2話 最初の夜と無知の知
ルビーは学校の先生ことエチカの手で全身を犬のように洗われて、エチカの夫であるというウォルフが近所の家から「寄付」してもらったというまともな服を着せられた。
服を着替えたのは一年ぶりだった。以前に川で水浴びをしていた時に服を破かれて以来、服を脱ぐことはやめてしまったのだ。
伸び放題のぼさぼさの髪は、エチカがきれいに梳かしてくれた。優しい手つきに母の温もりを思い出す。
まるで大切なものを扱うように触れてくれる。ルビーにはそれが不思議だった。
そうして身綺麗になったルビーを上から下まで眺めたウォルフが、目を瞬いてひと言呟く。
「なんと言うべきか。女の子だったんだな」
「あたりまえでしょ!」
エチカは容赦なくばしんと夫の背中を叩く。ウォルフは文句ひとつ言わずに、すまないと言って笑う。
どうして叩かれて嬉しそうなのだろう、とルビーはじっとふたりを見つめる。理解しがたい関係に思えてならなかった。
「さあ、どうしましょうか。こんな糞みたいな──失礼、子供の教育上よろしくない村に泊まるのも居心地悪いでしょうし、さっさと発ってしまう? それとも今日は疲れてしまったかしらね」
てきぱきとしたエチカの問いかけに答える声はない。不思議に思って見上げると、彼女の目はルビーに向けられていた。
「わたしに、訊いたの?」
「そうだけれど」
「わたしが決めていいの」
どう答えていいのかわからなかった。
困ってぐちゃぐちゃになった頭の中を、肩に止まったワタリガラスの大きな鳴き声が消し飛ばした。
『しっかりおしよ。村から出たところで、お前を受け入れてくれる場所がある保証なんかない』
「あぁら、悪魔がついているって本当だったのね」
エチカはすっと目を細めてワタリガラスを睨む。声色に警戒が混じっている。
ルビーは咄嗟に後ずさった。アリスは悪魔だけれど、唯一無二の大切な友達だった。
「おかしいわね。ねえお前、本当の主人はどうしたの? 私、魔女と悪魔の関係にはそこそこ詳しいけれど、はぐれ悪魔が人間の子供の使役に下るなんて聞いたことがないわ」
「アリスは、わたしが魔女になった時に、来てくれたの。取り上げないで」
「魔女ですって?」
きりりと眉が上がり、エチカの手がルビーへ伸びる。
ぶたれる、と身を竦ませたルビーの怯えを裏切って、エチカの両手はルビーの肩を掴んだ。
「いいこと、ルビー。あなたはまだ闇に落ちてなんかいない。あなたはまだ魔女じゃない」
「でも……わたしには、悪魔がついてるのに」
どうして断言できるのだろうか。
不安と疑念に揺れるルビーの赤い目を覗き込み、エチカは言う。
「私ね、教育者だから大きな声では言えないのだけれど、魔女の知り合いが十三人ほどいるの。彼女たちのことを知っているから、私には判断できる。あなたは魔女じゃない」
ルビーは呆然と彼女の声を聞く。闇に落ちて力の制御を失った人間は、みんな殺されてしまうのだと思っていた。
しかしエチカの話が事実であるならば、魔女と化した後にもこの世に生きているものがいる。
一方では、十三人という言葉に反応を示したアリスは、たじろいだ様でくちばしを閉じてしまった。
「なによりね、あなたはまだ力の制御を失っていないでしょう。闇に落ちて力の制御を失った人間は、自分の意識さえ保てなくなくなるのよ。あなたが魔女に落ちたのだったら、こんなちんけな村なんかとっくに滅びてるわ。あなたの意志とは関係なくね」
ルビーは村を滅ぼそうと思っていた。思っていたということは、まだ思考力が残されていた、ということだ。
困惑しつつも頷くルビーへ向け、エチカは続ける。
「悪魔のことは後で考えましょう。魔術師見習いが悪魔を使役に下した前例があるかどうか、調べてみなくちゃ。それでどうするの、ルビー。野宿になっちゃうけど、すぐに発つ? 明日の朝にする?」
「……出ていく。すぐに」
「そう。わかったわ」
にこりと笑ったエチカは、立ち上がるなり自分の影に向かって「ダイアナ」と呼びかけた。次の瞬間には、エチカの影から二本の角を生やした淡いクリーム色の馬が飛び出してくる。
擦り寄るその馬を愛しそうに撫でながら、エチカは驚いて硬直したルビーを見下ろした。
「これは二角獣。魔獣の一種。私の使役。美しいでしょう。魔術師は夜の生き物と契約を結ぶの」
