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かつて世界を一つにした『最強の敵』、次は『偽りの凡人』として支配する  作者: 路地裏の猫
第一章

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第六話 朱狐

 今日のお仕事は「おつかい」でした。

 大通りの裏で、お金を持っていそうな人から、こっそり袋を貰ってくるお仕事。

 おじさんたちは「スリ」って呼んでます。

 見つかったらすごく怒られるし、捕まったら殺されるって脅されているから、いつも心臓がドキドキします。


 さっき、黒い服を着た優しそうなお兄さんにぶつかりました。

 「大丈夫だよ」って、頭を撫でてくれそうな声で言ってくれました。

 僕はその時、お兄さんの服の中から革の袋を抜き取りました。

 お兄さんは怒らなかった。

 本当に優しい人だったから、ごめんなさいって、心のなかでいっぱい謝りました。


 薄暗い小屋のドアを開けると、ギイッと嫌な音が鳴ります。

 中には、いつも僕に仕事を持ってくる、三人の怖いおじさんたちがいました。

 タバコの煙と、ツンとするお酒の臭いが鼻を突きます。


「おい、遅かったじゃねえか。ドンクサいガキだな」


「ご、ごめんなさい……これ」


 僕は両手で、ずっしりと重い革袋をおじさんに渡しました。

 おじさんが袋の口を開けると、ジャラッ、と綺麗な音が響きました。

 中には、キラキラ光る銀色や金色のコインがいっぱい入っていました。


「お、おい! マジかよこれ……大金星じゃねえか!」


「ひゃはは! あのガキ、とんでもねえカモを引いてきやがったぜ!」


 おじさんたちは急に機嫌が良くなって、お互いの肩を叩いて大声で笑い始めました。

 僕はホッと息を吐きました。

 よかった。

 今日は殴られない。

 蹴られない。

 もしかしたら、明日の朝ごはんは、甘いイチゴのジャムがたっぷりもらえるかもしれません。


「ねえ、おじさん」


「あぁ? なんだよ」


 コインを数えるのに夢中なおじさんに、僕は勇気を出して聞いてみました。


「僕、今日はいっぱいお仕事したよ。……新しいお父さんとお母さん、来てくれるかな?」


 おじさんたちは一瞬顔を見合わせて、それから、さっきよりもっと大きな声でゲラゲラといやらしい声で笑いました。


「あぁ、そうだな! これだけ稼いだんだ、お前もそろそろ『出荷』の時期かもなァ!」


「耳付きは高く売れるからな。金持ちのいい『家族』が見つかるぜ、きっとよ!」


 出荷。

 売れる。

 難しい言葉はよくわかりません。

 でも、おじさんたちが笑っているから、きっといい事なんだと思います。

 僕は嬉しくなって、頭の上の耳をぴこぴこと動かしました。

 これでやっと、僕も幸せになれるんだ。



―――――――――――――――――――――――――



 奪われた財布を取り戻す為、私は空中に漂う微かな魔力の痕跡を逆探知し、その発生源へと向かって歩を進めていた。

 華やかな大通りから一本、また一本と路地を外れるごとに、街の空気は明らかに淀んでいく。

 鼻を突くような腐敗臭と、澱んだ泥水の匂い。

 先程まで視界を満たしていた煌びやかな石畳はいつの間にかひび割れた土塊へと変わり、立ち並ぶ建物は今にも崩れ落ちそうなほど醜く、貧相な姿へと変貌していった。


「なるほどな。この街は二つに分類されるということか」


 私が思わず呟いたその言葉は、どんよりとした灰色の空気に吸い込まれていく。

 大きく発展し、きらびやかな光と笑顔に溢れていた『ギーデン』という表向きの街。

 そして、光の届かない足元に広がる、見捨てられた貧困街。

 この街の美しさは、掃き溜めの上に被せられた薄っぺらい飾りに過ぎなかったのだ。

 繁栄という虚飾が目立てば目立つほど、その裏側に潜む闇の深さが浮き彫りになる。


「ひどいな」


 歩みを進めるにつれ、街はさらなる醜悪さを剥き出しにしていく。

 風が吹けば倒壊しそうな、廃材を継ぎ接ぎしただけのボロボロの家屋。

 生気を失った虚ろな瞳で、冷たい地面に直接寝そべる大人たち。

 悪臭を放つゴミ山に群がり、素手で泥だらけの残飯を漁る痩せこけた子供たち。

 そして、よそ者である私たちの姿を認めるなり、亡者のようにふらふらと近づいてくる物乞いの群れ。


 先程までの華やかな大通りでは、ただの一度たりとも目にする事のなかった残酷な景色が、パノラマのように目の前に広がっていた。


「すみません。もう何日もご飯を食べれていないんです。お金をください」


「……」


 骨と皮だけになったような、ひどく痩せ細った小さな子供が私の服の裾を掴み、付きまとってくる。

 泥に塗れた顔の中で、絶望にすがるような大きな瞳だけがギラギラと光っていた。

 こういう場合、持っている銀貨の数枚でも手渡して、温かい食事でも分けてあげたい気持ちは山々だ。

 胸が締め付けられるような痛みが走る。

 だが、それはこの子達にとって決して良い結果を生まない。

 一時的な施しは『他人にすがれば生きていける』という間違った成功体験を与え、彼らの自立する意思を奪い、より深い地獄へと突き落とす悪影響を及ぼすだけだ。

 だから私達は、心を鬼にして聞こえないフリをする。

