関ケ原の戦い
慶長5年(1600年)
石田方諸将の士気が落ち気味な事を心配した島清興は徳川方の軍勢に軽く挑発を仕掛ける事を決意。
徳川方の赤坂本営に奇襲をかける。
この挑発に乗ったのが中村一栄、有馬豊氏
杭瀬川まで引き付け伏せていた兵で約40の兵を討ち取った。
これこそ関ケ原の戦いの前哨戦である。
足並み乱れていた石田側の大名衆は戦勝を大いに祝い、また家康は清興の罠にかかった大名を叱責した。
早期決戦を決めた家康は即座に諸大名に陣を敷かせた。
黒田長政、細川忠興は主に笹尾山に陣取った石田三成本陣と対峙。
先陣を賜っていた福島正則は戦線より少し前に出て小西行長、宇喜多秀家と対峙
福島正則の後詰とし藤堂高虎、京極高知などが正則の後方に布陣した。
家康は桃配り山に布陣、麓には本多忠勝が約500の兵と布陣していた。
関ヶ原中央辺りに布陣していた井伊直政はとある策略を立てていた。
自らの娘婿たる松平忠吉に一番槍の手柄を上げさせたかったのだ。
一計を案じた直政は数名の屈強な赤備えと忠吉を伴い福島正則の陣の鼻先に向かう。
哨戒任務をしていた可児才蔵がその一隊を発見し直政に問いただす。
「井伊殿!これは一体どうした事か!?本日の先手は我が殿に任されているはず!」
直政は才蔵に答える。
「何かをしに来ただけではない、ただの物見じゃ」
才蔵は背中の笹を揺らしながら答える
「物見も御無用!!」
直政は何を言っても駄目かと仕方なく忠吉の名を出す
「こちらにおわすは松平忠吉公である、忠吉公は初陣にて後学の為、戦の始まるを見聞したいと申すのをお連れしたまでよ。」
流石の才蔵も徳川の御曹司には何も言えない。
大人しく道を空けるしか無かったのだ。
こうして福島正則の鼻先まで到着した井伊直政と松平忠吉は頃合いを見て赤備えに宇喜田陣へ向かい鉄砲を撃たせる。
宇喜田秀家は即座に福島陣へと鉄砲を撃ち返す。
これに激怒したのは福島正則である。
「誰だ!!!命も無く鉄砲を撃ち掛けた者は!!!!」
怒鳴る正則に才蔵が
「井伊直政にござる!!」
と答える。
先陣を奪われた上に宇喜田陣に先手を許した事に対しても猛烈に怒った福島正則は即座に戦闘行動を開始する。
鉄砲の轟音を聞きつけた黒田長政が軍が始まったと判断し狼煙を上げ、石田三成も狼煙を上げ始めたのが早朝の事であった。
家康は桃配り山にて戦況を遂次使い番に報告させていたが、戦の朝は運悪く霧が立ち込め家康の目には戦の状況が全くつかめずにいた。
爪を噛みながら関ヶ原を眺める家康。
「正純!!陣を移すぞ!!天下分け目の大戦にこんなところで燻っていられるか!!」
こうして家康は桃配り山を下り本陣を張りなおした。
この一連の流れを見ていた野々村四郎右衛門は「影武者風情が偉そうに」などと考えていた。
実はこの野々村四郎右衛門、使い番になり日が浅く家康を近くで見た事が無いのだ。
徳川重臣や家臣ならだれでも知っているし、諸大名の間でも有名であった。
しかし家康の悪癖である爪を噛む癖を野々村は知らずに使い番になったのだ。
一方、次郎三郎は家康の影武者であっても頑なにこの癖だけは真似なかった。
次郎三郎はこの「爪を噛む」という小さな綻びが、大きな問題を生むとも予想だにしなかった。
この時、甲斐の六郎は徳川家康の使い番に変装し期を伺っていた。
六郎も野々村もまさか悠然と着座し戦況を眺めている男が影武者であると思っても居なかった。
陣を移した後の家康は一進一退の戦況に苛つき、爪を噛みながら報告の一つ一つを聞いては顔色を赤らめたり、青ざめたりところころ変えていた。
次々と家康の指令を持って走りゆく使い番。
そして順番は野々村の番に刻々と近づいていた。
そんな状況を後ろから眺める六郎。
家康と次郎三郎は体型から顔つき、なんと厠の周期迄一緒のだ。
「こりゃどっちが家康公なのか全くわからん。」
違いと呼べるものがあるならば、片方は爪を噛み苛々しながら指示を出し、もう片方はそれを晴れやかに見ている。
爪を噛んでいない方が大将であると言われれば誰も疑わないであろう。
それほど次郎三郎は悠然と本陣に座していた。
そんな最中ふっと六郎の頭によぎったのは家康の癖の噂であった。
