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第1話 剣聖、婚約破棄される

「ごめんなさい、アスベル。貴方との結婚……白紙にしていただきたいの」


 男の名は、アスベル・ノースエンデ。歳は三十五。十五で成人となるこの世界において、立派な「おっさん」と呼ばれる年頃である。


 アスベルがいるのは、彼らが暮らす田舎から遠く離れた都、帝都カーター。彼はここで、十一も年下の女性――ミレーヌと、結婚式を挙げる予定であった。


 今日は、来週に迫った結婚式のための予行練習であった。ミレーヌはドレスを、アスベルはタキシードを身につけている。本番と同じ手順で愛を誓い合う、その最中に――ミレーヌは、口にしたのである。結婚を、白紙に戻したいと。結婚式まで、あと一週間という段になってのことだった。


 指輪はすでに買い求めていた。新居も購入済みである。友人・知人をこの帝都に招く手筈も、すべて整っていた。


 ――すべての段取りが済んでからの、突然の婚約破棄。


 怒っても許される場面であろう。だが、アスベルの胸を先に満たしたのは、怒りではなく困惑であった。


「それは……どうして」


「……あなたの婚約者になる前に、お付き合いしていた方がいたの。その人が、どうしても忘れられなくて」


「…………」


(今回の縁談を持ってきたのは、親父だったな。見合いの直前まで、その男と付き合っていたとは聞いていたが……)


 まさか、あれから一年も経つというのに、まだその男との繋がりが残っていようとは。未練が、あったということか。


「ごめんなさい。もっと早く言い出せばよかったのに……ごめんなさい」


 言い出す機会は、何度もあったはずだ。すべての段取りが終わる、このタイミングでなくとも良かったろうに。


 言いたいことは、百も二百もあった。だが、うすうす感じてはいたのだ。ミレーヌの心が、自分に向いていないということには。


(俺は三十五のおっさんだ。相手は、十以上も年が離れている。離れすぎている。好きになれずとも、無理はない)


 もとより、無理のある縁組であった。アスベルの中にも、彼女が本当に自分を想ってくれているのかという疑念が、ずっと燻っていた。だからこそ――


「いいよ、ミレーヌ」


「え……」


「婚約破棄を、受け入れる。君は気にしなくていい。俺にも至らぬところがあったのだから。金銭のことも心配しなくていい」


 アスベルがそう告げると、ミレーヌの表情が、すっと変わった。流れていた涙が、一瞬で引いたのである。


「え、いいの」


「……」


「助かるわ。ありがとう」


「高額の賠償を求められるのではと、怖くて……。なんだ、私の思い過ごしだったのね」


(……泣いていたのは、俺への申し訳なさゆえではなかったのか)