 前だけを見据え、歩みを止めない。


「すみません。お願いします」


「……」


 機械のように同じ言葉を繰り返すその姿を見て、私は暗澹たる思いに駆られた。

 きっとこの子は、周りの大人たちがそうやって通行人にすがりつく姿を見て、生きていくための術として学んだのだろう。

 同情を誘う悲痛な言葉も、すがりつくような仕草も、そのやり方のすべてを。

 貧困が貧困を生み、親から子へと絶望が受け継がれていく。

 到底抜け出せない、深い負の循環がここにはあった。


「すみません。お願い——」


「醜い子供よ。それ以上喋るというのなら私が口を切り落とす」


 張り詰めた空気を切り裂くように、痺れを切らしたニルの冷酷な声が響いた。

 絶対零度の刃のようなその声と、一切の感情を排した見下すような視線。

 殺気を伴った明らかな『脅し』に、すがっていた子供は顔を青ざめさせ、悲鳴すら上げられずにどこかへと走り去って行った。

 ぬかるんだ泥を跳ね上げる弱々しい足音だけが、路地の奥へと消えていく。


「ニル。言い方があるだろう。相手は子供だ。どうすることもできない存在なんだ。優しくしてあげるべきだぞ」


「いいえクロム様。こういう時は強く言うのが大事なのです」


 毅然と返すニルの言わんとしていることもわからなくはない。

 このスラムで弱みを見せれば、ハイエナのように他の者たちまで群がってくるだろう。

 彼女の行動は護衛として極めて正しい。

 理屈ではわかっていながらも、私の心の中には冷たい鉛を飲んだような、しどろもどろで割り切れない感情が渦巻いていた。

 その重苦しい感情を強引に胸の奥底へと押し込み、私は重い足取りでさらに歩を進める。


「この辺りのはずだが……」


 空間に残る魔力の残滓を辿ると、探知した反応は間違いなくこの辺りから発信されている。

 私は周囲を見回すが、目当てのものは見当たらない。

 あるのは、ボロ布のような服を纏って虚空を見つめる老人と、生気を失い地面に横たわるやせ細った青年の姿くらいだ。

 人が住むためのまともな小屋など、どこにも見当たらない。


「ニル。この辺りだったはずだな」


 あたりには、廃材と布切れで作られた、家とは到底呼べないような小さな小屋がちらほらと存在しているだけだ。

 隙間風を防ぐことすらできず、雨が降れば容赦なく泥水が入り込むであろう粗末な造り。  

 ただ、この惨めな小屋で、寒さと飢えに耐えながら生活を余儀なくされている人々が確かに存在するというのも、残酷な事実であった。

 私はそのどうしようもない現実を噛み締め、奥歯を強く引き結びながらニルと相談する。


「確かにこのあたりではありますが...…おかしいですね」


 ニルがいぶかしげに周囲を見渡しながら言う通り、感知したはずの魔力はたった一つだけ。

 それも、今にも消え入ってしまいそうな、小さな子供のものと思われるひどく弱々しい魔力の揺らぎだった。


「あぁ。この小屋だ。開けてみよう」


 魔力の糸が途切れた先。

 私は一際小さく、崩れかけの小屋の前に立ち、立て付けの悪い木製の扉を開こうと手を掛けた。


「なんだこれは?」


 ひんやりとした金属の感触に眉をひそめる。

 扉には、赤黒く錆びついた太い鎖がぐるぐると巻き付けられ、厳重に繋がれていた。

 これが貧困街における鍵代わりなのだということはすぐに理解できる。

 だが、私たちが追ってきた魔力の反応は、間違いなくこの『中』から感じているのだ。  

 つまり、中に人がいる状態であるにも関わらず、外から鎖で閉ざされ、強制的に閉じ込められているということだ。


「...…ひどいな」


 私は静かな怒りとともに指先に魔力を込め、魔法の刃を走らせて錆びた鎖を断ち切る。  重く鈍い金属音を立てて、切り落とされた鎖が地面の泥土の上に滑り落ちた。

 支えを失った建付けの悪い扉が、ギイィィという不快な軋み声を上げて勝手に開いていく。


「...…」


 薄暗い小屋の中に差し込んだ僅かな光が照らし出したのは、目を覆いたくなるほど悲惨な光景だった。

 足の踏み場もないほどにガラクタやゴミが散らかり放題になっており、壁も床も腐り果ててボロボロだ。

 饐えたようなカビの匂いが鼻を突く。

 そんな凄惨な空間の片隅。

 唯一、辛うじて暖を取れそうな薄汚れた毛布の中で、一人の小さな子供が身体を丸く包まらせ、死んだように眠っていた。


「...…誰?」


 静寂に包まれた薄暗い空間に、今にも虚空へ溶けて消えてしまいそうな、ひどく掠れた弱々しい声が響いた。

 間違いない。

 微かな震えを含んだこの声は、先程大通りで私の懐にぶつかってきた、あの幼いスリの少年のものだ。


「安心して? 何もしない。僕は君を探してたんだ」


 私は極力警戒心を解くように、ゆっくりと膝を突き、少年と同じ目線にまで身を下ろした。

 瞳の奥に宿る冷たい感情を器用に隠し、声色を甘くして、底抜けに『優しい人間』の仮面を被って微笑みかける。


「お金取った人?」


 毛布の隙間から、枯れ枝のように細い腕が力なく持ち上がり、私の顔を真っ直ぐに指差した。

 隙間風に震えるその腕には無数の擦り傷と青痣が痛々しく刻まれており、ぶかぶかの薄汚れた衣服から覗く身体を見れば、彼がいかに絶望的な飢えと貧困の底に突き落とされている状況なのかが、痛いほどに伝わってくる。


