12
「…グレーテル」
あれからなかなか動き出すことができなくて、夕暮れになってもまだ薬草集めを終えられないでいた私の背中に、懐かしい…あまりにも懐かしいその名前がかけられた気がした。
跳ねあがった胸と肩を抑え、おそるおそる振り返る。
そこには、黒いマントと新雪のような髪を風になびかせ、あの笑ってるんだか威嚇してるんだかわからない不器用な笑顔をこちらに向けるガトーがいて…
「…」
…なんてことはない。
そこには、じめじめとした土地と雑草と薬草が広がるばかりで、あの黒いマントも、新雪のような髪も、燃える炎の瞳も、不器用な笑顔も当然ながらどこにもない。
「ははっ…」
そりゃそうだ。だって、いくら村のはずれとはいえ人が来る可能性がある程度はある場所に、彼が来るはずがない。
彼は、そもそも家から出ることが少ないけれども、出るとしても人が来ない森の奥深くでのみ活動する。それは別に彼が人を嫌うからではない。人が彼を嫌うからだ。彼は成長とともにそれを「理解」して、人と距離をおくようになったのだろう。その「理解」までに、どんな出来事があったかは私には想像もつかない。
ただ、彼の「理解」してからの生活はうっすらと知っている。
人との関わりを恐れて自らそれを断ちながらも、本当はそれを望み続ける日々。来ないとわかっているけれど、来客用のコップを増やしそれらを手入れする日々。会話を求めて、物言わぬ植物や動物相手に話しかける日々。少しの寂しさはあるけれど、少しの苦痛もない日々。
そんな、ガラスのように透明な日々を彼は過ごしていた。
今の彼は…どうしているのだろう。
また、元のガラスのような生活に戻っているのだろうか。澄んだ空の下、森の涼しい空気にそのまま溶けていくような生活に。
…そんなわけない。元の生活になんか戻れるはずがない。私は、傷をつけた。ガラスに傷をつけたのだ。どんなにうまく修復できたとしても、ガラスの向こう側にいる人はガラスが傷つけられた時に見えた世界を知ってしまった。元になんか戻るはずがない。
空気中のウイルスのように、知らなければ意識することもなかったそれは、知ってしまった途端に脳の隅に居座る。忘れていても、意識しないようにしていても、ふとした瞬間に意識に浮上するのだ。椅子に座っても、コップを使っても、美しい場所で澄んだ空気を吸っても、なにをしていても意識に突然浮上するのだ。__知らなければ透明だった毎日は、知ってしまえば二度と戻らない。
私にとって彼は、数多いるうちの知人の一人で、第二の家の第二の同居人で、数人の友人の内の一人だった。
でも、彼にとって私は、初めての…そして唯一の知人だった。同居人だった。友人だった。ヒロインの立場を奪って、ヒロインの代わりに全部私が与えて教えた。__そして、彼がわずかに持つものを奪えるだけ奪った後に、一方的に逃げ出すことで唯一私が彼に与えたものすら彼から奪い去った。
本来はヒロインとともに過ごすことで、真の意味でガトーが理解し、得るはずだったそれらは、ヒロインが彼と生涯を共にすることを決めることで永続的に彼に与えられるはずだった。ヒロインとガトーで足りないものを与えあい、補いあって生きていくはずだった。
そうやって彼は救われるはずだったのに!!
本当に、なんてことをしてしまったのだろう。
ヒロインの立場を奪うだけならともかく、なぜ黙って逃げ出したのか。あの日、村に戻ったところまではよくても、なぜずっとお菓子の家に行かなかったのか。
彼は、今でも待っているかもしれない。もう無理だと薄々勘づきながらも「いつか」と「もしかしたら」に期待して、私の椅子も捨てずに、毎日私のコップを磨いて、私のお気に入りの場所でぼんやり座り込んで淡く息を吐きながら、ずっと私の帰りを待っているのかもしれない。
いつの間にか、私は歩き出していた。
あの日、怪我をした左足を軽く引きずりながら。
森の奥深く、お菓子の家が、ガトーの家がある方へと。
どうしようもなく胸が詰まって、申し訳なくて申し訳なくて泣きそうだった。いや、もう泣いていた。
ガトーに向き合う「恐怖」はまだ胸にあったけれど、そんなものどうでもよくなるぐらいに申し訳なかった。生きているのが苦しいぐらいに。
ただひたすらに今の私にできる精一杯のスピードでどうにか歩いて歩いて歩いて、あともう少しで太陽と地面の濃厚な口づけが終わりそうな頃に、やっと私はお菓子の家の近くにやってきた。
情けなく息をゼイゼイと切らして、すがりつくようにクッキーの扉をノックする。この時間だったら、ガトーは確実に家にいるはずだ。
…でも、お菓子の家の扉は開かない。
いくら声を上げても、扉をたたいても、扉はクッキーの甘い匂いを漂わせるばかりでうんともすんとも言わない。
ついに、地面に太陽がお別れを告げて世界が暗闇に満たされた。でも、それでも…扉は開かない。
室内に明かりはついていないから、もしかしたら本当にいないのかもしれない。でも、こんな時間にガトーがいないなんてこと、これまであっただろうか…。
それからしばらく待ってみても、やはりガトーは戻ってこない。やがて、私はトボトボともと来た道を歩きはじめる。
でも、やはり私は諦めきれていないようで、私の足はもと来た道から徐々に右側にそれていく。
こっちに向かえば、私のお気に入りだった場所がある。夜に行くような場所ではないが、もしかしたら、もしかしたら本当にそこにいるかもしれない。ガトーは外に出ることがあまり得意ではなかったが、そこには時々付き合ってくれた。
柔らかく生えた草の上に二人で寝転がって、ただ青い空を見つめるのだ。そして、気が向いたらとりとめもないことをだらだらと話す。喉が渇いたら、近くの綺麗な湖に水を汲みに行って、二人でじゃれあうように水をかけあって…。
あそこには、ガトーとの暮らしで一番キラキラした思い出が詰まっている。本当に、夢みたいに優しくて甘い記憶が___
「…どこに行くの?__帰り道は、こっちだよ」
森の中で静かに響いた声に、私は足を止めた。