「内府殿は爪を噛む悪癖があるらしい」
どこかで聞いたこの言葉を思い出し両者を再び見てみると、爪を噛み苛々している家康にとっては徳川家の命運がかかった戦なのだ、戦況に苛つきを覚えても仕方がないだろう。
一方影武者としてはこの戦に勝とうが負けようが自分のする事は変わらないのだ。
つまり両者で賭けるものの大きさが全く違うのである。
「爪を噛んでいる方だ!!そちらが本物の家康公だ!!」
六郎は確信した、後は時期が来たら暗殺すればよい。
と六郎の決心が固まった次の瞬間であった。
「寺沢広高を藤川へ!大谷吉継にぶつけよ!!」
家康が指令を出した。
これを本田正純が復唱する
「寺沢広高を藤川へ!大谷吉継を撃滅すべし!!」
野々村はまだ期ではないか?などと考えているとすぐに野々村の手番がやってきた。
「南宮山の山内勢を関ヶ原へ!!」
正純が復唱する
「南宮山の山内勢を関ヶ原へ!!」
野々村が「はっ!」と言い出立しようとした刹那、家康が
「待て!有馬勢も同じく!」
と叫んだのだ。
野々村四郎衛門は事故に見せかけ近づくはこれが好機と考えた。
誰も戦の最中に本陣の真ん中で家康を殺害に来る者がいるとは思わなかったのだ。
野々村四郎右衛門は家康の左側から馬体を当てるように接近し、影を暗殺せよと仰せつかった方から預かっていた刺殺武器にて家康の横腹から斜め上を目掛け武器を刺した。
すぐ隣で馬に乗り家康の警護に当たっていた次郎三郎は無意識のうちに刀を抜き野々村四郎右衛門を斬り捨てようとしたが彼の右太ももに重傷を負わせることしかできずみすみす逃してしまった。
傍に仕えていたのは次郎三郎と本多正純、家康の馬の口取りの三名であった。
次郎三郎と正純は即座に口取りの暗殺を考えたが、今はこの状況を打破しなければならない。
次郎三郎は爪を噛みながら正純に命令した。
「平八郎を本陣に呼べ」
と。
その間に甲斐の六郎は徳川本陣から身を引いた。
本多忠勝は家康からの火急の用事とだけ知らされ本陣に到着した。
本陣には変わった様子は見受けられず家康と正純、それと家康の馬の口取りだけが青い顔をしていた。
「殿?戦の最中、火急の用事と承り参上いたしましたが。」
次郎三郎は忠勝に近くに来るように言い一言言った。
「わしが死んだ。」
忠勝も冗談であると最初は思っていたが、次郎三郎の2度目の
「わからんか?わしが死んだ。」
この言葉に頭から冷水をかけられたような気分になった。
それから家康の亡骸を見て
「貴様!!影の分際で徳川家大事の戦の最中に死ぬとは何事か!!!」
と遺体を槍の柄で叩き出した。
次郎三郎が忠勝を制止し
「その位にしておけこの者も命を賭して仕えてくれたのだ。」
忠勝は「ハッ」と次郎三郎の命令を聞き、この後の相談を始める
忠勝が最初に口を開いた
「知る者は?」
次郎三郎が答える
「わしと殿の口取り、正純に取り逃がした下手人の4名」
忠勝もこの口取りはその内消さねばなるまいと考えた。
正純が
「如何いたしましょう」
と次郎三郎に聞いてきた。
「まずは差し当たりわしの影武者を作らねばなるまい」
平八郎がこの役を買って出た。
「では申し訳ないが平八郎殿、殿の甲冑を脱がせ奉りその任をお願いする」
本多忠勝が一度自陣に戻り自分の影武者をこしらえて家康の影武者となり本陣へと戻る。
徳川本陣のざわつきから、この一連の様子を遠眼鏡で見ていた者がいた。
松尾山に布陣する小早川中納言秀秋である。
この時秀秋18歳。
老獪な年寄りのやり取りなどよりもしや自分の時代が来たのではないか?と思い込み始めていた。
「石見!!石見!!!」
石見と呼ばれた人物。
この人物は秀秋の家老で平岡頼勝という男であった。
石見というのは彼のあだ名である。
小早川家はこの平岡頼勝と稲葉正成という二人の家老がほぼ実権を握っていたが、秀秋に対する忠誠心があった為「お家二分」や「傀儡政治」などは起こらなかった。
頼勝が秀秋に問う。
「如何なされました?殿??」
「徳川の本陣がおかしいのじゃ」
秀秋が頼勝に答える。
「おかしいと申しますと?」
頼勝が秀秋に再度問う。
「影がおらぬ。」
