(8)
後頭部に置かれた手で、エルナの顔が地面に押し付けられる。
うつぶせの背中を包み込むように、彼が覆い被さった。
同時に、すぐ脇の湖から、何かが投げ入れられたような水音が上がった。
怖い——。
彼らしくない荒々しい振る舞いに、エルナは何が起きたのか全く分からないまま、恐怖に身を強ばらせた。
しかし、何か良くないことが起きていることは本能的に分かった。
「そのままじっとしていろ!」
彼は低い声でエルナに命ずると、素早く立ち上がった。
体制を整えているのか、じりりと土を踏みしめる音が間近で聞こえる。
「何者だ! 出てこい!」
さらに続く別人のように殺気立った怒声に、背筋が冷えた。
何もかもが怖い。
おそらく自分を守ってくれているであろうフリッツにすら得体の知れない恐怖を感じ、エルナは地面に這いつくばったまま頭を抱えた。
身体ががたがたと震え、息もうまくできない。
しばらくして、掠れ気味の野太い声が聞こえてきた。
「こんな場所で女と逢い引きだなんて、成長したもんだなぁ」
からかうような親しげな口調だが、好意的な相手でないことは、目をぎゅっとつぶったままのエルナにも分かった。
男の言葉に、フリッツの方は警戒を強めるだけで、大きな反応はない。
耳元で、強く土を踏みしめる音が聞こえる。
「おいおい。俺の顔、忘れちまったのかい?」
面白がるような声が、ゆっくりと近づいてくる。
フリッツの緊張感が一段と高まり、ぴりぴりとした空気がエルナの背中に刺さる。
「お前は、誰だ!」
「一度でも俺の顔を見たものは、決して忘れないもんだがな? まぁ、しゃあないか。あの時、お前はまだ八歳ぐらいのガキだったんだからな」
その言葉で、フリッツの気配が大きく動いた。
空気を裂くような音とほぼ同時に、少し離れた場所から高い金属音が上がる。
エルナは反射的に顔を上げ、不穏な物音に視線を向けた。
そこに、赤く染まった広葉樹の林を背に、身体の前に長剣を構えた中年の男の姿があった。
真上を過ぎた太陽の光が剣身にぎらりと反射し、男の顔の左半分を浮かび上がらせていた。
額の中央から左のこめかみに走る傷跡で、左目は半分塞がっている。
白髪の混じる黒髪と黒い瞳、異国の人間らしい浅黒い肌。
まだ季節には早い冬物の黒い外套を、立てた襟で顔を隠すように羽織っていた。
「ひっ……!」
顔面に不気味な傷が走る異様な姿と、獲物を見るような残忍な目つきに、エルナは息を飲んだ。
確かに、一度見ただけで脳裏にこびりつくような強烈さだった。
「そうか、貴様はあの時の……」
フリッツが確認するように呻くと、男の唇が嫌な形ににやりと歪んだ。
「くくっ……そうだ。やっと分かってくれたかい?」
男は構えた長剣をゆっくり下ろすと、傷のある顔に歪んだ笑みを貼り付かせて近づいてきた。
その動きに反応するように、フリッツの身体が風を切るように動く。
次の瞬間。
どこに隠し持っていたのか、彼の両手には極端に細くて鋭い短剣が握られていた。
「フリッツ!」
獣のような低い姿勢で身構える、強烈な殺意を放つ黒尽くめの背中。
両手にぎらりと輝く銀色の細い刃。
目の前を塞ぐように立つ彼の、信じられない様子に呆然としていると、相手の男も驚いたように右目を大きく見開き、立ち止まった。
「ほぉ……。病弱だと聞いていたが、なかなか骨がありそうだ。おまけに、お前のその構え、俺と同じ臭いがする」
「今になって、とどめを刺しに来たのか」
押し殺した声で問いただすフリッツに、男は大げさに肩をすくめた。
そして、品定めでもするように視線で舐め回す。
「まさか。そんなもったいないことはしねぇよ。今ここでお前を殺ったって、何の得にもならねぇからよぉ。獲物は、まるまると太らせてから仕留めるに限る」
「獲物はお前の方だ! 俺はずっとお前の行方を探していたんだ。おめおめと俺の目の前に現れたことを、後悔させてやる」
「おぉ、怖いねぇ。だが、女をかばっていては、何もできんだろう? お楽しみのところ邪魔したな。今のうちに、この世の幸せを存分に味わっておくがいい」
男はフリッツの台詞を軽く流すと、片目だけの視線をエルナに移し、にぃと不気味に顔を歪めた。
そしてゆっくりと背を向ける。
「また、近いうちに会おうや」
一歩踏み出したその全く隙のない背中に、フリッツが続け様に短剣を投げつけた。
身体の中心に襲いかかる二本の切っ先を、男は背後に目があるかのように、最低限の動きだけであっさりかわした。
しかし。
「くっ……」
詰まったような声と共に、斜めになった男の右肩が僅かに揺れた。
憎々しげに歯を食いしばりながら、男が振り返る。
半分塞がれた左目までが大きく見開かれ、灰色に濁った虹彩に憎しみの色が宿る。
男は左手を右の二の腕に回し、何かを抜き取った。
一瞬見えた、銀色の輝きと赤い色。
エルナには何が起こったのか分からなかったが、三本目の凶器が放たれていたのだ。
それはおそらく、男も予想していなかった事態だっただろう。
「ふん……俺としたことが、油断したか。次に会うのが、ますます楽しみだ」
男は抜き取った短刀を草の上に投げ捨てた。
そして、口元だけの凶悪な笑みを浮かべて再度背を向けた。
「貴様っ! 待て!」
「エドガルドだ。覚えておけ」
相手にこれ以上の攻撃手段はないと確信しているのか、振り返ることなく、悠然と歩き去っていく。
フリッツは丸腰で身構えたまま、その背中を見送った。




