第1話 身代わりの出涸らしは、人質として売られる
地下の空気は、いつも濡れた鉄と腐った土の匂いがする。
石造りの床に直に膝をつき、祈りを捧げるふりをして息を吐き出す。
指先は紫色に変色し、すでに感覚がほとんどない。爪の生え際からじわりと滲む黒ずんだ血を、私はボロ布のような灰色の袖で無造作に拭った。
――また、結界が瘴気を吸い込んでいる。
ヴェルダン王国の王都を中心に、国境の要塞まで魔力の水路で結ばれた『聖なる大結界』。
この国の人々は、結界が王都の繁栄を魔獣や疫病から守っていると信じ、神殿の頂に立つ『希代の聖女』を称えて手を合わせている。
けれど、神殿の上で祈っている姉は、その下にどれほどの毒が流れてくるかを知らない。
集められた穢れは、すべてこの最深部の地下室に流し込まれ、誰かがその肉体をフィルター代わりにして濾過しなければならないのだ。
十年前から、ずっと。
私の――エーレンハイム伯爵家の、日陰に隠された次女ロヴィーサの体を使って。
「……ふう」
肺の奥が焼けるように熱い。
痛いとか苦しいとかいう感覚は、とっくの昔に麻痺していた。声を上げれば息が乱れ、爛れた喉が余計に痛むだけだと、十歳の冬に学んだからだ。
カツン、カツンと。
頭上から、場違いに軽やかな足音が降りてきた。
高級な子牛皮のブーツと、硬いヒールの音。湿った地下室の悪臭を押し退けるように、甘ったるい薔薇の香水の匂いが鼻腔を刺す。
顔を上げなくても、誰が来たかはわかった。
「まあ、ひどい匂い。ねえフロリアン様、本当にこんな汚い場所まで降りなきゃいけなかったの? わたくしのドレスに煤がついてしまいそうだわ」
「すまないね、ジビュレ。だが、こればかりは直接言っておかねば後で面倒になる。……おい、ロヴィーサ。生きているか」
見上げると、そこには完璧な絵画のような男女が立っていた。
一人は、金糸を編み込んだ豪奢な純白のドレスを纏い、黄金の巻き毛を揺らす私の実姉、ジビュレ。
もう一人は、王家の紋章を胸元に輝かせたヴェルダン王国の王太子であり、私の――形ばかりの婚約者であるフロリアン殿下。
二人はハンカチで鼻を覆い、私をまるで路傍の汚物を見るような目で見下ろしていた。
「……はい、殿下。お役目は、滞りなく」
掠れた声で答える。声帯が瘴気で爛れていて、綺麗には響かない。
ジビュレはその声を聞いて、わざとらしく眉をひそめた。
「相変わらず可愛げのない声ね。せっかくわたくしが神殿の上で民に愛想を振りまいて、エーレンハイムの家名を高めてあげているというのに。少しは感謝の言葉くらい出ないのかしら?」
感謝。
この人は、本気でそう思っているのだ。
自分が民の前で優雅に祈りのポーズを取り、拍手を浴びている間、妹が地下で毒を啜って吐血している現実を、ただの『当然の雑用』だと信じ切っている。
「それで、殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」
私が感情を交えずに問いかけると、フロリアンは忌々しそうに舌打ちをし、上等な外套の裾を払った。
婚約者であるはずの私の、ひび割れた顔や紫に染まった手を見る目は、冷淡そのものだった。
「単刀直入に言う。お前には今から、北のオルデンブルク帝国へ行ってもらう」
「……帝国、ですか」
「そうだ。あの野蛮な『北の狂犬』、ヴァルデマー皇帝が、先の小競り合いの手打ちとして王家の直系かそれに準ずる高位貴族の娘を人質に差し出せと要求してきた」
フロリアンは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように続けた。
「ふざけた話だ。我が国の至宝であるジビュレを、あんな血生臭い暴君の元へ送れるはずがないだろう。……だが、帝国の軍事力は無視できん。そこで、エーレンハイム伯爵家の血を引き、表向きは戸籍の上でしか存在しないお前を、ジビュレの『身代わり』として差し出すことにした」
「身代わり、ですか。……地下の処理は、どうなさるのです」
「神殿長に任せた。神官を増やせば足りる。お前一人にしかできない仕事だとでも思っているのか」
違う、と言いかけて口を閉じた。
