第8話 運命の初陣 【2028年6月・阪神競馬場】
矢崎厩舎の朝は早い。
夜明け前から厩務員が動き始めて、馬の息と藁の匂いが混じった空気が厩舎の間を流れる。その中を、駿はエナジードリンクを片手にぶらぶら歩いていた。
橋本がフルークの馬房の前に立って、腕を組んでいた。
「どうですか」と駿は声をかけた。
「静かっすよ」と橋本は言った。「今日のこいつ、静かなんです」
「静かなのは」
「いつもと違う。ゲート試験の時もおとなしかったし、調教でも嘶くのに、今日は一回も鳴いてない」
駿は馬房の中を覗いた。フルークは奥の方で、どこか遠い場所を見ていた。怒っていない。怖がってもいない。ただ、静かに何かを待っている顔だった。
チートのUIが起動する。気性パラメータの波形が——いつもと違う。乱高下していない。一本の線みたいに、凪いでいる。
「機嫌いいですね」と駿は言った。
橋本が振り返った。「機嫌いいっていう顔ですか、これ」
「走れるってわかってる顔だと思います」
橋本はもう一度フルークを見た。それから駿を見た。それ以上何も言わなかった。
矢崎が厩舎の奥から歩いてきた。
「天海さん、もう来てたんですか。早いですねえ、ハハッ」
「眠れなかったので」
「そうですか」矢崎は馬房の前で立ち止まって、フルークを見た。笑顔が、すっと消えた。馬を見る顔になった。「……今日のこいつ、いい顔してますね」
「橋本さんもそう言ってました」
「橋本、こいつが静かな時は気をつけろよ。溜め込んでる時だから」
「わかってます」と橋本は言った。「でも今日は溜め込んでる感じじゃないです。なんか……スイッチ入る前みたいな」
矢崎がハハッと笑った。「そうだな。そうかもしれない」
澪が小走りでやってきた。タブレットを抱えたまま、息が少し上がっている。
「天海さん、もう馬房にいるんですか。朝5時ですよ」
「眠れなかったんです」
「私もです」澪はタブレットに何かを打ち込んでから、フルークを見た。「……今日のフルーク、なんか違いますね」
「みんなそう言う」と駿は言った。
「何が違うんですか」
「説明できないですけど」駿はエナジードリンクを一口飲んだ。「たぶん準備ができてる」
澪は「準備」とタブレットに打ち込んでから、消した。
ーーーー
阪神競馬場のパドックは、六月の昼前の光の中にあった。
馬主専用の通用門から入ると、受付を済ませてすぐにパドックに出られる。馬がぐるりと周回する円形の空間を、観客が柵越しに眺めている。この時期の阪神は夏の入口で、空気がすでに少し湿っている。
フルークが入ってきた瞬間、スタンドの一部がざわついた。
いい意味ではなかった。
「あの芦毛か」「ドンナーハルト産駒? そんなの見たことないな」「9番人気でしょ。なんで神宮豊が乗るの」
声が聞こえた。澪の眉間に、わずかに皺が寄った。
駿は聞こえていた。でも顔色が変わらない。
パドックの中で、フルークは相変わらず首を振っていた。引き手を持つ橋本が「こら」と小声で言いながらついていく。でも今日の暴れ方は違った。何かに怒っているんじゃなくて、早く走りたくて仕方ないという感じの、もどかしさみたいなものだった。
矢崎が駿の隣に来た。
「神宮さん、もうすぐ出てきます」
「はい」
「天海さん」矢崎は少し声を落とした。「今日のこいつ、たぶんやります」
「わかってます」
「わかってるんですか」
「なんとなくですけど」
矢崎はハハッと笑った。でも今日の笑い方は、いつもより静かだった。
神宮豊が出てきた。
騎手服の白と青。小柄な体で、でも歩き方に独特の静けさがある。周囲がざわついている中で、神宮だけが別の空気を纏っていた。フルークの前に来て、一瞬だけ目が合った。
フルークが、止まった。
首の振りが止まった。橋本が「え」という顔をした。
神宮が低い声で何か言った。言葉は聞こえなかった。フルークは神宮を見たまま、しばらく動かなかった。それからゆっくりと鼻を近づけて、神宮の肩に顔を押し付けた。
「……なんですかあれ」と澪が言った。
「馬が人を選んでる」と駿は言った。
「馬が、人を」
「正確には、もう選んでるってわかった顔かな」
澪はそれをタブレットに打ち込もうとして、やめた。
神宮が振り返って、駿を見た。何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
駿も頷いた。
矢崎が「さあ、スタンドへ」と言った。
ーーーー
馬主席は5階にある。
コースが一望できる。直線が長い。阪神の外回りは、4コーナーから直線に向いてからが長くて、最後の200メートルだけ急な上り坂がある。追い込み馬には向いているコースだと大和に教わったのを、駿は思い出した。
