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前編

お菓子のねるねるねるね、好きですか? わたしは好きです。大人になっても食べてます。

「君との結婚は、俺が弟に公爵位を譲るまでの3年間、厄介事を避けるためのものだ。『恋愛禁止、接触最小限、子ども厳禁』――この3つは絶対に守ってくれ。いいな?」


「もちろん分かってますよ! どーんと任せてください!」


「……俺はもう不安になってきたよ」


 恋愛禁止と子ども厳禁については大丈夫だろうが、接触最小限はどうだろう。

 契約結婚の相手は、やたらと明るく、押しが強く、なにより勢いのある女性だった。


 **


 グランデル公爵家の若き当主――カイル・グランデルは、陽光のように輝く金髪を持ち、涼しげな灰色の瞳を宿した美貌の持ち主だ。


 昨年には北方の蛮族との戦いにおいて一騎当千の活躍を遂げており、国王じきじきに勲章を手渡されている。


 公爵家当主という確かな地位を持ち、若く、外見も整っており、しかも戦で手柄を挙げた人物となれば、貴族家の令嬢たちの熱い視線を集めるのも当然のことだろう。


 結果としてカイルのもとには大量の恋文と縁談の山が積み上がり、公務の妨げとなっていた。

 その流れを断ち切るため、彼はひとまずの契約結婚を行うことにした。

 期間は3年、その後は円満に解消。


 相手の名前はリリア、エストラ子爵家の次女だ。


 エストラ子爵家は古くから商会を経営しているが、最近は赤字が続いており財政破綻まで秒読みとなっている。


 商会への支援を含めたいくつかの見返りを条件として、リリアは契約結婚に応じた。


 執事長のギリアムが前もって調べてくれた情報によると、リリアは魔女の血を引いており、先祖返りの黒目黒髪、実家に伝わる古文書を片手に薬の研究に没頭しているらしい。


(きっと物静かで、世俗に疎く、こちらに干渉してこないはずだ)


 そんな安易な思い込みで、顔合わせも式も省略して契約を交わしたが――実際に現れたのは、陽気で元気いっぱいの女性だった。


「カイル様、なんだかお疲れみたいですね! 実はいいハーブを持ってきてるんです、焚きましょうか? 気分がよく眠れますよ! 今ならなんと無料で提供、結婚初日限定のサービスです!」


「……気遣いには感謝するが、遠慮しておこう」


 どうにか平静さを保って返事をしたが、カイルは内心で大きく混乱していた。


 事前情報からの予想と違ってリリアがやたらと騒がしいこともそうだが、なにより、彼がこれまで接してきた「この国の貴族令嬢」とは何もかもが違い過ぎた。


 こちらの気を惹こうとか、あわよくば他の令嬢たちを出し抜いて特別な関係になろうとか、そういう下心がまったく感じられない。


 自分という「男」に対しての関心をまったく持たないまま、自然体で勢いよく距離を詰めてくる。


 そんな女性と接したのは初めてのことであり、カイルとしては戸惑わずにいられなかった。


「もし困ったことがあったらいつでも言ってくださいね! 私、カイル様にはものすごーく感謝してるんです。実家と商会を助けてくださって、しかも、私の研究にもお金を出してくれるとか! 契約結婚だけじゃ恩返しにならないですし、いつでも力になりますよ!」


 にこにこ笑顔で、黒髪の先をぴょこぴょこ揺らしながら、リリアはまっすぐカイルを見上げる。


 黒曜石のように輝く瞳はまっすぐで、純粋な感謝と喜びだけが輝いていた。 


 カイルは照れくさくなって、思わず視線を逸らす。


「俺からの話は終わりだ。あとは好きに過ごすといい」

「分かりました! そういえば敷地内に工房も建ててくださったんですよね。さっそく見に行ってきます。ではでは!」


 ここにいるのが普通の貴族令嬢なら「もっとカイル様とお喋りしたいですぅ」などと言いながら擦り寄ってくるところだろう。


 だが、リリアはくるっと踊るように回れ右をすると、軽やかな足取りで執務室を出て行った。


「る~らら~♪ 新しい日々~♪ うれしいな~♪」


 それどころかドアの向こうからは自作の歌(?)までも聞こえてくる。


「『お飾りの妻』にしてはずいぶんと騒がしいな」


 そう呟いた彼の口元は、ほんの僅かに緩んでいた。


 ただ、本人はそのことに気付いていなかった。


 **


 遠い昔、かつてこの世界には魔法というものが存在していたらしい。


 エストラ子爵家の初代当主にあたる人物は、遠い東の国から来た『魔女』を妻に迎え、彼女の力に助けられながら領地を開拓していった。


 名前こそ残っていないが、エストラ子爵家の記録によると魔女は黒目黒髪という珍しい外見の持ち主で、魔法だけでなく医学、薬学、錬金術といった様々な分野に長けた優秀な女性だったそうだ。


 そんな魔女の血を色濃く受け継いだのが『先祖返り』のリリアであり、現在のアークランド王国では唯一の黒目黒髪の持ち主だった。


「この子は貴族社会では不気味がられ、窮屈な思いをするだろう。アークランド王国はそういう場所だ」

「だったら、私たちだけはいつまでもリリアの味方になって、のびのびと育ててあげましょう」


 リリアが生まれた時、両親はそう決意してありったけの愛情を注ぐことにした。


 さらには兄や姉たちも同じようにリリアを蝶よ花よと褒めそやし、やりたいようにやらせていたそうだ。


「その結果、ああいう性格になった、と」


 執務室の椅子に背を預けながら、カイルは小さく苦笑する。


 机の上には、今朝に届いた厚手の便箋がある。


 差出人はエストラ子爵、リリアの父親だ。


 真面目な筆跡でびっしりと綴られたその手紙は、リリアがどのようにして育ったかを伝えるものだった。


 契約結婚が始まってから、およそ1ヶ月。


 リリアはその明るい人柄ですっかりグランデル公爵家に馴染んでおり、すでに屋敷の使用人たちとも打ち解けていた。


 台所では手製の焼き菓子を配って一緒に食べながら談笑し、ひとりひとりの名前をきちんと覚えて労いの言葉を掛ける。


 洗濯を干しているメイドには肌に効く軟膏を、強い日差しのなかで花の手入れをする庭師には日焼け止めのオイルを渡し「他に困ったことがあったら言ってくださいね!」と告げる。


 この結婚があくまで契約によるものと知らない使用人たちは


「公爵様は本当によい奥様をお迎えになりましたな」

「これでグランデル公爵家も安泰です」


 などと話しており、カイルとしては若干の気まずさを覚えつつも、リリアについて一つの疑問を抱いていた。


 彼女はいったいどんな育ち方をしてきたのだろう?


 ふとした興味から、カイルはエストラ子爵に手紙を送って問いかけた。


 ――リリアは昔からあの調子だったのでしょうか。


 そうして届いたのが、この分厚い便箋だ。


 両親だけでなく兄や姉からの愛情をいっぱいに受けて育ったリリアは、幼少期からやんちゃそのものだったらしい。


「新種の薬草を見つけて大儲けする!」と宣言し、野山を駆け巡ったり。


 道行く人を捕まえては「よく効くかもしれないポーションの実験をさせてくださーい!」と言い出したり。


 とにかく、貴族家の令嬢という枠組みには収まらないエピソードだらけだった。


 そして手紙の締めくくりには、こう書かれていた。


 ――リリアはいつか大きな成果を上げると信じています。どうか、公爵様のもとでも好きなだけ研究させてやってください。


「ここまで親に思われているとは、羨ましいな」


 便箋を静かに伏せ、カイルは呟く。


 現在、リリアは契約結婚にあたっての条件をきっちりと守っている。


 こちらに対して恋愛感情を持つ様子もなく、接触も最小限に留めている。


 せいぜい屋敷の廊下ですれ違った時に「こんちにはー! それではー!」と元気よく手を振って走り去るくらいである。


 そのせいか、使用人たちと話しているリリアを見るたび、自分だけが仲間外れにされているような、どこか物寂しい心地にさせられていた。


「彼女は契約どおり『接触最小限』を守っている。不満などあるものか」


 カイルは自分に言い聞かせるように呟く。


「最近では公務にも集中できるようになった。上々の成果だ」


 リリアとの結婚についてはすでに他の貴族たちの知るところとなっている。


 おかげで貴族令嬢たちからの恋文は激減した。


 彼女たちはいまごろ別の美男子のところに集まっているだろう。


「貴族家の女なんて、そんなものさ」


 顔のいい男と恋愛()()()をすることしか頭にない。


 ひどい場合は、結婚してもなお別の男と火遊びをしたがる。


 自分の母親……イザベラのように。


 ――結婚はね、不倫を楽しむための第一歩なのよ。


 15年前、先代当主にしてカイルの父親であるクラン・グランデルから離縁を言い渡されたとき、イザベラはそう言い放った。


 それはただの負け惜しみや強がりだったのかもしれない。


 だが、間近で聞いていた幼いカイルの心には深い傷を残していた。


 ――いいことを教えてあげる。カイルを授かった当時のカレにも灰色の瞳の人がいたの。


 カイルの瞳はどこか影のある灰色だが、父、クランの瞳は澄んだ青色だ。


 祖父のアッシュ・グランデルも灰色の瞳だったので、カイルの眼は代を隔てての遺伝(隔世遺伝)と言われているが、真相はどうなのだろう。


 もしかすると自分はグランデル家の血を引いておらず、母親とその不倫相手の子供かもしれない。


 その可能性は幼い頃からずっとカイルの胸を苛んでおり、父の死により公爵位を継ぐことになった後、彼にひとつの決断をさせていた。


「3年後、俺はレーベに当主の座を譲る。それでいい」


 もはや口癖となった言葉を呟きつつ、執務机の引き出しを開く。


 中には赤いスカーフが入っていた。


 それは先代公爵のクランが残した形見であり、グランデル家の血を引く正統な当主であることを示す“あかし”だ。


 カイルは公爵位を継いでから今日まで、赤いスカーフを首に巻いたことがない。


 スカーフを身に着けるべきは、グランデル家の血を引く、青い瞳の弟――レーベだと信じていた。


 **


 さらに1ヶ月が経ち、夏。

 庭の草木は盛んに葉を伸ばし、日差しが屋敷を明るく照らしている。


 例年ならば王都で騎士学校に通っているカイルの弟――レーベ・グランデルが里帰りをするのだが、今年は少しばかり事情が異なっていた。


 ――王都で剣と勉学に励みたいので、帰省は見送ります。心配無用。


 そっけない筆致の手紙が、カイルのもとに届いていた。


「無理もないか……」


 執務室の窓から王都の方角を眺めつつ、カイルが呟く。


 なぜレーベが帰ってこないのか。

 理由には心当たりがあった。


 契約結婚。

 双方の利益のため、いずれ離婚するという前提のもとになされる期間限定の結びつき。


 政略結婚の一種とも言えるし、アークランド王国の貴族社会においては数こそ多くないが前例もある。


 とはいえレーベはまだ15歳、思春期であり難しい年頃だ。


 理屈では理解できても、感情では納得できない。


 それが帰郷の拒否というかたちで現れたのだろう。


「……レーベは純真だからな」


 カイルは椅子の肘掛けに腕を預けながら、苦笑ともため息ともつかない呼気を吐いた。


 そもそもの話、レーベにとってカイルは「母親も違えば、父親も違うかもしれない」兄だ。


 内心では「汚らわしい存在」として距離を置きたがっているのではないか。


 そんな考えさえ浮かび――胸の奥がひりつくように痛んだ。


 **


 数日後。


 領内の視察を終えて馬車で公爵邸に戻ったカイルを出迎えたのは、いつも通り背筋を伸ばした老執事ギリアムだった――が、どこか様子が違った。


 整った白髪の下の目尻が、わずかに緩んでいる。


「おかえりなさいませ、カイル様。お疲れのところ恐れ入りますが……実は先程、急にレーベ様がお戻りになりまして」

「なんだって?」


 執務室に戻ろうとしていたカイルの足が止まる。


 レーベからの手紙には、王都に残る、と書いてあったはずだ。


 いったいどうして。


 困惑するカイルに、ギリアムはさらに予想外の言葉を告げる。


「レーベ様は奥様の工房にいらっしゃいます。どうやら薬学に興味があるようでして」

「工房に……?」


 訊き返した声には、動揺が滲んでいた。


 契約結婚にあたり、カイルは屋敷の敷地内にリリア専用の工房を用意している。


 本邸とは離れた場所に建てられたその場所に、カイル自身が足を踏み入れたことは一度もない。


 リリアからは「いつでも見学に来てくださいね!」と言われており、実際、カイルも足を運びかけたこともあるが、そのたびに「接触最小限、接触最小限……」と唱えて自制していた。


 だから、急に帰ってきたレーベが工房にいると聞いて、思ってしまったのだ。


「羨まし……いや、気の迷いだな。うん」

「カイル様、どうされました?」

「いや、なんでもない」


 平静を装いながら答えつつ、カイルは思考を巡らせる。


 リリアについての情報は、契約結婚が始まる前にレーベにも共有している。


 ただ、その時の反応といえば、


「相手のことなんてどうでもいいです。会うつもりもありませんし」


 という突き放したものだった。


 なのに、わざわざリリアの工房を訊ねている?


 いったいどうして。


 まさかとは思うが、リリアが魔女の秘薬かなにかで弟の心を惑わせたのではないか?


 そんな妄想が浮かんでくるほどカイルは混乱していた。


 こうしてはいられない。


 外套をギリアムに預けると、駆けるような足取りで屋敷を出た。


 裏手に回り、雑木林の小道を抜けた先――。


 そこには二階建ての赤い屋根の建物がある。


 リリアの工房だ。


 近付くにつれて、微かに甘く、そして少し土っぽい薬草の香りが鼻をかすめる。


 その香りに混じって、二つの声が耳に飛び込んできた。


「レーベ様、ここからが見どころですよ! 練れば練るほど色が変わって――」

「わっ、青色になりました! すごいですね!」

「ムラサキキャベツの色素はふくらし粉を混ぜると青色になるんです。不思議ですよね!」

「面白いです! リリアさん、次は何をしたらいいですか?」


 片方の声はリリア、もう片方は弟――レーベのものだ。


 ただ、その声色は今までに聞いたことがないほど楽しげで弾んだものであり、カイルとしては戸惑わずにはいられなかった。


(この声は本当にレーベのものなのか?)


