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そろそろ髪を切らなくてはいけない。
ここ最近の騒々しさですっかり後回しになってしまっていたが、やはり切ってしまおう。
エマは鏡に映る自分を見つめ、自分の赤い髪を指に絡ませる。
母はこの髪を好きだと言っていた。髪の色は父親譲りのようだが、髪質は母のものを継いだらしい。柔らかくて、くしを通さずともさらさらしている。ボリューム感がないのが気になるところではあるが、母が好きだと言ってくれたこの髪を、エマもそれなりに気に入っている。
となれば、善は急げ。
エマは部屋を出て、使用人棟へ向かう。カット用のハサミを持っているのは、カロリーナ。手が空いているようであれば、もう切ってもらおう。
カロリーナは同僚であるヴィヴィアナの髪も何度か切っていると言っていたし、エマよりも手慣れているはず。
「あ、カロリーナ」
使用人棟へ辿り着く前に、目当ての人物を廊下の向こうに見つけた。
カロリーナは茶色い髪を高い位置でひとつに結っている。
「お嬢様、どうかしましたか?」
「今時間があれば、髪を切ってほしいの」
「ああ! その件ですね」
いろんな騒動があったので、カロリーナ自身も忘れていたようだ。
エマの頼みを、カロリーナは快く承諾してくれた。
「じゃあ、ハサミだとかを持って来るので──」
「エマ」
背後から名前を呼ばれて、エマは反射的に振り返る。名前を呼んだのは、セルジオだった。ジャケットも羽織らず、ネクタイもしていない。窓から差し込む陽光が、セルジオの銀色の髪を照らしている。
「どうかしましたか?」
「リカルドが呼んでる。急用か?」
セルジオはちらりとカロリーナを見て、エマを見る。
「髪を切ってもらおうと思ったんです。そちらが急ぎなら、行きますけど」
「そうだな、こっちが先だ」
またもや、髪を切る機会を逸してしまった。
「後でお願いするわ」
「わかりました」
カロリーナと別れ、エマはセルジオと一緒にリカルドの仕事部屋へと向かう。
リカルドの仕事部屋に来るのは、二度目だ。飾り気のない、仕事をするためだけの部屋は、部屋の主人の性格をあらわしているように思う。
「連れて来たぞ」
「ああ、助かった」
リカルドは書類から視線を上げ、エマとセルジオを見て、また書類に視線を戻した。
一体、なんの用があるのだろうか?
もしかして、父が戻ってくる日がわかる?
そんなことを考えたが、予想は大きく外れることになる。
「お前に正式な護衛を付ける」
「正式な護衛?」
今も護衛はいるのに、正式?
エマが理解できない、という顔をすると、セルジオが長椅子の方を指差した。気づかなかったが、長椅子には女性が座っていたのだ。
「あなたは──」
エマはその女性を知っている。
彼女の名前はダニエラ。
数日前、この屋敷を去って行った従姉アリーチェの侍女だ。
「ダニエラ、挨拶しろ」
セルジオに言われ、ダニエラがにやりと笑って立ち上がる。
ダニエラの黒髪は肩にかかるかどうかの長さで、瞳は濃い青色だ。
今日はメイド服ではなく、黒のパンツスーツ姿。
「はじめまして、お嬢様。アタシはダニエラ・メスト。今日からあなたの盾だよ」
なんと言うべきか……。
ダニエラの雰囲気が違って、戸惑ってしまう。
こんな人だった?
アリーチェに付き従うダニエラの姿を思い出そうとするが、アリーチェの印象の方が強すぎる。
「は、はじめまして」
戸惑いが表情に出てしまっているのだろう。
ダニエラは笑っている。
「中々うまく化けてたでしょ? メイドなんて冗談じゃないと思ったけど、それなりに楽しめたよ」
「…………」
きっと、今目の前にいるダニエラが、本物なのだ。メイド服を着て、アリーチェの侍女として振る舞っていたのは、偽りの姿。
「ダニエラには間者をしてもらっていた。当初はザッフィーロに同行させるつもりでいたんだが、状況が変わったからな」
リカルドが書類を置き、立ち上がる。
「アタシは助かったよ。メイド服は嫌いだったし、何よりつまらなかったから。お嬢様のそばは、退屈しないですみそう」
満足そうに笑うダニエラに、エマは何を言えばいいのかわからない。
アリーチェの侍女だったけれど、本当はスパイだったダニエラ。アリーチェはそのことを知っていたのだろうか?