「うん。君に返して欲しいんだ。あのお金は僕達の大事な友達がくれたものだから」


「……でもおじさん達に渡しちゃった」


 少年の怯えたような言葉を聞いて、私は内心で短く息を吐き出した。

 概ね見当はついていたのだ。

 スラムという過酷な生態系において、か弱い子供が単独で生き抜くことなど到底不可能に近い。

 この腐敗した小屋に辿り着き、外から鎖をかけられていた時点で、あの財布がもうこの子の手元には残されていないことくらい、容易に想像がついていた。


「君はいつも一人なの?」


「みんないたけどどっか行っちゃった。夜は一人。昼はおじさん達がいる」


 冷たい隙間風が吹き込む、窓すらないこの狭く不衛生な小屋。

 家具など一つもなく、床に無造作に転がっているのは、すり切れてペラペラになった一枚の毛布のみ。

 こんな劣悪な環境に子供を縛り付け、窃盗の道具として使い潰す。

 これはただの虐待などという生易しい言葉で片付けられるものではない。

 間違いなく、その背後には人間の尊厳を踏みにじる、さらに底知れぬどす黒い闇が広がっている。


 それから、ふと気になった。

 この子ははっきりと「みんな」と言ったのだ。

 まるで、少し前まではこの狭い小屋の中に、この子と同じような境遇の子供たちが何人も寄り添い合って生きていたかのように。


「みんなはどこに行ったの?」


「……知らない」


 少年は、光を失った濁った瞳のまま、力なくゆっくりと首を横に振った。

 それは本当に知らないのか、あるいは、知ってはいけない恐ろしい現実から自己を守るための防衛本能なのか、私には判断がつかなかった。


「クロム様。元凶を引き摺って来ましょうか?」


 背後に控えていたニルが、静かに、しかし明確な殺意を帯びた声で耳打ちをしてくる。

 彼女の纏う空気が、一瞬にして冷酷な刃のように鋭く研ぎ澄まされたのがわかった。


「いや、どうもそんな簡単な話じゃ無さそうだ」


 ニルの提案には、感情の面では大いに賛成だった。

 力なき子供を食い物にし、こんな泥水のような環境で平然と卑劣な搾取を行う外道など、この世から跡形もなく消し去ってしまえばいい。

 私の心の奥底では、冷たい怒りの炎が静かに燃え上がっていた。

 だが、現実はそう単純にはいかない。

 第一の理由として、私達は表向き『平凡な人間』としての人生を選んだ身なのだ。

 余計な波風を立てて、これ以上厄介事に首を突っ込むのは得策ではない。

 それに、小屋の外から南京錠をかける手際の良さや、子供たちの組織的な管理。

 これは単なる小悪党の思いつきではなく、この貧困街全体に根を張る、巨大でシステマチックな問題であるような気がしてならない。

 裏社会を牛耳る、何らかの巨大な組織の影。

 現状の乏しい情報だけで、軽はずみに実力行使に出るわけにはいかなかった。


「お兄さん達は誰?」


 私が沈黙し、目まぐるしく思考の海に沈んでいると、少年が不思議そうな顔をして小さな口を開いた。


「何でもないよ。何でも。邪魔したね」


 今はこれ以上の詮索は危険だ。

 私は作り物の優しい笑みを浮かべたまま少年の頭を軽く撫でると、静かに立ち上がり、重い空気が滞留する小屋を一度後にすることにした。


「いいのですか? 放っておいても」


 外の淀んだ空気を吸い込んだ私に、ニルが不満げな視線を向けてくる。

 普段は他者の生死に無頓着な彼女が、珍しくこの不遇な子供を助けたがっているように見えた。


「一度考えよう」



―――――――――――――――――――――――――



 ギーデンギルド周辺。

 活気にあふれ、武装した冒険者たちが絶えず行き交う喧騒の中心。

 その無数の建造物が立ち並ぶ区画の中に、周囲を威圧するかのように一際目立つ立派な建物がそびえ立っていた。

 精緻な彫刻が施された白亜の外壁は陽光を反射して輝き、頂に掲げられた紋章旗が風を切り裂くように翻っている。


「遅かったのぉ」


 低く、地鳴りのようなしゃがれ声が響く。

 声の主は、歴戦の猛者を思わせる圧倒的な威圧感を放っていた。

 月明かりを思わせる艶やかな銀色の毛並みと、血のように赤く爛々と輝く獰猛な瞳。

 見上げるほどの筋骨隆々とした大きな背丈に、丸太ほどもある極太の尻尾が悠然と揺れている。

 ピンと立った獣耳には激戦を物語る深い傷が刻まれ、腰には彼自身の背丈ほどもある無骨で巨大な大剣が提げられていた。


「飯を食べてた」


 悪びれる様子もなく淡々と答えたのは、私だ。


「ほらな言っただろライール。私の勝ちだ」


 涼やかな、しかしどこか爬虫類を思わせる冷たさを含んだ声が続く。