 カイルの知るレーベはおとなしく、思慮深い少年だ。


 同年代の貴族家の子女よりも大人びており、人前ではしゃぐようなことはなかったはずだ。


 内心に疑問を抱えつつ、カイルは工房の木扉の前に立ち、ノックをする。 


「すまない、カイルだ。弟がそちらに来ているらしいが、俺も入っていいか?」

「はーい、どうぞ! カギは開いてますよー!」


 リリアの明るい声は、扉越しでも相変わらず軽やかなものだった。


 カイルは静かに扉を開け、工房へと足を踏み入れる。


 薬草と金属の匂いが混じったような空気が、鼻先をくすぐる。


 工房は意外に……というと失礼かもしれないが、清潔かつ整頓されていた。


 床はきれいに掃除され、薬品のシミひとつ見つけられない。


 壁に沿って並んだ棚にはそれぞれ『実験器具』『試薬』『標本』などのラベルが貼られ、そのとおりに収納されている。


(ラベルの文字も丁寧だな)


 以前、エストラ子爵から届いた手紙を思い出す。


 内容はびっしりだったが、文字そのものは最初から最後まで丁寧そのものだった。


 几帳面なのは親譲りなのかもしれない。


(両親から愛され、良い部分をきっちり受け継いだのか。……俺とは大違いだ)


 内心で自嘲しつつ、視線を中央に向ける。


 そこには長机を挟んで向き合う2人の姿があった。


 リリアとレーベだ。


 実験の途中だったらしく、長机の上には試薬の入った瓶が並んでいる。


「邪魔をしてしまったか、すまない。――レーベ、帰ってたんだな」

「ただいま、兄さん。王都があんまりにも暑いから、帰ってきました。迷惑でしたか」

「そんなことはないさ」


 ここ数年、夏の王都はかつてないほどの熱波に晒されている。


 暑さにあてられて倒れる者もでるほどで、国王じきじきに貴族たちへ避暑地への避難を勧めるお触れが出されるほどだった。


「ところでレーベ、何をしているんだ?」

「リリアさんがどんな研究をしているのか、教えてもらってるんです。今は実験中なんですけど、とっても面白いですよ」


 レーベは人懐っこい、年相応の少年らしい笑みを浮かべながら答える。


 弟のそんな表情を見るのは、カイルにとって久しぶりのことだった。


「どうです。兄さんも一緒にやりませんか」

「いや、俺は……」


 遠慮しておこう。


 そう答えるつもりだったが、もごもごと言葉を濁してしまう。


『接触最小限』を理由にすれば断ることは簡単だ。


 だが、リリアの研究に興味がないと言えばウソになるし、なにより、自分の知る『弟』とはまるで別人のようにニコニコしているレーベの様子も気になる。


「公爵様、迷ってますね? 迷ってるってことは興味アリですね? ではでは一緒にやりましょう!」


 リリアが気さくに声を掛ける。


「じゃあ、レーベ様の横に来てください。何をしているか、説明いたしますね!」


 **


 エストラ子爵家には、魔女がその豊富な知識をすべて書き記した百科事典のごとき古文書が伝わっていた。


 そこには植物や鉱石に宿る不思議な性質や、調合によって生まれる反応、さらには「なぜ子供は親に似るのか」という生命の神秘に触れる知識までもが載っているそうだ。


 古文書は魔女の祖国の言葉で書かれているために読み解くことは困難だったが、それを解読したのがリリアである。


「この瓶をご覧ください。薄紫色の液体が入ってますね? これはムラサキキャベツから抽出した色素『アントシア』です。ふくらし粉を入れると青色に、レモン汁を混ぜると赤色になるんですよ」


 説明を聞きながら、カイルは思わず眉をひそめた。


「待ってくれ。レモンを入れたら黄色になるんじゃないのか」

「兄さんも、さっきの僕と同じことを言ってますね」


 左隣に座っていたレーベがクスッと笑う。


「リリアさん、兄さんにも実験してもらっていいですか」

「もちろんです! それじゃあ、まずはアントシアとふくらし粉を入れて……さあ、混ぜてください。あっ、スプーンもどうぞ」

「……わかった」


 突然の展開に、カイルは戸惑いつつも容器とスプーンを受け取る。


「普通に混ぜていいのか? ……爆発しないといいんだが」


 冗談のつもりではあったが、一抹の不安はあった。


 薬の実験など、人生で初めてのことだからだ。


 戦場においては勇猛果敢で知られるカイルだが、この時ばかりは未知の世界を前にしてカチコチに固まっていた。


「あはは。兄さん、緊張してますね」

「爆発なんてしませんから、大胆に混ぜてもらって大丈夫ですよ! お手伝いしますね!」


 リリアはカイルの右隣に来ると、左手でスプーンの上部をちょんとつまんだ。


 お互いの手が触れない絶妙な位置取りだった。


(彼女なりに『接触最小限』を配慮してくれているのか)


 カイルはそんなことを考えつつ、リリアと一緒にスプーンを動かす。


 ぐるぐる、ぐるぐる。

 ねるねる、ねるねる。


 薄紫の液体が、だんだんと青色に変わっていく。


「ネバネバしてきたな」

「ふくらし粉を混ぜてますからね。発泡反応でとろみが出るんです」


 そう答えるリリアの横顔は楽しげなものだった。


 カイルは一瞬だけ視線を奪われかけるが、すぐさま我に返って意識を容器に戻す。


(食べられそうだな)


 青いネバネバした物体を見て、ふと、そんなことを思った。


 口に入れてみようか、とも思うが、騎士学校時代の苦い思い出が頭をよぎる。


 遠征訓練の途中、山中で見つけた野生のキノコを焼いて仲間たちと食べた結果、腹痛でしばらく動けなくなってしまった。


 食べられそうなものが食べられるとは限らない。


 カイルの記憶にはそんな苦い教訓が刻まれている。


 今でこそ年齢相応に落ち着いてはいるが、十代のころはそれなりのヤンチャではあったのだ。


「そろそろ次のステップに行きましょう! レーベ様、レモンを絞ってもらっていいですか?」

「任せてください。兄さん、横から失礼します」


 あらかじめ用意されていた輪切りのレモンを手に取ると、レーベは容器の上でぎゅっと絞りはじめる。


 その目は楽しげにキラキラと輝いており、表情も柔らかい。


 まるで庭ではしゃぐ子犬のような可愛らしさすらある。


(俺と一緒にいる時とはまるで別人だな……)


 カイルの知るレーベはいつも冷めた目でなにもかもを俯瞰し、礼儀正しくはあるが人と距離を置いていた。


 いや、昔はもっと人懐っこかった。


 弟が変わってしまったのは、おそらく5年前の――。


「ほら、色が変わりましたよ!」


 リリアの言葉で、カイルはハッと現実に引き戻される。


 青色のネバネバは赤紫色に変わっていく。


「本当だ。……黄色じゃないんだな」

「やっぱり兄さんも驚きますよね」


 愉快そうにレーベが声をかけてくる。


 言葉は短いが、気軽に話しかけてくれることそのものがカイルにとっては嬉しかった。


 この5年間、自分達のあいだには必要最低限の会話しかなかったから。


「でも、まだ続きがあるんです。そうですよね、リリアさん」

「その通りです! 実験してハイ終わり、じゃないんですよ」


 リリアは『シュガー』というラベルが貼られた陶器を開け、中から白い粉をスプーンですくう。


 それを赤紫色のネバネバにサラサラと振りかけた。


 ふわりと、甘い香りが漂う。


「このネバネバはご先祖様――魔女さんの、故郷のお菓子なんです。ブドウの味がしますよ」

「食べて大丈夫なのか」


 野生のキノコをうっかり口にしたせいで大変な目にあった時のことを思い出しつつ、カイルが訊ねる。


「もちろんです! アントシアはムラサキキャベツの成分ですし、他の材料はふくらし粉とレモン汁、お砂糖だけです。身体に悪いものはないですから、信じて食べちゃってください」


 笑顔でそう言われても、カイルの手はすぐには動かない。


 キノコの記憶のせいでもあるが、なにより「女性の言葉を信じる」という行為そのものがトラウマに触れていた。


 ――信じて、浮気なんかしてないわ!


 父親(クラン)に不倫を疑われた時、母親(イザベラ)は涙ながらにそう訴えた。


 しかし、実際には複数の男性と関係を持っていた。


 そのことは幼いカイルの心に深い傷をつけ、時折、ふとしたきっかけで疼くような痛みをもたらす。


 スプーンを持つ右手が、かすかに震えた。


 その時だった。


 右横に座るレーベが――


「リリアさん、あーんしてあげたらどうですか。夫婦なんですし」


 カイルのためらいを吹き飛ばすようなことを言い放った。


 胸の痛みは消え、かわりに「なぜ」という疑問が思考を埋め尽くす。


 レーベは契約結婚のことも、『恋愛禁止、接触最小限、子ども厳禁』の3条件についても把握しているはずだ。


 それなのに、どうして『接触最小限』を破らせるようなことを言うのか。


 戸惑いを覚えつつ、カイルはレーベに視線を向ける。 


 弟はいっそ清々しいくらいのいい笑顔を浮かべていた。


(俺を困らせて遊んでいるのか……?)


 そうとしか解釈できないが、レーベが自分をからかうような場面などあまりに久しぶりすぎて、どのように対応すべきか分からない。


 カイルが硬直していると、リリアが気を遣ったように声をかけてくる。


「あっ、無理はなさらないでくださいね。いらなければ私が食べますから」

「それなら僕がもらいますよ。さっき、リリアさんと一緒に作ったやつもおいしかったですし」

「いや、食べるさ。何事も最後まできちんとやりとげるべきだからな」


 レーベの言葉に対して、割り込むようにカイルは早口で告げた。


 焦燥感? 対抗心? 


 言葉にならない衝動に駆られつつ、赤紫色のネバネバを口に運ぶ。


「……うまいな」


 ふわりとした甘味、レモンの爽やかな酸味。


 ふくらし粉のふっくらな舌ざわりと、ほんのり残る粘りが口の中で心地よく混ざり合う。


「確かにブドウの味がするな。だが、ブドウは使っていないはずだ。これはどういう原理なんだ」

「錯覚ですね!」


 カイルの質問に対して、リリアはスパッと言い切った。


「……んん?」


 あまりにも即答すぎて、数秒、思考が停止してしまう。


「どういうことなんだ。教えてくれ」

「カイル様の仰るように、このお菓子にブドウは使ってません。でも『赤紫色』『甘味』『酸味』っていうブドウに共通する要素があるせいで、ブドウの味って言われたら、そんな気がしちゃうんです」

「なるほど……」


 カイルはスプーンで残りのネバネバをすくって口に運ぶ。


 言われてみれば、ブドウとは違う味かもしれない。


「これは一本取られたな。人間の感覚というのは、思ったよりもいい加減なものらしい」


 カイルは苦笑しながら呟く。


 その言葉にはどこか愉快そうな響きが滲んでいた。


 構図だけ取り出せば、今の自分は『女性に騙された』と言えなくもない。


 トラウマが刺激されるはずのシチュエーションだが、なぜか悪い気分ではなかった。


 リリアはいつのまにか机を挟んで反対側――自分の真正面に座っていた。


 黒髪は丁寧に手入れされており、窓から差し込む夏の陽光を受けて艶やかに輝いている。


 研究一辺倒で他のことには興味がない、という評価は正しいといえば正しいのだろうが、だからといってものぐさなわけではなく、むしろ肌はきめ細やかで、服装も清潔感があり、控えめながらも華やかさを湛えていた。


 ただ――

 カイルを最も惹きつけたのは、彼女の表情だった。


 ニコニコと、機嫌良さそうに微笑んでいた。


 男の関心を惹こうという打算もなく、純粋にこの場を楽しんでいるのだろう。


(俺の知っている貴族家の女性とは、まったく違うな)


