それぞれの思惑
慶長5年(1600年)
関東から引き返した豊臣家恩顧の大名と軍艦として目付け役になっていた本多忠勝、井伊直政は福島正則の居城である清洲城に石田方と睨み合っていた。
これに対し石田方は伊勢路方面と、美濃垂井方面、北国街道には大谷吉継を据え越前からの南下を防ぎ、
決戦場所は美濃から尾張辺りと諸将は予想していた。
この頃、秀忠は未だに関東に据え置かれ、家康は江戸城に腰を落ち着けていた。
秀忠の憤懣は溜まる一方であった。
兄・結城秀康は会津征伐の総大将。
弟・松平忠吉は三成退治の総大将。
そして自分は関東・宇都宮に取り残されている事実。
秀忠の脳裏によぎったのは「父上はわしを見限ったのではないのであろうか?」
家康に対して従順な仮面を被っていた秀忠の不安はやがて秀忠の心の膿となってゆき、いずれ自分以外の後継者を全て消さねばなるまいと決心させるのである。
8月に入り、夏真っ盛り。
いよいよ我慢できなくなった福島正則は黒田長政らと犬山方面に兵をくり出す事を軍艦である本多忠勝と井伊直政に凄まじい剣幕で申し出た。
「内府殿に犬山城攻略を是非とも報告するが良いわ!!先陣はこの福島正則が相務め申す!犬山の後は岐阜城へ兵を向け岐阜も落としてしまおうぞ!!」
膨れ上がった不満をもはや忠勝と直政は抑えることが出来ずにいた。
布陣としては犬山方面に福島正則ほか黒田長政等が出陣、木曽川方面では家康の娘婿である池田輝政をはじめ山内一豊等が布陣をした。
福島正則は先陣にこだわる男であった。
これも賤ケ岳の戦いから槍一つでのし上がってきた自負があるからこそなのだが、池田輝政らに合図があるまで木曽川を渡河しない様にきつく言い付けた。
輝政はこれを不服に思っていたが、軍艦である忠勝と直政も全軍で岐阜城を攻める姿勢を取った為、従わざるをえなかった。
ここで正則にとっては青天霹靂と言える事態が起こる。
これより犬山城攻めという時に池田輝政らが木曽川を渡河し岐阜城へと攻め入ったとの早馬が届いたのだ。
これに大いに憤激した正則軍は即座に踵を返し岐阜城攻めに向かう。
同月27日岐阜城はたった4日で開城するのである。
城主たる織田秀信は信長公の嫡孫なるが故に罪一等を免れた。
ここでもめたのは福島正則と池田輝政である。
先陣を輝政に取られた正則は軍艦たる忠勝と直政に輝政の死罪を要求する。
輝政は輝政で、「相手が攻めてきた事、それに対する妥当な処置と強く反発する」
困り果てた忠勝と直政は「岐阜城攻めの一番槍は福島正則、池田輝政の二人同時」と決めた。
正則は輝政の渡河の罪を主張したが忠勝、直政の二名はその罪は無罪であると判断したのである。
この事を家康に報告した軍艦両名はただただ家康の一日も早い出陣を願うのみであった。
家康はもうそろそろ諸将もしびれを切らす頃であろうと、秀忠に中山道を通り関ヶ原方面へ進軍すべしとの命令を下した。
秀忠はようやく己の出番であると喜び勇んで、三河よりの精鋭・約4万の兵を率い、本多正信を戦目付とし、秀忠付の家老・大久保忠隣、戦指導として榊原康政が付くという万全の布陣で中山道へと向かった。
本多正信嫡子・本多正純は出陣を見送り家康の下へと報告へ向かった。
石田方の動きとしては8月1日にようやく伏見城が落城、石田方約4万の対伏見の城兵約2千という圧倒的な兵力差をものともせず、奮戦した鳥居元忠はじめ城兵は一人残らず玉砕した。
7月18日から8月1日を戦い抜いた鳥居元忠の奮戦は徳川方諸将の士気を鼓舞した。
その後、伊勢から尾張に向かい進軍。
岐阜城が予想以上に早く落城した為、三成は大垣城へと入城し徳川方と睨み合う形になった。
9月、夏も終わりに近づき涼しくなった頃、家康はようやく重い腰を上げ江戸を出立。
早馬を出し家康方諸将に自分が到着するまで自制するように指示を出し約3万の兵を連れ東海道を西進する。
出立と同時に中山道を西進している秀忠に早馬を出し9月10日前後には美濃へと着陣するように指示を出した。
この早馬の出発をとある男が呼び止める。
