を入れている、ということなのだろう。
あるいは、好きな女性の前だからこそ張り切っているのかもしれない。
まあ、リリアはまったく気付いていなさそうだが……。
「そういえば古文書には『チュウシャバリ』っていう細い金属の針で血液を採る方法も紹介されてまして、いま、職人さんにお願いして作ってもらっているところなんです。……はい、終わりましたよ」
「……ぜんぜん痛くありませんでした」
「これも魔女の知恵なんですけど、話で気を逸らしながら刺すのがコツらしいです。人間の痛覚って、心理的なものも大きいそうですから」
「確かに、身に覚えがあるな」
カイルは戦場での出来事を思い返しながら頷く。
敵と激しく斬り合った後、陣地に戻ってから自分が負傷していたことに気付く……というのは、騎士ならば誰もが一度は経験している。
命のやりとりをしているときは必死ゆえに、痛みに対して鈍感になっているのだろう
「それでは混ぜますね」
新たに用意されたガラス製の平たい容器には、レーベの血液が採取されている。
リリアは小さなスプーンで鑑定薬を掬った。
容器の上に持っていき、傾ける。
それはわずか数秒の出来事ではあったが、カイルにはひどくゆっくりに思えた。
戦場で強敵と刃を交えている時、極限まで高まった集中力ゆえに時間が止まって感じられることもあるが、それに近い。
当然と言えば当然だろう。
自分が誰の子供なのか。
カイルにとっては、文字通り、一生を左右する問題に答えが出ようとしているのだから。
スプーンから垂らされた鑑定薬が、血液に触れる。
色は、変わらない。
(やはり、俺は)
カイルは自分の胸がキュッと締まるような感覚を覚える。
呻き声が漏れそうになった、その時――
「じゃあ、混ぜますね」
リリアはそう宣言して、スプーンで鑑定薬と血液を混ぜた。
そういえば、先程も混ぜる作業を行っていた。
(結論を急ぎ過ぎたな……)
カイルが己を恥じているあいだに、鑑定薬は青色に変わっていた。
それは『イデンシ』の一致を示す色だ。
つまり。
「俺はグランデル公爵家の……」
カイルの声は震えていた。
不倫相手との子供ではない、と分かったこともそうだが、優しい父の存在が自分の中に受け継がれている、ということが嬉しかった。
「ほら、僕の言った通りじゃないですか。クヨクヨしてばかりのところは父さんそっくりだ、って」
憎まれ口を叩きつつも、レーベはくたりと机に突っ伏して安堵のため息をついた。
兄の生まれについて、まるで我が事のように案じていたことがその姿から分かった。
「ああ、おまえの言う通りだったよ」
カイルはクスッと笑いながら、レーベの頭をポンポンと撫でる。
かつて幼い頃、そうしていたように。
「私もひと安心です! これで鑑定薬の色が変わらなかったら、気まずいなんてレベルの話じゃないですからね!」
リリアはおどけるように明るく笑いつつ、実験器具の片付けを始める。
「さてさて、カイル様。自分がちゃーんと公爵家の血を引いているって分かった感想はいかがでしょうか?」
「安心した。それが素直な気持ちだよ。……自分が何者なのか。小さい頃からずっと悩んできたからな」
そう答えると、カイルは机に突っ伏したままのレーベに視線を向けた。
「ついでに言うなら、弟がこんなにも俺のことを案じてくれていた、というのは意外だったよ」
「当たり前じゃないですか」
顔だけこちらに向けて、レーベが口先を尖らせる。
「この世にたった2人の兄弟なんですから、心配するに決まってます。……昔から、僕がどれだけ言っても兄さんは『自分は公爵家の人間じゃないかもしれない』って悩んでばっかりで、だからリリアさんに相談して……。あっ」
「ん?」
「……なんでもありません」
レーベの目が泳ぐ。
隠し事をしているのは明らかだった。
「さすがにごまかすのは無理だと思いますよ!」
クスクスと笑いながらリリアが告げる。
「腹を括って、ちゃんと話したらどうですか?」