 関心といえば、ゴシップと恋愛、そしてその2つを武器にしてのマウントの取り合いだけ。


 カイルの視界に入ってくる『貴族家の女性』はそういう者ばかりだった。


 だからこそリリアの存在はとても新鮮に感じられた。


「兄さん」


 レーベの声が、カイルはハッと我に返る。


「手、止まってますよ。食べ飽きたんですか」

「いや、少しぼんやりしていただけだ」


 頷きながら、残りのネバネバを口に運ぶ。


 もう錯覚の仕組みは分かっている。


 けれど、甘酸っぱい早摘みのブドウのような味が口の中に広がっていた。


 **


 気を抜くと、このままズルズルと滞在してしまいそうだった。


 カイルはネバネバを食べ終えると、意を決して椅子から立ち上がった。


「長居してしまったな。確かに面白い実験だった」

「楽しんでもらえたならなによりです! 他にもいろいろなことをやってますから、気になったら見学に来てくださいね」


 それは遠慮しておこう、『接触最小限』に反するからな。


 本来ならそう答えるべきだろう。


 だが、口はなぜか思ったように動かなかった。


「ああ、ええと……」

「兄さん」 


 レーベがカイルの右袖をぐい、と引いた。


「リリアさんがどんな研究をしているのか、支援している人間として知っておいた方がいいんじゃないですか」

「……まあ、そうだな」


 カイルは少し間をおいて答える。


 確かに弟の言葉には一理ある。


 自分とリリアの関係はあくまでも契約結婚だ。


 ただ、その契約のうちにはリリアの研究に対しての資金援助も含まれる。


 ……であれば、自分は出資者として研究内容を把握すべきではないか。


 どこか言い訳じみた理屈を頭の中で展開しつつ、カイルは口を開く。


「では、今後は定期的に研究成果の報告をしてもらおうか。頻度は追って決めるとしよう」

「合点承知です! 聞いてるだけでワクワクするようなものを用意しておきますね! ふふふ……」 


 小さく笑みをこぼすリリアは、まるでイタズラの準備を始める子供のように楽しそうだ。


 やはり彼女はどこか変わっている。


 だが、それが嫌だとは感じなかった。


 **


 リリアの工房は二階建てとなっており、一階は研究と実験のためのスペース、二階は生活のための空間だ。


 キッチン、浴室、さらにリビングや寝室もあり、日々の暮らしはここで完結する。


 カイルとは食事も、睡眠も、すべて別々だ。


 要するに新婚なのに別居しているわけで、契約結婚であることを知らない使用人たちにしてみれば奇妙な状況だろう。


「俺はリリアの研究者としての才能に期待している。彼女には思うままに研究させてやりたいんだ」


 カイルは屋敷の者たちにはそう説明しているし、執事長のギリアムも口裏を合わせてくれている。


 なにより、あっというまに使用人たちと打ち解けてみせたリリア本人が


「こんな好き放題を許してくださってるカイル様には大感謝ですよ!」


 と屋敷のあちこちで言っているおかげで、今のところ夫婦の関係に不信感は持たれずに済んでいる。


 ところで――


 カイルには幼いころからの習慣がひとつあった。


 夜の散歩だ。


 暗く静まり返った屋敷の庭をゆっくりと歩く。


 草の香り、夜風の音、星の瞬き――。


 日中の喧騒を忘れて自然に浸る時間が好きだった。


 ただ――

 以前からの習慣は、現在、思わぬ誤解を生んでいた。


『旦那様は夜な夜な、散歩のフリをして奥様に夜這いしているのだろう』


 そんな、やけに生々しいウワサが使用人たちのあいだで広まっているらしい。


 とはいえ悪感情を持たれているわけではなく『どんなお方にも性癖のひとつやふたつはあるものだ』などと妙なかたちで理解を示されていた。


『奥様と別居すると聞いたときは驚きましたが、リリア様も幸せそうですし、これはこれでお似合いのお二人なのでしょう』


 ……というのが、屋敷の者たちの見解だそうだ。


「もしご不快でしたら、それとなく訂正しておきますが」


 その夜、カイルの執務室を訪れた執事長のギリアムは『使用人たちのあいだに流れるウワサ』について淡々と報告したあと、表情を崩さずに提案した。


「いかがでしょうか」

「訂正はしなくていい。屋敷の者たちが納得しているのだから、そのままにしておこう」

「承知いたしました。……正直なところ、契約結婚であることを伏せるには大きな手間がかかると予想しておりました」

「夜の散歩がこんなかたちで役に立つとはな」

「世の中、何がどう転ぶか分かりませんな」


 ギリアムは苦笑とともに小さく肩をすくめる。


「とはいえ、そもそもの話をするならばリリア様の人柄によるものでしょう。彼女は屋敷の者たちから強く慕われております。そして人間は、好感を持った相手についての出来事は良い方向に解釈したがるものです」

「その結果が、俺の『夜這い』か」

「夫婦仲が良好だと信じたいからこそ、そういうウワサが生まれたのでしょう」

「まさかとは思うが、発信源はおまえじゃないだろうな」

「ご冗談を。そのようなことは致しませんとも」


 本当だろうか。


 祖父の代から公爵家に仕え、他の貴族家だけでなく王都のあちこちにコネクションを持つこの老執事にはどこか底知れない部分がある。


 まあ、彼がいたからこそ契約結婚が成り立ったという一面もあるので感謝はしているが。


「ところでカイル様、今晩はどのように」

「こんな話をされた後に、出歩くと思っているのか」

「はい」


 ギリアムは迷いなく言い切った。


 自分の行動がすっかり予想されてしまっているのは癪だが、カイルとしてはしばらく自然の中に身を置きたい理由もあった。


 なので、


「……使用人たちに出くわさないよう、それとなく指示を出しておいてくれ」


 目を逸らしながら、負け惜しみのように告げた。


 **


 グランデル公爵領はアークランド王国の北にあり、夏であっても夜ならばそこまで暑くない。


 昼の熱気を残しながらも、心地のいい風が庭を吹き抜けていく。


 カイルの上着の裾がかすかに揺れ、草の香りがほのかに鼻をくすぐった。 


 満ちつつある楕円の月はやや雲に隠れ、足元にぼんやりと影が落ちる。


 しばらく歩くと、遠くにリリアの工房が見えた。


「まだ頑張ってるのか」


 一階の実験室。


 その窓からは煌々とした明かりが漏れている。 


 ふと、昼間のことを思い出す。


 青から赤紫に変わったネバネバ、ブドウの味、そして彼女の表情。


 心の底から楽しそうな、無垢そのものの笑顔。


 ――気になったら見学に来てくださいね!


 リリアの言葉が頭をよぎる。


(ちょっと、寄ってみようか)


 そんな考えが頭をよぎり、カイルは慌てて首を振った。


「こんな時間に非常識だろう。接触最小限、接触最小限……」


 契約結婚の条件のひとつ。


 それを呪文のように繰り返しながら、自分の中に芽生えた衝動を打ち消そうとする。


「何をブツブツ言ってるんですか、兄さん」


 突然、背後から声を掛けられた。


 驚いて身を翻すと、そこにはレーベの姿があった。


 弟の顔にはどこか呆れたような表情が浮かんでいる。


「レーベ、どうしてこんなところを出歩いてるんだ。夜だぞ」

「兄さんには言われたくないです。結婚しても、散歩のクセはあいかわずなんですね」

「結婚と散歩は関係ないだろう」


 そもそもリリアとは契約結婚であり、ベッドの場所も別々だ。


 カイルが夜中に出歩いたとしても、彼女の迷惑にはならない。


「まさかとは思いますけど、使用人の皆さんのウワサどおりだったりしませんよね。毎晩、屋敷を抜け出してはリリアさんのところに――」

「違う!」


 反射的に、大声で否定していた。


 あの生々しいゴシップがまさかレーベの耳にまで届いていたとは!


 噂話のことを執事長のギリアムから聞かされたときはまだ冷静でいられたが、さすがに大事な弟にまで知られているとなると動揺を隠せない。


 羞恥心のせいか、わずかに頬のあたりが熱くなるのを感じた。


「彼女とはあくまで契約結婚だ。断じて、リリアには手を出していない。まあ、使用人たちがいろいろと勘違いしているおかげで都合のいい部分はあるが――」


 カイルは慌てたような早口でまくし立てる。


 とにかく弟の誤解を解かねばならない。


 契約結婚と言いながら自分からそれを破るような人間とは思われたくないし、なにより、『夜這いの性癖がある』と勘違いされてしまうのは耐えられなかった。


「とにかく、噂はあくまで噂だ。本気にしないでくれ。頼む」

「……兄さんがこんなに必死なところ、初めて見ました」


 レーベは目を丸くしながら呟く。


「大丈夫です。最初から本気になんかしてませんよ。ギリアムさんにも確認しましたし。……ちょっと兄さんをからかうつもりだったんですけど、言い過ぎました。ごめんなさい」


 謝罪の言葉を口にして、深々と頭を下げてくる。


 そんな弟の姿を見ているうちに、カイルもだんだんと落ち着きを取り戻していた。


「俺のほうこそ、ムキになりすぎた。すまない」

「兄さんは悪くないですよ。僕がいじわるな冗談を言ったせいですし」

「こっちが年上なんだからサラッと受け流すべきで……ああ、いや、このままだとキリがないな。俺はレーベを許すから、おまえも俺を許してくれ。それでいいか」

「分かりました。兄さんを許しますから、僕のことも許してください」

「いいだろう。じゃあ、この話は終わりだ。……このやりとりをしたのも久しぶりだな」


 カイルは懐かしさを覚えながら呟く。


 まだ父親のクランが生きており、自分とレーベのあいだに今ほどの距離がなかったころ、2人は行き違いがあるたびに「自分が悪かった」と言って譲らず、謝罪合戦に陥っていた。


 それに区切りをつける方法としてクランが告げたのが、互いを許し合う、というやりとりだった。


「お父様が亡くなってからは、僕たち、会話もあんまりしてませんでしたね」

「話題も、愉快じゃないものばかりだったからな」


 葬儀の手配、公爵家の相続、そして――カイルの生まれについての問題。


 若い兄弟にとっては重すぎる問題の数々が、2人の距離を隔てていた。


 けれど、それが今はいくらか縮まったように感じられた。


「兄さん、気付いてますか。春休みに会った時よりもずいぶんと表情が柔らかくなってますよ。……リリアさんのおかげかもしれませんね」

「まだ俺をからかうつもりか」


 カイルは苦笑しつつ、冗談めかして言い返す。


「おまえだって、やけに懐いていたじゃないか。契約結婚とはいえ、妻は妻だ。横取りするなよ」

「……ええ、もちろん分かってます。当然じゃないですか」


 **


 そのまま2人は一緒に歩き始めた。


 以前のカイルならば「俺がいるとレーベも気が休まらないだろう」と考えて立ち去っていたところだが、今日はきっと大丈夫だと思えた。


「そういえばレーベ、今年は帰ってこないつもりだったんじゃないのか」

「ええ、でも王都があまりに暑くって。いちおう『やっぱり帰ることにした』って手紙も書いたんですけど、僕のほうが先に着いちゃったみたいですね」


 アークランド王国の貴族は夏のあいだ住居に引きこもるか、避暑地に向かう。


 いずれにせよ対面で人と会う機会が減るために手紙のやりとりが増えるわけだが、猛暑のせいで配達人もダウンしがちであり、配達も遅くなりがちだった。


「まあ、夏だから仕方ないさ。手紙のことはさておき、おまえが帰ってきてくれたのは嬉しいよ」

「喜んでくれたならよかったです。……契約結婚の相手も、いい人そうで安心しました」

「春休みに説明したときは、あんなに不満そうだったのにな」

「ごめんなさい。あれは僕が子供でした」

「そんなことはないさ。おまえは今のままでいい」


 カイルは、レーベの少年らしい純粋さを大切に思っている。


 できるなら、弟には好きな相手を見つけて結ばれてほしかった。


 幼い頃からの積み重ねによって多くのものを拗らせてしまった自分には、きっと、できないことだろうから。


「ありがとうございます。でも、兄さんのほうが純粋と思いますよ」

「そんなわけあるか。俺が北の蛮族からどう呼ばれてるか知ってるだろう。残虐公だぞ」


 昨年、カイルは北の蛮族の討伐で大きな手柄を挙げているわけだが、彼の活躍はそれだけではない。


 公爵位を継ぐ以前からグランデル家の家訓に従って戦場に赴き、多くの敵を打ち破ってきた。


 それは領民を守るためのことであり、カイルにとっては貴族として当然のことだが、返り討ちに遭っている蛮族からすれば同胞たちの仇そのものであり、その感情が『残虐公』という綽名に込められていた。


「外で怖い人も、家では意外に優しい。そういう話、よくあるじゃないですか。兄さんも似たようなタイプだと思いますよ」

「まあ、おまえが言うならそうなのかもな」


 あまり納得はできていないが、己のことは自分では意外によく分からないものだ。


 大切な弟の言葉なのだから、きっと一理はあるのだろう……という気持ちでカイルは頷いた。


 そのあともカイルはレーベと歩きながら会話を交わした。


 内容はどれも些細なこと――騎士学校の寮では食事のおかわりに上限がついたとか、領内の街道があちこちガタがきているので修繕を進めているとか、そういった身の回りの出来事がほとんどだ。


 自分たちや、家の将来を左右するような「重い」会話ではない。


 けれど、そんな「軽い」会話を弟と久しぶりにできることがカイルにとっては嬉しかった。


 2人は屋敷の敷地内をぐるりと一周するように歩き、やがてリリアの工房の近くに戻ってきた。


「どうやら今日の研究は終わったみたいだな」


 1階の研究室からは明かりが消えていた。


 代わりに、2階の窓からは暖かな明かりが漏れていた。


 場所としては寝室だろうか。


「兄さん、やっぱりリリアさんのところに行くつもりだったんですか? 研究が終わるのを待ってたとか」


 冗談めかしたその言葉に対し、カイルは右手でレーベの髪をわしゃわしゃと混ぜるように撫でる。


「そんなわけあるか。まったく、いつまでも同じネタでからかうんじゃない」

「すみません。兄さんの反応が面白くって」


 そんなふうに兄弟でじゃれていた時だった。


 工房の、2階の窓が開いた。


 そこからリリアが身を少し乗り出して、うーん、と大きく伸びをした。


 寝る前に外の空気でも吸おうとしたのかもしれない。


 直後、その視線がカイルたちのほうに向けられた。


「あれっ!? カイル様にレーベ様じゃないですか! こんばんはー!」


 どうやら寝る直前らしく、普段と異なり、やや薄手の衣服を纏っていた。


 肩までかかる髪がさらりと揺れ、月光に照らされてつややかに輝く。


 肌の露出は多くない。


 けれども、カイルはどこか照れくさいような気持ちになり、眼のやりどころに困ってしまう。


 そっと視線を逸らしつつ、ぎこちなく答える。


「騒がせてすまない! 弟と散歩をしていたんだ!」

「カイル様、いつも夜に出歩いてますもんねー!」

「知っていたのか!?」

「もちろんですよー! 使用人の皆さんはいろいろと勘違いしているみたいですけどねー!」

「……っ」


 その返答に、カイルは言葉を詰まらせた。


 使用人の勘違い、すなわち、夜の散歩が「夜這い」と噂されていること。


 それがまさかリリアの耳にも入っていたとは。


(いや、当然と言えば当然か)


 彼女は屋敷中の人間から慕われている。


 噂話のひとつやふたつ、すぐに耳に入ってくるだろう。


 それはさておき――


 カイルにそのつもりはなかったが、薄着のリリアを見ていると、どうしてもあの生々しいゴシップのことを意識してしまう。


 羞恥心が込み上げてきて、まるで思春期の少年のように俯いてしまう。


「兄さん、やっぱり純粋ですね。顔、真っ赤ですよ」

「……うるさい」


 **


 翌日、そしてさらにその翌日もカイルはリリアの工房を訪れることになった。


 といっても、自分から積極的に足を運んでいるわけではない。


 レーベに「兄さんも一緒に行きましょうよ」と引っ張られるようなかたちだ。


 たとえば――


「今日は傷薬の作り方を教えてもらうんです。兄さんは戦場に立つことも多いですし、知っておいた方がいいんじゃないですか」

「……確かに、役に立つ機会はあるかもしれないな」


 あるいは――


「本物の金貨と、偽物の金貨を判別するための試薬ができたらしいですよ。いま、王都で贋金貨が問題になってますし、気になりませんか」

「いずれグランデル公爵領でも問題になるかもしれないな。……行くとしよう」


 さらにまた別の日には――


「工房の裏手にリリアさんが薬草園を作ってるのは知ってますか? そこで取れたハーブを使ってお茶会をするんですけど、兄さんも来てくださいよ」

「少し考えさせてくれ」


 お茶会に参加するのはさすがに『接触最小限』に反するのではないか。


 そんな疑問が頭をよぎる。


 だが、ここで断ったなら、また自分とレーベのあいだに距離が生まれてしまうかもしれない――。


(せっかくレーベが帰ってきているんだ。俺はリリアのところに行くんじゃない。弟と一緒に遊びに行くんだ)


