一章◎瘴気と凶兆
ひとつの人影がゆっくりと朝靄の中におぼろげに浮かび上がった。同時にその足元の周囲にも人影らしきものが点々と浮かび上がった。それは無残にも、ほとんど半裸で行き倒れるようにして朽ちつつある死体の群れであった。
ぼろ布をまとい、精も根も尽き果てた姿で、顧みられることもなく打ち捨てられた死者たち。ひんやりと冷え切った道路の石畳は今や死体の寝床と化していた。
――疫病。
立ちすくんでいた男は、嘆息と共に思わず独り言を漏らした。それは道路脇に無造作に置かれた死体を見た素直な感想であった。早朝ということもあいまって、人通りは皆無である。
多少の広場でもあろうものなら、そこは死体の山が積まれている。臭気を放つ死体こそ少ないとはいえ、まだ息を吹き返しそうな新鮮な死体たちが、奇妙な姿勢のまま、いびつに腕や足を伸ばしからみあっている。それは埋葬の処理が追いついていないことを意味していた。その山を崩す速度より、積み上がる速度のほうが速いのだ。
ある死体は首に異様な腫瘍がある。そこが内出血のために青黒く膨れ上がっている。見れば、部位こそ違え、どの死体にも腫れ上がった腫瘍が散見され、その皮膚は青黒くあるいは紫色に変色していた。特に多く見られるのが鼠径部に目立つ腫瘍である。太ももまで黒く変色した死体も少なくない。黒い疫病はリンパ腺に取り憑き、人体を内側から破壊してゆくのだ。
とはいえ、いつまでもこうして死体の前で立ちすくむわけにもいかない。朝靄も霧消し、しばらくすると調査員が見回りを始める頃合いだ。
できるだけ瘴気を吸い込まぬために、息を殺すようにして、人の気配が絶たれた石畳の上を男は青息吐息で歩を進める。冷たい石の鍵盤が奏でる足音だけが寂しく響いていた。
やるべきことを済ませた男は、歩きながらも冷静になって、山と積まれた死体のことを想う。なぜ疫病が理不尽にもこの街を何度も襲うのかを想う。世界の終わりのことを想う。
平等派たちの悲願がここにはあるとでもいうのだろうか。
否、それは違う。
疫病は、不衛生な環境で生活しなければならない貧しい者たち、そして体力のない赤子や老人、そういった弱者から確実に死に至らしめている。
上級役人や貴族たちが早々に逃げ出した結果、シティの統制はとれておらず、場当たり的な対応が繰り返され、最前線に立つ献身的な市民ほど疫病の毒矢に射たれて次々と死んでいく。
あまりに理不尽で不平等な真実。
これが、あの大火から見事に再興を遂げたヨーロッパ有数の大都市の姿であろうか。それとも、ロンドンというところは神によって血の地所と定められ、地球の表面から消し去られる宿命とでも言うのだろうか。
否、それは断じて否である。
男はそんな自己問答を続けていた。
時は十七世紀末。急速に大流行を始めた疫病によってロンドンは再び死の街と化していた。一六六五年に訪れた大疫病の再来である。きまぐれな魔王による聖なる審判が行われた結果、ロンドンは再び地獄へと変貌を遂げていた。
死が横溢する静寂の中で、男の足音とは別の、早足で逃げ去るような足音が背後から聞こえる。すぐに振り返ると、脇道から脇道へと消え去る者の姿がチラリと見えた。どうやらこちらの存在には気づかなかったようだ。どこにでも人目をはばかって往来する人間はいるものだ。ならずものか、はたまた監視人か。
世界という舞台の陰で、影絵のごとくうごめく姿は実に滑稽だ。
男は不意に、喉の奥から笑いがこみ上げてくるのを感じた。自分でも理解できない笑いである。ある意味、追い詰められているにもかかわらず、世界の不幸、そして自らの不幸、そのあまりの理不尽さが笑えてきたのである。
なぜ、こんなにも振り回されているのか、これからも振り回され続けるとでもいうのだろうか。みずからを嘲り笑うことで、そして客観的、楽観的になることで、男は再度、落ち着きを取り戻す。
まだこれからも、やらねばならないことがある。
男は街を覆う瘴気の抱擁からすり抜けるようにして、そそくさと自宅へと急いだ。
疫病条例――疫病対策要員に関する規定その一
・区長や助役、区会は教区ごとに検察員を強制的に任命し、教区内の病院の調査・報告をさせる。疫病に感染した者をみつけた場合には、検察員は警吏に命じてその家屋を閉鎖させる。
・全ての感染家屋には、昼勤、夜勤の監視人を二名置き、その家屋に誰も立ち入らないようにする。監視人はまた、当該家族の求める用務を果たす。
・教区ごとに淑徳の誉れ高い婦人を数名、調査員に任命し、医師のもとで死亡者の遺骸を調べさせ、その死因を報告させる。