スーサイド・カンパニーへようこそ(番外編)あなたに呼び掛けている
本編の約1年前の話です。アリスが潜入捜査をするきっかけとなった「失態」の話です。
「嗚呼ノアール、お前はどうしてノアールなの」
彼はとある令嬢の台詞を改変して唱えた。それは恋慕の甘い囁きにはほど遠く、役者であれば二度と舞台には立つなと客席から野次を飛ばされそうなほどのお粗末な一本調子であった。彼――ブランシュは呼びかけに答えない相手をじっと見下ろして、徐に相手の目隠しを取った。大きな黄金の目が二つ現れる。足のつま先から手の指先まで黒く覆われた重い衣服と呂色に艶めいた髪が殊更に、目の色を凶悪なほど美しく印象づける。どうしてと問われてもこの夜に愛されたような容姿ならば、黒の名を冠するのは致し方あるまい。そもそも『ノアール』だって本当の名前ではないだろう。それは行きずりでついた名前に過ぎない。此れが此れである要素は、一体何なのだろう。名前? この外見? それとも呪われた体質の所為? 薔薇は薔薇という名前を奪われても美しく香る、しかし彼の場合はどうだ? 名と実とが余りにも不離一体だ。悲劇の根底を覆すかのような特異点に呑み込まれそうになる。
――違う。僕が僕であるのは、僕が僕であるという決意に他ならない。
「『アルバス』の人間は皆お前の様なのか?」
ノアールが目を合わせずに尋ねる。抽象的で漠然とした質問だが、ブランシュは彼の知りたいことに直ぐに気づいた。そして答えを渡さなかった。
「さぁ、どうだろう」
ノアールは解答がはぐらかされたことに苛立った様子だった。殺意の程が増すかの様に黄金が輝きを強くしてブランシュを睨む。
「俺を拘束してどうするつもりだ?」
答えが得られるか確証もないのに、ノアールのようなプライドの塊のような男が質問を畳み掛けるのは余程焦っている証拠だ。ブランシュは少し同情した。
「理由のない欠勤は懲戒処分の対象だよ」
「どういうことだ?」
「お前が自分の店舗を欠勤して今日で三日目」
「いきなり拉致され監禁されたのが〝理由のない〟欠勤!」
この怒り方、まるで毛を逆立てて相手を威嚇する猫の様だとブランシュは思った。
「ノアールは『あの人』のお気に入りだから『高級幹部』からの降格はないだろうけど、今回の件で店舗は任せてもらえなくなるだろうね。普通、偉い役職の人間には優秀なボディーガードをつけておくものだよ。それか大切に隠しておかないと。ウェンズデーやキースのように。自分の力を過信しすぎだ」
ノアールの目が揺れる。全く、『目は口ほどに物を言う』を体現した様な男だなとブランシュは呆れた。「スーサイド・カンパニー」の内部情報がここまで洩れていると思ってもみなかったのだろう、それにしてもコイツは捕虜にされた時の訓練を受けた方がいい、曲がりなりにも軍を手本とした組織の作りをしているのだから。
――それとも自分が襲われるなど、露ほども思わなかったのだろうか。だって目を合わせるだけで人を自死に追い込むことができるのだから!
