後日談
あれから数年後、私は婿を取り父について男爵の仕事を教わっていた。高位貴族のような煌びやかさもないが苛烈な権力争いに巻き込まれることもなく、静かな暮らしを維持している。けれどこの維持というのがとんでもなく難しい。机上の空論は空論でしかなく、しかしその空論をこねくり回して実際に起きる物事の全てを決断しなければならない。権力の重みを、痛感する日々だ。
ただ父が見つけてきた婿が仕事のできる人であるので、それだけはとても助かっている。
「いやあ、今更だが、こんなに若い嫁さん貰うことになるとは人生何があるか分からんもんだな」
「あら、貰ったのはわたくしですわ」
「はは、そりゃそうだ」
大口を開けて豪快に笑う夫、アイザックは、大口の商談が三つも決まってご機嫌だ。こうなると決まって彼はいい酒を開け、そのついでに私のことを若い嫁だと褒めそやす。若い以外に褒める点がないのだろう。自覚はあるので思うところもない。ここで貴族相手であれば詩的な表現を駆使するのだろうが、そういう相手も疲れるのでこれはこれで気安くてよいものだった。
「我が家としても、働き者の婿を貰えて嬉しい限りです」
「働き者ねえ……」
「どうかなさいまして?」
「いや? 今までそう言ってくれた女はいなかったもんでね」
グラスを煽って空にすると、アイザックは何を考えているのかよく分からない目で私をひたりと見据えた。
「いい機会だから改めて言っておくが、俺は常に仕事を優先する。これまでもこれからもだ。もしイザベラが死にかけてたって、商談を切り上げることはできないかもしれん」
「かも、ですか? あら、天秤にはかけてくださるのね」
「……さすがに嫁さんが死にかけてるっていう時なら、適当な商談なら切り上げる」
「ふふ、貴方が自ら行くような商談で、適当なものがあって?」
父が見つけてきた新しい婿も、平民の商人だった。オリヴァーとは違いアイザックは彼自身がやり手で、けれどまだオリヴァーの父よりは目立たない存在だった。ただ今度こそ父の目に狂いはなく、我々の婚姻は正式に成った。
アイザックは男爵家との婚姻を正しく上手く使った。彼の持つ商会は私との婚約直後から急成長を遂げ、今やこの国で五本の指に入ろうとしている。このまま頂点を取るのも難しくはないと豪語する彼であるが、一旦は現状維持を目指すらしい。今すぐにほかを押しのけるのではなく、妬み嫉みや妨害を跳ね返す程度の力をつけ、時を待つのだそうだ。状況判断の冷静さも、彼の才覚の一つである。
「その商談は、この地に潤いをもたらすものだわ。是非、やってらして。ですが、優先順位だけは間違えないでください」
「王家主催と高位貴族に名指しで呼ばれた会だけはすっぽかさない、だったか?」
「ええ、一番の仕事ですわ。あとはお好きにどうぞ。貴方のやりたいようになさってください」
「……」
「まあ、それはどういう感情のお顔?」
「仕事と私、どっちが大事? って聞かれるのも面倒だったが、どうでもいいって態度を取られるのもなんだかなって感情」
「あらあら、ふふ、業突張り、とは貴方の為の言葉ですね」
「……知ってるか、それ、悪口なんだぞ」
「うふふ」
アイザックの開けた最近流行っている炭酸入りの白葡萄酒は軽いのに、思ったよりも強かったのかもしれない。愉快な気分のままで、そっともたれかかる。夫婦であるのだから、このくらいはいいだろう。
「貴方はわたくしとの約束を破りますしお出かけ中も急な仕事が入って帰ってしまいます。婚約中からそうでしたから、貴方と結婚するということがどういうことかは理解しておりましたのよ」
「……悪いとは思っている」
「ええ、そうでしょうね。だからそういった仕事はすぐに片付けて戻ってきてくれますし、お詫びも欠かさなかった。なにより、別の女性に見向きもしないところが面白くって」
「片付けるのと詫びはまあ、約束に穴を空けたんだから当然なんだが、最後のはなんだ」