 太陽の光を浴びて宝石のように煌めく翠玉色の鱗に、背中から生える威厳に満ちた大きな翼。

 全てを切り裂くであろう鋭い爪を備え、知性を感じさせる深い青の瞳が私を見下ろしていた。


「私で賭けでもしてたのか?」


「こいつが一方的にじゃ」


「ライールは私の賭けに乗った。よって一方的ではないだろ?」


 屋敷の中。

 外の喧騒が嘘のように静まり返った広大な空間。

 果てしなく続くかのような広い廊下には、深い血の色をした豪奢な赤い絨毯が一直線に敷かれている。

 ズシンという重々しい足音、カチャリという硬質な爪が鳴る音、そして私の軽い足音が、静寂に包まれた屋敷に不規則なリズムを刻む。

 壁に飾られた歴史的価値のありそうな絵画や美術品が、並んで歩く三人の歩みを見守るように並んでいた。


「で? どこの飯を食っとんたんじゃ」


「その辺の屋台でだ。そうそう。面白い者を見た」


「面白い者?」


 三人は並んで歩き続ける。


「子供が居たんだ」


「子供ぉ? そんなの普通じゃろ」


 呆れたように、大剣を背負った狼はガシガシと頭を掻きむしる。


「いや。あれは化け物だ。子供のフリをした化け物」


 その時の光景を脳裏に再生し、私は無意識に身震いしそうになるのを堪えた。

 ただの子供ではない。

 その小さな身体の奥底に、底知れぬ深淵を隠し持っていた。

 歴戦をくぐり抜けてきた私の本能が、全身の毛を逆立てて『関わるな』と警鐘を鳴らすほどの、圧倒的な異質さ。


「君がそこまでいうのは珍しい。一人かい?」


「いや。従者がいた。そいつも化け物だ。私達三人でも勝てないな」


 決して謙遜でも冗談でもない。

 この最強と謳われる私たち三人がかりで挑んだとしても、生き残れる未来が全く見えないほどの力量差。

 それを悟った時の背筋が凍るような感覚を思い出し、私たる狐は忌々しげに黄金色の耳をピクっと動かした。


「それは見てみたかったな」


 三人は歩みを止め、重厚な装飾が施された巨大な両開きの扉の前に立つ。

 私たちが触れるまでもなく、扉は主の意思を伝えるかのように、重々しい地響きを立てて勝手に開き始めた。

 中から、むせ返るような濃密な魔力と威厳が流れ出してくる。


 大広間。

 この巨大な屋敷において、最も神聖で重要な中枢たる場所。

 広間の中央、一段高くなった祭壇のような場所には、王座と見紛うほどに豪奢で立派な椅子が置かれており、そこに一人の『人』が深く腰掛けていた。

 壁の側部には、純金で設えられた見事な容器に太い蝋燭が収められ、等間隔で幾つも吊るされている。

 揺らめく炎が、磨き上げられた床に黄金色の光の影を落としていた。

 目が眩むほどに豪華絢爛なこの部屋は、この屋敷の中でも限られた絶対的な権力を持つ幹部以外、一歩たりとも立ち入ることは許されない聖域である。


「遅かったじゃないかー!」


 張り詰めた空気を打ち破るような、間の抜けた明るい声が広間に響き渡る。

 椅子に座っていた人間が、まるで旧友を歓迎するかのように大袈裟に両手を広げ、軽やかな足取りで赤い絨毯の敷かれた階段を降りてくる。


「メス狐が飯を食うとったんじゃ。ワシらは時間通り来とったわい」


「構わないよ」


 屈託のない笑みを浮かべ、ゆったりとした歩みで三人に向かって歩いてくる人間。

 強大な力を持つ三体の異形の獣たちに対し、ただ一人だけ『人間』が混ざっているその構図は、圧倒的な違和感を放ち、妙に目を惹きつけた。


「マスター。貴方がズボラだからエズがいつまで経ってもこうなんですよ?」


「いいじゃないいいじゃない」


 のらりくらりと躱すその態度は、どこまでも底が知れない。

 ここは、泣く子も黙るギルドアジト。

 星の数ほどいる冒険者の中には、個人の限界を超え、強力なチームを組んで困難な依頼をこなす一握りの奴らが存在する。

 世界はその選ばれし者達に畏敬の念を込め、『ギルダーズ』と呼ぶ。

 ここも、そのギルダーズを名乗るチームの拠点の一つに過ぎない。

 ただ、他の有象無象と決定的に違うのは——


 彼らが、数多のギルダーズにおいて、この世にたった三つしか存在しない『S級エスランク』の内の一つであるという、絶対的な事実であった。

 国を一つ滅ぼしかねないほどの戦力を有する、文字通りの生ける伝説。

 それが私たちだ。


「それで? マスターが私を呼んだわけは?」


 私は本題を急かすように、まっすぐにマスターを見据えた。


「遅刻しておいてワシらを無視するとは小娘もデカくなったもんのぉ」


 呆れたように、銀狼のルイードが鼻を鳴らして大きく息を吐く。

 私、エズはそんなルイードの皮肉には一切目もくれない。

