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(3)

 フリッツ……どこ?


 手を伸ばし、彼の名を呼ぶ。

 彼がいつも使っている香水の香りを、すぐ近くに感じる。

 柔らかく温かなぬくもりの中、彼に優しく抱きしめられているような錯覚も覚える。


 嬉しくて、幸せで、泣きたくなる。


 けれど、彼の存在は夢のようにふわふわと頼りなくて、手を伸ばしたところで触れられない。

 指先に絡み付くのは、滑らかな肌触りだけ。


「えっ?」


 はっと目を見開くと、薄闇の中、細かな彫刻模様が浮かび上がる天井が見えた。

 驚いて手足を動かすと、絹のシーツが身体の上を滑っていく。

 慌てて身を起こし、周囲を見渡せば、波打つ重厚なカーテンに取り囲まれていた。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


「フリッツ?」


 そうだ、さっきまで彼の看病をしていたはずなのに、どうして——。


 天蓋を内側から見たことはなかったが、間違いなくここは彼のベッドの上だ。


「フリッツ、どこ?」


 エルナの宿舎の一部屋が丸ごと入りそうなほど広いベッドの上を、とっさに手探りで探したが、重傷を負った彼の姿はなかった。

 ベッドにいないのは、彼の意識が戻り、立って歩けるまでに回復した証拠だ。

 そう信じて、慌ててベッドを降りた。


 裸足のまま、足の甲が隠れるほど毛足の長い絨毯の上をもどかしく走り、隣の部屋へと続く扉を大きく開ける。

 椅子に腰掛けていたゲラルトが立ち上がり、向かいのソファーに横たわっていた人物が視線を向けてきた。


「よく眠れたかい、エルナ」

「フリ……」


 彼に駆け寄りかけ、たった二歩で足が止まった。


 ——違う。


「苦労をかけてすまなかったね」


 その微笑を浮かべた顔も、違って見える。

 彼は明らかにフリッツとは別人だ。

 かといって、荒々しい気性のフォルカーとも違う。

 彼は薔薇園で会った、もっと大人の雰囲気の——。


「フレデリク……さん、ですよね?」

「なんだ。あっさり見破られてはつまらないな」


 エルナの指摘に、相手は言葉とは裏腹に、面白そうにくっと喉を鳴らした。


 そう、フリッツはあんな笑い方はしない。

 それに、あんなに他人行儀ではない。


 意識を取り戻した時は、きっとフリッツに会えるだろうと勝手に思い込んでいたから、落胆は激しかった。

 しかし、実際に本物の彼と向かい合ったとき、自分は純粋に喜べるのだろうか。

 笑えるだろうか、それとも泣くだろうか。

 それを考えると怖くもあった。

 だから、問題が先送りできたような安堵感もあった。


 複雑な思いを胸に抱えながら、ソファーに横たわる彼の前に進み、膝をついた。

 彼がフリッツでないのなら、冷静に話もできる。


「怪我の具合はいかがですか? まだ痛みますか?」


 エルナは掌で庇われた、彼の左の脇腹に目を向けた。


「ずいぶん良くなったと言いたいところだけど、最初の状態を知らないからね。まぁ、痛みはあるが、動けなくはないから心配はいらない」


 テーブルの上には空になったスープ皿と、パン屑が残った皿が置かれている。

 一昼夜眠り続け、目覚めたばかりの彼がこれだけ食べられたのだから、かなり回復したように思う。

 それでも、ソファーに横たわっているのは、大怪我をした身体には負担が大きいのではないだろうか。


 もしかすると、わたしにベッドを譲ったせいで?