「……分かりました」
レーベは突っ伏した姿勢から、むくり、と身を起こす。
「去年の夏休み、兄さんがいない時にこっそり僕がリリアさんに相談したんです。血縁鑑定の薬を作れないか、って」
「おまえが?」
「なんですか、ダメですか。僕が兄さんのことを気に掛けちゃいけないんですか」
「いや、そんなことはないさ」
拗ねたように言い募る弟に苦笑しつつ、カイルが答える。
「ありがとうな、レーベ」
「……どういたしまして」
レーベは目を逸らしつつ、小さく頷いた。
「美しき兄弟愛、ですね!」
リリアが満面の笑みで締めくくると、さらに、いたずらっぽい様子でこう言い添えた。
「さてさて、今回の血縁鑑定はいかがでしたか? もしご満足いただけたら、研究予算の増額をお願いします! なんちゃって」
「……検討しよう」
カイルはふっと口元を緩めた 。
春の陽気を予感させる穏やかな空気が、周囲に満ちていた
**
研究報告会が終わった、その日の夜――。
カイルは自分の執務室に戻ると、机の引き出しを開いた。
公爵家当主のあかしである、赤色のスカーフを取り出す。
「父さん。俺は、貴方の子供だったよ」
当たり前だろう、いまさら何を言っているんだ。
そう言って嘆息する父、クランの声が聞こえたような気がした。
カイルはしばらくスカーフを眺めたあと、
「よし」
と意を決したように呟き、それをゆっくりとした動作で首に巻いた。
羽のような肌触りがしっくりくる。
執務室の上に置いてある鏡に視線を向ければ、赤いスカーフを身に着けた自分自身が映っていた。
「似合っている、かな」
在りし日の父親の姿が頭をよぎる。
自分もあんなふうに、戦場においては勇ましく、家庭においては優しい男でいたいものだ。
まあ、優しさゆえに小さなことでクヨクヨしがちだったが。
(父さんは、よく女性不信にならなかったな)
母親であるイザベラの不倫により、カイルは貴族家の女性というものに対して不信感を持つようになった。
では、もうひとりの不倫の「被害者」である父、クランはどうだったのだろう。
少なくともカイルの記憶にある範囲では、女性への不信感どころかイザベラへの恨み言さえ漏らしていなかった。
子供の前だからと自制していたのであれば、それは立派なことだろう。
(俺も、いつまでも母親のことを引きずっているべきじゃないな)
そんなふうに考えられるのは、自分の出自がはっきりしたおかげかもしれない。
リリアの手によってもたらされた確かな結果が、カイルの心に変化をもたらしていた。
今までなら母親のことを考えるたび険しい顔になっていたが、鏡に映る自分の表情は穏やかなままだった。
……コンコン、コンコン。
ノックの音が聞こえた。
「兄さん、入ってもいいですか」
「もちろん。大丈夫だとも」
どうやらレーベが来たらしい。
カイルはスカーフを首に巻いたままレーベを出迎えた。
「どうした、こんな時間に」
「兄さんと話をしようと思いまして。……スカーフ、やっと身に着ける気になったんですね」
レーベはふっと口元に笑みを浮かべながら肩を竦める。
「似合ってますよ。きっと父さんも天国で喜んでます」
「だといいけどな。何か飲むか? この時間ならまだ使用人も起きているだろう」
「お気遣いなく。よければ外に行きませんか」
「夜の散歩か。今日は暖かいし、ちょうどいいな」
カイルは頷き、そのままレーベを連れて執務室を離れる。
今夜は幸い(?)、使用人に出会うことはなかった。
2人は外に出ると、公爵邸の広い庭を歩き始める。
あちらこちらで多くの花が咲き始めており、春の到来を感じさせた。
「兄さん、気分はどうですか。自分がクラン父さんの血を引いているって分かって」
問いかけるレーベの声は柔らかい。
「すっきりした、かな。胸のつかえがとれた気分だよ」
「それならよかったです。いつも悩んでばかりの兄さんを見ているのは、辛いものがありましたから」
「気苦労を掛けてすまなかったな」