秀秋の一言に言い知れぬ予感を感じた頼勝、小早川本陣に戻り正成と相談する。
「殿が言うには一刻前より徳川本陣に影の姿が見えないらしい」
頼勝は正成に相談する。
「これは不味い、殿は関白への夢を捨てきれていないからな。」
実は小早川秀秋今回の戦で黒田長政の狼煙を合図に徳川方へ寝返る約定を交わしていた。
しかし、石田方に合力し勝利を掴めば秀頼成長まで関白は秀秋にと三成は約束したのだ。
「徳川殿が殺害されたならまだしも、影武者であったら我が小早川家は取り潰しぞ。殿は斬首やも知れん。」
二人の家老の苦悩を知ってか知らずか秀秋は半分石田方に肩入れを始めている。
しかし遠眼鏡で家康本陣を確認する事だけは怠らなかった。
松尾山でまぶしくキラリと光る何かを見つけた次郎三郎は
「平八郎殿そのまま聞いてくれ。小早川殿が先刻からしきりにこの本陣を偵察している。」
振りむこうとする平八郎に次郎三郎は立ち上がり
「見るな」
と言い付け、正純に
「孫兵衛をここへ」
と言い付ける。
正純は使い番に「殿が布施孫兵衛とお呼びである」
と言い付ける。
忠勝は
「孫兵衛など呼んで何をする気だ?」
と次郎三郎に問いかける。
次郎三郎は爪を噛み烈火の如く松尾山を睨みつけ
「知れた事、松尾山に鉄砲を喰らわせるのだ、これが殿の出馬の催促だ!」
忠勝は次郎三郎の言葉に驚いた。
確かに殿ならば18そこそこの子供に嘗められたとなれば鉄砲を撃ち掛ける事もするだろう。
それより「出馬の催促だ!」と言った次郎三郎の中に徳川家康を見たのだ。
「次郎・・・いや、殿、この忠勝身命を賭して殿をお守り申しつかまつる。」
この戦で世良田次郎三郎元信は大将の器の片鱗を見せるのであった。
一方松尾山では秀秋がどちらに付くか未だ迷っていた。
何度も遠眼鏡で家康を見てもわからない、と一瞬遠眼鏡で一方的に見ているはずの家康と目があった。
その家康は爪を噛みながら烈火の如く怒りこちらを見ていた。
頼勝は腰を抜かす秀秋にわざと聞くのである。
「どちらにお味方いたします?」
そんな質問をしていたら、徳川本体から銃撃が来たとの早馬が伝えた。
頼勝は秀秋に
「撃ち返しますか?」
と聞くが秀秋はもはや恐慌状態
「何をしている!!早く大谷吉継の陣に突っ込まぬか!!!」
腰を抜かしながら命令を出すのだ。
これを一番驚いたのは石田三成であっただろう。
島清興の子飼いの忍び「甲斐の六郎」から「内府殿御討ち死に」の報告を受けていただけにいくら戦下手な自分でも影武者など相手にならんであろうとたかを括っていたのだ。
それが今はどうだ?次々と石田方を見限り徳川方に寝返る大名が後をたたず味方側は総崩れとなっているではないか。
六郎がいう
「殿!もう一度忍び次は影の首級を!!」
三成が答える
「もうよい、そちは清興の傍にいてこの戦を戦ってくれ。」
その三成からはもはや覇気どころか将器すら見えなかった。
松尾山を雪崩の様に大谷陣に突っ込む様子を見た徳川方はもはや勝ちを確信していた。
大谷吉継も圧倒的な戦力差には勝てず関ヶ原にて自刃
宇喜田秀家、小西行長は逃亡
大将であるはずの三成の陣も総崩れになっていた。
その中で時期を見ていた島津義弘は敵軍の中に孤立してしまった。
義弘は死中に活を見出すべく不敵にも徳川本陣に突っ込んでいったのだ。
家康に肉薄するも島津はその後、捨て奸の先鋒を使い何とか義弘を逃がす事に成功。
追手として差し向けられた井伊直政、松平忠吉に鉄砲傷を与えている。
しかし払った代償としては、島津家久の息子・豊久は討ち死になど決して安いものではなかった。
こうして1600年9月15日、8時頃始まったとされるのちに関ケ原の戦いとよばれる戦は午後2時頃には終了したと伝えられている。
正純や平八郎はこれからの徳川家の行く末を案じ、秀忠の一日も早い到着を待ち。
次郎三郎は次郎三郎でこの戦いの後10年以上も「徳川家康」を続けることになるとは夢にも思わなかったのである。
ここまで読んで頂き誠に有難うございます
誤字脱字等ありましたらご指摘いただければ幸いです。
今後も「真・闇に咲く徳川葵」をよろしくお願い申し上げます。




