Case5:無名の兵士のすり減った鉄兜
王都の外れ、大通りから幾重にも路地を折れた先にある煤けたレンガ造りの建物。
そこにひっそりと佇む『遺物管理局』――通称「忘れ物センター」。
世界を救った英雄たちが命の果てに置き忘れた『未練』を回収し、浄化するこの薄暗い部屋で、職員の青年・クラフトは静かにカウンターの椅子に座っていた。
前回の騎士団長の件を終えてから、クラフトの身体の透明化はさらに進行していた。
手元にある古びたノートを開くと、自分の名前は白く霞み、おぼろげに文字の輪郭がわかる程度になっている。
自分の両手を見下ろすと、指先や手のひらは完全に透け、まるで夜の闇そのものが形を成しているかのような危うさだった。
世界を修復する代償として、自らの存在そのものがこの世界からデリートされつつある。
そんな静寂を破るように、カラン、と古びたドアベルが乾いた音を鳴らした。
重い足取りで入ってきたのは、見慣れない一人の若い兵士だった。
彼は泥にまみれた軍服の裾を引きずり、どこか怯えたような、しかし強い切迫感を帯びた目をしながらカウンターへと歩み寄った。
そして、懐からボロボロの麻袋を取り出し、慎重に木の机の上に置いた。
「・・・これを頼む。
先日の辺境会戦で・・・帝国軍との泥沼の小競り合いで、犬死に同然に散っていった兵士たちの陣地から回収されたものだ。
部隊の全員が全滅してな、生き残った俺が上官に命じられてここに持ってきた。」
「兵士の・・・遺品か。」
「あぁ。英雄でもなんでもない、名前すらまともに記録されていない雑兵どものな。
だが・・・この兜に触れた者たちが口を揃えて言うんだ。『死者の泣き声が聞こえる』ってな。
部隊の魔導士どもでも浄化できず、ここに持ち込むよう言われたんだが・・・こんな場所で、本当に浄化なんてできるのか?」
若い兵士は気味悪がるように一歩引き下がり、早足でセンターから逃げ出すように去ってい去っていった。
静まり返った部屋に、ただぽつんと一つの古びた遺物が取り残された。
クラフトは重々しく息をつき、その麻袋の口を開いた。
中から転がり出たのは、無数の深い斬り傷と凹み、そして錆びと泥にまみれた、一見してただの『使い込まれた鉄兜』だった。
だが、その鉄兜のフチや内側からは、まるでドロドロとした黒いタールのような『黒い染み』が這い出るように脈打っており、周囲の空気を冷たく重い絶望感で満たしていた。
世間一般におけるあの戦争の評価は、「王国の若き英雄たちが敵の要衝を鮮やかに陥落させた栄光の戦い」だった。
歴史の教科書には、数名の名だたる騎士や魔法使いたちの華々しい功績と、美しい勝利の凱旋歌だけが記されている。
戦争を語る歴史とはそういう物。無名の兵士などは見向きもされない。
だが、この鉄兜から放たれる悪寒は、そんな輝かしい大局の裏側で、文字通り「犬死に」させられた名もなき者たちの生々しい叫びそのものだった。
クラフトは机の隅のノートに目をやった。
だが、そこに自分の名前を書こうとしても、ペン先からインクは乗らず、ただ白く滑るだけだ。
自分が誰かすらおぼろげな記憶になっている。それでも、目の前の遺物が発する未練の波長が、クラフトの胸を強く打った。
「―――見せてもらうか。歴史の隅っこで消えていった者たちの、本当の声を。」
白衣の腕を捲るとクラフトは迷うことなく、そのすり減った鉄兜に素手で触れた。
指先から、冷たい泥水と血の匂いが脳髄を直接突き刺すような、激しい意識の同調が始まった。
―――意識が急速に、地獄の底へと落ちていく。
視界が開けたとき、そこにあったのは絢爛豪華な作戦本営でも、栄光の旗なびく戦場でもなかった。
どこまでも続くぬかるんだ泥濘、冷たい雨、そして敵の猛砲火に晒されてただ足掻くしかない、名もなき兵士たちの塹壕の中だった。
そこにいたのは、名前すおぼろげな幾人もの若者たちだった。
彼らは上官から「ただの数合わせの盾」として最前線に放り出され、恐怖に震えながら、泥まみれの地面にしがみついていた。
『お母ちゃん……俺、こんなところで死にたくないよ・・・!』
『手柄なんていらない! 勲章なんていらないから、お願いだ!家に帰してくれ・・・!』
彼らが流した涙も、恐怖に狂った絶叫も、すべては「名もなきモブ」として処理され、誰も振り返ることすらなかった。
歴史の教科書には「我が軍の圧倒的な勝利」の一言で片付けられ、彼らの死は、統計上の「損耗数」というただの数字にすらならなかった。
(俺たちは、なんのためにここにいたんだ・・・?
