希望が見えて来たんじゃない? その7
「しゅ、師匠が……そんな……」
何が起こった。
俺は何をしてしまったというのだ。
トリシャにこれだけ手痛い一撃を加えた物だというのに、何の候補も浮かばないとは。
今まで生きてきた中で、こんなに失望されたのは初めてだ。
トリシャは、トリシャだけは俺の才知を理解してくれていると思っていたのに。
パラガスめ、己の暗愚なるを誇っているわけではあるまいに、貴様首を横に振る以外の答えを持ち合わせていないのか。
冷え切った背中を辛辣に汗が伝い、骨までも引き裂かれる心持だ。
「け、K。-には『引く』ホカにも、もも、いくつか意味があるでオジャル」
トリシャはレクチオを再開した。
明らかに処理落ちしたまま、何事もなかったかのように。
「この場合の-pは、『pから』、x-pなら、『pからxまで』、yにも-qが付いているユエ、(p,q)から放物線上の(x,y)を見た場合のき、規則性を式にしているのでオジャル」
ベクトルでまた出てくるユエ、ユメユメ忘れタモウコトナカレ。
「ああ、-は『から』ですか! そういう事だったんですね!」
位置ベクトルを習う前にその解釈を知っていれば良かったのですが。
八汐さんの反応を見るに、ベクトルの単元でこそ実感する概念なのだろう。
Kとパラガスは理解できないまま実のない相槌を打っている。
凡人共はそれでもよかろうが、俺は、俺だけは気付いているべきではなかったのか。
トリシャのような直観が――
いや、違う。そんなのは間違っている。
数学は論理に基づく営為だ。
勘やセンスといった、曖昧模糊で不確実な材料に頼るのは無責任なギャンブルに過ぎない!
「し、師匠、カリキュラム、カリキュラムのせいでオジャル!」
日本の数学が問題を解くことに時間を使い過ぎて、単元を進めないことこそ諸悪の根源。
厳かな吹雪の中、生ぬるい気休めは妙に白々しく聞こえる。
物々しい音と共に足元が大きく揺らぎ、俺は流氷に手を突いた。
亀裂が見る見る広がっているというのに、立ち上がることさえ出来ない。
「そんなに悲観するなよ。正解に囚われないのが、お前の――」
兄貴め、何を笑っている。
何を、言っているんだ。
吹雪に遮られ、二人の輪郭が次第に小さく、灰色に溶けてゆく。
待て、待ってくれ。
なんで行っちゃうんだ、行かないで――
「兄ちゃん!」
いつの間にか、板張りの天井を見上げている。
随分とナンセンスな夢だったな。
起き上がって見渡すも、ここはどう見ても俺の部屋ではない。
細長い和室をどこかで見た覚えがあるのだが、思い出すより先に奥の襖が音を立てた。
「マッシュ、大丈夫?」
パラガスと八汐さんの顔が、なぜか縦に並んでいる。
「急に叫ぶから何事かと思いましたよ」
K達の邪魔をしないようにと小声で言いつけられ、漸く何をしていたのか思い出した。
然るにここはトリシャのマンションか。
俺が見たのは現実ではなく、劇場版に出て来た部屋だったというわけだ。
「パラガス、今……何時だ」
5時半過ぎと聞かされて窓を見やると、なるほど確かに障子が山吹色に染まっている。
タオルケットを畳み、俺はゆっくりと立ち上がった。
「八汐さんにも、ご迷惑おかけしました」
Kの勉強はどこまで進んだのだろうか。
トリシャの声を聞くに、Kはまだ粘っているらしい。
テーブルの上が散らかっているからか、二人はリビングからダイニングに場所を移している。
「だから逆にa^5-1をa-1で割ると……」
そんなことをして何になるというのだ。
式変形を繰り返したところで、答えに近づかなければジャグリングと変わらない。
「この右っ側の分やな」
Kには疑問を抱くだけの知恵もなく、寄り道に付き合っている。
聞こえぬ程度に溜息をつき、俺は上からノートを覗き込んだ。
「そうそう、この1+a+a^2+a^3+a^4、本当に使い道があるのはこっちでオジャル」
このどんどんa倍されていく数の集まりが等比数列でオジャル。
等比数列?
まだ習っていない範囲か? そもそも高校数学に含まれるのか?
「パティ、あまり脱線し過ぎると前に進まなくなりますよ」
おのれ、年の功だけで利口な風を装いやがって!
俺が臍を噛んでいる目の前で、トリシャはその八汐さんを難なく退けた。
「知識は理解を妨げるものに非ず、理解と記憶を助けるものにオジャル」
これがフランスの、いや、トリシャさんの水準か。
パラガスは雑学か何かと勘違いして間抜けな間投詞を連発しているが、これは数学である。
今まで俺達が習ってきた物は、ままごとに過ぎなかったのだ。
だが、Kには分からずとも、パラガスには分からずとも、トリシャさんに分かるものが俺に分からない訳がない。
一般式と問題のパターンさえ覚えてしまえば、俺にも必ず対処できる。
「トリシャ、マッシュの目も覚めたみたいだから、今日はこれくらいでお開きにしようか」
俺が気絶している間に基本的な因数分解の問題をガイドしながら一通り解かせたという話だ。
Kが自力で再現できるまでは、トリシャが教えた手順を見ながら黄チャートを反復練習させるのだという。
それが真面目に出来るようならそれこそ赤点などとる筈がないのだが、果たして合宿がどこまでモチベーションに繋がるものか。
俺はリビングに戻り、自分のリュックを拾い上げた。
「いや」
待てよ。
そもそも合宿を企画したのは八汐さんである。
何が悲しくてそんな罰ゲームを受けるために――
「そうですね……剣道の合宿とは勝手が違うでしょうし、座学と同じなら集まっても逆効果かもしれません」
普段お店でしているスパーリングや意見交換の機会を増やせると思ったのですが。
ふ、振り返ることさえできない。
こんなに鋭利な殺気を放つ人間が……いや、これが本当に人間の放つ殺気なのか?
背中を濡らしているのは、傷口から滴り落ちた鮮血ではあるまいな。
「いえ、そんな、まさか……決してそんな、そういう意味では……」
何かを言わなければならないというのに、言葉が文章にならないどころか、肺から空気が漏れて碌に声が出ない。
吐け、吐くんだ。
カードゲーマーたるもの、いかなる窮地にあっても泰然としていなければならぬ。
カードゲーマーたるもの、いかなる時も万が一への備えを欠かしてはならぬ。
そう、うっかり口を滑らせたのが俺以外の誰かだった可能性もあるではないか。
例えばKとか!
思い切ってリビングを振り返ると、猛禽の鈎爪が俺の肩を捕らえた。
「そうですか。分かって頂けたなら良いのです。同志武志、力を合わせて頑張りましょう。我々の共通の目標のために」