男の傍にいた集団がその兵を手早く殺害し、自らの手勢の中から一人を選び家康の指示書を持たせ早馬として出させた。
その頃、秀忠は4万の兵を以て信州に差し掛かっていた。
秀忠も信州・国主である真田昌幸が三成方に着いた事は当然知っていた。
家康からも信州を通過する際は気を付けるように念を押されていた。
信州一国の国主とはいえ持っている兵力は約2千。
秀忠は真田を侮った。
真田は信州を通過していた徳川軍を巧みに挑発し、秀忠の逆鱗に触れる。
「真田を潰し父上にお褒めに預かりたい。」
これに賛同したのが大久保忠隣・榊原康政の二名である。
忠隣は純粋に秀忠に初陣の武勲を少しでも立てたせようと考えたためであり、康政は「本能寺の変」後に家康が辛酸を舐めさせられた第一次上田合戦での遺恨があった。
これに真っ向から反対したのが本多正信である。
「此度は信州を攻め時を費やすより美濃へと向かうのが第一、信州には抑えの兵を置けばよろしいかと。」
秀忠は圧倒的な兵力差に酔いしれ、正信の進言を退け真田を攻める。
しかし真田は謀略の大家。
押しては退いて、退いては押し、山や森林が多い信州の土地を生かしたゲリラ戦法で秀忠軍を翻弄した。
頭を沸騰させんが如く怒り狂った秀忠を冷静にさせたのは9月6日に到着した早馬のもたらした家康の指令書であった。
「決戦の予定は9月10日から15日頃である、秀忠は10日前後には美濃へ到着する様に。」
この書状を持った兵は長雨で川が氾濫し、足止めを喰らった振りをし、あえてこのタイミングで書状を渡したのは、この兵の主が秀忠に対しそのうち恩を売るためでもあった。
顔を真っ赤から真っ青に色を変えた秀忠。
事ここに至り正信に知恵を借りる事にする。
「正信よ、わしはどうすれば良い?」
正信はにべも無く言い放つ。
「戦を決めたのは秀忠様自身でござる」
こうは言ったものの、榊原康政や大久保忠隣の増長も目に余った為、秀忠一人に全ての責任をなすり付けるのは少し酷かと考え直し
「此度の戦の後始末はこの正信に任せて頂けますかな?」
秀忠は地獄に一本の糸が垂らされた気分であった。
「全てそちに任せる!!」
正信は翌日、戦に参加し細かい軍律違反も見逃さず、雑兵は全て斬首、大久保・榊原の一部の家臣は軽くて蟄居閉門、重罪で切腹など誰にも何も言わせず、独断とも言える厳罰を下し、上田には抑えの兵を置き9月9日には美濃へと駆けだした。
秀忠はそれはもう必死に駆けた。
信濃から美濃までは険しい山道が続き僅か1日~2日で到着する距離ではない。
ましてや長雨で木曽川は反乱し、徒歩の兵は行軍速度に着いて行けず次々離脱し、秀忠の細い神経なお細くなり、もはや絶体絶命であった。
一方家康は出立の後、9日に岡崎に達し、10日には熱田で戦勝祈願、13日には岐阜、14日には赤坂に着陣していた。
ここにきて家康は異変気付く。
「秀忠はまだ参着してないのか?」
忠勝と直政もまさか未だに秀忠が信州にいると知る由もなく、「おってはせ参じましょうぞ。」
等と言っていた。
家康の誤算は岐阜城の陥落が早すぎたところにもあった。
この岐阜城陥落は徳川方諸将の士気を大いに高め
「内府殿到着と共に即時開戦すべし!」
という風潮と気運が雑兵一人一人迄に達していた。
黒田長政が家康に謁見していた。
現状と兵の指揮の高さ、福島正則などはすぐにも敵陣に突っ込む勢いである事を報告していた。
それに対し忠勝はあくまで「秀忠様を待つべし」と主張し直政は娘婿の忠吉に手柄を上げさせたいが為「即時開戦」を主張した。
家康は長政に家康は長旅で軽い風邪を引いた為、諸将に絶対に先走らない様に厳しく申し渡すように言い付けた。
家康は三者を背中にし
「策を練る!」
と一言言って奥へと向かう。
その夜、浅野長政の密使が家康に秀忠の状況を報告した。
「あのたわけ!!未だ信州に居るのか!!!」
傍に控えていた次郎三郎は
「待ちますか?」
と一言聞いた。
「待てば来るのか!?」
家康は爪を噛みながら
「年老いて、骨の折れる事かな。倅が居てくれればこれ程の苦労はしなかったろうに。」
