第21話 ダービーへ 【2029年4月下旬〜5月】
桜花賞から数日が経った。
栗東の朝は穏やかで、矢崎厩舎の前には四月の陽光がゆっくりと伸びていた。
当のフルークはといえば、もう次の仕事を始めている。馬房を覗くと、いつもと変わらない惚けた顔で飼葉を食っていた。こいつはレースが終わった翌日から、もう次の舞台のことでも考えているのだろうか。――いや、たぶん何も考えていないな、と駿は思う。そういう馬だ。
「天海さん」
いつの間にか隣に立っていた澪が、タブレットを胸に抱えたまま声をかけてきた。
「取材依頼、今日だけで十四件来てます」
「……全部、断ってもいいですか?」
「とっくに断ってます」
「ありがとうございます」
「感謝するなら、せめて確認してから言ってください」
澪は手慣れた手つきでタブレットに何かを打ち込んだ。断る作業が、すっかり板についてきている。
最初の頃は一件ごとに確認を取っていた彼女の中に、今では「この手の依頼は弾く」という明確な基準が出来上がっていた。駿に確認するまでもなく、彼女自身の判断で動いている。それが嬉しいのか、それとも彼女の判断基準がこの厩舎に染まりつつあるのが怖いのか、駿にはよくわからなかった。たぶん、両方だ。
厩舎の奥から、調教を終えた神宮豊が歩いてきた。
「今日の具合、どうでした?」
出迎えた矢崎の問いに、神宮は歩みを止めずに短く応じる。
「問題ないですね。距離は、たぶん持ちます」
「そうですか」
「東京の2400は、マイルとはまるで違う競馬になります。でも……あの馬なら、走りながら自分で勝手に覚えていくと思いますよ」
矢崎が「ハハッ」と愉快そうに笑った。
「神宮さんがそう言うなら、信じるしかありませんね」
二人のやり取りを背中で聞きながら、駿はフルークを見つめていた。
視界の端でチートを起動し、パラメータを確認する。
【スピード:SS / スタミナ:S / 瞬発力:SS】
数字は何も変わっていない。だが、スタミナSで府中の2400メートルを走り切れるのかという現実的な問いに、チートは答えをくれない。距離適性の欄に『1600m〜2500m』と無機質な文字列が出ているだけだ。
なら、その数字を信じて、あとは神宮さんと矢崎さんにすべてを委ねる。それだけだ。
今だ、と駿は思った。
「神宮さん」
呼びかけると、神宮が足を止めて振り返った。
「ダービー、よろしくお願いします」
ちゃんとした言葉にして、伝えたかった。ウイナーズサークルで矢崎さんへの宣言は口にできたし、隣にいた神宮さんにも聞こえていたはずだ。あの時、彼はフルークの耳を黙って撫でていた。けれど、彼自身に直接言葉を届けていなかったことだけが、ずっと胸に引っかかっていた。
神宮は、じっと駿の目を凝視した。
「……わかりました」
一言だけそう告げて、再び前を向いて歩き出す。男の約束としては、それで十分すぎた。
「じゃあ、決まりですね」
矢崎が弾んだ声で空気を切り替える。
「ハハッ、府中の2400ですよ。いやあ、楽しみですねえ!」
(楽しみですね)
駿も心の底からそう同意していた。本当に、胸の高鳴りが抑えきれなかった。
ーーー
その翌日、澪が怪訝そうな顔でタブレットを差し出してきた。
「天海さん、皐月賞の結果、もう見ました?」
「あ、まだです」
「星台の馬が勝ちましたよ」
受け取った画面には、レース結果の確定ページが開かれていた。
【1着――ソレイユノワール(牡) 騎手:ルミエール 単勝1.4倍】
駿は画面の文字を追破しながら、【神の相馬眼】の意識を集中させた。流石に写真越しでは正確な数値化は無理だが、レース映像の残像から、その輪郭が粗く浮かび上がってくる。
(――強いな。本物だ)
スピードはSSに限りなく近い。スタミナも申し分ない。フルークが正面からぶつかり合って、互角以上に渡り合える相手――現時点で、唯一視界に捉えた『壁』だった。
「……どうですか?」
覗き込んできた澪の視線に、駿は息を吐く。
「強い馬ですね」
「緊張、しないんですか?」
「一応、してますよ」
「嘘。全然してない顔です」
否定するのも難しかったので、駿はただ苦笑いを返した。少しだけ不安そうに見える彼女を安心させるように、言葉を足す。
「でも、うちには神宮さんがいますから」
「……それ、何の根拠になるんですか?」
「私の中では、最大の」
澪は小さいため息をつき、駿の手からタブレットを回収した。何か言いたげに微かに動いた唇は、結局、何も紡がないまま結ばれた。
ーーー
「――このタイミングで、ですか?」
日高へ行くと告げた翌朝、案の定、澪は呆れたような声を上げた。
「フルークのことは矢崎さんと神宮さんに任せてありますから」
「それはそうですけど、ダービーまであと一ヶ月なんですよ?」
「甲斐田さんのところに、どうしても顔を出したくて」
澪の手が止まり、タブレットから顔が上がる。
「甲斐田さんって……あの、ナハトムジークの?」
「そうです。生まれてから一度も、会いに行けてなかったので」
澪はしばらくの間、値踏みするような視線で駿を見つめ、それから諦めたように画面に目を落とした。
(この人は、いつもそうだ)