ブランシュはバツの悪そうに俯くノアールの顔を掴んで、その目を覗き込んだ。小刻みに震えた丸い月が二つ、悲劇的なまでに美しく真っ暗な夜空に映えていた。
「ブランシュ様、お食事をお持ちしました」
扉の向こうから女性の高い声がして、ブランシュはノアールの顔から手を離した。扉の前まで行くと、ポケットから銀色の鍵を取り出して鍵穴を回す。
「ありがとう、アリス」
アリスと呼ばれた銀髪の女性は、食事の乗った銀のトレイをブランシュに渡して深々と頭を下げた。両手で扉を音もなく閉める。ブランシュは食事をテーブルに置いてから再び銀の鍵で鍵穴を回した。手足を拘束されて椅子に座らせられているノアールの向かい側の椅子に腰掛けて、ワイングラスに食前酒を注ぐ。ノアールの視線に気づくと、右手に持ったグラスを少し前に差し出して微笑む。
「欲しかった? 食事は明日から強制的に取らせるから待っていて」
「ブランシュというふざけた名前は本名か?」
「君に言われたくないなあ」
ブランシュは嫌味なほどに洗練された手つきでローストされた鰆をナイフとフォークで丁寧に切り分けて口に運んだ。彼は暫く黙って食事を続けたのち、思い出したように口を開いた。
「名前なんてどうでもいいだろう」
「あの給仕はこの部屋に入らなかった。つまり俺への耐性がない。違うか?」
「自分のことどれだけ偉いと思っているんだ。たかが目を合わせて自殺させられるだけのくせに」
「俺に散々手こずっていたくせに、よく言う!」
「ノアール」
ブランシュは全ての食事を食べ終わって、白いテーブルナプキンで自分の口を拭く。
「お前と会ったら、何を話そうかずっと考えていた」
感嘆のため息が混じったような、優しい声色だった。ブランシュの氷のように凍てついた瞳の色が明るくなる様は、まるで春の雪解けのようだった。彼の白い肌に薄桃色の桜が綻ぶように頬が色づく。
「今も何も思いつかない」
幼心に夢見た、初恋の人に想いを告げるかのように浮き立った物言いに、ノアールは顔を強張らせた。
――こんな男知らない。会ったことも名前を聞いたこともない。でもこいつは多分俺のことを知っていた。それがなぜかわからないし気味が悪い。怖い。今、「スーサイド・カンパニー」はどうなっている? 本社は? ウェンズデー、キース、あの人は無事か? 俺が居ない間に、もしも会社が、潰れていたら。
俺の居場所がまたなくなってしまったら。
それどころか、俺の身柄が何かの交渉の材料に使われていたら?
しかもブランシュはどういうわけか俺の自死の念に同調しない。もしかしたらアルバスの人間は皆そうかもしれない。そうなってしまうと己の価値がない。あの人が折角俺を特別視してくれたのに。ウェンズデーとキースと居られなくなってしまうかもしれない。
夜が来る。生まれた時からずっと、夜が怖い。昼間の空はあんなにも透き通って清々しいのに、どうしてあんなふうに様変わりしてしまうの? まるで別の世界に手招きされているかのような、おぞましい誰かが自分を探しているかのような。どこへ逃げても月が憑いて来ると、遠い昔に泣きじゃくったのを今でも覚えている。際限のない恐怖心が悪戯に広がっていくのを止められない。日が沈むのが恨めしい。歳月を重ねても、夜を克服できない。
ブランシュはノアールの苦悶の表情から心の機微を考察して、いかにして彼の急所を抉り出すか算段を立てようとした。孤独でいることを酷く疎んだが故に、益々孤独に苛まれてしまう彼の悲劇的なまでの不器用さを、愛おしむような余裕と恩情をブランシュは持ち合わせていなかった。
「ずっと寝られてないみたいだね。可哀想に」
「哀れみなんて微塵も感じていないくせに、慈悲深い言葉を知っているな」
ノアールが顔を歪めて毒づくのを、ブランシュはしっかりと無視した。
「僕たち『アルバス』の目的は、『スーサイド・カンパニー』を物理的に解体することだ。話し合いは望んでない。『スーサイド・カンパニー』は大企業で、営業、物流、社員の教育方法等、他企業のお手本となるような一見優れた組織だが……問題は『高級幹部』と呼ばれる、幹部の中の極少数エリートの『特技』なくては立ち行かない営業の伸ばし方にある。しかもその『特技』というのが常人には説明のしようのない厄介なものだ。特に君は」
ブランシュは一息ついて続けた。
「君自身が法に触れるほどの脅威だ。勿論君を裁くことはできないけれど、君たちみたいな人が大企業の重役で、金を陰で……それこそ慈悲深いやり方で荒稼ぎしているって皆が知ったら古の魔女裁判が始まってしまうよ。それに今までの顧客の自殺は本人の意志なのかどうかというのが最大の問題になって……」
「俺は」
ノアールはキツく結んでいた口を開いた。
「客には、自殺願望を確認してから目を合わせている。これだけは絶対だ」
「信じるよ」
ブランシュは勿論だというように即答した。まるで最初から回答を決めていたような口ぶりにノアールは驚いた。
「でも『アルバス』の中にはそう思わない人もいる」
残念ながら、と首を振ると、右耳にかかる十字架のピアスが揺れる。
「お前も育った環境が間違っていたって言うのか? 幼少の頃に然るべき場所で然るべき処置を施していればこんな風にはならなかったと?」
生まれてからもずっと、暗闇の中を彷徨ってきた。
前髪は常に顔を覆うほど長く、常に目隠しとフードを被されていた。誰かに手を引かれたと思えば、鉄格子の中にいた。身動きが取れないほどに布の多い服を着せられて人形みたいに座らされていた。生きるのに最低限の水と食べ物を咀嚼した。夜になると毎日誰かが見に来る。理由は全くわからなかった。
『これがあの噂の、死神の子供?』
死神ってなんのこと?
