第二十二話 三日間、夫人は城にいました
翌朝、わたくしは四時に起きました。
休みではありませんので、これは通常通りです。
五時半に食堂へ行くと、厨房の裏でヨナスが竈に火を入れておりました。最近この男は、わたくしが早く来ると茶を出します。その日も黙って一杯置きました。
「補佐官。客が来てるんだって?」
「公爵家の夫人です」
「あんたの、元の」
「はい」
ヨナスは鼻から息を吐きました。
「飯、出すのか」
「客人ですので」
「……粥にしとくか。喉に詰まらせるかもしれんからな」
「ヨナス」
「冗談だよ」
*
夫人は七時に食堂に下りてこられました。
三交代の一つめ、十一時半の前ですので、食堂にいたのは早番の兵と厨房の者だけです。夫人は入口で足を止めて、中を見回されました。
「……使用人と、同じ部屋で召し上がるのですか」
「兵と文官と使用人が、同じ部屋です」
「まあ」
夫人は侍女に運ばせて、隅の席に座られました。
その間に、兵が三人ほど通りました。通りざまに、それぞれ言いました。
「補佐官様、おはようございます」
「おはようございます」
「補佐官様、昨日の配置、助かりました」
「よろしゅうございました」
「補佐官様、うちの倅が鉱山の名簿に入りました。ありがとうございます」
最後の兵は、わざわざ足を止めて頭を下げていきました。
夫人は、それを見ておられました。
*
その日、わたくしは町に出る用がありました。
春の市の税の取り決めと、ベルタの店の二年目の話です。夫人がついてこられました。理由は仰いません。侍女を一人連れて、少し離れて歩いておられました。
町の通りは荷でいっぱいでした。
ベルタの店は、去年の屋台の場所に、板の囲いができておりました。屋号の看板が出ております。
――あたたかい
ひらがなで五文字です。十九人で三日揉めて、これになったそうです。
「補佐官!」
ベルタが手を振りました。
「聞いてくれよ。今年は五千枚やる」
「五千は無理です」
「無理じゃないよ。人が二十八人になったんだ」
「二十八ですか」
「隣の集落からも来るようになってさ。去年、うちの連中が金持って帰ったのを見たんだよ」
ベルタは笑って、それから夫人のほうをちらりと見ました。
「そちらの奥さん、王都の人かい」
「客人です」
「ふうん。……奥さん、うちの菓子、食べてってよ。この人が考えた商売なんだ」
夫人は、返事をなさいませんでした。
ベルタは構わずに、焼きたてを一枚、包んで渡しました。
「去年の冬までね、あたしら女は冬に座ってるだけだったんだ。それがこの人が来て、樽が余ってるだの乳を捨ててるだの言い出して、気がついたら五十日働いてた」
「……」
「うちの店の子で、十六の子がいてね。初めて自分の金を持ったって泣いたよ。あたしゃあの日のこと、死ぬまで覚えてる」
夫人は、包みを持ったまま立っておられました。
*
午後は鉱山の集落へ回りました。
四十七人の分を帳面に入れてから、ここには月に一度来ております。入れただけでは足りず、実際に人がいるかどうかを見ないと数字が腐るからです。
馬車が集落に入ると、子どもが走ってきます。
五人ほどです。いちばん小さいのは四つくらいでしょうか。
「アデラインさま!」
「走ると転びます」
「こないだの薬、きいた!」
「それはよろしゅうございました」
夫人が、後ろで小さく仰いました。
「……薬?」
「冬に流行った咳です。集落は医者が来ませんでしたので、城から回しました。帳面に載っておりませんでしたから、それまでは薬も回らなかったのです」
「載っていないと、薬が回らないの」
「回りません。数のない人間には、何も割り当てられません」
夫人は、それきり黙っておられました。
*
城に戻ったのは日が落ちてからでした。
廊下で、ハンナと鉢合わせしました。
夫人が、足を止められました。
「……ハンナ」
「ご無沙汰しております、奥様」
ハンナは礼をしました。二十九年、この方に仕えた礼です。形が崩れておりません。
「あなた、なぜここに」
「お暇をいただきましてございます」
「それは聞いております。……なぜ、ここにいるのかと伺っておりますの」
ハンナは、少しだけ間を置きました。
「奥様が、わたくしの膝をご存じでしたので」
「膝?」
「はい」
「……あなた、膝が悪いの?」
「二十年ほど前からでございます」
夫人は、ハンナの顔を見ておられました。
「わたくしは、存じませんでしたわ」
「はい。申し上げておりませんので」
「では、なぜアデラインさんが」
「存じません」
ハンナは、そこで初めて顔を上げました。
「申し上げておりませんのに、三年間、冬に三階へ回されたことが一度もございませんでした。……なぜかは、わたくしにも分かりません」
夫人は、何も仰いませんでした。
ハンナは礼をして、行ってしまいました。
*
その夜、わたくしは執務室で鉄の名簿を仕上げておりました。
十時を回ったころ、扉が叩かれました。
開けると、夫人が立っておられました。
侍女はおりません。一人です。夜着の上に外套を羽織っただけの、ずいぶん軽装でした。
「……少し、よろしいかしら」
「何かご用でしょうか」
「伺いたいことがありますの」
わたくしは扉を開けて、椅子を勧めました。
夫人は座られて、しばらく机の上の紙を見ておられました。
「これは何ですの」
「鉄の商談の名簿です。春の社交で当主様が会われる方々を、順番に並べております」
「……あなたが作ったの」
「はい」
「社交の名簿を」
「三年、やっておりましたので」
夫人は、そこで顔を上げられました。
「今日、一日歩きましたわ」
「はい」
「何人に、名前を呼ばれまして?」
わたくしは、少し考えました。
「数えておりません」
「わたくしが数えましたの」
夫人は、膝の上で手を組まれました。
「三十一人ですわ」
わたくしは、黙っておりました。
「兵が九人。文官が六人。厨房が四人。町で十一人。……集落の子どもが五人。数え間違えているかもしれませんけれど」
「……」
「アデラインさん」
夫人は、机のほうを見たまま仰いました。
「わたくし、今日、一日考えておりましたの。……あの家で、あなたを名前で呼んだ者が、何人いたかしらと」
わたくしは答えませんでした。
答えを、この方はもうご存じのはずです。
夫人は立ち上がって、扉のほうへ歩かれました。
そして、扉に手をかけたところで、背を向けたまま仰いました。
「明日、お話がありますの」
「はい」
「……朝でなくて結構ですわ。あなた、お忙しいでしょうから」
扉が閉まりました。
わたくしは、しばらく机に向かったまま動きませんでした。
三年間、この方から「お忙しいでしょうから」と言われたことは、一度もありませんでした。




