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血統の創造主 〜神の眼を持つ元廃人が、産廃血統で世界を塗り替える〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
誰も歩かなかった道

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第22話 東京優駿 【2029年5月・日本ダービー】



 府中の空は、高かった。


 五月の東京競馬場。芝の匂いが風に乗ってくる。スタンドはもう満員で、遠くから見ると人の波が揺れている。駿は馬主エリアへの通路を歩きながら、なんか実感がないなと思った。今日がダービーだ。フルークがダービーを走る。それはわかってる。でもなんか、まだ現実感がない。


「天海さん」


 澪が隣を歩いていた。タブレットを抱えている。今日も。


「オッズ、出ました」


「はい」


「フルーク、2番人気です。単勝3.2倍」


「ソレイユノワールは」


「1番人気。1.4倍です」


 駿は「そうですか」と言った。ソレイユノワールが1.4倍か。皐月賞を圧勝したあの馬が1番人気で、牝馬で挑んでくるフルークが2番人気で3.2倍。世間の評価はそういうことだ。正直だと思う。まあ俺はフルークが勝つと思ってるけど、それはチートがあるからで、チートがなければ俺も迷ってたかもしれない。


「緊張してますか」と澪が聞いた。


「してます」


「してないでしょ」


「少しは」


 澪がため息をついた。三年近く一緒にいて、駿が「少しは」と言う時は本当に緊張している時だということを澪はもう知っている。今日は少し、緊張している。


ーーーー


 パドックに来ると、矢崎がいた。


 フルークが周回を始めていた。18頭の中で、芦毛は一頭だけだった。遠くからでもわかる。白く光っている。


「来ましたね」と矢崎が言った。


「はい」


「いい顔してますよ、今日のフルーク」


 駿は【神の相馬眼】でフルークを確認した。スピードSS、スタミナS、瞬発力SS。何も変わらない。でも気性パラメータが、今日だけ違う色をしていた。橙色でも赤でもない。もっと深い、静かな色だ。燃えているのに落ち着いている。怒っていない。怖がってもいない。ただ、走る準備ができている。こんな色、初めて見た。


 神宮が来た。騎手服を着て、静かな顔をしていた。パドックのフルークを一目見て、少しだけ目を細めた。それだけだった。


「神宮さん」と矢崎が言った。「府中、任せましたよ」


「はい」と神宮は答えた。「矢崎先生、仕上げていただいてありがとうございます」


「ハハッ、フルークが強いだけです」


 二人が笑った。駿はその横で、フルークを見ていた。


 2400m。今まで走ったことのない距離。でも、大丈夫だ。チートがそう言っているんじゃない。この馬がそういう馬だから。


ーーーー


 5階の馬主エリアから、府中の直線が全部見えた。


 ゴール板の向こうに、525mの直線が伸びている。途中に坂がある。あの坂を越えて、さらに300m走ってゴールだ。阪神の外回りとも中山とも違う、府中だけのスケール。フルークはここを走ったことがない。でも神宮さんが乗っている。それで十分だ。


 澪がタブレットを閉じた。


 珍しいな、と駿は思った。澪がレース中にタブレットを閉じるのは、初めて見た気がする。


ーーーー


 ゲートが開いた。


「各馬一斉にスタートしました。先手を取ったのはミラージュライン、ハナを切って行きます。2番手にトーセンポラリス、3番手の外にソレイユノワール、ルミエール騎手は好位に付けました。そして——ヴァイスフルーク、最後方です。神宮豊騎手、今日も後ろからの競馬です」


 宮田正人の声が、府中のスタンドに響く。落ち着いている。情報を積み上げていく。


 最後方だ。2400mで最後方。世間からすれば無謀に見えるだろう。でも駿はにこにこしたまま双眼鏡を覗いていた。フルークの背中が見える。神宮さんが手綱を持て余している様子はない。フルークは動いていない。ただ、走っている。


「ペースはスローです。前半1000m通過、1:01.2。各馬折り合いがついています。ヴァイスフルーク、依然として最後方。18頭立ての18番手、後続と5馬身の差があります」


 5階で澪が「……5馬身」と呟いた。表情が硬い。


 駿は何も言わなかった。


ーーーー


「3コーナーを回ります。各馬、動き始めました。ソレイユノワール、ルミエール騎手、外に出して進出を開始しています。先頭のミラージュラインとの差を詰めてきた。ヴァイスフルーク——まだ動きません。神宮豊騎手、最後方のまま、3コーナーを通過していきます。さあ、どこから来るのか」


 動かない。


 駿は双眼鏡を握ったまま、フルークの背中だけを見ていた。18頭の一番後ろ。それでいい。府中の直線は525mある。坂がある。その先に300mある。全部合わせれば、十分だ。


「4コーナー。先頭はミラージュライン、2番手にソレイユノワール、ルミエール騎手が仕掛けた。直線に向きます。ヴァイスフルーク——さあ、神宮豊!」


 来た。


 駿の目に、芦毛の馬体が映った。4コーナーを大外から回って、一頭だけ角度が違う。弧を描いている他の馬と違って、フルークだけが最短距離で直線に向いている。神宮さんが進路を選んだのがわかった。最後方から大外、一気に直線へ。


