(7)
ひんやりした風に吹かれた黄色の落ち葉が、石畳の階段を舞いながら下っていく。
やがて、オレンジ色を中心とした暖色の中に、きらきらとした輝きが見えてきた。
「わ……あ、きれい!」
「そんなに見とれていると、足元が危ないよ」
からかうように笑ったフリッツが、石段の途中で立ち止まった。
繋いだ手はずっとそのままだったから、エルナも足を止める。
店から湖まではそう遠くない。
けれども、毎日毎日、粉にまみれ、薄暗い工房と狭い店舗の中でほとんどの時間を過ごすエルナには、見たことのない風景だった。
「行こう。向こうの方がもっと綺麗なんだ」
フリッツが手を取ったまま、階段を歩き始める。
エルナは一段遅れて、彼についていった。
モザイクのように湖面にちりばめられた鮮やかな色を、秋風が立てたさざ波が散らしていく。
気の早い純白の渡り鳥が、気持ち良さそうに水面を滑っていく。
人影の少ない湖を取り囲む小道を、二人は手をつないだまま、ゆっくりと歩いていった。
フリッツは徐々に言葉少なになっていったが、見事な風景に見とれていたエルナは、気にならなかった。
静けさもまた、秋風が奏でる微かな物音を味わうのにちょうど良かった。
「エルナ。君に渡したいものがあるんだけど」
湖を半周ほど回ったあたりで、彼はふと立ち止まり、しばらくぶりに口を開いた。
「なぁに?」
首を傾げて見上げると、彼はどこか硬い表情をしていた。
胸の奥に冷たい一筋の風が吹き込んだ気がして、妙に不安になる。
「どうしたの?」
「ちょっと、目を閉じていてくれる?」
「う……うん」
戸惑いながら目を閉じると、下ろした髪と首の間に彼の両手が滑り込んできた。
「ひゃあ……」
秋の空気で冷えた彼の指先の感触に、思わず肩をすくめた。
耳元に彼の吐息が触れ、身体が緊張で強ばる。
首の両側に細く感じる冷たい金属の感触に、おそらくペンダントをつけてくれているのだろうと想像がついたが、金具がうまく止められないのか、彼の指先がうなじでもたついている。
早く、終わってっ……!
どきどきしすぎて、心臓の音が彼に聞こえてしまいそうだ。
息をするのも難しくなってきて、目をぎゅっとつむった。
「もう、いいよ」
ようやく彼の手から解放されて、ほっと息をつく。
しかし、俯いた目の前に揺れる輝きを一目見て、また息が止まった。
「これ……は……?」
「君に、あげるよ」
「だって、こんな……っ!」
エルナは金色の鎖に下がる光り輝くものを、震える手ですくいあげた。
繊細な金細工の薔薇の花びらに包まれて輝いているのは、中央に縦に走る光を閉じ込めた、深い青の石。
これまで実物を目にしたことはなかったが、この国でしか採れないという『大いなる青』と呼ばれる宝石に違いなかった。
「……こんな高価なもの、もらえないわ」
「どうして?」
「だって、この青い石は、『大いなる青』なんでしょう? 周りは金の細工だわ。こんな、私が一生働いても買えないほど高価なものを、もらう理由はないもの」
「僕が、君にプレゼントしたいからっていうのは、理由にならない?」
エルナは黙って首を横に振った。
「でも君に、どうしても受け取って欲しいんだ」
彼は、どれほどの価値があるのか全く見当もつかない高価な宝石を、たかが町のパン職人の娘にポンと渡してしまえるのだ。
自分が思っていた以上に、彼は雲の上の人だったのだ。
最初から、彼と自分では釣り合わないことは分かっていた。
けれども、その差を改めて、しかもまざまざと見せつけられた気がした。
「……だめ……よ」
「どうして、だめなの?」
エルナはもう、彼の顔を見ることができなかった。
俯いたまま力なく首を横に振ると、両手を首の後ろに回した。
指先で留め具を探るが、どういう構造になっているのか分からないから、いつまでたっても外せない。
自分にはつける資格がないのだとペンダントにあざ笑われているようで、悲しくて、情けなくて。
涙がぽたりと落ちた。
「エルナ!」
留め具を外そうと必死になっているエルナの手首を、彼の両手が掴んだ。
「泣いているの? どうして泣くの?」
「だって……」
「何がそんなに君を悲しませているのか、僕には分からないよ。女の子はこういうものをもらったら、嬉しいんじゃないの?」
「嬉しいわ。フリッツが贈ってくれるものなら、何でも……道ばたの草花でもすごく嬉しい」