 そんなふうに理屈を捏ね上げて、カイルは自分を納得させる。


「分かった。ただ、領内の各都市から提出された報告書をチェックしてからでもいいか。あと少しで終わるんだ」

「大丈夫ですよ。じゃあ、僕は談話室で本を読んでますから、区切りがついたら声をかけてください」


 そう答えてレーベは執務室を出ていく。


「あまり弟を待たせるわけにはいかないな」


 カイルはまるで言い訳のように呟くと、机の引き出しにストックしていた砂糖菓子を口に入れ、書類との格闘を再開した。


 彼の口元はいつもより柔らかに綻んでいたが、本人はまだ気づいていない。


 **


「昔、屋敷の敷地に小さなイノシシが迷い込んだことがあったんですよ」


 レーベはハーブティのカップから口を放すと、笑いを堪えながら語った。


「兄さんってば『騎士学校で鍛えた腕を見せてやる』って言い出して、剣を持ち出したんです」

「すごいですね! 見事に討ち取ったんですか?」

「体当たりで弾き飛ばされてました。ポーンって」

「カイル様、お怪我はなかったんですか」

「……自分でも運が良かったと思っている」

「あはは。兄さんが無事だったのは、騎士学校で鍛えられたからかもしれませんね」


 その日の昼下がり――


 カイルはレーベに連れられ、リリアの工房を訪れていた。


 建物の一階から繋がるテラスにはテーブルと椅子が置かれており、テーブルには丁寧に淹れられたハーブティと、リリア特製のクッキーが並んでいた。


 カップから立ち上る湯気とともに、笑い声が広がる。


 和やかなお茶会だった。


 話題は、以前のカイルの“やらかし”。


 騎士学校を卒業したばかりで自信に満ち溢れていたカイルは、まるで英雄譚の主人公になったような気分でイノシシに挑みかかり、見事に返り討ちに遭ってしまった。


「動物は自然の中で生き抜いている存在だからな。特に、野生のものは魔物の血が混じっていることも多い。生半可な相手じゃないんだ。蛮族よりも強いかもしれない」

「兄さん、言い訳が長いですよ」

「いや、俺は素直な感想を述べているだけで――」

「カイル様の言うように、野生の動物はびっくりするぐらい強いことがあるみたいですよ。熟練の猟師さんでも油断したら大怪我するとか」


 リリアがさらりとフォローを入れる。


 その言葉に、カイルの口元がふっと緩んだ。


「ああ、その通りだ。分かってくれるか、リリア」

「もちろんです! 正面から挑むのは危ないから、猟師さんも罠を使うわけですし。もし領内で野生動物が悪さをしたら言ってくださいね。駆除を楽にするためのアイテムもいろいろと研究してますから、使えそうなものを提供しますよ!」

「覚えておこう。いざという時は頼らせてくれ」


 カイルはそう答えると、クッキーに手を伸ばす。


 齧ると、サクッとした心地いい歯応えのあとに甘いシナモンの香りが口の中に広がった。


「……うまいな」


 素直に、感嘆の言葉が口から漏れる。


 穏やかな午後のひととき。


 ふと気が付くと、カイルはリリアの表情を眺めていた。


 よく笑い、よく驚く。 


 何気ない話にも、目を輝かせて耳を傾け、思ったことを包み隠さず言葉にする。


 社交界で彼が幾度となく目にしてきた、「男の気を惹く」ための演技がどこにもない。


 自然体で、伸びやかで、楽しげで――。


 つい、その姿を目で追ってしまう。


「んん? カイル様、私の顔に何かついてますか?」

「すまない。少しボンヤリしていたんだ」


 カイルが視線を逸らして取り繕うと、すぐ隣からつつくような声が上がる。


「見惚れてたんじゃないですか?」


 レーベが、いたずらっぽい笑みを浮かべながらカイルの脇腹をつつく。


「兄さん、もしかしてリリアさんに本気になってたりして」

「そんなことは――」

「あはは、それはないですよー」


 リリアが屈託のない笑顔と共に、さらりと言い切った。


「私、他の貴族家のお嬢さんみたいにキラキラした目でも髪でもないですし。女性としての魅力に欠けちゃってるのはよーく分かってます」


 軽やかな口調とは裏腹に、言葉には自嘲の色が滲んでいた。


 それはもしかすると、明るい態度の裏に隠された、ある種の『脆さ』の片鱗だったのかもしれない。


 真相は分からないが、普段と僅かに違うリリアの態度に、カイルの中で何かが揺れる。


「いや、そんなことは――」


 衝動的に否定の言葉を紡ごうとした。


 だが、それよりも先に、


「そんなことありません。リリアさんはとても魅力的な女性です」


 いつになく強い口調で、レーベがそう言い切っていた。


 表情も真剣で、ただの慰めやお世辞ではないことがその姿だけで伝わってくる。


「研究のことを話しているときも、そうでないときも、いつだってキラキラしてます。去年だって――」


 そこまで喋ったところで、レーベはハッとしたように口を噤む。


「とにかく、リリアさんはもっと自分のことに自信を持ってください」

「ありがとうございます、レーベ様。なんだか気を遣わせちゃいましたね。……あっ、そうそう! 今日、お伝えしようと思ってたことがあるんですけど、うちの商会、どんどん業績が回復してるんですよ!」


 空気が重くなりかけたのを感じ取ってか、リリアはものすごく強引に話題を変えた。


 どうやらグランデル公爵家からの資金援助もあり、エストラ子爵家および子爵家が経営する商会は大きく持ち直したらしい。


「これは自慢になっちゃいますけど、私が発明した、鼻水がピタッと止まる粉薬――『鼻ピタくん』もすごく売れているみたいでして、王族の方々にも好評なんです!」

「あのお薬、僕も飲んでます。騎士学校でも持ってる人が多いですし。兄さんも花粉症でしたよね。使ってみたらどうですか」

「そ、そうだな。検討しよう……」


 カイルは曖昧に答えつつ、ぐるぐると思考を巡らせていた。


 理由は、レーベのさっきの言葉。


(『去年だって』……?)


 それが頭の中でずっと引っ掛かっていた。


(レーベは、リリアともともと面識があったのか……?)


 **


 昨年の冬、アークランド王国の北部国境に対して、蛮族の大軍勢が押し寄せた。


 その迎撃においてカイルは最前線に立つと、敵の首領の居場所を見抜き、わずかな手勢で奇襲を仕掛けて討ち取り、見事に国境を守り抜いた。


 損耗は最小限、戦果は最大。


 歴史的な大勝利を導いたカイルの勇猛さを讃え、人々は彼のことを《北の英雄》や《グランデル家の若き獅子》、《灰眼の守護者》と呼んだ。


 とはいえ、どんな英雄にも弱いところはある。


(レーベはいつからリリアのことを知っていたんだ)


 現在の彼は、弟がポロリと漏らした言葉ひとつに思い悩んでいた。


 戦場における即断即決はどこへやら、執務の合間にクヨクヨと頭を抱えてはため息をつくばかり。


 気になって仕方ないなら弟に訊いてしまえばいい。


 それは分かっている。


 だが、迂闊なことを言えば兄弟の距離が前のように離れてしまうような気がして、どうにも口にはできなかった。


(少なくとも、リリアがレーベに恋愛感情を持っている様子はない)


 すなわち『恋愛禁止』という契約結婚の条件は破られていない。


 ならばあえて踏み込まなくてもいいはずだ。


 どこか言い訳がましく感じながらも、カイルはひとまず自分の疑問を棚上げした。


 それから10日ほどして、レーベは王都へ戻っていった。 


「次は春休みに帰ります。兄さん、リリアさん、お元気で」

「秋は剣術大会があるんだったな。頑張れよ」

「レーベ様、お元気でー! 風邪には気を付けてくださいねー!」


 カイルはリリアとともに、レーベの乗る馬車を見送る。


 結局、弟の滞在中は毎日のようにリリアの工房を訪れていた。


 彼女の話はいつも面白く、特に捻挫の正しい治療――初期は冷やし、痛みが落ち着いたら温める――は戦場に立つこともある身として興味深いものだった。


(リリアの話をもっと聞きたい。……有用だからな)


 だが、明日からはレーベが「兄さん、工房に行きましょうよ」と誘ってくることもない。


 もちろんカイルがひとりで工房へ足を運んでも、リリアは暖かく出迎えてくれるだろう。


 ただ、どうしても『接触最小限』という自分の定めた条件が頭をちらつく。


 そんなときにふと思い出したのは、以前の、己の発言だった。


 ――今後は定期的に研究成果の報告をしてもらおうか。頻度は追って決めるとしよう。


 これを踏まえてカイルは「月に一度、君の研究について報告をしてくれないか」とリリアに提案した。

 彼女の返事は、


「承知しました! もし優先してほしい研究があったら言ってくださいね! 出資していただいていますし、ガンガン力を入れていきますから!」


 という、いつも通りの明るいものだった。


 断られるはずがないと分かっていたが、カイルは内心でホッと一息ついていた。


「優先してほしい研究か」


 かくして『研究報告会』の定期的な開催が決まった後、執務室でふと考え込む。


 頭をよぎるのは、自分の生まれについて。


 父親が誰なのか――先代公爵のクランか、それともイザベラの不倫相手か。


 客観的に証明できるなら、証明したい。


「さすがに難しいだろうな」


 一人でそう結論付けると、溜まっていた雑務を片付けることにした。


 普段のカイルならすぐに済ませるのだが、レーベとともにリリアの工房を訪れる時間を捻出するにあたり、期限に余裕のあるものは後回しにしていたのだ。


 それから10日後、夏の暑さも和らいできたころに最初の『研究報告会』が開かれることになった。


 場所はリリアの工房、参加者はカイルとリリアの2人だけだ。


 以前、テラスで行われたお茶会と同じようにハーブティと特製のクッキーが机の上に並んでいる。


 今回の報告会は、血液を用いた病気の診断と治療についての話だった。


「――というわけで、重めの風邪になった人から血液をいただいて、何種類かの検査薬でチェックすれば、どんな薬草がいちばん効くのか分かっちゃうんです!」


 リリアの声はいつもよりも明るく、熱の入ったものだった。


 研究はとても順調に進んでいるらしく、表情は生き生きとして、瞳はキラキラと輝いていた。


 その姿を見ているだけで、カイルもなんだか人生のすべてがうまく行きそうな気持ちになってくる。


「すごい成果だな。もし普及すれば、病で亡くなる人間もずいぶんと減るはずだ」

「はい! エストラ子爵領では昨年からテストを始めているんですけど、成果はしっかり出ているみたいです。まあ、検査薬を作るのにお金がけっこう必要なんですけどね」

「資金は足りているのか? もしも苦しいようなら、追加で援助するが……」

「それには及びませんよ! 以前にもお伝えしたように、商会の業績もすっかり回復しましたから!」

「それならいいんだ。ところで、検査薬の成果が出ているなら、グランデル公爵領でも使わせてくれないか。この地域は冬になるとずいぶんと冷え込んで、肺炎で人が亡くなることも多いからな」


 これはカイルにとっても他人事ではない。


 先代公爵のクラン・グランデルと、カイルにとっては継母、弟のレーベにとっては実母もマーサ・グランデルも5年前の冬に肺炎を拗らせて命を落としている。


 当時、突然の悲劇によって屋敷の誰もが悲嘆に暮れていた。


 今はどうにか持ち直したが、あのころを思い出すとカイルは今も胸が痛くなる。


「もちろんですよ! 父に手紙で連絡しておきますね!」

「感謝する。検査薬の製造費はグランデル公爵家が持とう。遠慮なく請求してくれ」

「よろしいんですか? 成果は出ているとはいえ、まだ試作品ですけど……」

「構わない。これは有用な研究への先行投資だと思ってくれ」

「承知ました! びっくするようなお値段になっても驚かないでくださいね!」

「ははっ、覚悟しておくさ」


 なお、後日、エストラ商会から届いた請求書に書かれていた額はグランデル公爵家の年間収入の0.01%にも満たない額であり、


「たったこれだけの額で人命が救えるなら、ずいぶんと割のいい買い物じゃないか」


と、カイルは驚くことになる。


 それはさておき―― 


 報告が一段落ついたところで、それまで立って喋っていたリリアはカイルの向かいに座ると、ハーブティに軽く口を付ける。


 ふとすると、彼女のそういった動作をついつい目で追ってしまうのが最近のカイルだった。


「カイル様、どうされました? 訊きたいことがあれば、いつでも仰ってくださいね」

「ありがとう。質問か、そうだな……」


 少し考えこむ。


 頭に浮かぶのは、以前に棚上げした疑問だ。


 ――君はレーベと知り合いだったのか?