 取り合うだけ時間の無駄だ。


「今さっきギルドから報告があってね」


 楽しげな表情から一転、マスターの瞳に微かな鋭い光が宿る。

 私達の前に立つこの男こそがマスター。

 この世界最強の集団である私達チームを束ねる、絶対的なトップだ。

 彼は脆弱なはずの『人間』でありながら、私たちと同じS級ランクの称号を持ち、そして何より——私達の誰よりも、圧倒的に強い。

 今まで一度たりとも、彼が本気で戦っている所を見たことはないが、本能が告げている。 この男だけには絶対に逆らえない、と。


「報告ですか?」


 静寂に包まれた大広間に、透き通るような冷たい声が響く。

 今喋っているのはレイン。

 我々と同じ異形の力を持つ有翼人であり、彼が身につける翠玉の鱗は、蝋燭の黄金色の光を反射して万華鏡のようにキラキラと美しく輝いていた。

 優雅に腕を組むその立ち姿は、まるで彫刻のように洗練されている。


「以前から問題視していたこの街に蔓延る闇についてだ」


 空気が一変した。

 マスターはゆっくりと一本の指を立てる。

 先程までの飄々とした態度は鳴りを潜め、その声には一切の感情が乗っていない。

 たったそれだけの仕草で、室内の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感が場を支配した。


「カッ! ゴミ共の話じゃの?」


 鋭い牙を剥き出しにし、苦虫を噛み潰したようなひどく不快な顔をするルイード。

 彼の喉の奥から、獣特有の低い唸り声が漏れる。

 マスターがパチン、と乾いた音を立てて指を鳴らすと、まるで最初からそこに影として溶け込んでいたかのように、横の暗がりからメイド服を着た女性が音もなく歩み出た。

 彼女は機械的な動作で一枚の羊皮紙を差し出す。


「これが報告だ。『街のスラム街にて監禁された子供の情報あり。至急S級ギルド調査を求む』、これがギルドからの報告」


「私達が行く必要が本当にお有りで?」


 レインは呆れたように手を横に広げ、大げさに首を振った。

 彼の背中で、巨大な翼がバサリと不満げな音を立てる。

 国を揺るがすほどの力を持つ自分たちS級が、スラムの小悪党の調査などという下働きに出向く理由がわからない、という絶対的な強者ゆえの傲慢さがその仕草には表れていた。


「すでに調査はしてもらってるんだ。その結果君たちの誰かに見て来てもらおうと私が決めたんだ。誰か頼めるかい?」


 マスターは有無を言わさぬ、底知れぬ深淵を覗かせるような双眸で、私達三人の顔を順番に静かに見据えていく。

 逆らうことなど到底許されない、静かなる絶対の命令。

 重苦しい沈黙が広間に落ちた。


「私が行く」


 私が短くそう告げると、両隣の気配がわずかに安堵したのがわかった。

 どうせ、血の匂いのしない退屈な調査など、血の気の多いルイードもプライドの高いレインも行きたがらないのは目に見えていた。

 それに、ただのゴロツキならともかく『子供』が絡むとなると話は別だ。

 胸の奥に燻る、見過ごせない小さな棘のような感情。

 それから、先程屋台で遭遇したあの得体の知れない奴等のことが、私の脳裏にこびりついて離れなかった。

 少し、いや、大いに気になる。

 あの異常な魔力の持ち主たちが、まだこの街のどこかに潜んでいるかもしれないのだ。


「エズ! 行ってくれるのか? じゃ、それでおしまい」


 パンッ! と明るく手を叩いたマスターは、先程までの重圧を嘘のように霧散させ、「解散解散」と気の抜けた声を上げながら深く椅子に背を預けた。

 一見すれば、涼しい顔をして座っているだけの楽な仕事だと思うかもしれない。

 だが、ああ見えて彼が背負う重圧は計り知れない。

 血の気の多いはぐれ者揃いの所属メンバーたちが起こす問題の後始末。

 ギルド上層部へ提出する膨大な報告書の作成と政治的な駆け引き。

 次代を担う新人の厳しい選考。

 挙げればキリがないほどの業務。

 マスターはマスターなりに、寝る間も惜しんで大忙しなのだ。

 彼がどれほどこの組織のために身を粉にしているか、表面上は反発しつつも私達は痛いほどに知っている。


 謁見を終え、大広間を後にした私達は、長い廊下に出るとそれぞれの自室へ向かって別々の道へと分かれた。

 労いの言葉も、明日の予定を語り合うこともない。

 特に会話もなく、あっさりと。

 強者同士の馴れ合いなど不要だった。


 ここで改めて、私たちが属するこの『ギルダーズ』という存在について説明しておこう。  まず前提として、ギルドには富と名誉、あるいは明日のパンを求めて、星の数ほどの冒険者が登録している。

