最終話『そして、誰も元には戻らない』
――数年後。
かつて一つだった国は、今や二つの話題で語られていた。
一つは、衰退。
もう一つは、繁栄。
そしてその境界には、必ず一人の名が挙がる。
アリア・フォン・ルクレール。
かつて“悪役令嬢”と呼ばれた少女の名だ。
王城の廊下は、静かだった。
人はいる。
仕事もある。
だが、活気がない。
どこか、空気が鈍い。
原因は明白だった。
「……また、ですか」
重臣の声が低く響く。
「隣国との交渉、決裂しました」
「理由は」
「条件が合わない、と」
沈黙。
誰もが、同じことを思っている。
――交渉が下手だ。
いや。
判断が遅い。
決断が揺れる。
責任を取らない。
王太子だった男――今は王となった彼は、玉座に座っていた。
だが。
その姿に、かつての威厳はない。
「……再交渉を」
「既に三度目です」
「では……条件を緩和して」
「それでは国益が損なわれます」
「……なら、どうすればいい」
答えは、出ない。
いや。
出せない。
なぜなら――。
(正しい判断が、わからない)
かつて“弱者を守る”という単純な基準で動いていた彼にとって。
複雑な現実は、あまりにも難しかった。
そして。
その隣には、誰もいない。
かつて支えていたはずの存在は。
もう、いない。
薄暗い空間。
湿った空気。
変わらない日々。
「……ねえ」
リリィは、壁に寄りかかっていた。
時間の感覚は、もう曖昧だ。
何日経ったのか。
何年経ったのか。
よくわからない。
「今日も、誰も来ないのね」
小さく呟く。
返事はない。
最初は、怖かった。
次に、怒った。
そのあと、泣いた。
でも。
今はもう、どれでもない。
「……おかしいなあ」
ぽつりと、言う。
「わたし、悪くないのに」
その言葉だけは、変わらない。
ずっと。
最初から。
何一つ。
変わらない。
ふと、思い出す。
あの広間。
あの声。
あの笑み。
「……ずるいよ」
小さく笑う。
乾いた声で。
「あんなの、勝てるわけないじゃん」
その言葉には、ほんの少しだけ。
自覚が混じっていた。
でも。
それ以上には、進まない。
進めない。
だから。
「……でも」
目を閉じる。
「わたしは、悪くない」
それだけを抱えて。
彼女は、そこにいる。
ずっと。
変わらないまま。
明るい陽光が差し込む執務室。
書類が整然と並び、人の出入りが絶えない。
活気がある。
流れがある。
そして、その中心に。
「こちらの案で進めましょう」
アリアは、迷いなく言った。
即断。
即決。
だが、独断ではない。
必要な情報は揃っている。
判断の根拠も明確だ。
「異議は?」
周囲を見渡す。
誰も、口を開かない。
ではなく――。
開く必要がない。
納得しているからだ。
「では、決定で」
ペンを走らせる。
その動きに、無駄はない。
「相変わらず、見事ですね」
背後から声がかかる。
振り返ると、レオンが立っていた。
「当然ですわ」
軽く答える。
だが、その口調は柔らかい。
「あなたがいると、国が速く進む」
「止める理由がありませんもの」
視線が交わる。
短い沈黙。
だが、心地よい。
「アリア」
名を呼ばれる。
あのときと同じように。
「この国は、あなたを必要としている」
以前と同じ言葉。
だが。
意味は、少し違う。
「……ええ」
アリアは、頷いた。
「ですので、ここにいます」
選ばれたからではない。
――選んだから。
それが、すべて。
レオンは、小さく笑った。
「では、これからも」
「ええ」
言葉を重ねる。
「共に」
その一言で、十分だった。
かつて、同じ場所にいた三人。
同じ時間を共有し、同じ未来に立つはずだった三人。
だが今。
その道は、完全に分かれている。
選んだのは、それぞれ。
結果も、それぞれ。
戻ることは、ない。
交わることも、ない。
ただ一つ、確かなことは――。
完璧な悪役令嬢は。
最後まで、完璧だったということ。
そして。
その完璧さは、誰かに与えられたものではなく。
――自分で選び取ったものだった。