 気になるが、どうにも訊くのが恐い。


 カイルが黙り込んでいると、リリアが急に何かを察したような表情で頷いた。


「今、カイル様がどんなことを考えているか当ててみましょうか。レーベ様のことですね」

「なっ!?」


 カイルは目を見開いた。


 思考を見透かされたことに、少なからず動揺していた。


「どうして分かったんだ」

「女のカンです! ……というのは冗談で、以前、お茶会のときにレーベ様が『去年だって』みたいなことを仰って、途中でやめちゃったじゃないですか。その後からしばらく、カイル様は考え込みがちでしたし、気になってるんだろうなー、って」

「すごい観察力だな。隠していたつもりなんだがな」


 カイルは賞賛の言葉を口にする。


 その内心は驚きだけでなく、こそばゆい感情が混じっていた。


 日常においてカイルとリリアの接触は多くない。


『接触最小限』というルールもあり、顔を合わさない日もあるほどだ。


 最近、そういう日のカイルはなんだか物足りない気がして、伝達事項をわざわざ自分で告げに行ったり、散歩の途中でリリアの工房の近くを通ったりするのだが、それはさておき――。


 一緒にいる時間は短いが、リリアはこちらの様子の変化にしっかり気付いていた。


 自分のことをしっかり見ていた。


 それが嬉しいような、気恥ずかしいような――。


 やけに甘酸っぱい感覚が胸に広がっていた。


「君の言う通りだ。確かに、レーベの言葉は少しばかり引っ掛かっていたよ」


 実際には何日もクヨクヨしていたが、カイルだって男である。


 意地もプライドもある。


 なので「まあ、さほど気にしてたわけじゃないが」といった雰囲気で答える。


 まあ、もしかしたらその強がりさえも見抜かれているかもしれないが……。


「わざわざ話題に出したということは、答えてくれるのか」

「もちろんです! 去年の秋のことなんですけど、私、王都に行ってたんですよね。『鼻ピタくん』の売り込みのために」


『鼻ピタくん』というと、たしかリリアが開発した粉薬だったか。


 鼻水がピタッと止まる効果があるらしい。


 いつも秋から冬にかけての花粉症に悩まされるカイルとしても気になっており、今年は試してみるつもりだった。


「薬の営業を、わざわざ君がやっているのか。仕事熱心だな」

「人と喋るのは好きですから! それに、あのときのお相手は王族でしたので」

「……確かに、それなら平民には任せられないな」


『鼻ピタくん』は王族にも好評という話だったが、そこに至るまでの第一歩がリリアによる営業だったのだろう。


 相手はおそらく側妃のヘレナか、フランシスか。


 どちらも重度の花粉症で困っており、日によっては人前に出られないほどだ。


 そういえば昨年は2人とも舞踏会や夜会を欠席しなかったと噂になっていたな……とカイルは思い出す。


 ヘレナもフランシスも好奇心旺盛なタイプなので『鼻ピタくん』を使っていてもおかしくはない。


「まあ、営業のことはさておき、王都にもエストラ商会のお店がありまして、そっちのお手伝いもしてたんですよ。やっぱり店頭に立たないと分からないことってありますから」

「働き者だな。君が看板娘をしているなら、きっと店は大盛況だろう」

「あはは、ありがとうございます」


 カイルの言葉をお世辞と捉えたのか、リリアはサラッと流して話を続ける。


「ここからが本題なんですけど、私がちょうどお店にいた時、騎士学校の男子生徒さんがいらっしゃったんです。すごく顔色が悪くって、『頭痛に効く薬がほしい』って仰るなり倒れちゃいまして」

「大事件じゃないか。彼はどんな病気だったんだ」

「過労にプラスして、風邪でした。身体が弱っていると、体調が崩れたときに立て直しが効かないんですよね」

「よくある話だな。……昔、俺もそれで痛い目を見たことがある」


 それはカイルが騎士学校に通っていた当時のことだ。


 校内の剣術大会を前にして練習に精を出し過ぎた結果、うっかり倒れてしまったことがある。


 なんとか大会当日には持ち直して優勝を手にしたが、あれ以来、体調管理にも気を配るようにしていた。


「倒れた生徒さんは身動きできそうにないし、もともと騎士学校は三連休だったから、そのままうちで休んでもらうことになったんですよね。うちの商会は騎士学校ともお付き合いがあって、昔からの信頼もありましたから。

 生徒さんについては私のほうで薬を調合して、看病して――なんとか翌々日には持ち直したんです」

「それはよかった。もしかして、その生徒というのが……」

「はい、レーベ様です。といっても、それを知ったのはつい最近なんですけどね」

「あいつは名乗らなかったのか」

「レーベというお名前は伺っていましたけど、貴族じゃなくて平民と仰ってて、家名もぜんぜん別のものを告げられましたね」

「あいつ、どうしてそんな嘘を……」


 カイルにとってレーベは純真で可愛らしい弟である。


 身分や家名を偽ったという話はあまりにも予想外であり、「なぜ」という疑問が思考を埋め尽していた。


「たぶん、カイル様に心配を掛けたくなかったんだと思いますよ」


 カイルの混乱を察してか、宥めるようにリリアが声を掛ける。


「家名を出しちゃうと、家同士の付き合いが絡んで、レーベ様が体調を崩していたことがカイル様に伝わるかもしれませんから」

「なるほど……」


 当時、自分とレーベの関係はどこか気まずく、距離の開いたものだった。


 レーベは14歳と難しい年頃だし、カイルに体調不良を知られまいとして嘘を吐いてしまう、というのはありえなくもない話だ。


 それはそれとして、わざわざ隠さなくても……という気持ちはあるのだが。


「カイル様、どうかレーベ様を叱らないであげてくださいね。先日、レーベ様がお屋敷に帰ってきた時、謝罪もしていただきましたから」

「分かった。君の顔に免じてレーベのことは許そう。ただ、それはそれとして大事な弟が世話になった。お礼はさせてほしい」

「いえいえ、気になさらなくて大丈夫ですよ。病気が治ったあともレーベ様はエストラ商会にいらっしゃって『鼻ピタくん』を買ってくださいましたし、騎士学校でも宣伝してくれたおかげでよく売れるようになりましたから。お礼としては十分です」

「そうは言ってもだな……」

「分かりました。じゃあ、こうしましょう」


 言い縋るようなカイルに、リリアはにっこりと笑って告げる。


「いつか、私のお願いをひとつ訊いてください。いわゆる『貸しひとつ』ですね。どうでしょう」

「そんなものでいいのか」

「カイル様は自覚がなさそうですけど、公爵家当主で、北の蛮族から国境を守った英雄に貸しひとつですからね。これは大きいですよ」

「……褒めすぎだ」


 他の人間からはどれだけ英雄と呼ばれても心に響くことはなかったが、なぜか、リリアの口から聞かされると照れくさい。


 カイルは自分の心の動きを不思議に感じつつ、目を逸らす。


「ともあれ、君の提案を受けよう。願いごとひとつ、だな」


 もちろん契約結婚の三条件である『恋愛禁止・接触最小限・子ども厳禁』を越えない範囲で、と言い添えようとして……やめた。


 わざわざ言わなくても分かっているだろう、という気持ちが半分。


 もう半分は、カイル自身もうまく言葉にならなかった。


 ちなみに――


 レーベが倒れたのは過労と風邪のダブルパンチだったわけだが、その根本的な原因はというと、剣術大会に向けての練習で頑張りすぎたことだったらしい。


 つまり騎士学校自体のカイルとまったく同じ流れだった。


(俺が倒れた時は、自分の部屋で寝ているだけだったな)


 それに比べると、リリアに看病してもらえたレーベのことが羨ましく――


(いや、羨んでなんかない。何を考えているんだ、俺は)


 ともあれ、カイルの心にあった引っ掛かりはひとまず解消された。


 レーベはもともとリリアのことを知っていた。


 しかも病気で倒れたところを助けられたわけだから、恩に感じて懐くのも納得だ。


 カイルはスッキリした気持ちでリリアの工房を去り、夜、いつものように散歩に出歩いたところでふと気付く。


(ちょっと待て)


 違和感。


 レーベは昨年の時点ですでにリリアと出会っていた。


 しかし、今年の春にカイルが契約結婚とその相手について説明した時、純真なはずの弟はそんな素振りを全く見せなかった。


 リリアとの縁を明かしてしまったら、病気で倒れていたことも隠せなくなるから黙っていたのだろう……と考えられなくもないが、あの時のレーベの反応は恐ろしいほどに冷たいものだった。


 ――相手のことなんて、どうでもいいです。興味もありません。


 そう言って、名前以外のことはろくに知ろうとしなかった。


 リリアとの縁を隠すための演技だったという可能性もあるが、それだけだろうか。


 戦場で培われ、これまで何度となくカイルの危機を救ってきた野生のカンが「おまえは見落としをしているぞ」と告げているように感じていた。


(いやいや、どうしてここで野生のカンが働くんだ。ここは戦場じゃないし、命のやりとりをしているわけじゃないぞ)


 カイルは自分にツッコミを入れると、気のせいということにした。


 **


 その後の『研究報告会』は半月に一度ほどの頻度で行われることになった。


「カイル様、冬の寒さに困ってないですか? これは『カイロ(懐炉)』と言いまして、

 布袋の中には鉄粉と一緒に、炭と薬草から作った触媒が入ってます。こうやって、もみもみしてあげると……」

「どんどん温かくなってきたな。どういう原理なんだ?」

「鉄って時間が経つと錆びちゃいますよね。その時に少しだけ熱を出すんです。それを触媒で早めてあげると、こんなに温かくなるんです」

「これも魔女の古文書に載っていた品なのか」

「はい。といっても、参考にしたのは原理だけですけどね。魔女の故郷とこの大陸では採れる素材が全く違うから、私なりにいろいろとアレンジしました」

「さすが優秀だな。……昨年、北の国境線で蛮族と戦った時は、寒さのせいで指が動きにくくなってずいぶんと困らされた。これがあれば、兵士たちもずいぶんと楽になるだろう。もし可能なら、すぐにでも配備したいところだ」

「承知しました! 実はすでにエストラ商会のほうで生産の準備を進めていまして――」

「買った。ぜひ予約させてくれ」

「まいどあり、です! お父様に手紙で伝えておきますね」


 リリアの研究は面白いだけでなく、領主としても興味深いものばかりだった。


 それもあってカイルは『研究報告会』を待ち遠しく感じるようになったし、日中、ふと手が空いたときに「工房の見学でも行こうか……」と考えることも多くなった。


 まあ、そのたびに、


(接触最小限、接触最小限……)


 と心の中で呟いているのだが。


 そしていざ報告会当日になると、カイルはいつも開始時刻よりも早くに、どこか楽しげな足取りでリリアの工房を訪れるのだ。


 なお、最初のころは5分前の到着だったが、今では1時間前には工房に来ている。


 そして本来の時刻よりも早めに報告会を始めたあとは、ハーブティーとクッキーでの小さなお茶会を楽しむようになっていた。


 もはや「接触最小限」を越えているのではないか……とカイル本人も思わないでもないが、


(彼女の研究はグランデル公爵家にとっても有用なものが多いからな。契約結婚が終わったあとも縁を繋いでおくべきだし、これは将来への布石だ)


 などと、自分自身に言い訳をしていた。


 ただ、カイルというのはどうにもややこしい人間で、己の言葉に悩まされることがある。


(契約結婚が終わったあと、か)


 すでにリリアがグランデル公爵家に来て半年、つまり契約の期間は6分の1が終わったことになる。


 2年半後、自分たちは離婚し、彼女は屋敷を去るのだ。


 工房からは誰もいなくなり、明るい声を聞くことはなくなる。


 その時を想像すると、カイルはなぜか暗闇に置き去りにされたかのような寂しさを感じずにいられない。


(リリアはどうなのだろう)


 契約結婚の終わりを待ち望んでいるのか。


 あるいは、自分のように惜しむような感情を覚えているのか。


 少し、気になる。


 だから――


「君は、この契約結婚をどう感じている?」


 6回目となった研究報告会のあと、お茶会の途中でカイルはそう訊ねた。


 そのあと、自分がやけに「重い」質問をしたのではないか、と気付き、慌てて言葉を重ねる。


「要するに不満や要望はないか、ということだ。君には気分よく研究してほしいからな」

「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですよ! 資金援助だけじゃなくて、工房まで建ててもらって、毎日好きなだけ研究や実験をさせてもらってますし、大満足ですよ! このまま居着いてしまいたいくらいですね!」


 その言葉にカイルは安堵する。


 今の生活にリリアが不満を覚えていない、ということもそうだし、なによりも契約結婚の終わりを待ち望むような様子がまったくないことが嬉しかった。


 そのせいか、つい、口元がにやけてしまう。


「カイル様、なんだか機嫌が良さそうですね。いいことでもあったんですか」

「さあ、どうだろうな」


 カイルは照れ隠しのように肩を竦めると、ハーブティーに口を付ける。


 シナモンの甘い香りが口から鼻に抜けていく。


 心地よい感覚に身を委ねていると、ふと、リリアが呟いた。 


「この契約結婚がなかったら、姉がどこかに嫁ぐことになってたんです」

「どういうことだ?」


 唐突な話に、カイルは戸惑いつつも問いかける。


「姉は――レレナ姉さんは焼き立てのパンみたいにきれいな茶髪の美人さんなんですけど、お年を召した伯爵さんから後妻として来ないか、って言われてたんです。見返りにエストラ子爵家を支援してくれるとかなんとか」


 妻に先立たれた裕福な貴族が、資金繰りに困っている男爵家、子爵家を援助し、見返りとしてその家の美しい女性を後添えとして求める――。


 現在のアークランド王国の貴族社会においては、しばしば耳にする話だ。


 カイルとしては、そういった身売りじみた結婚には反発を覚えるが、この契約結婚も似たようなものだろう、と言われると反論しづらいのが痛いところだ。


 自分はあくまで面倒な恋文や見合いの話を避けるために結婚したいだけで、若い女を近くに置きたい、という俗っぽい欲望ゆえのものではない……とは思っているが。


「レレナ姉さんはもともと好きな人がいたんですけど、泣く泣く諦め……かけてたところにグランデル公爵家から契約結婚の話を頂きまして、私としては『これはチャンス!』と飛びついたんですよね。家を建て直せるし、姉も失恋しなくて済む。最高じゃないですか」

「君自身は、契約結婚に抵抗はなかったのか」


 カイルはそう訊いた後、数秒ほど迷って、さらに言葉を続けた。


「たとえば、その、お姉さんのように、実は他に好きな人がいたとか……。だとしたら、申し訳ないというか」


 どうにも口調がしどろもどろになってしまう。


 もしかしたらリリアにも想い人がいたのではないか。


 その可能性を考えると、なぜか息が詰まりそうになる。


「うーん、正直なところ恋愛はよく分からないんですよね。小さい頃からずっと研究に夢中でしたし!」

「なるほど、君らしいな」


 カイルはフッと口元を緩める。


 胸には安堵が広がっていた。


「まあ、そういうわけで私にとってカイル様は大恩人なわけですよ。レレナ姉さんはちゃんと好きな人と結婚できそうですし、実家の商会もいい感じに業績が回復、しかも私は研究ざんまい。なんだか貰い過ぎちゃってる気もしますね!」

「そんなことはないさ。契約結婚に応じてくれたことで、恋文だの見合い話だのはずいぶんと減ったからな」

「あれっ、ゼロにはなってないんですか?」


 リリアのツッコミに、カイルは肩をすくめる。


「不倫のお誘いじみた手紙はたまに届くな。すべて焼き捨てているが」

「アークランド王国の貴族社会って、ところどころ風紀が緩いですもんね」

「君もそう思うか。……実は王都の騎士学校に通っていたころ、男子の貴族寮にはときどき忍び込んでくる貴族令嬢たちがいたんだ」

「噂には聞いています。カイル様もターゲットにされたんじゃないですか? 顔も綺麗で、剣の腕は立ちますし、しかも公爵家の長男ですし」

「ああ、随分と苦労させられたよ」


 カイルは苦い表情で呟く。


 頭をよぎるのは、寮にいた当時の記憶だ。


「剣の自主練を終えて寮に戻ったら、鍵をかけていたはずの部屋で令嬢たちが待ち伏せしているんだ。うんざりして、部屋に帰らずに裏庭で野宿したこともあったよ。テントを張ったりしてな」