「まったくですよ」
レーベは苦笑しながら肩を竦める。
「僕がどれだけ『兄さんは父さんの子供だ』って言っても聞いてくれませんし」
「うっ。それはすまなかった……」
「リリアさんには感謝してもしきれませんよ。やっと兄さんを呪いから解放してくれましたから」
呪い。
すなわち、自分は公爵家の人間ではないかもしれない、という疑念。
それは長年に渡ってカイルの人生を縛り続けてきた
だが、今はもう違う。
「ところで兄さん。自分がグランデル家の引いているって納得できたからには、色々と前提が変わってきますよね」
「どういうことだ?」
カイルが怪訝そうに尋ねると、レーベはその場で足を止めた。
すっと真顔になって、こちらを見上げてくる。
「2年後に公爵の座を降りるって話は、自分がグランデル家の人間じゃないかもしれないから、って理由でしたよね。けれど、兄さんは父さんの子供だと証明されました。――僕に公爵位を譲る理由はもう存在しない」
まっすぐな瞳で告げられたその言葉に、カイルの足が自然と止まる。
少し考えて、こう答えた。
「安心してくれ、レーベ。一度決めたことを覆すつもりは――」
「前提が変わったんですから、考え直してもいいんですよ」
その言葉は、カイルの言葉を遮るように、だが強く響いた 。
「というか、公爵位については好きにしてください。譲ろうが、譲るまいが、兄さんが納得できれば僕は満足です」
そう言い切るレーベの口調には、一点の迷いもなかった。
カイルの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
弟なりに、自分のことを思ってくれている。
そのことが十分に伝わってきた。
だが――
「もっと重要なことが、他にあります」
レーベの声色が、少しだけ固くなった。
それだけ重要な内容なのだろう、とカイルは身構える。
「兄さんが女性を避けているのは、イザベラさんのせいで女性不信になってしまったのが大きいでしょうけど、他にも理由がありますよね。――グランデル家の血を引いているかどうか分からない自分が子供を残してはならない。そう考えていませんでしたか」
「……おまえに話したことは、なかったはずだが」
恋愛禁止。
接触最小限。
子ども厳禁。
契約結婚における条件でもあるこの3つは、カイルがもともと己に課していたものだった。
理由はまさしく、レーベの言った通り。
公爵家のものかどうか分からない血を残すわけにはいかない。
なので恋愛も結婚もせず、子供も持たない。
ただ、その考えを弟に打ち明けた記憶はなかった。
「兄さんを見ていれば分かりますよ。小さい頃からずっと一緒にいたんですから」
呆れたようにレーベが告げる。
「でも、今はもう前提が変わりましたよね」
「……ああ」
自分はグランデル公爵家の人間だ。
胸を張ってそう言える。
「だったら、改めて考えてください。――兄さんは、リリアさんのことをどう思っていますか」
その問いは、以前にもレーベに突き付けられたものだった。
当時のカイルは「好感の持てる人柄」という腰の引けた言葉しか返せなかった。
今はどうだろう。
「俺は」
言葉の先が続かず、無言で空を仰ぐ。
彼女のことを考える。
カイルはリリアと関わる時に「接触最小限、接触最小限……」と自分によく言い聞かせていた。
逆に言えば、わざわざ自制せねばならないほど彼女との交流を求めていたのではないか。
人を惹きつける、陽気な笑顔。
研究について語る、楽しそうな声。
病で倒れた自分を看病してくれた、優しい手。
――人間は、誰も生まれから逃れられませんから。
いつかの言葉。
リリアが、ただ明るいだけの女性ではないと知った。
天真爛漫でありながらも、内面では多くのことを考え、周囲に気を配っていた。
そんな彼女がとても愛おしく思えて。
(ああ、そうか)
己を縛っていた枷がなくなった今、自分の感情をようやく素直に受け入れることができた。