「あの……。ベッドを使わせてくださって……」


 慌ててお礼を言いかけて、自分が皇帝陛下のベッドで眠っていたという、あまりにも大それた事実に気づく。

 そして、ベッドの中で感じていた彼の香水の香りを思い出し、思わず赤面する。


「あ、あのっ。そ……の、ベッドに戻って……」


 安静にしたほうがいいと言いたかったのだが、彼に、さっきまで自分が眠っていたベッドに戻れと言うのはどうなのだろう。

 そのまま飛び出してきたからシーツは乱れているし、自分の体温もまだ残っているはずだ。

 それは、かなり恥ずかしい気がする。


「えぇと……、ゆっくり、お休みになった方が……」


 困ってしまってしどろもどろになっていると、フレデリクがにやりと笑った。

 エルナが言わんとしていることは通じたようだ。


「分かった。君も一緒に来てくれるなら、ベッドに戻っても構わないよ」

「ち、ちょっと、フレデリク! エルナ、こんなふざけたおっさんの言うことは、真に受けないでください」


 慌てて口を挟んできたゲラルトに、きょとんとした視線を向けてから、エルナはフレデリクに向き直った。


「分かりました。では、また看病させていただきますね」


 そう言って立ち上がると「立てますか?」とフレデリクに手を差し伸べた。

 なぜかゲラルトが、くっくっと笑いを堪えている。

 フレデリクは、エルナの顔と差し出された手を交互に見てから、脱力したようにため息をついた。


「……いや、いい。薬のおかげかずいぶん眠っていたようだから、やはりこれ以上は寝られそうにない。だから、エルナ。ちょっと頼みがあるんだが」

「はい。何でしょうか?」


 彼が人差し指をくいと曲げて招くから、エルナは近くに寄り、また膝をついた。


「あそこの飾り棚の中に、ラム酒の瓶があるんだ。持ってきてくれないか」


 エルナだけに聞こえるように、フレデリクが声を潜めてそんなことを言う。


「ラム酒……ですか?」

「そう。酒を飲めば、きっとまた眠れるだろう」

「お酒なんて、だめです。傷に響きます」

「少しぐらい平気だ」


 声を潜めた押し問答が続くが、エルナは何を言われても頑なに首を横に振る。


「皇帝陛下の命令でも、聞けないと言うのかい?」


 業を煮やしたフレデリクが、エメラルドの瞳を細め、脅すように声音を落とした。

 しかしエルナはそれを、毅然と退ける。


「皇帝陛下だって怪我をすれば痛いはずです。無理をすれば治る傷も治りません。それに、皇帝陛下だったらなおのこと、ご自分の身体を大事にすべきです。だから、その命令は聞けません!」


 フレデリクの本当の年齢は三十三歳だと聞いている。

 そんないい年した大人で、しかも皇帝陛下の代理を務めるという人間が、聞き分けのないことを言うことに腹が立った。

 その身体がフリッツのものだからということは、あまり意識していない。

 ただ、目の前にいる重傷を負った人間に、無理をして欲しくなかった。


「くっ……。くくく……、貴方の負けですよ。フレデリク」


 二人の間の張り詰めた空気を破ったのは、こらえきれなくなったゲラルトの笑い声だった。

 フレデリクもまた、つられたように笑い出す。


「あっはっはっは……いててて。ぷ、くくっ。痛てっ!」

「あの……、大丈夫ですか? 痛みますか?」


 笑うと腹筋に力が入り、傷が痛むのだ。

 彼は両手で腹を抱えて悶えながら、痛みと笑いに耐えている。


「くくくっ。いいねぇ。君はかわいくなくて、かわいい。脆いようで、強い。……いてて、なるほど、こんな娘だったのか」


 フレデリクはにやりと笑うと手を伸ばし、エルナの首にかかる金色の鎖を指先に引っ掛けた。


「あっ!」


 エルナは慌てて胸元を押さえたが、ドレスの襟から小さな飾りがこぼれ落ちてしまう。


 中央に『大いなる青』と呼ばれる宝石を抱いた、繊細な金色の薔薇——。


 フレデリクは存在感ある小さな輝きをちらりと見ると、彼女の後ろにいた側近に強い視線を向けた。

 ゲラルトの表情が引き締まり、背筋が伸びる。


「いいだろう。フリードリヒが覚悟を決めた時には、俺が全力で支えてやる。おそらく、今抱えている厄介ごと以上に難しい仕事になるだろうが、難しいほどやりがいがあるというものだ」


 彼の表情と言葉から、さっきまでの軽薄な様子が消えた。

 フリッツよりもっと年長で、切れ者の雰囲気をまとう。


「フレデリク。まさか……」

「計画は変更だ。いろいろとな」


 フレデリクが痛みに顔をしかめながら、ソファーからゆっくりと身を起こした。

 彼を支えようと伸ばしたエルナの手を断り、「ゲラルト」と短く命じる。


「君が言うようにベッドで安静にしていよう。君も疲れているだろうから、この部屋でゆっくり休むといい」

「は、はい」


 この彼とさっきまで言い合っていたというのに、今は何かしら圧倒されるものがあり、エルナは返事をするのがやっとだった。


 ゲラルトが、肩を貸したフレデリクに先を急かされながらも振り返る。


「もうパンしか残っていませんが、お腹が空いていたら食べてください。お茶も冷めてしまったけど、よかったら……」

「はい、ありがとうございます」

「じゃあね」


 フレデリクがへらりと笑ってと手を振り、側近を伴って寝室へと消えた。

 ぱたりと扉が閉まると、エルナは脱力して椅子に座り込んだ。


 フレデリクは、若い女の子をからかう軽薄な雰囲気の時と、頭の切れる近寄りがたい雰囲気の時の、一人で二つの人格を持っているような男だった。

 そのどちらであっても、エルナは強い緊張を強いられた。

 気づくと、首筋に嫌な汗をかいていた。

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