己と目を合わせた人間の目が虚になるのはなんとなくわかっていた。皆焦点の合わないような、慌てたような様子で目の前から去っていくのを不思議に思っていた。日常的な光景なのに不思議に思えたのが今でも不思議だ。
『死ななくては』
一人の男が目の前で、胸元から取り出したピストルで頭を撃ち抜いた。あの銃声が未だに忘れられない。ごとん。まるで無機物が落下するかのような音が続く。乾いた空気と火薬の匂いが一緒に脳の裏にこびりついている。何度振り払っても恐怖と共に湧き出てきて身体をめぐる。
『もう手に負えないな』
『使用人がやつの手入れの最中にうっかりと目を合わせてこのざまだ。もう何人目だ? コストとリスクに見合わんな』
『折角綺麗な形をしているのに勿体無い』
『そうだ、一層のこと目をくり抜いて売り出すというのは』
『人形愛好家やカルト協会の奴らが喉から手が出るほど欲しがるだろう!』
静寂と共に暗転。感じたのは、雪が深々と降り積もる真冬に冷水を被せられたときよりも、ずっと鋭くて冷たい、熱すら感じるほどの痛みだった。
「ノアール、お前まさか現状を恥じているのか? らしくないな」
「恥じてない。お前らが俺をどう評価しても、俺には何も関係がない」
「だろう。いちいちつっかかるな。話が進まない」
ブランシュは気怠そうにため息をついた。
「『アルバス』の中には、君たちみたいな『特別』な人間には然るべき処置を施すべきだという人もいる。『スーサイド・カンパニー』を解体して、この国の地下に巣食う闇を全て取り払う必要があると。つまり……殺すべきだと」
ブランシュはノアールの無垢な瞳を見つめた。この瞳は今何を見つめているんだろう。――僕のことなんてちっとも見てないんだろうな。君は出会った時からそうだ。ずっと夜ばかり見つめている。まるで月から誰かが迎えに来るのを待っているかのように、物欲しそうに、ずっと。
「勿論そんな過激思考の人間たちばかりじゃない。そういう人はごく僅かだ。僕なら君たちを逃がしてあげられる。『スーサイド・カンパニー』解体後の、身元の保護を約束しよう」
ブランシュは透き通るような声色ではっきりと言い放った。
「僕なら君たちを救ってあげられる」
ノアールは驚きのあまり目と口を開けたまま動くことができなかった。
「大丈夫か? 僕の話について来ているか?」
「余りにも稚拙な筋書きで驚いているんだ。何の話をしていたかも忘れるくらいに奇天烈だったから」
「忘れっぽいな。その歳で痴呆か。それとも人の話を聞いたのは初めてか?」
「馬鹿か? 話になってない。潰れるわけがないだろう!」
今すぐにでも目の前にいる惚けた頭のおかしな男を殴り殺してやりたい。ノアールの頭の中は沸々と煮えたぎっていた。こんなにも怒りのコントロールが効かないのは生まれて初めてのことだった。彼の憤怒は六秒経って鎮火するどころか更に勢いを増して燃え上がった。まるで火山が噴火したかのような爆発的エネルギーだった。
「『アルバス』は、『スーサイド・カンパニー』は『高級幹部』とトップさえ始末すれば継続能力はないと考えている。パワーが一極集中した珍しい形の会社だからね」
「誰の居場所もわかっていないのに?」
「君は迂闊にも外を歩き回っていたからすぐにわかったよ」
憐れむような表情でブランシュはノアールを見下ろすと、ノアールは苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけた。
「何もわかってないな、君は。捕まったのが僕じゃなかったら君は殺されていたんだ」