「俺は、リリアのことが一人の女性として好き、だと思う」
「そこはハッキリ言い切りましょうよ」
レーベが苦笑交じりに呟く。
表情は、どこか安堵したようだった。
「でも、兄さんがちゃんと自分の気持ちを受け入れてくれて安心しました。これで、ようやく正々堂々と勝負できます」
「勝負? 決闘でもするのか?」
「それはユリウスのやつに任せます。あいつはセルヴァン侯爵領へ里帰りのついでに、父親のエドガーさんに特訓してもらってるみたいですし。夏休みにはうちに乗り込んでくるかもしれませんね」
「覚悟しておこう」
「兄さんが負けるわけありませんよ」
当たり前のようにレーベが言ってのける。
実際、百戦錬磨のカイルが敗北することはありえないが、口調には兄への強い信頼が籠っていた。
「まあ、決闘のことはさておき、僕もリリアさんのことが好きです。……最初は諦めようとしたんですよ? 兄さんも彼女に惹かれているみたいでしたし。研究報告会をしたらどうだって言ったのも、二人の接触の機会を増やすためですし」
「待ってくれ」
カイルは思わず口を挟む。
「おまえが研究報告会を提案したのは去年の夏だったな。……あの時の俺はまだリリアとさほど交流していなかったはずだ」
「けれど、好感は持ってたんじゃないですか」
「……否定はしない」
言葉を交わすことは少なかったが、陽気に挨拶しながら去っていくリリアを見るたび、当時のカイルはなんだか明るい気持ちになっていた。
顔を見ない日は、彼女がどこかにいないかと無意識に眼で探していることさえあった。
今になって振り返れば、自分はかなり早い時期からリリアという女性に惹かれていたのかもしれない。
「ただ、僕はどうやら諦めの悪い男だったみたいです。やっぱりリリアさんが欲しい。だから――」
「俺との契約結婚が終わるのを待って、彼女に求婚する。そんなところだろう」
「よく分かりましたね」
「兄弟だからな」
カイルはフッと口元を緩めて肩を竦める。
「以前、おまえは冗談と言って流したが、あれは俺の反応を探るためだったんだろう?」
「兄さんが自分の感情をきちんと自覚していないみたいでしたから、ひとまず撤回しましたけどね」
レーベはコクリと頷きながら答える。
「けど、今はもう自覚したみたいだから、あらためて宣言しますよ。――兄さんとリリアさんが契約通りに離婚したら、すぐに求婚します。公爵位を譲られようと、譲られまいと」
「彼女がそれに応じるかどうかは分からないぞ」
「OKがもらえるように努力しますよ。まだ2年ありますからね」
「2年のあいだに、契約結婚が本当の結婚に変わったらどうする」
「そのときは僕の負けです。さすがに潔く祝福しますよ。……まあ、今まで女性を遠ざけてばかりだった兄さんには難しそうですけどね」
「なんだと、こいつめ」
レーベの口調はからかうようなものだった。
兄弟のじゃれあいと分かっているので、わざとらしくカイルは怒ってみせる。
掴みかかるフリをしながら、レーベの髪をわしゃわしゃと撫でた。
「くすぐったいですよ、兄さん」
「うるさい。おまえなんか、こうしてやる」
「髪型が崩れますってば。父さんみたいにハゲたらどうするんですか」
「リリアに増毛剤を発明してくれるように頼んでやる」
兄弟の笑い声が、春の夜の庭に穏やかに響く。
そんな時だった。
――ガサッ。
少し離れたところで茂みが揺れた。
カイルが顔を上げると、宵闇の中で遠ざかる人影が見えた……ような気がした。
(誰だ?)
一歩踏み出しかけて、やめる。
勘違いかもしれない。
今は弟と過ごす時間を優先しよう。
風が通り、葉擦れの音だけが残った。
キリがいいのでここで一区切りとさせてください。いずれ続きを書くかも。
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余談:たぶんカイルよりもレーベのほうがややこしい性格