と呟いた。
次郎三郎は
「中納言様もおって馳せ参じましょうぞ?」
と家康を慰める。
家康はにべも無く
「その倅ではないわい!もう間もなく長男・信康めの命日なのじゃ」
次の日
赤坂に徳川方の諸将を集めた家康は今後の方針を諸将に指示する。
「軽い風邪とは云え諸将には心配と迷惑をかけた。」
福島正則などは「心配致しましたぞ!」などと家康を慮る言葉をかける。
家康は本題に斬り込む。
「さて決戦であるが、敵を野戦に引きずり出す!!正純!方々に忍びを放ち明朝家康が佐和山を攻めると言いふらせ!!」
忠吉が心配そうに家康に伺いを立てる。
「兄上の到着は待たないのですか?」
家康はキッパリ言い放つ。
「見限る!」
こうして徳川方の方針は態勢した。
一方、石田方は足並みかくも揃わず、大津城の攻略に時間がかかっていた。
淀の方は石田方が大津城を攻めている事を知り、激昂。
それもそのはず、大津城には淀の方の実妹「お初の方」が居たのだ。
淀の方は片桐且元に石田方は即座に戦を止めるように命じた。
しかし、どちらにも与せずの姿勢を貫いた為、朝廷に仲介して貰い木食応其を仲介人とし京極高次は高野山へ、城中にいたお初の方と松の丸は大坂で身柄預かりとなった。
大津城攻めに時間を費やした三成は次に家康が佐和山を攻めるかもしれないという噂を真に受け、一度佐和山へ駆け、そのまま大坂城へ赴き毛利輝元に出馬の催促をし、また日和見をしていた小早川秀秋を説得、小早川勢は関ヶ原傍の松尾山へと布陣した。
大谷吉継ら北陸方面を固めていた大名衆は大津の陥落を受け関ヶ原付近の山中村へと布陣した。
こうして続々と石田方の武将が集結する中、「家康の本陣に夜襲を仕掛けるべし」と主張する大名がいた。
宇喜多秀家と島津義弘である。
石田三成は潔癖な男である。
ここまでの兵を集め家康と決戦で己の力を見せつけたい三成にとって家康を暗殺するが如く夜襲するのが彼の気位が許さなかった。
このやり取りを見ていた島清興も夜襲に賛成の意を示し三成を説得するが三成は頑なに首を縦に振らなかった。
島清興は一人の若い忍びを配下に持っていた。
この忍び、元は武田家お抱えの忍びの末裔であり名を「甲斐の六郎」と言った。
清興との出会いは今思っても不思議なものであった。
六郎が川で漁をしていた所に清興が通りがかり、六郎の漁をじっと見つめていた。
六郎の漁は川に潜り、魚を抱きしめ陸に上がるという何とも不思議な漁であった。
清興が六郎に質問をする。
「魚は逃げていかないのかね?」
六郎は答える
「魚の方から腕の中に入ってきます。」
六郎の答えを聞いた清興は感嘆し、自分の屋敷に住まわせていた。
それから清興はただの一度も六郎に忍び働きを頼む事も無く、一家臣と同じように扱っていた。
しかし夜襲の計画が三成に一蹴された日、清興は六郎に告げる。
「また魚を一匹獲ってきてくれんかね?」
その要件を聞いた六郎の顔は一瞬で忍びのものとなり
「魚の名をお教え頂けますでしょうか?」
と清興に質問する。
清興ははっきりと力強く答えた。
「内大臣・徳川家康公」
六郎はただ頷き闇の中に消えていった。
また江戸にも家康の命を狙うものがあった。
「よいか?野々村、わしの後押しもあり首尾よく使い番になれた恩を忘れるでない、この戦が終われば天下の趨勢は決まるのだ、その時になり影武者を始末するよりも此度の大戦で殿を守り戦死した方が影の為よ。間違えるでないぞ?爪を噛む方が影武者じゃ、影は爪を噛むのだ。この違いを忘れず使命を果たせ。」
野々村四郎右衛門にこう念押しする男、この男こそが秀忠遅参の原因を作り、今回は家康の命をも狙っていたのだ。
こうして様々な思惑が関ヶ原にてぶつかり合おうとしていた。
ここまで読んで頂き誠に有難うございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘いただければ幸いです。
これからも「真・闇に咲く徳川葵」をよろしくお願いします。