「テントにも忍び込んできた令嬢さんがいたんじゃないですか」

「よく分かったな。彼女たちにしてみれば優良物件を()射止めるための努力()なんだろうが、こっちにとってはただの迷惑だよ。そもそも男子寮なのに、あたりまえのように女性がいるのがおかしいんだ」


 寮のラウンジでは、貴族家の令息や令嬢がしょっちゅうパーティを開いていた。


 社交パーティのような上品なものではなく、周囲の迷惑を顧みない大騒ぎだ。


 そんな風紀の乱れを見過ごしているから自分の母親のような「ゆるい」人間が生まれるのだ……とカイルは思っている。


「俺が男子寮の寮長になった時、令嬢たちの立ち入りを全面的に禁止したんだ。反対する男連中は片っ端から決闘でボコボコにして黙らせたよ」

「カイル様、なかなかアクティブですね! ちょっと意外です!」

「まあ、俺が卒業したあと、またすぐに風紀が乱れたみたいだけどな」

「そういえば、レーベ様は騎士学校の貴族寮で暮らしてらっしゃいますよね。大丈夫でしょうか」

「幸い、レーベの同学年には第4王子がいるからな。王家のしきたりで貴族寮に入ってくれたおかげで、風紀も引き締められたそうだ」

「王族がうっかり令嬢さんに手をつけちゃったらマズいですもんね」

「まあ、第4王子が卒業したら元に戻るだろうがな」


 これまでも王族が騎士学校に入るたびに寮の風紀が正され、卒業とともに緩くなる、というループが繰り返されてきたらしい。


 今回もきっと同じことだろう。


 まあ、カイルにしてみればレーベの在学中だけでも風紀が保たれているならそれでいい。


 純真な弟には男女の「嫌な部分」を見せたくなかった。


「なんだか長話になってしまった。しかも下世話なことばかりだ。すまない」

「いえいえ、お気になさらず! 心の中のモヤモヤはちゃんと吐き出して、スッキリしたほうがいいですからね!」


 振り返ってみれば、男子寮時代のことを誰かに愚痴ったことなど一度もない。


 レーベに聞かせるわけにもいかず、ずっと1人で抱えてきた。


 当時のことを振り返ると、どうにも気分が苛立つ。


 それが楽になったのは、リリアに聞いてもらえたおかげだろう。


「ありがとう。……君がいてくれてよかった」

「どうしたしまして! また何かあれば気軽に言ってくださいね」

「ああ、そうさせてもらおう」


 答えつつ、カイルは内心で気く。


 まるで本物の妻や恋人に向けるようなことを言ってしまった、と。


 少し、耳のあたりが熱くなった。


 **


 事件が起こったのは、1年が終わりに近づいた12月のことだった。


 パラパラと雪がチラつく朝、カイルはリリアの工房を訪れて告げた。


「最近、グランデル公爵領の北西部で野生の熊が暴れている。現地からの報告では、かなり凶暴で、身体も大きいそうだ。どこまで本当かは分からないが、二階建ての一軒家――この工房ほどのサイズらしい」

「ものすごく巨大なんですね。魔物の末裔でしょうか」


 遠い昔、この世界には「魔法」という不思議な力が存在した。


 それは「魔力」という目に見えない力を通して行使されていたが、人間だけのものではなく、動物に宿って凶暴な存在に変えてしまうこともあった。


 そういった存在を「魔物」と呼ぶ。


 現在は魔法も魔物も存在しないが、時折、魔物の血を引く動物が先祖帰りを起こして人里に被害をもたらすことがあった。


「君の考えているとおり、おそらくは魔物の末裔だろう。この熊――暴れ熊はグランデル公爵領だけではなく、西隣のセルヴァン侯爵領にも被害を出しているそうだ。先日は街で大暴れして、いくつもの建物を瓦礫に変えたらしい」

「それは放って置けませんね。討伐に向かうんですか?」

「ああ。セルヴァン侯爵家と合同で熊退治だ。しばらくは帰れないだろう。次回の報告会はひとまずスキップしてくれ。代わりに――」


 俺の無事を祈ってくれ。


 言いかけて、カイルは口を噤む。


 自分はただ報告会の中止を告げに来ただけだ。


 なのに、何を言おうとしているのか。


 これではまるで、妻との別れを惜しむ夫のようではないか。


(確かに俺とリリアは夫婦だが、あくまで契約結婚だ。形式的なものだ。彼女はあくまでお飾りの妻だろう。恋愛禁止、接触最小限、接触最小限……)


 最近のカイルは己に言い聞かせる言葉の種類がずいぶんと増えていた。


 そうでもしないと、自分自身、思いもよらない言動をとってしまいそうだったからだ。


「あっ、そうだ! ちょっと待っててくださいね!」


 突然、リリアが思い出したように声を挙げた。


 パタパタと小走りで工房の奥へと消えていく。


「いつもながら唐突だな」


 カイルは苦笑しつつ、彼女を待つ。


 しばらくすると、どたどたと棚を探す音や瓶を動かす音が聞こえてきて、ほどなくして彼女が戻ってきた。


 両手で抱えるようにして持ってきたのは、光沢のある陶器の壺だった。


「よかったら、これを使ってみてください!」

「それは……?」

「魔女の古文書には魔物への対策がいろいろと書いてありまして、それを参考にして魔物に効くシビレ薬を試作してみたんです。今はもう魔物なんていないから使いどころがなさそうでしたけど、役立ちそうでよかったです!」


 エストラ子爵家の先祖――魔女は、まさに魔法が存在した当時の人物だ。


 日常的に魔物の脅威に晒されていただろうし、当時、使われていたシビレ薬というなら信憑性も高い。


「ありがとう。どうやって使えばいいんだ?」

「ハチミツに混ぜてください! シビレ薬には魔物を引き寄せる成分も入ってますから、森に置いておけば向こうからやってくるはずです。古文書の記述だと、二口ほど食べてくれさえしたら身動きが取れなくなるとか」

「すごい効き目だな。うまくいけば負傷者を出さずに討伐できるかもしれない」


 魔物の末裔というのは、一匹であっても強大な力を持つ。


 街ひとつが灰燼と化した、という報告もあるほどだ。


 カイルとしては犠牲を覚悟していたので、シビレ薬がリリアの言う通りの効果を発揮してくれるなら、これほどありがたいことはない。


「しかし、まさかこんなに都合よくシビレ薬が出てくるとはな」

「実は、グランデル公爵領のことについてちょくちょく調べてたんです! 数年に一度は熊が人里を荒らすって話を聞いたので、その時のためにシビレ薬を作ってたんですよね。凶暴な野生動物ってだいたい魔物の血を引いてますし、きっと効くだろうな、と」

「偶然ではなく、日頃から備えていたわけか」


 カイルは感心するとともに、リリアがグランデル公爵領に対して興味を持ってくれていることを嬉しく感じていた。


 彼女にしてみれば、わざわざ公爵領について調べ、必要とされそうな品を開発する必要などないはずだ。


 契約結婚の期間中にシビレ薬を使う機会など訪れないかもしれない。


 けれども、古文書を読み解いて、完成させた。


 そのことを思うと、壺を抱える腕に強い力が入った。


 うっかり割るようなことがあってはならない。気を付けよう。


 **


 ――結果から言えば、討伐は大成功だった。


 リリア特製のシビレ薬を混ぜたハチミツは巨大な樽に入れられ、森の開けた場所に設置された。


 陽が落ちて数時間後、ズシン、ズシンという獣の足音が近づき、重々しい唸り声が木々の間に響く。


 現れたのは、噂通りの巨体を持つ暴れ熊だ。


 圧倒的な存在感と威圧感を放ちながら、吸い寄せられるようにハチミツのもとへ歩いていく。


 シビレ薬に入っている成分が、魔物の末裔たる暴れ熊の本能を刺激しているのだ。


 そして――


 ベロベロベロベロッ!!


 樽の中に顔を突っ込み、暴れ熊はハチミツを舐め始める。


 猛烈な勢いだった。


 よほど美味く感じられたのだろう。


 変化はすぐに訪れた。


 暴れ熊はまるで酔っぱらいのようにふらつきはじめ、バタン! と樽を巻き込むようにして倒れてしまう。


 ピク、ピクピク……。


 やがて何度か手足を震わせたあと、完全に動かなくなった。


「今だ! やるぞ!」


 騎士たちとともに近くの茂みに潜んでいたカイルは掛け声とともに剣を抜き、暴れ熊のもとへ向かう。


 そして、刃を振り下ろそうとしたところで、気付く。


「死んでる……?」


 暴れ熊はすでに息絶えていた。


 シビレ薬は手足だけでなく、呼吸、そして心臓の動きさえも止めてしまっていたのだ。


 かくして――


 ひとりの女性の発明品により、グランデル公爵家・セルヴァン侯爵家合わせて100名を越える騎士たちの血は一滴も流されることなく、熊退治は成し遂げられたのだった。




「はっはっはっはっは! 暴れ熊をこんなにあっけなく討ち取れるとは驚きだ! カイル殿はよき妻をお迎えになったな!」


 勝利の宴は、セルヴァン侯爵領内の砦で催された。


 大広間にはカイルだけでなくグランデル公爵家の騎士たちも招かれ、料理と酒に舌鼓を打ちながら、今回の鮮やかな勝利に沸き立っていた。 


 その中心で豪快に笑うのが、セルヴァン侯爵家の現当主、エドガーである。


 たくましい胸板と大きな手足を持つ巨漢であり、戦場ではたびたび蛮族を震え上がらせる猛将だが、今は気さくな表情でカイルに話しかけていた。


「名前は確かリリア殿だったな。うちの息子が以前からベタ褒めしておったが、話通りの優秀な女性だな!」

「ご子息は、彼女と知り合いなのですか」


 突然聞かされた意外な人間関係に驚きつつ、カイルは訊ねる。


「昨年、貴公の弟――レーベ殿が剣術大会の直前に熱を出したことがあっただろう」

「ええ。……教えてもらえたのは、最近ですが」

「隠されておったのか。まあ、レーベ殿も男だ。兄には余計な心配を掛けたくなかったのだろう」


 うんうん、と頷きながらエドガーはさらに葡萄酒を呷る。


 立派な髭に包まれた顔はすでに真っ赤になっていた。


 気分よく酔っていることが見るからに伝わってくる。


「貴公も知っておるだろうが、騎士学校の男子寮は2人1部屋、レーベ殿とうちの息子は同室だ」

「ええ、それは把握しています。いつも弟が世話になっているようで――」

「いやいや、どちらかといえば息子の方が迷惑をかけておるようだ。レーベ殿にはいつも課題を手伝ってもらっている、と手紙で教えてくれたよ。

 話を戻すが、昨年、レーベ殿が風邪で倒れた時、エストラ商会で看病されておったらしいな。その時、うちの息子が様子を見に行って、リリア殿に出会ったそうだ」

「ああ、なるほど……」


 カイルは納得する。


 エドガーの息子、ユリウスは心優しい少年だ。


 レーベのことが心配になって、射ても立ってもいられなくなったのだろう。


「ああ、そうだ」


 唐突に、エドガーがニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。


「もしかするとそのうち、ユリウスが貴公に決闘を挑むかもしれん。遠慮はいらんから、思う存分に叩きのめしてやってくれ」

「……はい?」


 予想外の言葉に、カイルは戸惑う。


 父親であるエドガーとは正反対に、線の細い美少年であるユリウスの姿と「決闘」という物騒な二文字がうまく結びつかなかった。


 さらに言えば、どうして自分が狙われるのか。


 訳が分からない。


 眉を潜めていると、エドガーは声を潜めながら言葉を続けた。


「ユリウスのやつ、リリア殿に出会った時にうっかり惚れてしまったらしい。たびたびレーベ殿を連れては、エストラ商会に通っておったそうだ。友人の付き添いがなければ女性に会いに行くこともできんとは、まったく、セルヴァン侯爵家の男だというのに情けないことだ」


 そういえばリリアからも似たような話は聞いていた。


 病気が治ったあとも、レーベはたびたび友人とともにエストラ商会に来ていたとか。


 その「友人」というのがユリウスなのだろう。


 ただ、ユリウスがリリアに恋心を抱いていた、というのは初耳だった。


 きっと彼女は自分に向けられる好意にまったく気付いていなかったのだろう。


 ……哀れ、ユリウス。


「ともあれ、うちの息子にしてみれば、カイル殿は初恋の相手を奪った憎き相手というわけだ」

「それはなんというか……申し訳ない」


 カイルが居心地悪そうに答えると、エドガーは破顔一笑した。


「貴公が謝る必要はない。恋は戦争、先手必勝だからな」


 エドガーはどこか誇らしげに言い切る。


 当然と言えば当然だろう。


 エドガーは18歳の時、10歳も年上の貴族家の女性に一目惚れし、その日のうちに相手本人どころかその家族を説き伏せてのスピード婚を成し遂げている。


「カイル殿とリリア殿は政略結婚だが、彼女がこうして研究成果を提供しているということは、夫婦仲も良好なのだろう。末永く幸せであることを祈っておるよ」

「……ありがとうございます」


 礼こそ口にしたが、カイルの内心としては微妙なところだ。


 確かに自分とリリアの仲は良い。


 ただ、それは夫婦としての関係ではない。


 研究者と出資者という立場を前提にしてのものだ。


 そのことがどうにも物足りなく感じられるのはなぜだろう。


「ところで、どうして政略結婚と?」


 カイルはこの婚姻が契約結婚であることは伏せている。


 よって第三者からすれば、政略結婚、あるいは恋愛結婚のどちらかだろう、と考えるところだ。


 エドガーが政略結婚と言い切ったことが気になって、つい、訊ねていた。


 恋愛結婚の可能性をまったく考慮されなかったことが面白くない、という気持ちもあったが、そちらについてカイルは今のところ無自覚である。


「貴公は貴族令嬢たちの関心の的だったからな。最近までは山のような恋文に悩まされておったそうではないか」


 ニヤリと笑ってエドガーが答える。


「誰かと良い仲であるなら、結婚前からとっくに噂になっておるはずだろう?」

「ああ、確かに……」


 言われてみればその通りだ。


 結婚を公表するまで、自分とリリアのあいだに接点はひとつもなかった。


 顔を合わせたのすら、婚姻の初日だ。


 そんな状況ならば、誰だって政略結婚だと考えるだろう。


「ここだけの話だが、貴公とリリア殿の結婚については、目敏い貴族たちが『先を越された!』と頭を抱えておったよ」

「どういうことでしょうか」


 カイルが眉を潜めながら訊ねると、エドガーは愉快そうに口を開いた。


「エストラ商会の『鼻ピタくん』は知っておるよな。リリア殿の発明品だ」

「もちろんです。……自分も、今年の秋はお世話になりました」

「実はワシもだ。ユリウスがやけに推してくるから試したが、これは確かによく効く。不仲で有名な《側妃の二輪花》――ヘレナ様とフランシス様が『鼻ピタくん』についてだけは意見が一致して、一緒になって周囲に薦めておるそうだ」