澪がタブレットでオッズを確認していた。
「8番ヴァイスフルーク、単勝 41,000円です」
「そうですか」
「悔しくないんですか、9番人気」
「全然」
「……天海さん、もしかして馬券、買いましたか」
「少し」
「いくら」
「ナイショです」
澪は何かを言いかけて、やめた。タブレットにオッズの画面を出したまま、コースの方を見た。
矢崎がスタンドの手すりに両手をついて、静かに立っていた。
ーーーー
16頭がゲートに収まっていく。
8番ヴァイスフルークが入った。ゲート試験の修羅場が嘘のように、すんなりと。
スタンドのどこかで「神宮豊がゲートで手こずるかと思ったのに」という声が聞こえた。
発走。
出た——出遅れた。
ひとつ、ふたつ、後ろに下がっていく。16頭が前へ行く中で、8番だけが後ろへ。最後方。大外を走らせながら、神宮豊は手綱を動かさない。馬なりのまま、流れを見ている。
場野哲の実況が静かに始まった。
「スタート、各馬一斉に。3番キングズクレスト先頭に立って、内から9番フラッシュリバー、4番シルヴァートレイル——大外、8番ヴァイスフルーク、後方からのスタートです。後方、最後方、ヴァイスフルーク——神宮豊、まだ動かない」
1コーナー、2コーナー。向こう正面。
ペースは遅い。先頭のキングズクレストがゆったり引っ張る展開。スタンドのざわめきがおさまって、静かな観戦になっていた。大きなレースではない。2歳の新馬戦だ。関心の薄い観客も多い。
でも駿は、コースだけを見ていた。
「神宮さん、まだ動かないですね」と澪が言った。
「動かない」
「いつ動くんですか」
「直線だけでいいから」
澪は何も言わなかった。
3コーナー。4コーナー。
先頭のキングズクレストが手応えよく回ってくる。フラッシュリバーが外から並びかける。前の集団がいよいよ脚を使い始めた。
ヴァイスフルーク、まだ最後方。
場野の声のトーンが、わずかに変わった。
「4コーナー、先頭キングズクレスト、楽な手応えで直線へ——内からフラッシュリバー、シルヴァートレイルも来る。さあ、大外——ヴァイスフルーク、ここで神宮豊が追い出した!」
スタンドが、一瞬、静かになった。
来る。
大外から——来る。
15頭が前にいる。直線の長さは474メートル。残り200メートルのところに急な上り坂。どう計算しても間に合わない。そういう位置取りだった。それでも——
「外から、外から来た! ヴァイスフルーク、来る、来る——!」
芦毛の馬体が、前の馬を一頭、また一頭、まとめて飲み込んでいく。脚の回転が違う。坂に入っても、止まらない。坂の手前で止まるはずの脚が、坂に入って更に伸びた。
「とらえた、とらえた——」
キングズクレストの頭が、並んで、抜けた。
「とらえました!」
ゴール板。
スタンドが静まり、次の瞬間、どよめきに変わった。「なんだ今の」「ワープしたぞ」「あれ、9番人気だろ」という声が重なって、阪神競馬場の空気が変わった。
場野哲が、一拍置いてから、静かに言った。
「——これが、ドイツ重戦車の、本当の脚だ。ヴァイスフルーク!」
澪がタブレットを胸に抱えたまま、固まっていた。
ーーーー
神宮豊は、ゴール板を過ぎても手綱を持て余していた。
フルークが止まらない。走り足りない。まだ行けると言っている。返し馬でようやくペースを落として、神宮は馬の首筋を一度だけ叩いた。
誰も見ていないところで、神宮は空を仰いだ。
——この脚で、あのコースを走ったら。
まだ口には出さなかった。でも、胸の中で火がついたのを、自分でわかった。消えかけていた火が、今日、またついた。
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ウイナーズサークルへの通路で、澪がタブレットを開いた。払い戻しの画面を出して、数字を見て、もう一度見た。
「天海さん」
「はい」
「3連単、8→3→9、1,847,300円って書いてあるんですけど」
「そうですね」
「これ、馬券ですよね」
「そうですよ」
「……天海さんが買ってた『少し』って、何枚ですか」
「ナイショです」
矢崎がハハッと笑った。「天海さん、馬主が自分の馬で馬券買うのはいいんですけど、それで当てちゃう人、なかなかいませんよ!ハハッ!」
「そうなんですか」
「そうなんです! ハハッ!」
ウイナーズサークルに、芦毛の馬が引き入れられてきた。フルークは相変わらず首を振っていたが、その目はどこか満足そうだった。
神宮豊が馬から降りて、駿の前に来た。
「天海さん」
「はい」
神宮は少しだけ間を置いた。
「この馬、もっと遠くへ行けます」
駿は笑った。「知ってます」
神宮も、静かに笑った。