以前、代わりの者に手順を覚えてもらおうと頼んだ時も、『雑用に人を割くな』で終わったのだ。
「不満そうな顔をするな。感謝しろよ、ロヴィーサ」
横からジビュレが、くすくすと鈴を転がすように笑った。
「あなたみたいな出涸らしの雑巾でも、帝国の狂犬を宥めるための盾にはなれるんだもの。どうせここで一生、暗闇の中でカビ臭く死んでいくだけだったんでしょう? 最後に国と、わたくしたちの役に立てて光栄じゃない」
「……」
「荷物は何も持たせないわよ。帝国に渡すのは『人質』であって、花嫁じゃないんだから。馬車はもう外に用意させてあるわ。今すぐ立ちなさい」
フロリアンは、私の左手の薬指に嵌められていた、くすんだ銀の指輪を一瞥した。
私が十歳の時、名ばかりの婚約を結んだ際に与えられた、宝石すらついていない安物だ。
「その指輪も外していけ。ジビュレと私の正式な婚約は、お前が国境を越え次第、全土に発表される。……お前との間に愛など微塵もなかったが、まあ、十年間の働きには礼を言っておこう。せいぜい、帝国で首を刎ねられないよう、向こうでも大人しくしていろ」
愛など微塵もなかった。
知っていた。
十年もの間、この男が地下室を訪れたのは片手で数えるほどで、その全てが「もっと早く毒を抜け」「ジビュレの手を煩わせるな」という命令だけだったのだから。
けれど――その言葉を聞いた瞬間。
一度でいいから労ってほしいと、待っていた自分が急に馬鹿らしくなった。
怒りすら湧かなかった。
ただ、信じられないほど心が軽くなった。
ああ。
もう、この人たちのために、痛い思いをして毒を啜らなくていいんだ。
家族面をして私を搾取し続けた父も母も、私の成果を横取りして着飾る姉も、顔だけの婚約者も。
全部、捨てていいんだ。
「……わかりました」
私は静かに指輪を引き抜き、フロリアンの足元へ転がした。
銀の輪が石畳を跳ね、ジビュレのヒールのすぐ脇で止まる。
「承知いたしました、殿下。お姉様。……どうぞ、末永くお幸せに」
「ふん、言われなくてもそうするわ。早く連れて行って、衛兵! 病気がうつりそうだから、体に触れずに後ろから突き出しなさい!」
ジビュレが鼻を鳴らし、二人は一度も振り返ることなく、階段を上っていった。
衛兵たちも私の全身に浮き出た紫の斑点を気味悪がり、誰も身体検査などしようとはしなかった。ただ槍の柄で私の背中を小突くだけだ。
――愚かな人たち。
私は、誰からも触れられなかった麻布の裏、自らの胸元をそっと押さえた。
素肌の真ん中に、皮膚と同化するように張り付いている硬い異物。
『大結界の真核』。
処理した毒の澱を少量取り込み、私が自分の魔力で固めた、黒い結晶だ。
結界から流れ込む瘴気を濾し、使える魔力だけを地上へ戻す。どうしても消せない毒の澱は、地下の貯留槽へ押し込める。その振り分けを担うのが、この核だった。
神官たちも、王太子も、父も。
地下で私が何をしているのか、ただ「祈って毒を受けている」としか思っていなかった。点検の記録を渡しても、読まずに突き返すばかりだったからだ。
私がいなくなれば、新たに流れ込む瘴気を濾す者はいない。
核を通じて貯留槽の蓋を保つことはできても、それでいつまでも持つわけではない。あと数日もすれば神樹から毒が漏れ出す。
その警告も、机の上に残してきた。
「……私一人分なら、代わりが利くのでしょう?」
胸元を押さえる。
核を置いていけば、私の魔力を辿って、どこへ逃げても毒を送りつけられてしまう。もう、そんな使われ方はごめんだった。
荷物は持たせないと言われた。
けれど、これは十年かけて私の血と肉で作り上げた、私自身の魔力の塊だ。
誰の持ち物でもない。私のものだ。
粗末な馬車へと押し込まれ、ガタガタと軋みながら車輪が回り始める。
鉄格子の嵌まった小さな隙間から、見慣れた王宮の尖塔が見えた。
あの白い壁の内側には、私を見送りに来る人など一人もいなかった。
「……さようなら」
私は胸元の黒い結晶の冷たさを確かめながら、誰もいない暗がりで、静かに呟いた。
「どうぞ、誇り高き聖女様と、ご立派な王太子殿下で――国を守ってみせてくださいね」