「あれだけ露骨な秋波を送られながら不審者を見るような目で、ふ、ふふっ」
オリヴァーもだったがアイザックも、そして当然私もだが、別段舞台俳優のような飛びぬけた美貌を持っている訳ではない。しかしそこそこ身なりよく整えていれば、見知らぬ誰かから声をかけられるものだ。
特にアイザックは商人として様々な場所に出入りしているから顔も広く、そして羽振りがいいことも知られている。経済力は重要な魅力の一つであるので、彼は行く先々でお誘いを受けていた。けれど毎回、それらをひどく迷惑そうに振り払うのだ。相手が、同性から見てもはっとするような色香のある人でも対応は同じだった。初めは取り繕っているのだろうと思っていたがそうでもなく、では結婚生活に支障をきたすのではと心配したくらいだ。まあ、それは杞憂で済んだのだが。
「いや、不審者だろう。婚約者や妻を隣に連れてる男にべたべたしてくる女なんてろくな奴じゃない。それに俺ももう若くないからな。女ってだけで飛び跳ねるような元気はない。それに、イザベラに言うのもなんだが、女ってのは面倒なんだぞ。どうでもいい女の相手してる暇があるなら、金勘定でもしてたいね」
「んふ……っ」
「思い出し笑いのしすぎじゃないか?」
アイザックに呆れられているが、どうにも収まらない。だってあれはひどかった。思い出す度に笑ってしまう。
事件は私たちの婚約発表パーティーで起こった。私より三つ上の子爵夫人が酒に酔ったふりをして分かりやすくアイザックにしなだれかかったのだ。性に奔放な彼女は、他人の夫や婚約者にちょっかいをかけるのを好むことでも有名だった。さらに彼女は大叔母が女侯爵であったので、下位貴族たちは下手に注意もできず無視する訳にもいかずで悩みのタネとなっていた。それを理由に真っ当な人々からは嫌厭されていたが、そうでない人々は彼女の行動を一種の娯楽として楽しんでいた。
さすがの彼女も平民であるアイザックに興味を持つことはなかろうと高を括っていた私が悪かったのだが、そんな中、彼は一瞬だけものすごく嫌そうな顔をして次の瞬間には「それなら夫人、うちで扱っているよい酔い覚ましがございますよ」と怒涛の営業をし始めたのだ。
アイザックは夫人に向かってつらつらつらつらと話し続けたが、隣で全てを聞いていた私が要約すると「いい年をした大人が人前で酒に酔うなどあまりにも愚か」「さっさと帰って薬でも飲んで寝てろ」だった。勿論様々な美しい言葉で装飾されてはいたが、よくよく聞くと慇懃無礼この上ない内容だった。
しかし夫人は呆気にとられるだけで言い返しもせず「そ、そう。そうですね。もう帰って休もうと思います……」とだけ言い残して会場をあとにした。彼女は自身の美貌に絶対の自信があったらしく、断られることなど想定しなかったのだ。断れる可能性のある人には初めから話しかけに行かないとも聞いた。あのあと彼女は自信をなくし、領地に引っ込んでいるのだという。彼女の大叔母である女侯爵も実は彼女の言動をよく思っていなかったようで、春の大規模なガーデンパーティーでお会いした時にそれとなくお礼をされた。
けれどまあ、面白すぎた。言葉の選び方もそうだが、あしらい方もその前のものすごく嫌そうな顔も、全てが面白かった。想定外すぎたのだ。しかもあのあと、私にだけ聞こえる声で「話には聞いていたが相当ヤバイ女だぞ、あれは。あまり親密に付き合うなよ。ああいうのはいつか周りを巻き込んで大事故を起こすぞ」と耳打ちまでしてきた。もう、笑うしかない。
「仕方がありませんわ。貴方って面白いのですもの」
「よく言われるが、なんか、狙ってないのに言われるのもな……」
「んふふふっ」
アイザックは、父とは違う方面で合理的なのだ。考え方は似ていそうであるのに、結果に行きつくまでの過程が違いすぎて面白い。
「……なあ、イザベラ?」
「はい」