 そして、その冒険者の大半が気の合う者や能力を補い合える者同士でチームを組む。

 理由は極めて単純明快。

 一人で野垂れ死ぬリスクを減らし、生き残る勝率を少しでも上げる為だ。


 有象無象のチームが結成されては壊滅していく中、卓越した実力と強運を持ち、段々と目覚ましい成果を上げる者達が現れ始める。

 そうした一握りの優秀な集団を、ギルドは公式に一つの独立した部隊として認め『ギルダーズ』という称号を与える。

 そして、一般の冒険者には回せないような重要かつ危険な依頼を、ギルド直属のチームとして直接下すようになるのだ。

 それがギルダーズと呼ばれる者たちの正体。


 ギルダーズにおいても、一般の冒険者と同じ様に階級ランクが存在する。

 しかし、そのランクの壁は途方もなく分厚く、冒険者のそれよりも格段に上げにくく設定されており、並大抵の実績では簡単には昇格しない。

 例えば、個人の冒険者として優秀なBランクであったとしても、ギルダーズという組織単位の評価基準に換算すれば、よくてCランク程度にしかならないという厳しい世界だ。


 この広大な世界には数多のギルダーズが存在し、それぞれが覇を競っているが、その頂点たる『S級ランク』と認められているのは、たったの三チームしか存在しない。

 私が所属するこの「銀箔の女神」は、その数少ない頂点の一つ。

 女神という神聖で美しい名とは裏腹に、その実態は狂暴な戦闘集団の集まりであり、ひとたび戦場に出れば敵の肉に群がり、文字通り骨すら残さず蹂躙し尽くす。

 到底、気高いギルダーズの名前にはそぐわない、血生臭く容赦のないプレイスタイルだった。


 静寂に包まれた屋敷の奥深く、私は割り当てられた自室へとたどり着いた。

 生活感の一切ない殺風景な部屋だと、以前ここを覗いたレインに鼻で笑われた事があるが、私にはこれくらい何もない空間の方が落ち着く。

 もっと女らしく華やかに飾れとルイードにも言われたが、余計なお世話だと一蹴して追い払った。


 私には、手入れの行き届いたこの鋭いレイピアが一本あれば、それでいい。

 それから、厳しい任務の後に食べる美味しいご飯さえあれば、他に望むものなど何もない。


 私は元来、他者と関わることを好まない静かな性格だ。

 必要がなければほとんど口を開かないし、そもそも自分の意思を言葉にして誰かに伝えるという行為自体がめんどくさいと感じている。

 しかし、今日大通りで出会ったあの異様な少年には、自分でも信じられないことに、無意識のうちに声をかけざるを得なかった。

 警戒されないよう少し見栄を張って、普段絶対にしないような変な喋り方を取り繕ってでも、接触を図ってみたかったのだ。

 あの時の己の不自然な振る舞いを思い出すだけで、狐の耳がカァッと熱くなり恥ずかしくなる。


 間違いない。

 あの少年は、人の皮を被った底知れぬ化け物だ。

 小さな身体からは想像もつかないほど深淵のように暗く深い魔力と、一歩の踏み込みから察せられる恐るべき体術の練度。

 それから、その後ろに控えていたあの従者。

 塵一つない綺麗な身なりには全くそぐわない、命を刈り取ることを躊躇わないあの冷酷で鋭い瞳と、空間そのものを歪めるような圧倒的な魔力。

 幾多の死線を潜り抜けてきたこのS級の私ですら、思い出すだけで本能が警鐘を鳴らし、身を震わせるほどだった。

 だが、彼らが世界を滅ぼすような邪悪な存在かと言われれば、決して悪い人物では無さそうだった。

 あの冷徹な従者の本性は分からないが、少なくともあの少年から発せられる気配は大丈夫だと、私の鋭い獣の鼻が確かに告げている。

 きっと、彼らもとうの昔に気づいているのだろう。

 私が、ただの狐の獣人などではなく、一筋縄ではいかない力を持った『異常者』の側であることに。


「それよりも——」


 思考の渦から抜け出し、私は独り言を呟いて意識を任務へと切り替える。

 光の届かない街のスラム街で密かに監禁されていたという子供。

 一体何なのだろうか。

 この華やかなギーデンの街には、以前から吐き気を催すような悪い噂を耳にする。

 人が消え、非合法な品が流れる。

 ただ、いくら探ってもその根源たる本体は決して見えない。

 光が強ければ強いほど濃くなる、文字通りの深き闇がこの街には巣食っている。


「エズ様ー! 準備出来ましたー!」


 重苦しい思考を打ち破るように、私の部屋の分厚い扉を元気よくノックし、勢いよく開いたのは私の直属の部隊員であるメグだ。

 ピンと立った可愛らしい長い耳に、鈴を転がすような可愛い声。

 まるで綿毛のようにフワフワでモフモフの、純白の美しい毛並みを持った兎人族の少女。 

 これから向かう掃き溜めのようなスラムには似つかわしくないほど、彼女は明るい光を放っていた。


「すぐ行くよ」


 私は、壁に立てかけてあった愛用の鋭いレイピアを静かに手に取ると、一切の迷いを捨てて部屋を出た。



―――――――――――――――――――――――――



「ここが……」


 どんよりと澱んだ空気が滞留するスラムの最奥。

 目の前にあるのは、辛うじて建っているのが不思議なほどに歪んだ小さい家だった。

 いや、もはや家とも呼べない、朽ち果てる寸前の古屋だ。

 湿気を吸って黒ずんだ木材は至る所が腐り落ち、屋根は今にも崩落しそうで、壁には隙間風を素通しする無数の穴が空いている。

 吹けば飛ぶようなその惨状は、この街が足元に抱える深い闇そのものを体現しているかのようだった。


「はい。ギルドから報告があった場所はここです!」


 澱んだ泥色の景色の中にあって、隣に立つメグの純白の毛並みだけが異様に浮いて見える。

 彼女はパタパタと長い耳を揺らしながら、手に持つ羊皮紙の束をペラペラと捲って確認した。


「中を見よう」


 私は赤黒く錆びついた蝶番に手をかけ、ひんやりとした泥土の地面に鎖が落ちている扉をゆっくりと開いた。

 ギイィィという不快な悲鳴を上げて扉が開いた瞬間、物理的な暴力とも言える酷い匂いが猛烈な勢いで鼻をつく。

 それは、夏の炎天下に生ゴミを長い期間放置した様な、あるいは何かが腐敗して溶け出したような、むせ返るような強烈な悪臭だった。


「鼻がきついな」


「エズ様はお鼻がお強いからですね!」


 思わず顔をしかめて鼻先を覆う私に、メグが無邪気な声で返す。

 私は狐の獣人だ。

 そもそも獣人という種族自体、人間よりも遥かに五感が鋭敏であり、大半の者が優れた嗅覚を持っている。

 それに付随して、私は狐の血を色濃く引いている。

 その嗅覚は他の獣人と比べても群を抜いて鋭く、この密閉された空間に染み付いた絶望の匂いすら明確に嗅ぎ取ってしまいそうになるほど、さらに強いのだ。

 今の私にとって、この小屋の空気は劇毒に等しい。


「酷いな。ここに何年も」


 事前に目を通したギルドの報告書によると、光さえまともに差し込まないこの木で出来た古い建物に、身寄りのない小さい子供が長期間閉じ込められていたらしい。

 外からしか開けられない分厚い扉と、入り口の泥にまみれて落ちていた無骨な鎖。

 これを使って物理的に子供を拘束し、閉じ込めて何年も飼い殺しにしていたのだ。

 寒さに震え、飢えに苦しみ、ただ暗闇の中で息を潜めるしかなかった子供の絶望を想うと、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくる。

 決して許される事ではない。


「ギルドに報告したのは誰だ?」


「分からないって言ってました!」


「分からない?」


 ギルドにこの惨状を報告した人物が特定できない?

 思わず聞き返してしまった。

 通常の依頼やタレコミにおいて、そんな事はほとんどないはずだ。

 特に、このギーデンのギルドは情報管理や賞金目当ての虚偽報告を防ぐため、その手の身元確認のルール事には極めて厳しい。

 匿名での報告など、よほどの裏ルートか権力者からの干渉でもない限り受理されないのだ。


「あるのは毛布のみか。これでは何も分からんな」


 薄暗い室内を見渡すが、現場にあるのは床の泥水の上に敷かれた薄っぺらい毛布一枚きりだった。

 すり切れ、体温を保つ役割などとうの昔に果たせなくなったであろうそのボロ布に、幼い子供が小さな体をきつく包まり、凍えるような夜を一人寂しく寝ていた光景が鮮明に目に浮かぶ。

 胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、私は静かに目を伏せた。


「せめて報告した人物が分かれば別なのだが」


 靴底にへばりつく泥を気にすることなく、部屋の隅々を物色しながら私は何かしらの手掛かりを探す。

 壁の傷、床の凹み、足跡。

 だが、見つかるのは積もり積もった埃や、意味をなさない得体の知れないゴミばかりだった。

 あまりにも証拠が少なすぎる。


「メグ。やれる事はやった。ギルドに向かう」


「あいさー!」


 メグの元気な敬礼を背に受けながら、これ以上の長居は無用と判断する。

 結局、特に大した手掛かりを見つける事は出来ないまま、私達は淀んだ空気の立ち込める小屋を後にした。


 ギーデンギルド。

 私達の巨大なギルダーズ拠点の近くにあるこの街のギルド本部は、周囲の近代的な石造りの建築群とは打って変わって、どこかレトロな雰囲気を感じる独特の建造物だった。

 使い込まれた巨大な木材がふんだんに使われており、風を凌ぐためのスイングドアやテラスなど、開拓時代の西部らしさを色濃く感じられる意匠が至る所に施されている。

 年月を経て飴色に輝く木肌が、数多の冒険者たちの歴史を物語っていた。

 このギーデンという街には元々獣人の居住者が多い為、一攫千金を夢見てギルドを利用する冒険者達も必然的に獣人が多い。

 犬耳、猫耳、鱗を持つ者や巨大な体躯を誇る者など、多様な種族がひしめき合い、建物の中からは絶えず活気ある喧騒が漏れ出ている。


「あれ見ろよ。朱狐だぜ」


「あぁ。初めて見た」


 重いスイングドアを押し開けて私がギルドのホールに入ると、ざわめいていた喧騒が一瞬にしてピタリと止み、そこらじゅうから潜めた声でそんなヒソヒソとした会話が聞こえてくる。

 無数の視線が一斉に私に突き刺さる。

 基本的には専属の職員を通して依頼を処理するため、滅多にギルドの一般窓口を訪れない私達S級チームの人間は、ただ現れるだけでちょっとしたパニックや騒ぎになるのだ。

 特に『朱狐』という二つ名で呼ばれる私の姿は、彼らにとって畏怖の対象でしかないらしい。


「エズ様今日も大人気ですね!」


「私は苦手だこういうのは」


「苦手なのに屋台で出会った少年にはカッコつけちゃったんですか?」


「うるさい」


 無数の畏れを含んだ視線の中を堂々と歩きながら、私は呆れたように短く吐き捨てる。  他人の注目を集めるのは昔からどうも肌に合わない。

 だが、隣を歩くメグは私の微かな動揺を察知してか、ニシシと悪戯っぽく笑いながら痛いところを突いてきた。

 大勢の人間には冷たい態度を取るくせに、あの得体の知れない少年にだけは、普段使わないような奇妙な言葉遣いで気を引こうとしてしまったのだ。

 図星を突かれた私は、耳の先が僅かに熱くなるのを感じながらメグをキッと睨みつけた。  

 周囲の冒険者たちが道を譲るようにモーゼの海のごとく割れていく中、そんな他愛のない世間話をメグとしながら受付カウンターへと向かう。


「これはエズ様。今日はどういったご用件でしょうか」


 カウンターに鎮座していた熟練の受付嬢は、私の姿を認めるなり、並んでいた一般の冒険者を待たせたまま、声色から所作に至るまで普段とは打って変わった恭しい態度へと一瞬で切り替えた。

 それは、ギルドにとって絶対的な利益と権力をもたらす『特定の超重要人物』にだけ見せる、作り込まれた完璧な特別な態度だ。

 私はこういう特別扱いも好まないため、他の冒険者と同じように普段通りでいいと以前伝えたことがある。

 だが、彼女からは「S級ランク様ですので。ギルドの威信に関わります」と有無を言わさぬ笑顔で一括され、以来諦めている。


「私達にギルドからの報告があったと思うが、その情報提供者を探している」


「かしこまりました。中でお待ちください」


 私が用件を手短に告げると、受付嬢はわずかに目を見開いたものの、すぐに深く頷き、流れるような動作でカウンターの奥へと私達を導いた。

 一般冒険者の立ち入りが禁止されている廊下を抜け、受付嬢に案内されたのは、ギルドの最奥に存在する特別な待合室だった。

 外の喧騒が一切届かない防音の室内。

 体が沈み込むほどにふかふかで最高級のベルベット生地が張られた椅子に、壁に飾られた著名な画家の手による風景絵。

 テーブルには磨き上げられたクリスタルの水差しが置かれている。

 明らかに、一握りの上客や貴族を接待する為だけに作られた、贅を尽くした上客用の部屋だ。


 微かな紅茶の香りが漂う室内で、無言のままふかふかの椅子に腰を下ろし、静かに時を刻む。

 しばらく待っていると、コンコン、と控えめなノックの音が鳴り響いた。

 重厚な扉が静かに開き、先ほどの受付嬢と——もう一人、見慣れない女がゆっくりと部屋の中へと入ってきた。


 重厚な扉を音もなく開けて部屋の中へ入ってきたのは、仕立てのいい上質な服を見事に着こなした、洗練された雰囲気を持つ女だった。

 その立ち振る舞いには一切の隙がなく、長年数多の荒くれ者を束ね、街の裏表を支配してきた者だけが持つ、特有の威圧感と絶対的な貫禄が漂っている。

 彼女は悠然とした足取りで私の対面に座ると、まるで旧友を歓迎するかのように優雅に微笑んだ。


「これはこれは、お待たせいたしましたエズ様。初めまして私このギルド総括、皆様でいう所のギルドマスターでございます」


「御託はいい。私たちの要件の答えだけを聞かせてくれ」


 私はその恭しい挨拶を冷酷な刃で断ち切るように、低くドスの効いた声で言い放った。

 余計な世間話をするつもりも、彼女が作り出す呑気なペースに巻き込まれるつもりもない。


「評判通り相変わらずの性格をしておりますね」


 私の明らかな敵意と威圧を正面から浴びても、彼女は顔色一つ変えずにクスリと上品に笑った。

 彼女のその態度は、先程の受付嬢や外にいた有象無象の冒険者たちとは決定的に違っていた。

 目の前に国を揺るがすS級ランクという規格外の暴力が座っていようとも、決して媚びず、恐れず、変に特別扱いもしない。

 それこそが、情報と依頼を統括する絶対的な中立機関『ギルド』の長としての本来の在り方であり、数千の冒険者の命を天秤に掛けるギルドマスターとしての確固たるプライドなのだ。