 直前になっての婚約破棄で、責められはしないか、賠償を求められはしないか。ただそれを恐れて、涙していたに過ぎなかったらしい。


 ――ミレーヌへの未練は、彼女のあまりにも身勝手な振る舞いによって、完全に断ち切れた。


「それじゃ、アスベル。さようなら」


「……ああ」


 ミレーヌは、アスベルを置いて足早に去っていった。彼も、そして一部始終を見ていた式場のスタッフたちも、しばし言葉を失っていた。


「……申し訳ありません」


 アスベルは、すぐに気持ちを切り替えた。最も迷惑を被るのは、この式場と結婚プランナーである。悲しみに浸るより先に、片付けねばならないことがある。


 心の中の何かを、静かに閉じることにした。悲しむのは、後でいい。まずは、迷惑をかけぬことが先決だった。


    ◇


 アスベル・ノースエンデ。辺境の地デッドエンド出身。彼の家は、代々続く剣術道場である。その一人息子として、彼は生を受けた。


 実のところ、彼は異世界からの転生者であった。若い頃は、剣と魔法が入り乱れる世界への憧れがあった。とりわけ、魔法への憧れは強かった。


 手から炎を放ち、空を翔る。前世では叶わなかったその力を、いつか自分の手で使ってみたい――そう、強く願っていた。


 だが、彼が生を受けたのは、辺境の最果てである。周囲に魔法を教えてくれる者もなければ、それを記した書物すら存在しない、そういう土地であった。


 加えて、彼は道場の一人息子だ。いずれは家を継がねばならぬ身であった。


 親が強いる稽古は、幼い頃は嫌でたまらなかった。だが、逃げ出す勇気もなく、結局は毎日剣を振るう日々が続いた。


 田舎は、結婚が早い。にもかかわらず、アスベルは結婚したくてもできなかった。家に代々受け継がれてきた剣術を、完全に己のものとせねばならなかったからだ。


 長い修行の末、免許皆伝の許しが出た頃には――すっかり、おっさんになっていた。


 そうして、親が急いで用意した婚約者との縁が、今に至る。


「……はぁ」


 あれから二日。アスベルは、結婚式取りやめの後処理に追われていた。


 まず、莫大なキャンセル料の支払い。式場のスタッフ一人ひとりに頭を下げ、参列者への詫び状を書き連ねる。


 その作業を、ミレーヌが手伝うことは一切なかった。一足先に、田舎へ帰ったようである。


 友人へ出した文の返事も届いていた。だが、そこに綴られていたのは、アスベルを責める言葉ばかりであった。『おまえの自業自得だ』『一週間前に取りやめてほしいなど、どうかしている』『頭がおかしいのではないか』――


 導き出される結論は、一つしかなかった。


「……ミレーヌは、俺が婚約破棄したのだと、周りに触れ回っているというわけか」


 自分が破棄したと知れれば、白い目で見られる。だからこそ、アスベルを悪者に仕立てたのだろう。田舎という土地は、こういった悪い噂ほど、驚くほど早く広まる。他に娯楽のない土地であればこそ、こうした醜聞は、何よりの話の種になるのだ。


 実家からの便りにも、ひとことだけ記されていた。


『二度と、うちの敷居をまたぐな。勘当だ』


「……ふぅ。すべて、失ってしまったな」


 宿の天井を見上げながら、アスベルは呟いた。キャンセル料の支払いで、手持ちの金はほとんど底をついている。


 この有様では、田舎へも帰れない。友人も、知人も――そして家族すらも、失った。


「俺の三十五年は、いったい何だったのだろうな」


 死んでしまいたいほどの心地であった。同時に、気まずい者たちと顔を合わせずに済むという安堵も、確かにあった。だが、そんな風に前向きに捉えられるほどの余裕は、今の彼にはなかった。


「これから、どうしたものか」


 そのときであった。


「まずい……! 遅刻してしまう」


 隣室から、女の声が聞こえた。


「魔法学園の入試に、遅れてしまうわ」


「……魔法学園の、入試」


 どたどたと、隣室の少女が慌ただしく部屋を出ていく気配がした。窓から外を覗くと、赤い髪の少女が、いずこかへと駆けていくのが見えた。


「…………」


(魔法学園――魔法を学ぶ学び舎、ということか)


 彼には、前世の記憶がある。有名な物語で目にした光景が、そのまま瞼の裏に浮かんだ。あれと同じようなものが、この世界にも存在するのかもしれない。


「魔法、か……」


 アスベルは、幼き日を思い出していた。


(そうだ。この世界に生まれ落ちたばかりの頃、俺には確かに、魔法への憧れがあったではないか)


 婚約破棄によって、すべてを失ったと思っていた。だが、幼い日に封じ込めた魔法への情熱が、こうして今、外へと溢れ出してきたのだ。すべてを失ったからこそ、押し込めていた一つの想いが、顔を出したのかもしれない。


「魔法……俺にも、できるだろうか」


 わからない。だが、試してみなければ、始まらない。アスベルは愛用の剣を腰に佩き、静かに部屋を出た。


 階段を下り、受付の女将に事情を尋ねる。


「ああ、ノアカーター魔法学園だろう。今日がちょうど、一般入試の日だよ。受験資格かい? 年齢の制限は特に設けていないさ。試験を受けて、合格すればいい。それだけのことだよ。受験料は、確か金貨一枚だったかね」


(金貨一枚なら、ある)


 これは天の思し召しであろう。アスベルは、そう解釈することにした。


 女将から会場の場所を聞き、彼は歩き出す。魔法の学び舎へと――このときはまだ、これが自らの運命を大きく変えることになろうとは、想像もしていなかった。


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