 そういえばリリアは王族にも『鼻ピタくん』の営業を掛けたと言っていた。


 ヘレナかフランシスのどちらかだろう、と予想していたが、もしかしたら両方だったのかもしれない。


「それもあって、今年の春先にはリリア殿の才能に目を付ける貴族もチラホラと出ておった。当時のエストラ商会は傾いていたから、援助を申し出るかわりに結婚で彼女と縁を繋ごう、と考える者はそれなりにおった。――だが、連中が動き出すより先に貴公との結婚が発表され、連中は涙を呑んだ、というわけだ」

「……恥ずかしながら、今、初めて知りました」

「なんと! であれば貴公はとんでもない幸運の持ち主だな! まあ、恋愛も結婚も早い者勝ちだ。胸を張って誇るがいい。きっとリリア殿はこれからも多くの発明品を世に出していくことだろう。グランデル公爵家の将来は安泰だな、はっはっは!」


 エドガーは豪快に笑うと、葡萄酒をぐいっと飲み干した。


 周囲の騎士たちもそれに釣られて「グランデル公爵家のこれからに乾杯!」などと声を挙げる。


 賑わいのなかで、カイルは小さくグラスを傾けた。


 頭の中には「将来」という二文字が暗い影とともにこびりついている。


 彼女との契約結婚は、たった3年で終わりを告げる。


 すでに8ヶ月が経過しているので、残りは2年4ヶ月だ。


 期間が過ぎれば、リリアはグランデル公爵家を去ってしまう。


 そのあと、彼女はどうするのだろう。


 エドガーの話を踏まえるなら、リリアの才能には多くの貴族が目を付けているらしい。


 自分たちが離婚すれば、これはチャンスとばかりに求婚する者もいるだろう。


 アークランド王国において離婚歴はもちろん褒められたものではないが、実利を優先するタイプの貴族にとってはさほど問題にはならない。


(契約結婚が終わった後、リリアが別の誰かのところに嫁ぐ――)


 その時のことを考えると、なぜか、胸の奥がどんよりと濁っていくのだった。


 **


 重い感情を抱えたまま、カイルは騎士たちを率いて帰途に就いた。


 長距離の移動なので、当然ながら馬に乗っている。


 リリア特製のシビレ薬によって暴れ熊の討伐は大成功に終わり、グランデル公爵家、セルヴァン侯爵家ともに騎士の被害はゼロだった。


 まさに奇跡的な結果といえるもので、騎士たちは口々にリリアのことを褒めたたえていた。


「オレ、出発前に嫁と子供に『帰ってこれないかもしれない』って言ってたんすよ。まさか、ピクピクしている熊をチクチクと槍で刺すだけで終わるなんて。リリア様のいる工房には足を向けて寝られませんよ」

「カイル様は本当によい奥様をお迎えになったものです。さすがですな!」

「お二人の子供が楽しみです。きっと立派な跡継ぎになるんでしょうなあ」


 声を掛けられるたび、カイルは愛想笑いを浮かべて頷く。


 抱えた秘密の数だけ、余計に胸が苦しく感じられた。


 やがて屋敷の門が見えてくる。


 近くには執事長のギリアムや使用人たち、そしてリリアが出迎えに立っていた。


(普段ならこの時間は研究に没頭しているはずだ。……わざわざ来てくれたのか)


 先程まで感じていた暗い気分はどこへやら。


 カイルの口元が綻ぶ。


 気分も浮ついているのか、馬に揺られている身体もどこかフワフワしている。


「おかえりなさい、カイル様! ご無事でよかったです! シビレ薬、効いたみたいですね!」


 門の手前で馬から降りると、リリアがタタタッと駆け寄ってくる。


 明るく、真っ直ぐで、邪気のない笑顔。


 いつもどおりの彼女を見て、安心感を覚えると同時に――


 カイルの全身からフッと力が抜けた。


「……っ!?」


 足がもつれる。


 目の前が、ぐらりと揺れる。


「カイル様!? 大丈夫ですか!?」


 リリアの声が響くが、その先の音はもうよく聞こえなかった。


 カイルはそのまま崩れるように倒れた。


 どこかで風邪をもらっていたらしく、緊張が解けるとともに、熱と疲労がまとめて噴き出したのだった。


 そして――


「カイル様、調子はいかがですか? 熱は下がってきましたね。咳も減りましたし、薬が効いたみたいですね」


 窓から日が差し込む静かな寝室に、リリアの声が柔らかく響く。


 カイルが倒れてからというもの、リリアはまるで本物の妻のように――いや、それよりもずっと献身的に看病をしてくれていた。


 消化に優しい食事、定期的な着替えの用意、そして彼女が調合してくれた薬のおかげで身体はすでに回復へ向かっている。


 ただ、遠征の疲れは根深く残っていたらしく、まだしばらくはベッドを離れられそうになかった。


「……あまり俺に構わなくていい。君に移るかもしれない」


 かすれた声を漏らすカイルに、リリアは微笑んで答える。


「大丈夫ですよ。毎日ちゃんと暖かくして寝てますから。それに、魔女の故郷にはこんな言葉があるんです。バカは風邪をひかない、って」

「君は、優秀な女性だよ」


 カイルはほとんど反射的にそう答えていた。


 リリアは、少しばかり意外そうに首をかしげる。


「でも、研究のことしか頭にないですからね。普通の貴族家の令嬢さんみたいな振る舞いはできませんし」

「……そこがいいんだ」

「え?」

「何でもない」


 思わず零れた言葉は、熱のせいか、あるいは疲労のせいか――


 カイルは布団を頭まで被ると、呼吸ができる程度のスキマを残して告げる。


「とにかく、俺のことは気にしなくていい。『接触最小限』にも反している」


 それは照れ隠しではあったが、口にしたそばからカイルは後悔していた。


 なぜ自分はよりによって突き放すような言い回しをしてしまったのか。


 もしリリアがその言葉を真に受けて「それじゃあ、さよならー!」とこの部屋を出て行ってしまったら――。


 想像するだけで、息が詰まりそうになる。


(自分勝手すぎる。俺も、母親と同じだ)


 何人もの相手と不倫を重ね、それが露見すると「夫がわたしを愛してくれなかったせい」などと言い訳を並べ、離婚後はあちこちでグランデル公爵家を貶めるような嘘を重ねていたあの女――イザベラ。


 自分はそこまで堕ちていないが、自分の感情を最優先して他人を傷つける、という意味では共通してる。


 カイルは喉に苦いものが込み上げてくるのを感じつつ、唇を噛み締める。


 過去に戻れるなら、数十秒前の自分を殴り飛ばしたい。


 そんなふうに自己嫌悪の渦に沈んでいると――


「契約違反と仰られても、こればかりは応じられません」


 リリアが、彼女にしてはめずらしく真剣な声で言い切った。


 瞳はまっすぐに、布団の中に隠れているカイルを見据えている。


「風邪は万病のもと、死んじゃうことだってあるんですからね。たとえ離婚になったとしても、治るまではきっちりと看病させてもらいます」


 普段のあっけらかんとした雰囲気はどこかに消え失せ、母鳥が雛を守るような、揺るぎない意思を漂わせていた。


「……分かった」


 カイルは小さく頷いた。


 彼女に押し切られたわけではない。


 まっすぐな思いに心が動いたからだった。


 心の意図がほろりと緩む。


 安心感で瞼を閉じると、そのまま眠りに落ちていた――。


 **


 目を覚ましたあとも、すぐそばにはリリアの姿があった。


「喉は乾いてませんか? お腹は空いてませんか? 身体を拭くのは……使用人さんにお任せしたほうがいいでしょうか」


 甲斐甲斐しく世話を焼き、些細な変化にも気付こうとしてくれる。


 寄り添うような柔らかさがあった。


 微熱の残った身体で寝たり起きたりを繰り返すうち、穏やかなまどろみの中でカイルは――ふと理解する。


 レーベ。


 弟が、リリアに懐いていた理由。


 そして彼女の「女性としての魅力に欠けちゃってる」という言葉に、いつになく真剣な様子で反論した理由。


(あいつは、去年、熱を出してリリアに看病されていた)


 今のカイルのようにずっと気にかけてもらったのだろう。


 下心も打算もなく、ただ心配だからというだけで自分の時間を割いて寄り添ってくれる。


 彼女の自然な優しさに触れて、きっとレーベは――。


(あいつが契約結婚にいい顔をしなかったのは、そういうことか)


 その気付きは、しかし、眠りに落ちるとともに記憶の底に消えていった。


 **


「熱もないですし、咳も鼻水も止りましたね。今日から公爵としてのお仕事に復帰しても大丈夫ですよ」


 リリアは晴れやかな笑顔でそう告げる。


 手には彼女が開発したスイギン(水銀)という物質を用いた体温計が握られていた。


「こんなに短期間で治ったのは初めてだ。君のおかげだ。ありがとう」


 カイルの言葉は社交辞令でもお世辞でもない。


 心からの本音だ。


 グランデル公爵領はアークランド王国の北端に位置し、冬はひどく冷え込む。


 風邪は長引きがちだし、こじらせて死に至ることもありうる。


 だというのに、カイルは10日もせず全快したのだ。


「それにしても、看病を始めた時の君の勢いはすごかったな」


 彼女の淹れたハーブティに口をつけながらカイルは苦笑する。


「『たとえ離婚になったとしても、治るまではきっちりと看病させてもらいます』だったか」


「あはは、その節は失礼いたしました。……実は、兄のひとりが幼いころに風邪をこじらせて亡くなってるんです。そのせいで、どうにも過敏になりがちでして」

「君も、俺と同じなのか」

「えっ?」

「先代の公爵夫婦、つまり俺の父親とその妻も風邪から肺炎を起こして亡くなってるんだ」


 その妻、なんて他人行儀な言い方になってしまったのは、父親のクランがイザベラとの離婚後に迎えた新たな妻――カイルにとっては継母にあたるマーサとの距離感が原因だった。


 実母のイザベラが悪い意味で奔放だったため、幼いカイルの心には女性不信が深く根付いていた。


 そのせいでマーサに対しても壁のある接し方になってしまい、ずっと改善されることなく永遠の別れとなっている。


「……もっと早くに、君に出会えていたらな」


 カイルはそう呟かずにいられなかった。


 言ったあとに、まるで恋愛物語のようなセリフだとも思った。


 リリアは茶化すことも、照れることもなく、ただ穏やかにこう返す。


「悲しいですけど、過去は変えられませんからね。……私が魔女の古文書を読み始めたのは、兄のひとりを病で亡くしたことがきっかけなんです。死んじゃった人を蘇らせる方法はないか、って」

「結果は、どうだったんだ」

「ダメでした。まるで私が古文書を読むことを予想していたみたいに『死者の復活は不可能である』って冒頭に書いてあったんです」

「魔女には未来予知もできたのか」

「どうでしょう。偶然かもしれません。文章には続きがありまして『過去は変えられないが、糧にはできる。悲劇を取り除くための知恵をここに記す』って。……兄は帰ってこないけど、私みたいに悲しむ人が減らせるかもしれない。そう思って、研究を始めたんです」

「……それが君の出発点というわけか」


 リリアの研究というのは、本人の趣味でもあり、商会の利益のためでもあるのだろう。


 だが、根本にはもっと純粋な願い――自分の身に起こったような悲劇を減らしたい、という思いが存在しているのかもしれない。


「君は、立派だな」


 思わず、そんな言葉が零れた。


「そんなことはないですよ。研究だって、自分だけじゃとても続けられませんでしたからね」


 リリアは微笑みながら答える。


「両親に兄や姉、商会のみなさん、なによりカイル様の資金援助のおかげでうまく行ってますし。今回、治療に使ったお薬もここに来てからの研究で完成したものばかりなんです。ちょっとは恩返しできたでしょうか」

「もちろん。むしろ、こっちが貰い過ぎているくらいだ」


 風邪を治してもらったことはもちろん、先日の暴れ熊討伐におけるシビレ薬の貢献はとても大きい。


 本来ならば死者が出てもおかしくない話だというのに、誰一人怪我することなく家に帰りついているのだ。


 さらに言えば――


 カイルが病床に伏しているあいだ、リリアは看病だけでなく、領主代行としての役割も果たしている。


 もちろん執事長のギリアムの助けもあったが、使用人や騎士、さらには各地の役人や文官たちとも密に連絡を取り合い、年末の政務に滞りが出ないように采配をしていた。


 その手際はカイルの想像以上のもので、先程確認したところ、ミスらしいミスは見当たらなかった。


 おかげで心穏やかに年末年始を迎えられそうであり「むしろ俺のほうが恩返しをしないとな」と思わされるほどだった。




 なお。

 このあと執事長のギリアムにリリアの仕事ぶりについて尋ねたところ――


「不慣れな面もありましたが、奥様のためならば、と屋敷の者たちも自発的に手を貸しておりました。病に倒れた夫に代わり、家をまとめて人を動かす。まさに理想的な領主の妻ですな」