 その揺るぎない矜持だけは、少しだけ評価してもいい。


「......」


 だが、その心意気に共感したからといって、私が態度を軟化させるわけではない。

 私は彼女の余裕を削り取るように深く冷たい視線を射抜き、部屋の空気が凍りつくほどの無言の圧を放った。

 ピンと張り詰めた息苦しい沈黙が、重圧となって豪華な室内に満ちていく。


「かしこまりました。要件は情報提供者についてですね」


 さしものギルドマスターも、その肌を刺すようなプレッシャーに僅かに目を細めた。

 彼女は一つ小さなため息を吐くと、柔和な笑みを引っ込め、真剣なビジネスの表情へと切り替わる。


「あぁ」


「残念ですがわからないとしか言えません」


「それがおかしいと私は思うのだが、間違っているのは私の方か?」


 私は眉間を寄せ、声のトーンをさらに一段階落として凄んだ。

 本来、ギルドという組織は情報の提供者やその裏付けに対して、病的なまでに厳しい審査を設けているはずなのだ。

 この過酷な世界において、情報というものは金や剣よりも遥かに重い価値を持つ。

 たった一つの噂、たった一枚の紙切れだけで、大軍が動き、物価が跳ね上がり、数え切れないほどの血が流れる。

 仮にその情報が悪意を持った嘘であった場合、冒険者の全滅や街の崩壊など、取り返しのつかない巨大な損失が様々なところで引き起こされる。

 だからこそ、ギルドは徹底的な身元確認を行い、情報の出所を確実に握ることで組織の信用を担保している。

 それが『わからない』などと、ギルドのトップが易々と口にして良いセリフではない。


「とりあえずその腰につけたレイピアを撫でるのをやめていただけますか?」


 静かな、しかし確かな緊張感を持った声で指摘され、私はハッと視線を落とした。

 自分でも全く無意識のうちに、私の右手は腰に帯びた愛剣——美しくも残酷なレイピアの柄を、いつでも抜き放てるように指先でゆっくりと撫で回していた。

 腑に落ちない状況に対する苛立ちが、本能的な殺意となって漏れ出していたらしい。

 私は微かに舌打ちをし、渋々手を柄から離して膝の上へと戻した。


「あはは。S級ランクはこれだから」


 張り詰めていた糸が少しだけ緩んだのか、ギルドマスターが引き攣ったような乾いた苦笑いを漏らす。


「何か言ったか?」


「いえ。それで話を戻しますが、情報源ですが本当に、全く分からないのです」


「もういい。邪魔をした」


 要領を得ない言い訳を繰り返すつもりのようだ。

 無能な組織の無駄話にこれ以上付き合う時間は私にはない。

 これ以上の対話は無意味だと判断した私は、一切の未練なく椅子を蹴るようにして立ち上がり、冷たく踵を返した。


「待って待ってください!」


 先程までの優雅なプライドはどこへやら。

 私が本気で見限ろうとしていることを悟った彼女は、椅子をガタッと鳴らして私よりも先に立ち上がり、血相を変えて慌てふためきながら引き留めの声を上げた。


「いつ誰がどこで受け取ったかが分かりません。隠しているわけではないのです! 急に、本当に何の前触れもなくこの報告が出てきて、怪しいと思いながらも実際に確認したところ事実だと判明し、事態の異常性を重く見て『銀箔の女神』に依頼したという流れです」


「つまり、突然ギルド内で問題になった。そういうことか?」


「エズ様のおっしゃるとおりでございます。私達ギルド上層部も何が何だか理解が追いついておらず......。内部の犯行か未知の術か、今色々大変なんです」


 必死に弁明する彼女の言葉を聞き、私は足を止めた。

 そんな馬鹿なことがあるのか?

 厳重な警戒が敷かれているはずのこのギルド本部で。

 誰が受け取った報告かも分からない。

 いつ置かれたものかも分からない。

 突然、何もない虚空から情報がぽつんと現れ、しかもその内容が完全に隠された事実を射抜いている。

 そんな神業のような真似が、この街の誰にできる?


 圧倒的な未知の事象。

 その瞬間、私の脳内に雷が落ちたように、一人の少年——今日大通りで出会った、あの異質な少年の姿が鮮明に思い浮かんだ。

 底知れぬ魔力。

 人間離れした気配。

 彼らほどの化け物であれば、ギルドの目を掻い潜ることなど造作もないのではないか。  だが、彼らは今回の件に関係あるのか?

 彼らは確か、自分たちをただの旅人だと言っていた。

 仮にその言葉が本当なら、長居する理由もない見ず知らずの街の、スラムの淀んだ闇になど、普通そこまで深く関わろうと思うだろうか。

 少なくとも、私が彼らと同じ立場の旅人であれば、面倒なトラブルの匂いを察知した時点で一切関わりを持たず、早々に次の街へと向かう。

 それほどまでにこの一件は根が深く、厄介だ。


「ひとまずギルドはそのまま独自の調査をお願いする。私達はこの件を直接叩き、解決することを目指す。それが貴様らギルドの依頼の真意だからな」


 堂々巡りになる思考を一旦頭の片隅に追いやる。

 今は推測を重ねても意味がない。

 私の宣戦布告とも取れる力強い言葉に、ギルドマスターは目に見えて安堵の息を吐き、深く頭を下げた。


「助かります。お願いしますねエズ様」


 彼女の切実な願いを背中に浴びながら、私とメグは重厚な扉を開け、待合室を後にした。  ギルドの外に出ると、日はすでに傾きかけ、空は燃えるような茜色に染まり始めていた。 

 喧騒に包まれたギーデンの街並みはいつもと変わらず活気にあふれているが、その足元に広がる長く濃い影が、これから私たちが踏み込む深い闇の深さを暗示しているようだった。  

 私たちは沈黙のまま、来るべき波乱を予感しながら、自分たちのアジトへと重い足取りで戻っていった。


朱狐の名前の由来は、倒した獲物の赤い返り血を浴び、黄金色の毛並みが真っ赤になったエズを見た一般冒険者が言い始めたのが由来です。

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