大事な局面の直前で、一番大事なことをしれっとやってのける。ダービーを控えたこの大一番の時期に、わざわざ日高まで仔馬に会いに行く理由を「顔を出したくて」の一言で片付けてしまう。
それがすべて計算なのか、それとも本気でそう思っているのか、三年近く近くにいても未だに掴めない。いや、たぶん本気なのだ。そこが、この天海駿という男の底知れない怖さだった。
「……わかりました。スケジュール調整します」
「ありがとうございます」
「感謝するなら、ちゃんと確認してから言ってください」
ーーー
甲斐田牧場に到着したのは、陽が少し傾き始めた昼過ぎだった。
先に来ていた鉄路が、牧場の入り口で手持ち無沙汰そうに空を見上げて待っていた。五月の日高は、驚くほど空が高い。
「源さん、お疲れ様です」
「天海さん。お疲れ様です」
「フルークの件で忙しい時期なのに、すみません。ありがとうございます」
「いえ」
駿は短く応じただけで、それ以上は何も言わなかった。
やがて、母屋から甲斐田が姿を現した。白髪を短く刈り込んだその背筋は、記憶にある通り真っ直ぐに伸びている。駿の姿を認めると、小さく顎を引いた。
「よく来てくれたな」
「ご無沙汰しています、甲斐田さん」
「……仔を、見ていくか」
「はい。それが目的ですから」
甲斐田の口元が、わずかに緩んだ。低く、静かな、彼らしい笑みだった。
ーーー
厩舎の最奥の馬房に、その青毛の仔馬はいた。
生後一ヶ月と少し。立ち上がる足取りには、まだ頼りなさが残っている。だが、くいっと小気味よく持ち上げられた首の角度には、明確な『自己』の主張があった。
フルークが当歳の頃、引き手を振り回して三村を振り回していたあの傲岸不遜な態度とは違う。もっと静かで、芯のある主張。けれど、確かにそこに「個」として存在している。
駿が足音を殺して近づくと、仔馬の大きな瞳がまっすぐにこちらを捉えた。怯えて逃げる素振りすら見せない。
駿は、そっとチートの視界を重ねた。
(――え?)
見えない。
何も、表示されないのだ。
フルークの時には即座に浮かび上がった【SS・S・SS】といった文字が、どこにもない。そこにはただ、空欄のままのブランクUIが静かに浮かんでいるだけだった。
けれど、それが――駿には、たまらなく愛おしく思えた。
「どうだ」
背後から甲斐田の声が鼓膜を叩く。
「いい馬ですね」
「何が良い」
「……わからないところが、最高です」
甲斐田は動きを止め、少しの間を置いてから、隣の鉄路に視線をやった。鉄路は何も言わず、ただ仔馬を見つめている。
「……相変わらず、風変わりな馬主だな」
「よく言われます」
ーーー
それからしばらくの間、三人は無言で仔馬を眺めていた。甲斐田も鉄路も、あえて沈黙を破ろうとはしない。心地よい風が厩舎を吹き抜け、仔馬の柔らかい前髪を優しく揺らした。
「名前、もう決めてもいいですか?」
駿の言葉に、甲斐田は前を向いたまま応じる。
「お前さんの馬だ。好きにしろ」
「――『トロイメライ』」
その響きに、鉄路が微かに眉を動かした。
「……どういう意味です?」
「ロベルト・シューマンの楽曲名です。ドイツ語で、意味は『夢』」
鉄路は、その言葉を頭の中で反芻した。
母の名はナハトムジーク――夜の音楽。その血を引く仔が、夢。
音楽の系譜が、美しい一本の線で繋がっていく。
それだけではない。この仔の父はタニノフランケル。さらにその母を辿れば、あのウオッカに行き着く。
鉄路は口を開かなかったが、駿がそこまで血統のドラマを見据えて名付けたのかどうか、あえて確かめる必要も感じなかった。確かめなくていい。この男の直感は、いつも真実を射抜いているのだから。
「いい名前だ」
甲斐田が、低く短く、噛み締めるように言った。
「トロイメライ」
駿は仔馬の顔を見つめたまま、もう一度その名を呟いた。当の仔馬は、耳をパタパタと動かすだけで特に興味なさそうだ。自分の名前なんて、まだ理解できるはずもない。
それでいい。これから、この世界で少しずつ覚えていけばいいのだから。
ーーー
帰り道の車内、鉄路が握るハンドルの駆動音だけが静かに響いていた。助手席の駿は、流れていく車窓の外の景色をぼんやりと眺めている。日高の直線道路はどこまでも真っ直ぐで、緑鮮やかな牧草地が地平線まで続いていた。
長い沈黙が心地よく流れる。
「源さん」
「はい」
「ダービー、楽しみですね」
鉄路は、すぐには答えなかった。
東の府中では来月、フルークが2400メートルの頂点に挑む。
そして北の日高では今日、あの青毛の牡馬に新しい名前がついた。
フルークが桜の女王に輝いたその日に産声を上げたこの仔が、実際にターフを駆けるのは、早くても再来年の夏だ。
その頃、フルークは一体どこまで上り詰めているだろう。鉄路には想像もつかない。
ただ、なんとなく――止まってはいないだろうな、という確信だけがあった。この天海駿という男が歩みを止めない限り、あの馬も、彼らの物語も、決して止まらない。
「……そうですね」
鉄路は前を見据えたまま、静かに、けれど深く頷いた。
フロントガラスの向こうには、どこまでも高い五月の青空が広がっていた。