「だったら……」
「でも……これは、受け取れないの」
ようやく外れたペンダントを、フリッツの手に戻した。
彼は掌の上のそれを、しばらく見つめた後、ぎゅっと握りしめた。
「分かったよ。それなら、このペンダントは湖に沈めてしまおう」
「そんなっ!」
エルナに背を向け、湖に一歩踏み出した彼を、慌てて腕を掴んで止めた。
「だめよ!」
「これは君のために作らせたものなんだ。だから、君に受け取ってもらえないのなら、何の価値もない。水底でひっそり眠るのが、ふさわしい」
「だからって……湖に捨てるなんて、あんまりだわ! そのペンダントがかわいそう」
「そう言うのなら、受け取って。お願いだから。エルナ」
ゆっくりと振り返った彼のエメラルドグリーンの瞳が揺れている。
噛み締められた唇からは、色が抜け落ちている。
あまりにも思い詰めた彼の表情が、胸に迫る。
「これは、君だけのものなんだよ」
「フリッツ……」
それほどまで言ってくれるのだから、素直に受け取ればいい。
いつも優しくしてくれる彼に、こんな辛そうな顔はさせたくない。
だけど……。
エルナは葛藤の末、ペンダントをきつく握りしめた彼の手を両手で包み込んだ。
「じゃあ……千回分」
「え?」
「千回分の食事の前払いとしてだったら、受け取るわ」
報酬としてなら、自分には釣り合わない宝飾品を受け取る負い目に、折り合いをつけることができる。
彼と自分との間にある大きな格差に、無理やり目を瞑ることができる。
けれどもフリッツは、困惑したような表情を見せた。
「前払い……?」
「お願い、そうさせて。毎日、林檎のパンを取り置きしておくから」
「僕はそんなつもりで、プレゼントしたいと思ったんじゃないんだよ」
「だって、最初にもらった金貨は四十九回分の前払いだったけど、もう、残り十七回になっちゃったの。それが終わっても、ずっとあなたに来て欲しい。わたしはこの先千回、あなたに会いたい!」
勢いでそこまで言って、エルナははっと口をつぐんだ。
自分で言った言葉に驚いて、両手で口を塞いで後ずさる。
この瞬間まで意識していなかった、「千回分の前払い」の中に潜む本音。
この先千回、あなたに会いたい——。
自分の顔が、周囲の紅葉に負けないほど赤く染まっていくのを感じる。
彼が一歩踏み出した足音に身が縮む。
「エルナ……」
「あ、あの……っ」
「僕に会いたいと、そう言ってくれるの?」
「ちがっ……ううん、違わない……けど、ごめんなさい。そんな深い意味はな……くて。あのっ、わたしはパン屋で、フリッツはお客さんだもの。お客さんにはいつでも来て欲しいと、思って……。わたしには何も返せるものがないから、せめてパンを……って。それだけ……なの」
もう、だめだ……。
言い訳すればするほど恥ずかしくなっていき、熱くて仕方がない顔を両手で覆おうとしたが、できなかった。
両手首を彼の手に捕らえられてしまって動けない。
「エルナ」
「や……だ。やめ…………、見ないで」
せめて、顔を背けて表情を隠そうとしたが、それもできなかった。
急に迫ってきた彼の端正な顔がちらりと見えた後は、自分の目に何が映っているのか分からなくなった。
ただ、熱く柔らかなもので唇を塞がれ、息が止まった。
思考も感情も、もしかすると心臓すら、僅かな時間止まったかもしれない。
「好きだよ……エルナ。愛してる」
耳元で微かに、しかしはっきりと聞こえた声。
そこでようやく時間が動き出した。
エルナは一瞬、自分の耳を疑った。
しかし、痛いほどに抱きしめてくる彼の腕が、聞こえた言葉が真実であると示している。
「フリッ……ツ」
本当……に?
続けようとした言葉は、ふるえる吐息にしかならなかった。
自分のことを決して明かさない彼。
パン職人の自分とは、おそらくかなり身分違いのはずの彼。
しかし、彼の腕に閉じ込められる幸せに、それらはもう些細なことになった。
エルナはうっとりと目を閉じる。
伝わってくる彼の心臓の鼓動が、自分と同じ早さであることを知り、甘いため息が漏れる。
そのとき。
身を預けていた彼の身体が、びくりと震えた。
その直後、いきなり上から押さえつけるように体重をかけられる。
「伏せろっ!」
「きゃ……」
彼の鋭い叫び声と同時に、二人は草の上に倒れ込んだ。