「お前の前の婚約者、どうなったか知りたくないか?」
「あら、どうして?」
「別れたとはいえ三年も付き合いがあったんだ、愛人に欲しいかと思って」
「まあ」
愛人なんて面倒なものを本当に私が欲しがっているなんて欠片も思っていないアイザックがそれを言うのは、やはりひどく面白かった。
「あいつはな、今は田舎で両親と店をやってる。あれだけ手広くやってた商家が家族経営の小さな店を細々とな。だが、今度嫁さんを貰うらしい」
「よかったわ。元気でやっているのね」
「……興味なさそうだな」
「どうでしょう。ないという訳でもないというか、ですがあるという訳でもないというか」
「ははっ、馬鹿やった奴のことなんてどうでもいいってか。まあ、お前もそれなりに知ってたんだろうが」
勿論、知っている。もうかかわることはない人々であるが、一度できた縁を頼りに男爵家の名を我々のあずかり知らない場所で使われては困るからだ。
オリヴァーの両親は忙しさにかまけて彼の教育や管理を怠った責任を取り、商会を売って田舎に引っ込んだ。婚約はあくまで解消だったので我が家から請求した慰謝料は然程の額ではなかったが、商会を売った金でその十倍を支払っていった。
オリヴァーも両親についていった。ほかに行く当てもなかったのだろう。田舎に引っ込む前に、愛人気取りだった女性との縁も切ったようだった。けれど私が命じた通り、彼女が引っ越す手筈も整えられていた。あの女性が事態を呑み込んだのかそうでなかったのは知らないが、彼女が不敬罪で捕らえられることも彼女の周りの人々が石を投げられることもなかった。
田舎で、彼らは穏やかに暮らしているのだという。やはりオリヴァーは、我が家に婿入りせずに済んでよかったのだろう。私では彼に安寧を与えることはできず、また彼も我が家に利益をもたらすことはできなかった。
「いいな、強かな女は好きだ」
「お眼鏡に適ったようで嬉しいですわ」
「機嫌のいい女も好きだ。いつもそうやってニコニコしててくれよ」
「それは貴方次第ですわ。馬鹿なんて、やらかさないでくださいませね」
アイザックは仕事のできる合理的な男だ。しかし未来は確定しているものではない。最悪の馬鹿を彼がやらかしてしまった時、私は我が家の名誉の為に彼を磔にしなければならなくなる。
これは事実であるが、明確な脅しでもある。人によっては眉間にくっきりと皺を刻むことだろう。けれど、アイザックはまた大口を開けて豪快に笑った。
「はー、この結婚は博打だったが、大勝利だったな」
「よろしかったですね」
「よし、もう寝るぞ」
「え、きゃあっ」
はしたなく大声を上げてしまって慌てて口を塞ぐが、アイザックが急に抱き上げるのも悪いのだ。私の夫は若い頃荷運びをしていたらしく力持ちで、ことあるごとに私を持ち上げてくるから困る。
「あの、貴方、今夜も夫婦の寝室を使うのですか?」
「何だ。イザベラの部屋がいいのか、それとも俺の部屋にきたいって?」
「別に毎日一緒に寝る必要はないのですよ」
「馬鹿言うな。夫婦が一緒に寝ないでどうする」
「はあ、そういうものですか?」
「そうそう、そういうもん」
「でも、わざわざ抱き上げなくても……」
「そういうもんなの」
「……貴方って、仕事ができて合理的で面白くて素晴らしいと思うのですが、たまによく分からないことをなさいますね?」
「うんうん、そういうもんそういうもん。他人が一緒に暮らすんだから分かんねえこともあるって」
鼻歌でも歌いだしそうなくらい上機嫌な夫は、十五も年上だというのになんだか可愛い。同じく年上だったオリヴァーには感じたことのない感情だった。
「……ふふ」
私たちは今のところ、上手くやれている。それが思ったよりもずっと嬉しいことなのだと最近理解した私も、夫につられて小さく笑った。
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