第11話 星と飛翔 【2028年10月 アルテミスS】
東京競馬場のパドックは、阪神とは違う雰囲気がある。
スタンドから見下ろす構造で、馬が一頭一頭よく見える。澪はそれを新馬戦の時と比べながら、ぼんやり思っていた。あの時は阪神で、フルークがパドックに入ってきた瞬間に「あの安馬か」という声が聞こえた。今日はどうだろう。
フルークが入ってきた。
相変わらず首を振っている。引き手を持つ橋本が「こら」と小声で言いながらついていく。でも今日の目は新馬戦と同じだった。静かな目。納得した顔。走る準備ができている馬の顔。
それから3番がパドックに入ってきた瞬間、空気が変わった。
シュテルンリヒト。
鹿毛の牝馬。馬体の完成度が違う。脚の使い方が違う。ただ歩いているだけなのに、観客の視線がそっちに集まっていくのがわかった。2億2000万円というのはこういう見た目をしているんだと、澪は思った。
「……きれいな馬ですね」
思わず言ったら、矢崎が隣で「そうですね」と静かに言った。いつものハハッがなかった。
駿はシュテルンリヒトを見ていた。それからフルークを見た。また向こうを見た。何かを確かめているような目だったが、その顔はどこか楽しそうだった。
ルミエールが騎乗してきた。
場がわずかに静まった。この人が乗ると空気が変わる、というのは競馬を知らない澪にもわかった。パドックを一周するシュテルンリヒトの上で、ルミエールはただ静かに座っていた。
神宮豊と目が合った。一瞬だけ。二人とも何も言わなかった。でもその一瞬に何かがあった気がして、澪はスマホを取り出すのを忘れた。
神宮がフルークに跨がる前、駿の隣に来た。
「今日は向こうのペースになりますよ。ルミエールが好位から運ぶ」
「神宮さん」と駿は言った。
「はい」
「今日のレース、すごく楽しみにしてたんです。本当に」
神宮は少しだけ間を置いた。それから、小さく笑った。
「そうですか」
それだけ言って馬場へ向かった。その背中を見ながら、澪は思った。この人たちの会話、なんかいつも半分くらい別の話をしている気がする。
矢崎が「さあ、馬主席へ」と言った。
ーーーー
東京の直線は525メートルある。
阪神の外回りより50メートル長い。その50メートルが何を意味するか、澪はまだ数字でしか理解していなかった。
10頭がゲートに収まっていく。3番シュテルンリヒトが入った。ルミエールが静かに馬を宥めている。2番ヴァイスフルークが入った。今日もすんなりと。
発走。
シュテルンリヒトが好位につけた。3番手、内ラチ沿い。ルミエールが折り合いをつけながら運んでいる。ミドルペース。前が速くない。これは差し馬には向かない展開だと澪でもわかった。
フルークは最後方。
宮田正人の実況が静かに積み上がっていく。
「3番シュテルンリヒト、好位3番手、ルミエール騎手、折り合いをつけながら——2番ヴァイスフルーク、後方、最後方、神宮豊、動かない——」
向こう正面。ペースが上がらない。シュテルンリヒトが前を射程に入れながら構えている。フルークはまだ最後方で、神宮が手綱を抑えている。
駿はペットボトルを持ったまま、コースだけを見ていた。澪はその横顔を一瞬だけ見た。楽しそうだった。本当に楽しそうだった。なんでこの状況で、と思ったけど、この人はいつもそうだと思い直した。
4コーナー。
ルミエールが動いた。シュテルンリヒトが先頭に並びかける。スムーズに、無駄なく、計算通りに動いている騎手の動きだった。直線を向いた時には先頭に立っていた。
「シュテルンリヒト先頭、ルミエール、完璧な手応えで直線へ——後方、2番ヴァイスフルーク、ここで神宮豊が追い出した!」
来る。
大外から来る。
でも遠い。残り400m、まだ6馬身ある。シュテルンリヒトが粘っている。ルミエールの手綱がリズムよく動いている。あの馬は止まらない、止まれるわけがない——そう思った瞬間に。
「外から、外から——来る、来る——!」
差が縮まっていく。縮まっていくのに、まだ届かない。残り200m。まだ2馬身。
「届くのか——届くのか、ヴァイスフルーク——!」
残り100m。半馬身。
シュテルンリヒトが、わずかに首を上げた。
その瞬間だった。
「とらえた——とらえました!」
ゴール板。
宮田正人が、低く、重く、言った。
「——府中の直線が、零細の血を本物に変えた。ヴァイスフルーク!!」
スタンドがどよめいた。
ーーーー
ウイナーズサークルへの通路で、ルミエールがフルークの横を通った。
立ち止まって、一瞬だけ見た。フルークの目を。フルークも見た。
ルミエールは何も言わなかった。でも口元が、ほんのわずかに動いた。言葉にはならなかった。それだけだった。
神宮が馬から降りて、駿の前に来た。少し息が上がっていた。レース中は手綱を動かし続けていたから当然だけど、それでもこの人が息を乱しているのを見るのは初めてで、澪は少し驚いた。
「天海さん」
「はい」
神宮は少し迷うような顔をした。それから、ただ一言だけ言った。
「……もっと、遠くへ」
駿は笑わなかった。珍しく、笑わなかった。
「神宮さんと一緒に行きたいですね」
神宮は何も言えなかった。少しの間、駿を見ていた。それからゆっくり頷いた。一回だけ。
ーーーー
エデンのスタッフルームで、鉄路と大和がテレビの前にいた。
レースが終わってから、大和はずっとノートパソコンを見ていた。タイムを確認して、ラップを確認して、シュテルンリヒトの数字と並べて、また確認して。
「どうですか」と鉄路が言った。
「シュテルンリヒトの上がりが33.8です」大和は画面から目を離さずに言った。「ミドルペースで好位から運んで、直線で完璧に仕掛けて、33.8。この馬は強い。データ的には現時点の2歳牝馬でトップレベルです」
「フルークは」
「32.2」
鉄路はコーヒーを一口飲んだ。
「最後方から、ですね」
「最後方から、です」大和はようやく顔を上げた。「しかも……まだ余裕があった。神宮騎手が最後まで追い切っていない。33秒台が出せる馬を32.2で差し切ってる」
沈黙があった。
「JFが」大和は静かに言った。「怖くなってきました」
鉄路は「はぁ」と言った。
窓の外に日高の夜が来ていた。




