(6)
まだ『準備中』の札と鍵がかかっている扉が、こつこつと鳴る。
籠に盛ったパンを棚に並べていたエルナが顔を上げると、眩しい朝日に背に受けたフリッツの笑顔が、ひょいと窓の向こうにのぞいて見えた。
あたふたと鍵を開ける。
「フリッツ。今日は早いのね」
「おはよう、エルナ。相変わらず忙しそうだね。何か手伝うことあるかい?」
今朝のフリッツは黒のシャツに黒のズボンの全身黒尽くめ。
黒い靴には泥がべったりとこびりついており、よく見ると衣服もところどころが白っぽく汚れていた。
深い金色の髪は乱れ、枯れ草が絡み付いている。
「きゃあ、待って! そのままお店に入らないで。泥だらけじゃない!」
「え?」
慌てて自分の姿を確認するフリッツを外に待たせて、エルナは工房から水を入れた桶と布を持ってきた。
「ちょっとかがんでくれる?」
どきどきしながら、艶のあるダークブロンドに手を伸ばし、絡みついていたごみを取り除いた。
固く絞った布で、絹でできているであろうシャツの汚れを慎重に拭き取り、泥だらけの靴も磨いてやる。
「ありがとう。忙しいのに手間かけさせちゃって、ごめんね」
「もう。どうしてこんなことになったの?」
彼はどきどき、少し汚れた服でエルナの店に現れる。
初めて会った日のように、ちょっとした怪我をしていることもある。
上品な育ちであるはずの彼が、どうしてこんな姿になってしまうのか、いつも不思議だった。
「うん……多分、ちょっと冒険したんだろう」
ついうっかり口をついて出てしまった疑問は、やはり口元だけの笑みでごまかされた。
彼と会うのは今日で三十三回にもなるのに、彼は相変わらず、自分のことを話そうとしない。
——立ち入ってはいけない。
彼の明るい色の瞳が陰り、そう拒絶するのだ。
エルナは小さく息をついて悲しい気分を吐き出すと、気を取り直した。
「もういいわよ。朝食はまだでしょ? 林檎のパンも焼きたてよ」
「林檎の皮が入ったハーブティーもいれてくれる?」
「もちろん」
店内に招き入れると、彼は勝手知ったる様子で店内を横切り、奥の工房へ入っていった。
エルナは店に並べたばかりのパンの中から、彼が好きなかぼちゃの種が乗ったカイザーゼンメルと、大きめのライ麦パンを選んで工房に運ぶ。
林檎のパンはいつものように、既に工房内に取り置いてあった。
開店したばかりだから、ほとんど客も来ない。
早朝からのパンを焼く作業も一段落していたから、二人はのんびりとした気分で、パンとチーズとハーブティーだけの、質素な朝食を囲んだ。
「ねぇ、エルナ。今日は天気もいいから、お昼に外に出て散歩しないか?」
「外に? でも……」
店を閉めているお昼休みの時間帯も、午後の分のパンを焼いているから、エルナは外に出ることができない。
けれども、たかが散歩とはいえ、彼と二人で出かけたことなどなかったから、断るにはあまりにも魅力的な提案だった。
「無理かな? さっき湖の近くを通りかかったら、紅葉がすごく綺麗だったんだ。君と一緒に見たいと思って」
「じゃあ今日は、午後からパンを焼くのはお休みにするわ。たまには息抜きしても、いいわよね!」
エルナが迷ったのは、ほんの僅かな時間だけだった。
いつもより少しだけ早く『休憩中』の札を店の扉に掛けた。
いそいそと屋根裏部屋に上がり、自分が持っている中でいちばんマシな、くすんだピンクのドレスに着替えた。
束ねていた髪を解き、丹念に櫛を通す。
それでも、薄暗い部屋の鏡に映った姿は、あまりにもみすぼらしく地味だった。
「今日は、フリッツもあんな黒尽くめだったから、それほど見劣りしないかしら?」
自分の隣に立つ彼の姿を想像する。
落ちついた深い色の金の髪と、エメラルドグリーンの瞳。
上品な顔立ち。
着ているものが少々汚れた黒尽くめでも、内側からにじみ出る気品は、少しも損なわれない。
「……だめだわ」
エルナは深いため息をついた。
彼と一緒に出かけることが、あんなにも嬉しかったのに、その気持ちが急速にしぼんでいく。
どう考えても、自分は彼には釣り合わない。
だけど今更、行かないとは言えるはずもない。
これ以上、彼を待たせるわけにもいかない。
「笑って、エルナ。こんな顔してたら、フリッツが心配しちゃう」
鏡の前で笑顔を作ると、少しはマシに見えた。
余計なことを考えないようにしながら、細く急な階段を下り、工房へ向かう。
「フリ……」
彼に声をかけようとして、思わず言葉を飲み込んだ。
椅子に長い足を組んで座り、片肘をテーブルについて考え込んでいる様子の彼の背中は、ひどく疲れているようにも、辛そうにも見えた。
「……どうかしたの? 大丈夫?」
そっと声をかけると、彼は驚いたように振り向いた。
「え?」
「なんだか辛そうだわ。休んでいる方がいいんじゃない?」
「そんなことないよ。今朝、早かったから少し眠いだけだよ。さ、行こう」
フリッツは笑顔で椅子を立つと、エルナの前までやってきて、右手をすっと差し出した。
「……あの……?」
どういうことかと目を瞬かせていると、彼は茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「お手をどうぞ、お姫様」
「えーっ?」
どきどきしながら自分の手を重ねると、彼の唇が手の甲に落ちた。
その感触にびっくりして手を引っ込めようとしたが、彼の指先に力がこもって離してもらえない。
柔らかく細められたエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、心拍数がさらに上がった。
「そのドレス、すごく似合ってるよ」
「こ、こんな地味なドレス、なんだか恥ずかしい……ん……だけど……」
「そんなことないよ。とってもかわいい」
これはお世辞だと、自分にいくら言い聞かせても、胸が高鳴る。
一人の女性として、彼に大切に扱ってもらえることが嬉しい。
エルナはふわふわした足取りで、彼に手を引かれて工房を後にした。