 という答えが返ってきた。


 厳格な老執事にしては珍しい、お世辞も皮肉もないべた褒めであった。


 **


 年が明け、3ヶ月ほどが過ぎた。


 グランデル公爵家の厳しい寒さもようやく和らぎ、屋敷の窓を開ければ冷たい風の中にも春の匂いが混じっていた。


 この日、カイルは執務室でひとつの報告書に目を通していた。


 エストラ子爵家からのものであり、さらに老執事のギリアムにより裏付けもとられている。


 それは子爵家とその商会の財政状況についてのレポートだった。


「1年でずいぶんと持ち直したな」


 カイルはそう呟いてから、頭の中ですぐに訂正する。


 持ち直した、などという表現では足りない。


 躍進、否、大躍進と呼ぶべきだ。


 《側妃の二輪花》――ヘレナとフランシスが揃って『鼻ピタくん』を推している、という話を以前にセルヴァン侯爵ことエドガーから聞かされたが、エストラ商会の他の商品も王族あるいは貴族にヒットし、さらには平民にまで浸透していた。


 たとえば『ネバネバくん』。


 これは夏にカイルが味見した、練れば練るほど色が変わる不思議なお菓子だ。


 その物珍しさに加え、ほんのりとした甘味と口当たりの良さからあっというまに人気商品となった。


 貴族令嬢たちのお茶会でも定番になりつつあるし、さらにその派生商品として「混ぜると色が変わるお酒」こと『カラフルくん』が開発され、こちらも大きな話題となっている。


 さらに暴れ熊を討伐した時のシビレ薬も商品化されており、被害ゼロで討伐を終えたという逸話をエドガーが王都のあらゆる社交場で豪快に広めた結果、獣害に困っている国内外の貴族から注文が殺到しているようだ。


 他にもリリアの発明を元にした商品が数多く存在し、どれも飛ぶように売れている。


 エストラ商会はアークランド王国でもトップクラスの業績を誇る商会へと生まれ変わっていた。


「すごいな。むしろ昨年まで赤字続きだったのが不思議なくらいだ」


 カイルが簡単混じりに呟くと、執務机の向かいに用意された椅子に座っていたリリアが苦笑した。


 彼女の手元にも同じ報告書がある。


 今日は研究報告会の予定だったが、普段とは場所を変え、まずは2人でエストラ商会についてのレポートを読むことにしていた。


 リリアは数秒の沈黙のあと、エストラ商会がなぜ傾いていたのかについて語り始める。


「先々々代の当主、つまり私のひいおじいちゃんにあたる人がギャンブルでものすごい借金を作っちゃったんです。その返済でお金がすっからかんになりまして」

「負の遺産がずっと尾を引いていた、というわけか」


 借金の返済で懐が厳しくなれば経営を縮小せざるを得ないが、縮小すれば利益も減る。


 そんな悪循環を繰り返しながら、ジワジワとエストラ商会は追い詰められていったのだろう。


「だが、君の研究成果によってエストラ商会は息を吹き返した。まさに救世主だな」

「褒めすぎですよ。我が家が商会を畳まずに済んだのも、私が研究を続けて発明品を生み出せたのも、カイル様が資金援助してくれたおかげじゃないですか。本当に感謝してます」

「そう言ってもらえるのは光栄だな。どういたしまして」


 カイルはフッと口元を綻ばせる。


 もともとは自分の都合で始めた契約結婚だが、それが巡り巡ってエストラ商会を救い、リリアという女性の才能を世に知らしめることに繋がったのは素直に嬉しかった。


 ただ――


 報告書に並ぶ数字とグラフをもう一度眺め、カイルは瞼を伏せる。


 今後もエストラ商会はぐんぐん発展していくだろう。


 契約結婚が終わるまで、あと2年。


 そのころにはもうグランデル公爵家からの援助など必要なくなっているだろう。


 リリアだって、商会の資金だけで研究を続けられるはずだ。


 ――カイルの心に、ひとすじだけ、言葉にならない寂しさが差した。


 そして一瞬だけ考えてしまう。


 契約結婚の延長。


 リリアがいる生活が、あと2年と言わず、3年、4年と続くなら……。


(俺は何を考えているんだ)


 カイルは頭を振って想像を頭から追い払うと、自分の心に蓋をするように告げる。


「報告書についてはこれくらいでいいだろう。研究の報告をしてもらおうか」


 ただ――

 今回伝えられた研究成果はカイルの胸をざわつかせるものだった。


「最近、ようやく血縁鑑定のための薬が形になってきたんです」


 リリアは数枚の図表、そして血液のサンプルが入った小瓶を並べると、いつものように快活な声で説明を始める。


「魔女の古文書によると、私たちの身体には『イデンシ(遺伝子)』というものがあって、両親から半分ずつ子供に受け継がれるみたいです。その結果、子供は親に似るんだとか」

「……俺であれば『髪が金色になるイデンシ』を父から貰っているから、金髪になったということか」

「正解です! さすがカイル様、理解が早いですね」

「この半年、君から古文書についての話を何度も聞いていたからな。カガク(科学)だったか。魔女の故郷で広まっている学問の考え方はなんとなく掴めてきたよ」


 カイルは褒められたことに気分を良くしつつも、ひとつの疑問を覚えていた。


(両親から半分ずつ『イデンシ』を受け継ぐのであれば、俺の瞳――灰色の瞳は誰の『イデンシ』だ?)


 イザベラの話によれば、灰色の瞳を持つ不倫相手もまた金髪だったという。


 ゆえに自分が金髪であることは、父親がクランであることを意味しない。


 むしろ不倫相手から『髪が金色になるイデンシ』と『瞳が灰色になるイデンシ』を引き継いだ、と考える方が自然だろう。


 カイルの心が、暗く、重く、沈んでいく。


 だが、ちょうどそこに手を差し伸べるようにリリアが告げた。


「ちなみに『イデンシ』には親だけじゃなくて祖父母、曾祖父母――自分のご先祖様の情報が記録されています。カイル様にあてはめるなら、お祖父様が灰色の瞳だったそうですし、その『イデンシ』が働いているわけですね」

「つまり、両親とは異なる特徴が子供に現れてもおかしくない、ということか」


 先祖の特徴が、代を隔てて(隔世)子供に現れる(遺伝)――。 


 その概念そのものはアークランド王国でも経験的に知られているし、カイルも対外的には自分の瞳の色を祖父由来だと説明している。


 ただ、経験的な概念にすぎないため内心では疑っており、イザベラ(自分の母親)のような者たちが不倫を誤魔化すための方便ではないかと思っていた。


(だが、魔女の古文書にも語られているなら信じていいかもしれない)


 自分の瞳は、祖父からもらったもの。


 できれば、そうであってほしい。


「『イデンシ』の働きによって子供は親に似ますけど、ご先祖様の特徴が現れるかもしれない。だから表面的な特徴だけで親子鑑定をするのは難しいんです。なので、鑑定薬を作って『イデンシ』そのものが共通しているかどうかを調べる……というのが、この研究です」

「実用化されたら、依頼が殺到しそうだな」


 特に、王族や貴族から。


 子供が本当にその血を引いているのか。


 疑われれば家の名誉と正当性を揺るがす問題となり、逆に、親子関係を証明できるなら無用な争いや憶測を減らせるだろう。


 もちろんカイルにとっても他人事ではない。


 本音を言えば、今すぐにでも自分の『イデンシ』を調べてほしい。


 だが、すでに父親は亡くなっている。


 血液を手に入れる手段がないのだから、親子関係も証明できない。


「その研究がもっと早くに完成していたら、俺も悩まずに済んだかもしれないな」


 つい、そんな言葉を零してしまう。


 独白であり、吐露であり――嘆きであった。


「えっ?」


 戸惑ったようにリリアが目を見開く。


 ただ、深く訊ねてくることはなかった。


 話題がカイルのデリケートな部分に触れてしまうと悟ったのだろう。


「さてさて! 次の報告ですが――」


 普段通りの表情と、わざとらしいくらいの明るい声で話題を変えようとする。


 だが、それを遮るようにカイルが言った。


「すまない。少しだけ話を聞いてくれないか。契約上のこととはいえ、君は俺の妻だ。これは把握しておくべきことだろう」


 今日の報告が血縁鑑定についてのものだったからか。


 あるいは、自分とクランが血の繋がった親子かどうかはっきりさせることはできない、という事実を改めて認識したためか。


 自分でもよく分からない衝動に駆られるまま、カイルは言葉を続ける。


「俺は――カイル・グランデルは、グランデル公爵家の血を引いていないかもしれない」

「……どういうことでしょうか」


 話の深刻さを感じ取ってか、リリアもスッと真剣な表情となる。


 ただ明るいだけではなく、必要なら相手の気持ちに寄り添える。


 そんな相手だからこそ、カイルも自分の生まれについて話そうとしたのかもしれない。


「『結婚は不倫を楽しむための第一歩』だったか。俺の母親――イザベラの言葉だよ。実家にいたころはおとなしい女性だったらしいが、結婚して公爵家の妻になってからは複数の異性と関係を持っていた。……その相手の1人が、金髪で、灰色の瞳だったんだ」


 ――いいことを教えてあげる。カイルを授かった当時のカレにも灰色の瞳の人がいたの。


 それはカイルの心を今もなお蝕む、実の母親からの呪いだった。


「俺の瞳が灰色なのは、祖父のものを受け継いだからか、母親の不倫相手からのものか。誰にも分からない。……けれど、父のクランは俺を排除しなかった。イザベラと離婚して、再婚相手とのあいだにレーベが生まれても、俺のことを長男として扱ってくれた。愛してくれたんだ」


 それだけではない。


 クランは、カイルが貴族社会において不利な扱いを受けないように、政治力のすべてを行使して「灰色の瞳を持つ不倫相手」の存在を隠蔽した。


 おかげで「カイルの瞳は祖父由来のもの」というのが一般的な認識となっている。


 その優しさには感謝しているし、愛情を注がれていた、と確信している。


 だからこそ――

 確実に父の血を引いている者こそがグランデル公爵家を継いでほしい、と思ってしまうのだ。


 本来なら、そのことをクランと話し合うべきだったのだろう。


 だが運命は無慈悲だった。


「5年前、父は肺炎で亡くなった。突然のことだったから後継者の指名もなかったよ。慣例に従って長男の俺が公爵になったが、さっきも言ったように、グランデル公爵家の血を引いているか怪しいところだ」


 カイルはあらためて自分に言い聞かせるように、告げる。


「弟のレーベは、間違いなく父の子供だ。あいつが騎士学校を卒業する2年後、ちょうど契約結婚が終わるタイミングで――俺は公爵の座を退くつもりだ」


 **


 自分の話を、リリアはどう受け止めたのだろう。


 カイルは途中から感情のままに言葉を吐き出していた。


 長年、胸のうちに抱えていたもの。


 不倫相手との子かもしれないという不安、それでも自分を愛してくれた父親への恩、だからこそ弟に公爵の座を譲りたいという思い――。


 執事長のギリアムにも、弟のレーベにも、ここまで深く胸の裡を吐露したことはない。


 自分のことを曝け出すように語ったのは、今回が初めてのことだった。


「教えてくださってありがとうございます。辛い事なのに」


 リリアが、優しく、寄り添うように言葉を掛ける。


 その声を心地よく感じつつも、カイルは強がるように肩を竦めてみせた。


「そんなことはないさ。人は生まれから逃れられない、とっくに慣れたよ。そもそも公爵の立場なんて面倒なだけ、弟に押し付ける大義名分があって感謝しているくらいだよ」

「嘘をついちゃダメですよ。カイル様」


 朗らかな口調のまま、けれど言葉にはっきりとした芯があった 。


「カイル様は公爵としての務めにすごく真面目に取り組んでますし、レーベ様のことをとっても大切にされてるじゃないですか。面倒だから苦労を押し付けたいなんて、誰が聞いても嘘だって分かりますよ」

「それは……」


 カイルは言葉に詰まってしまう。


 リリアの指摘が図星だったからだ。


 正直なところ、公爵として領地を栄えさせ、北の蛮族から国境を守ることには大きなやりがいを覚えている。面倒と感じたことはない。


 弟に公爵位を譲ることについても「あいつに負担を押し付けるだけではないか」という罪悪感があった。

 けれど――


「誰の血を引いているか分からない自分が、公爵の座を継いでしまうことは申し訳ないんだ。亡き父に……俺のことを、守り、愛してくれた父さんに……」


 それは嘘偽りのない、カイルという人間の本音だった。


 きっと父が生きていたなら、自分を後継者としていただろう。


 レーベこそ次の公爵になるべきだと主張しても、きっと却下されていたはずだ。


 そんなことは分かっている。


 だが、もう決めたことだ。


 自分はこの形でしか、亡き父への感謝と愛慕を示せない。


 そんなふうに決意を新たにしたところに――


「レーベ様とは、きちんと話し合われましたか」


 またも、リリアの言葉が突き刺さった。


 公爵位を譲ることについて、レーベとはさほど話し合っていない。


 5年前、クランとマーサが亡くなってしばらくしたころにカイルが一方的に自分の考えを述べ、決定事項として告げただけだ。


 振り返ってみれば、兄弟のあいだに溝が生まれたのはあの時からだ。


「っ……」


 カイルは何も言えない。


 決定を押し付けただけ、という正直な状況を告げたなら、次の春休みに帰ってくるであろうレーベと話し合うように勧めてくるだろう。


 あるいは、優しい彼女のことだから、兄弟がじっくりと語り合うための場を用意してくれるかもしれない。


 そうなった時、自分は決意を揺るがさずに済むのか――。


 カイルは己を信じ切れず、だからこそ、逃げるように心にもない言葉を放っていた。


「俺が公爵を辞めることについては、あくまでも公爵家の問題だ。お飾りの妻でしかない君に口を出す資格はない。把握だけしておけばいい」


 そして、すぐに後悔が訪れた。


 自分の生まれのこと、公爵の座をレーベに譲ることについては、カイルのほうから話し始めたことだ。


 だというのに、痛いところを突かれた途端に突き放すなど、あまりにも自分勝手すぎる。


 リリアはこちらのことを気遣ってくれただけなのに。


 数秒ほど、気まずい沈黙が流れる。


「あっ、ごめんなさい! 踏み込み過ぎましたね!」


 リリアは空気を和らげるように、明るい調子で声をあげた。


「ごめんなさい、私が悪かったですね。これって『接触最小限』を越えちゃってますか」

「……いや、必要な会話の範囲だ。気にしなくていい」


 取り繕うように答えつつ、カイルは苦い感情を味わっていた。


 リリアの笑顔は、普段と違ってどこかぎこちないように思えた。




後編もすでに投稿してありますので、このままお読みください~

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