誰も俺たちの名前すら覚えていない。ただの捨て駒として消費され、犬死にのように忘れ去られていく・・・!)
兵士達が首から下げているドッグタグが見てもいないのに次々と脳裏にはっきりと映し出される。
そしてドッグタグに合わせて兵士達が抱えた願い、想いといった物が脳裏に投影された。
それが、鉄兜にこびりついた黒い染みの正体だった。
それは、国家の歴史書にすら載らなかった「ただ生き延びたかった」「せめて自分の名前を誰かに覚えていてほしかった」という、無数の名もなき兵士たちの底知れぬ絶望と、集団的忘却への恐怖そのものだった。
意識の潜水から現実へと浮上したクラフトは、激しい眩暈と吐き気に襲われ、カウンターに手をついた。
手のひらの上の鉄兜からは、相変わらず禍々しい黒いタールがドロドロと溢れ出している。
「・・・英雄だけじゃない。
歴史の光が当たらない場所で散っていった者たちもまた、同じように救われざる未練を抱えていたのか。」
クラフトは自分の両手を見つめた。
自分の名前すらまともに思い出せず、やがてこの世界から完全に消え去ろうとしている自分自身と、あの塹壕の中で名前すら残さず消えていった兵士たちの姿が、奇妙なほど重なり合った。
自分もまた、歴史の記録に残らない「名もなき者」として消えようとしている。
だからこそ、彼らの絶望を他人事として見過ごすわけにはいかない。
クラフトは書庫の奥から、無地の古い羊皮紙のロールと、一本のペンを取り出した。
死者の未練を拭い去るための、最後の行動。
それは、歴史から抹殺された彼らの「名前と生きた証」を、この現実の世界に形として書き残すことだった。
「―――お前たちの名前は、犬死になんかじゃない。
俺が、ここに記録してやる。」
クラフトはペンを走らせ始めた。
しかし、他人の記憶や歴史を無理やり現実に定着させる代償として、クラフト自身の存在の輪郭が、音を立てて削り取られていく。
自分の過去、自分の感情、自分が何者であったかという最後の断片が、ペンのインクへと吸い込まれるように次々と消えていった。
「ぐっ……があああ……!」
激しい頭痛と、存在が蒸発するような痛みの感覚に悶えながらも、クラフトは手を止めない。
塹壕の中で散っていった兵士たちの顔、彼らが呟いた故郷の母の名前、小さなどこにでもある願いの数々。それを一つ残らず、羊皮紙の上に細かく、執念のように書き殴っていく。
・・・・・
書き終えたとき、クラフトの肉体はもはや完全に透明と化し、カウンターの椅子に座る「意思の影」のような状態になっていた。
自分の声も、自分の鼓動も、ほとんど感じられない。
クラフトは震える透明な指先で、その書き上げた名簿のロールを、あの古びた鉄兜の中にしっかりと詰め込んだ。
そして、王国軍の墓地の一角―――誰からも顧みられない、雑草だらけの土の山の上にある小さな慰霊碑へと足を運び、その鉄兜をそっと置いた。
その瞬間だった。
鉄兜にこびりついていたドロドロの黒い染みが、激しい光反応を起こして一気に沸騰した。
空間の歪みがきしみを上げ、現実の理が書き換わる。
夜空に向かって、無数の淡い光の粒子が、まるで夜空の星のように静かに舞い上がった。
『・・・あぁ、俺たちは・・・ここに、確かに生きていたんだ・・・。』
どこからともなく、何十人もの若者たちの重なり合った声が、心地よい風に乗って聞こえた。
鉄兜に纏りついていた呪わしい黒いタールは完全に消え去り、その兜は泥を落としたかのように、静かで誇り高い鉄の輝きを取り戻した。
パリン、と世界に澄んだ音が響き、鉄兜はふわりと光の粒子に溶けて、夜空の彼方へと消えていった。
すべての歪みが解消された瞬間だった。
「・・・お前たちの生きた証は、もう消えさせない。」
忘れ物センターへ戻ったクラフトは、カウンターに座りノートを開いた。
物理的な肉体やペンを握る指などはまだかろうじて実体を保っているものの、カウンター横にかけられた鏡に映る自分の顔の輪郭はぼやけ、自分の声が自分のものでないかのように空疎に響く。
ノートに自分の名前を書こうとしても、文字の形が崩れ、ペン先がインクを弾くようにただ白く滑ってしまう。
自らの存在が完全に消え去るそのカウントダウンが刻一刻と迫る中で、彼は最後の運命を受け入れるため、静かに自分のカウンターへと戻っていくのだった。