ノアールの首の後ろにブランシュの両腕が巻き付く。朝空のような薄水色の大きな瞳が完全に黄金の月を捉えた。
口と口が重なる。
「痛い」
ブランシュが口を離すと、その薄い唇の上に鮮やかな赤が付着していた。手の甲で拭いながらブランシュがなんてことはないと言うように話を続ける。
「知っているよ。こうやってお前は何人もの人を自死に至らしめた。まるで死の接吻。死神の愛人と揶揄されるのもわかる。愛人というより誰とでも寝る娼婦みたいだけれど」
今起こったことが信じられない、という様に丸く目を見開いてブランシュを見る。
折れたな、とブランシュは確信した。
信じて疑わなかった己の唯一の長所を、今日初めて会った奴に完膚なきまでに否定されたのだ。彼の純然で脆いプライドが足元に粉々に飛び散っているのがわかる。
本当は『スーサイド・カンパニー』の壊滅も、アルバスの崇高な理念もどうでもいい。もう手に入れたいものは手に入った。残りの『高級幹部』と社長がどうなろうと知ったことではない。
艶のある黒く長い睫毛が瞳に影を落とすと、彼の瞳はアンバー色になる。ブランシュは彼の顎に乱暴に手を添えて再び顔を近づけた。
「ブランシュ様」
扉をノックする音が気忙しく三回鳴ると同時に、アリスの声がした。
「ブランシュ様」
再度三回。
ブランシュが右手を放すと、ノアールの頭がだらんと垂れる。
ゆっくりと扉に近づいて、優しく問いかけた。
「なあに、アリス」
「ブランシュ様」
今度はノックの音はしなかった。アリスの声は平生よりも大分上擦っている。ブランシュはポケットから銀色の鍵を取り出してため息を吐いた。
「薔薇をお持ちしました」
――何故此処がわかった?
鍵穴をゆっくりと回すと、錠の開く音が静寂に響き渡った。ブランシュは扉を蹴破ると同時に腰にかけた剣を抜いて扉の向こう側にいるであろう人間に刃を向けた。
茶色い巻き毛の少年が、アリスを抱き抱えて、その首に剣を突き刺そうとしていた。アリスの太ももにナイフが突き刺さっている。彼女の白いスカートが真っ赤に染め上がっていた。
「ノアールと交換だ」
茶髪の男は要件だけを端的に伝えた。
自分より三インチほど背が高い。見かけによらず筋肉もある。パワーなら敵わないなとブランシュは考えた。
「キース? 光栄だな。初めまして」
ブランシュは笑顔で話しかけた。
「ノアールと交換だ」
アリスの白い肌に切先が突き刺さると、赤い雫がじわりと滲み出た。ブランシュはノアールに近づいて彼の両手の錠を回した。――気絶している。寝たふりをしているわけでもなさそうだ。想定していた最悪のことが起こったなと考えた。他の『高級幹部』の『能力』が何かもわからないまま対峙することになるとは……。
ノアールの気絶はキースの能力か? それともウェンズデー? それともはたまた別の誰か、か……。
今はアリスの身の安全が第一優先だ。彼女を失うわけにはいかない。両足の錠を解除する前にキースの様子を確認する。まるで神父のような服を着ている。生地はおそらく、ノアールが着ている服と同じだろう。エメラルド色の目からは感情が何も読み取れない。
「先にアリスを放せ」
男はノアールを一瞥すると、アリスの首に回していた腕を解いた。ううっとアリスが呻いて床に転がる。
この男は僕たちを大して脅威に思っていない。無駄に抵抗して殺されるくらいなら、ここは大人しくノアールを渡してしまうか……。
ブランシュが脚の錠を外すと、キースは颯爽とノアールに近づいて顔色も変えず彼を抱き上げた。まるで人形を抱き上げるような軽々とした動作に、ブランシュは動揺した。絶対に力では押し負けることを確信したからだ。
