第10話 次の一手 【2028年夏・新馬戦後】
澪がスマホを持ったまま事務所に入ってきた時、駿はソファに寝転がってエナジードリンクを飲んでいた。パソコンの画面では新馬戦の映像が流れている。たぶん今日だけで何十回目かだ。生産的かどうかと言われると微妙なラインだけど、本人は全く気にしていない。
「矢崎先生から、次走の相談をしたいって」
「ですね。僕もそろそろ連絡しようと思ってたとこです」
「……いつから」
「新馬戦の直線入った瞬間くらいから、なんとなく」
澪は一瞬止まった。直線入った瞬間ってフルークまだ最後方だったよね。なんとなく、じゃないでしょそれ。でもこの人に「なんとなく」の根拠を聞いても「なんとなくです」しか返ってこないのは二年で学習済みなので黙っておく。
「折り返しますか」
「直接行きましょう。フルークの顔も見たいし」
「今日ですか」
「今日がいいです」
今日の予定が三つある。全部リスケできないことはないけど、この人は一回「行きましょう」と言ったら絶対行く。わかった、と言う前にもうカレンダーアプリを開いていた。
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栗東の矢崎厩舎に着いたのは昼過ぎで、橋本が馬房の掃除をしていた。
「先生は奥にいます」
手を止めずに言った。それだけ言った。この人はいつもそれだけ言う。
矢崎は坂路の入り口の近くに立って、一頭の馬がゆっくり歩いているのを眺めていた。こっちが来ても振り返らない。馬を見てる時の矢崎はそういう人なのを駿はもう知っていたけど、澪はまだちょっとドキドキする。怒ってるわけじゃないのはわかってるけど。
「来ましたか。早いですねえ、ハハッ」
ようやく振り返った。
「電話より早い方がいいかと思いまして」
「それはそうだ。まあ立ち話もなんですから、中に入りましょうか」
事務所は調教のタイム表と馬の写真で壁が埋まっていた。インスタントのお茶が出てきた。澪はありがとうございます、と言って飲んだ。お茶の味はした。
「フルーク、今日の調教はどうでしたか」と駿が聞いた。
「いいですよ。新馬戦明けにしては落ち着いてる。橋本が言うには、納得してる顔だって」矢崎は椅子にどかりと座った。「あの馬、普段あれだけ暴れるのに、走った後は妙に静かになるんですよね」
「納得したんだと思います、たぶん」
「何に」
「走るのが自分の仕事だってことに」
矢崎はしばらく駿を見た。新馬戦の前と後で、この人の駿への返し方が変わったなと澪は思っている。笑いながら流すことが減って、一回咀嚼してから答えるようになった。駿はたぶん気づいていない。いつも通りエナジードリンクを飲みながら話しているから。
「……そうかもしれないですね」矢崎は言った。「次走の話をしましょうか。天海さんはどう考えてます」
「秋の2歳重賞に行きたいです。東京の芝1600m、10月の」
「アルテミスSですね」矢崎は腕を組んだ。「普通は一度叩いてから向かうローテーションなんですが」
「叩き台はいらないと思っています」
「なぜですか」
「あの馬、本番でしか本気出さない気がして。前哨戦を使ったら前哨戦の走りをするだけな気がするんですよね」
矢崎がちょっと笑った。
「神宮さんも似たようなことを言ってましたよ。あいつは競馬を知ってる、って」
「フルークがですか」
「そう。自分がどこで出し切ればいいか、わかってる馬だって」矢崎は腕を組んだまましばらく黙った。「……わかりました。アルテミスSで行きましょう。ただ一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「その判断、どこから来てるんですか。データですか、それとも勘ですか」
駿はエナジードリンクを置いた。
「見ればわかります」
矢崎はハハッと笑った。今度はいつもの大きな笑い方だった。「そうですか。まあそれでいい。私もそういう人間ですから」
澪はタブレットに「アルテミスS・東京・10月・1600m」と打ち込んだ。打ち込みながら思った。
「見ればわかります」で納得する世界がある。この業界の人たちはどうやらそういう生き物らしい。メモしておこう。あとで検索する。
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エデンに戻ったのは夕方で、鉄路が事務所で管理表を見ていた。
「アルテミスSに決まりました」と駿が言うと、「そうですか」とだけ言った。
「反対しないんですか」
「天海さんが決めたなら反対しません。ただ」鉄路はペンを置いた。「一つ報告があります。ノースフィールドが今年の2歳牝馬を一頭、アルテミスSに向けて動いているという話が入ってきました」
駿の顔が、少しだけ変わった。
「どんな馬ですか」
「父はキングカメハメハ系の新種牡馬、母は欧州のG1馬です。今年のセレクトセールで2億2000万円で落札されています」鉄路は淡々と続けた。「新馬戦を4馬身差で圧勝しています。現時点でこの世代の2歳牝馬では最高評価と見て間違いない。アルテミスSが本番なら、ぶつかる可能性は高い」
澪はとりあえず検索した。動画が出てきたので見た。
……4馬身差って、なに。
え、これフルークと戦うの。やべぇんだけど。天海さんが「全然」って顔してたのが急に怖くなってきた。フルークが強いのはわかってる、わかってるけど、相手2億2000万って何。フルークは1000万だよ。22倍だよ。数字の暴力すぎる。
「馬名は」と駿が言った。
「シュテルンリヒト。ドイツ語で、星の光、という意味だそうです」
沈黙があった。
澪はスマホを持ったまま、なんとなく「ヴァイスフルーク 意味」と打ち込んだ。白い飛翔、と出た。それからシュテルンリヒト。星の光。
向こうもドイツ語で来た。しかも星の光って、なんかかっこいい。
こっちは白い飛翔。白い飛翔の方がかっこいいと思うけど、それは贔屓目かもしれない。
「2億2000万ですか」駿は言った。「フルークの22倍ですね」
「怖くないんですか」
「全然」
その「全然」がいつもと少し違う響きだった。怖くないんじゃなくて、怖いとか怖くないとかいう話じゃない、みたいな。うまく言葉にできないけど、この二年でそれくらいはわかるようになっていた。
大和が壁際から言った。さっきからノートパソコンを開いたまま黙っていたので存在を忘れかけていた。
「新馬戦のタイムを補正値で見ると現時点で2歳牝馬のトップ水準で血統的なスタミナも問題なく東京1600mなら距離も合うのでデータ的には現時点でフルークより上の評価になります、ただ」
大和は一度止まって眼鏡を直した。
「フルークの新馬戦の上がり32.0は補正値に乗りません。既存のモデルに当てはまらない数字なので、データ上はまだ存在していないことになっています」
駿はにこっとした。
「じゃあ10月に、データに教えてあげないといけないですね」
大和は何も言わなかった。でもノートパソコンに何かを打ち込み始めた。たぶん新しいモデルを作ろうとしている。この人はそういう人だ。
鉄路がコーヒーを飲みながら言った。
「白い飛翔と、星の光ですか」
「向こうも気が利いてますよね」と駿は言った。「ドイツ語で来るとは思ってなかった」
「偶然じゃないかもしれません。ノースフィールドの人間が、フルークの馬名の意味を調べた可能性はある」
駿はしばらく考えてから、エナジードリンクを一口飲んだ。
「だったら楽しみですね」
鉄路は「はぁ」と言った。
澪はこの「はぁ」が最近すこしわかるようになってきた。呆れてるんじゃなくて、この人なりの「しょうがないな、ついていくか」なんだと思う。馬の世界に三十年いる人間が、この牧場にいる理由が、この「はぁ」一音に全部入ってる気がする。
気がするだけかもしれないけど。