「大外から来た! ヴァイスフルーク、大外一気! 神宮豊、動いた!」


ーーーー


 府中の直線を、白い馬が来た。


 残り460m。坂の手前。まだ後ろから数えた方が早い。でも脚色が、他の馬と全然違う。上がり馬がごぼう抜きにしていくあの感覚。加速が止まらない。


「外から、外から——! ヴァイスフルーク、坂を駆け上がる! ソレイユノワールに並びかけた!」


 並んだ。


 残り300m。坂の頂上。ソレイユノワールのルミエールが手綱を追っている。フルークの神宮は——まだ追っていない。手綱を抑えている。


「並んだ、並んだ——! さあ、ここからだ! ヴァイスフルーク、ソレイユノワール、二頭の叩き合い! 残り200——」


 残り200m。神宮が初めて手綱を動かした。


 フルークが、もう一段加速した。


「——とらえた、とらえた、とらえました!」


 ゴール板を過ぎた。


 宮田正人が、一瞬だけ黙った。


 それからゆっくりと、静かに言った。


「——牝馬が、ダービーを制しました。ウオッカ以来、22年ぶりの快挙。ヴァイスフルーク——府中に、歴史が刻まれた!!」


 スタンドが割れた。


ーーーー


 澪が、双眼鏡を下ろした。


 下ろして、そのまま動かなかった。タブレットも持っていない。ただ、前を見ていた。目が赤い。泣いてはいない。でも泣く一歩手前の顔をしていた。


 駿はそれを横目で見て、また正面を向いた。


 フルークが手綱を引かれながら、ゴール板の先を走っている。白い馬体が、五月の府中の空の下で光っている。


 2026年の夏、誰も手を上げなかった競り台で「1,000万」と言ったあの日から、ここまで来た。長かったな、と思った。長かったけど楽しかった。これからもきっと楽しいだろうなぁ。


「……天海さん」


 澪が言った。声が少し震えていた。


「はい」


「……これ、報告書、どう書けばいいんですか」


 駿は笑った。今日一番笑った。


ーーーー


 ウイナーズサークルへの通路で、矢崎がいた。目が赤かった。笑っているのに、目だけが赤かった。


「ハハッ……! 天海さん! やりましたよ!」


「矢崎さんのおかげです」


「フルークが強いだけです!」


 矢崎は大きく笑って、それから黙った。言葉が続かなかった。それでいいと思った。


 神宮がフルークから降りてきた。いつも通り、静かな顔をしていた。矢崎が歩み寄った。


「神宮さん——」


「矢崎先生の仕上げが良かったです」と神宮は言った。


「そんなことない。あなたが乗ったから勝てた馬です」


「フルークが強かっただけです」


 三人で笑った。さっきも同じ台詞を言っていた気がする。でもそれでいい。全員が本当のことを言っている。


 駿はフルークに近づいた。白い馬体を手で触れた。フルークは首を一度振ってから、じっとしていた。今日はおとなしい。疲れているのか、満足しているのか。たぶん両方だ。


「よくやった」と駿は言った。声に出して言った。フルークに向かって。


 フルークは何も言わなかった。当たり前だけど、でもちょっと耳が動いている。


ーーーー


 神宮は少し離れたところに立っていた。


 ウイナーズサークルの喧騒の少し外で、一人でフルークを見ていた。今日のレースを頭の中で反芻しているのか、あるいは何かを考えているのか、表情からはわからなかった。


 駿が隣に来た。


「神宮さん」


「……はい」


「ありがとうございました」


 神宮はフルークから目を離さないまま、静かに言った。


「……この馬は、まだ終わっていない」


 それだけだった。


 でも駿には十分だった。神宮さんが言う「まだ終わっていない」の意味は、駿だけが知っている。口にはしない。でも、二人の間でそれは確かに存在していた。


ーーーー


 エデンの事務所では、テレビの前に鉄路と大和が並んでいた。


 ゴールの瞬間、大和がストップウォッチを落とした。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


「……上がり」と大和がようやく言った。「33.1秒」


「そうですか」


「2400mを最後方から来て……33.1。府中の坂込みで」


 鉄路は何も言わなかった。


 大和がストップウォッチを拾って、また画面を見た。リプレイが流れている。芦毛の馬体が大外から来る映像が、また流れている。


「……これ、本当に起きたことですよね」


「そうですね」


「夢じゃないですよね」


「夢じゃないです」


 大和はしばらく画面を見てから、ストップウォッチを机に置いた。


「……忙しくなりますね」


「そうですね」と鉄路は言った。


 窓の外に、日高の夕暮れが広がっていた。


ーーーー


 競馬場の貴賓室に近い観客席の一角で、白河統馬はレースが終わってからも動かなかった。


 周囲はまだ興奮しているのに、白河だけが静かだった。いつもの穏やかな笑顔が、今日だけない。あるのは——何もない顔だ。


 隣の関係者が「いやあ、まさか牝馬がダービーを」と言った。白河は頷かなかった。


 しばらくして、白河は小さく言った。


「……怖い馬だ」


 それきり、何も言わなかった。

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