何をどうしたところで勝てる気がしない。頭ではわかっているのに、心がそれを認めない。あと少しだった。さっきまでは手中にあったのだ。今ここで諦めるわけにはいかない。可能性があるのなら、手を伸ばさずにはいられない。
キースはこちらの様子を伺うことなく静かに階段を登っていた。もうすぐ階段を登り終えて玄関から出てしまう。そうなれば益々ノアールを奪い返すのは困難だ。
ドン。
廊下の壁から生える鉄で出来たレバーを引くと、まるでギロチンの刃が落ちるかのように格子が扉の前に突き刺さる。
行く手を阻まれたキースが気怠そうにこちらを振り向いた。
◆
夜風に煽られて振り子のようにゆらゆらと揺れている黒い影の下、それは小さく完成していた。己と背丈の変わらぬ姿をしていたので、鏡を見ているのかと錯覚した。まるで遠い昔に置いてきた自我のような懐かしさと、まるで別世界の相容れぬ異形のようなおぞましさをないまぜにしたような、不思議で歪で、整った形をしていた。この世の全ての矛盾を同居させた複雑で単純な形だった。彼はこの世で見たものの中で一番美しかった。今まで己に向けられてきた嫌悪感などと比べ物にならぬほどの憎悪が、一瞬で己を突き刺した。そのときから心臓がゆっくりと確実に動き出すのを感じた。生まれて初めて、自分が操り人形でなく生きた人間なのだと感じた。今までの己の判断の全ては錯覚の連続なのだと気づいた。
――取り憑かれた。
手元に置いておきたいと思った。生きるために必要だった。己にとっての〝生〟そのものだったから。
「ブランシュ様!」
アリスが大粒の涙を流しているのが見えた。アッシュカラーの長い髪がさらりと揺れる。また泣いている。アリス、君はいつも泣いているな……。早く泣き止まないと涙の海に溺れてしまうよ。
眠いなあと思った。おそらくずっと寝ていた。まだ寝足りない。身体がベッドに縫い付けられているみたいだ。動けない。
眠ったら、またあの幸せな夢の続きを見られるんだろうか。あの感覚を思い出せるんだろうか。舌が痛い。暫くは食事をとるのに難儀しそうだなと我ながら呑気なことを思って、また目を閉じる。夢と現実の間を彷徨っている。それは夢が期待通りすぎるから、現実が期待した通りではないから。だからずっとこの灰色を帯びた玉響の快感から抜け出せない。
目を開ける。
キースに切り付けられた腹の傷の深さが痛みとなって認識される。段々と現実に引き寄せられてきた。
「アリス」
ブランシュが掠れた声で呼ぶ。
アリスはわあわあと聞き分けのない子供のように泣き続けていた。アリスも相当の深手を負っていたはずだ。
「ジェーン様がいらっしゃったんです。私達の治療をしてくださったので……助かりました」
ずっと心の中で呼びかけている。一日たりとも忘れたことはない。黄金の目で射抜かれた時のことを、まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
「もう……やめましょう。『アルバス』を抜けましょう。ノアールなんてどうでも良いじゃありませんか。折角助かったお命なのですから……」
僕は、君がどこにいてもどんな名前でも、必ず君を見つけ出した。夜の帳が君を隠しても、昼の陰に君が紛れても、君が望まなくても、必ず見つけ出した。
――だからどうか、名前なんて捨ててしまって。
アリスの歔欷の声が仄暗い部屋に響き渡る。生まれてこの方自分の身に降りかかってきたこと全てが、どこか海を超えた遠い異国の悲劇を鑑賞しているかのように遥か彼方に思えた。
<番外編 あなたに呼び掛けている 終わり>