いいや、知るはずがない。
もしかして、私のことも探るのかしら?
その可能性は十分にありえる。見張る対象が、アリーチェからエマに変わった──それは考えすぎ?
「今後のことを考えれば、同性の護衛も付けておいた方が良いだろう」
エマの気持ちなど知るよしもなく、リカルドは淡々と言う。
「用件はそれだけですか?」
護衛なんて求めてないけれど、ここで何を言っても無駄だということを、エマはよくわかっている。
「そうだが……何かあるのか?」
「髪を切るんだろ。さっき侍女とそんな話をしてた」
リカルドの疑問に答えたのは、セルジオだった。言ってほしくなかったけれど、言ってしまったらもう、取り消すことなんてできない。
「ああ、それか」
何かを思い出したように、リカルドが目を細める。
「ちょうどいい。街へ行って切ってこい」
「え」
思いがけない提案に、エマは素直に驚いてしまった。
やたらと屋敷に閉じ込めようとしていたのに、急にどうしたのだろう?
「プロに任せた方が確実だ。ダニエラ、最初の仕事だ」
「お任せあれ」
勝手に話が進んでいくが、この状況にも慣れつつある自分が怖い。
エマは反論するのも面倒で、ダニエラを伴い部屋を出た。
「お前が外出を後押しするとはな」
長椅子に勢いよく腰を下ろしたセルジオは、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべている。
リカルドは机に置いた書類をまとめながら、セルジオを横目で見た。
「ロッソはトラモントの拠点であり、守るべき場所でもある。慣れるに越したことはない」
「まあな。エマは情に脆いタイプみたいだから、そこに訴えかければ、どうにかなるのかもな」
情に脆い──本当にそうなのだろうか。
リカルドはつい先日のことを思い出す。
── さあ、私を納得させて。あなたはアリーチェのそばにいるべきなんだ、と。
あの夜のエマの言葉には、一切の躊躇いがなかった。誰もエマに指示など出していない。
あれはすべて、エマ自身が紡ぎ出した言葉だ。
あの夜のエマの姿を、リカルドははっきりと覚えている。常に脆い?
ならばフラヴィアが縋った時点で、エマは許したはずだ。
アリーチェのことだって、不憫に思い屋敷に置いておきたいと言うはず。
なのにエマは、感情になど流されなかった。
少なくとも、リカルドの目にはそう見えた。
知れば知るほど、近づけば近づくほどに、わからなくなる。
手を伸ばせば簡単に触れることができるのに、どうしてだか、その心が見えない。
芸術祭の最終日、エマとふたり、花火を見た夜。
エマは何も言わず、逸らすこともせず、ただこちらを見つめ返すだけ。触れても逃げなかった。恥じらうこともなく、ただ真っ直ぐにこちらを見つめ続ける緑色の瞳を、リカルドは美しいと思った。
その瞳に映る世界は、自分が見ている世界とは違うのだろうか。
その瞳に、俺はどう映るのだろうか──。
「どうかしたか?」
「いや……、なんでもない。──お前はエマを、認めたのか?」
「さあな」
含みのある笑みはいつものことだが、今日はその笑顔がどうにも癪に障る。視界からセルジオを追い出し、リカルドは慣れた手つきでタバコを一本、箱から取り出す。火をつければ、余ったるい匂いが漂い始める。
「うぇ」
タバコの匂いがお気に召さなかったらしい。
セルジオは露骨に嫌そうな顔をして、部屋を出て行く。
「確かにこれは、甘すぎるな」
それでも、一度つけた火を消そうとはしない。
そう、一度ついた火は、そう簡単には消えないものだ。