「エチカ、適当に食糧を貰ってきたよ。もう発つのだろう」
「ありがとうウォルフ。ルビー、大丈夫よ。ダイアナはとても穏やかな子だから」
ウォルフは身構えるルビーを軽々と抱き上げ、二角獣にぽんと乗せる。
慣れた様子でルビーの後ろに騎乗したエチカに続き、ウォルフもまた影から二角獣を呼び出して跨った。彼の二角獣は赤鹿毛だった。
「それじゃ、行きましょう」
ルビーはちらりと民家を振り返った。怖々とこちらの様子を見つめている村人たちは、別世界の住民のエチカたちに野次の一言さえ投げかけない。
ルビーはさよなら、と心の中でお別れを言った。相手はもちろん友達の鳥や獣や風であって、人間ではない。
「ルビー、疲れたらちゃんと言うのよ」
エチカは背後から手綱を取る。まるで抱きしめられているような姿勢のまま、二角獣はぱかぱかと歩き始める。
俯いて頷くルビーの洗いたての頭に頬を寄せるエチカの温もりに、どうしてか涙が滲んだ。
エチカの話によると、エルシオンとは都市の名前であると言う。
エルシオンには何かを志す子供や大人が、学問を修めるために集う。村しか知らないルビーは、都市という場所がどんなところなのかまるで見当がつかない。
エチカの語るエルシオンは、とても楽しそうな場所だった。
「ウォルフはエルシオンの魔道学舎の生徒だったの。私は余所で学んだけど……若い頃に〈番犬〉をやったりしてね。番犬っていうのは、魔道学舎の自警団みたいなものなのだけれど」
楽しそうに話すエチカの言うことは、ルビーにはほとんど理解できなかった。それでも楽しげなエチカの声を聞いているのは、とても心地が良い。
時折うん、と頷きながら、ルビーはエチカの話に聞き入る。
「そろそろ日が暮れる。エチカ、そこに川があるから近くで休もう」
「ああ、ちょうど良いわね。そうしましょう」
先に二角獣から降りたウォルフが、慣れた様子で枝を拾い集めて組み上げる。
エチカの二角獣から降ろしてもらったルビーは、そろそろと近くに寄ってそれを見つめる。
「魔術師が魔術を使うところを、見たことはある?」
穏やかな安定した声がルビーにそう問いかけた。
俯いたまま首を横に振ると、ウォルフはそっと手の平を開き、もう一方の指先で奇妙な線を引く。
発光するなにかの図形。
「こうして、自分の魔力で印を描く。描いた印にさらに魔力を流すと、その印に応じて、精霊が力を貸してくれる。たとえばこれは」
と言って、ウォルフは手の平の印を示し、それを組み上げた枝に向けた。
「〈火炎〉の印だ。この印に魔力を流すと」
ぼう、と音を立ててウォルフの手のひらから炎が吹き出す。
「ほら、こんな風に。火の精霊が魔力を食う代わりに、その力を貸してくれるというわけだ。魔術師に力を貸してくれる精霊は、微精霊と呼ばれている」
「火の微精霊……?」
「そう。ほかにも水とか風とか大地とか、発動させたい印によって力を借りる精霊も変わってくる。なかには私たちのように、形や人格を得た強い精霊もいるのだよ。滅多にお目に掛かれないけどね」
これが魔術なのかとルビーは驚いた。思っていたほど自由に力を使えるわけではないのだ。
学校が必要であることも頷ける。印やその効果について覚えなければ、魔術師にはなれないらしい。
ルビーはぱちぱちと明るく燃える炎を見つめて座りこむ。
「印、覚えないと、魔術は使えない?」
「基本的にはそうだね」
「でも……わたし……」
ルビーは違った。印を知らなくても風に乗り、獣に乗り移り、それらの意思を読み取っていた。
印を用いて術を発動させるものが魔術ならば、あれはなんだったのだろう。
「ウォルフが言っているのは、一般的な人間の話」
二角獣ダイアナから荷物を降ろしたエチカが、ルビーの隣にあぐらをかいて座る。
「普通の……そうね、魔術師ではない両親から産まれて、魔術師になった人の話。その家系の一代目魔術師の話。二代目とか三代目とかでは大差はないけど」
彼女は旅鞄をあさり、小刀と小鍋と調味料の類を取り出す。夕食の支度が始まった。
「例えば先祖代々魔術師をやっている家系に産まれたり、人間ではないものの血が混じったものは、もっといろんなことが出来るわ。まあ、産まれながら力を持っていたとしても、この証のペンダントなしで力を使うことは禁じられているのだけれど」
小鍋を用意したエチカは水を満たして火にかけると、村から「わけてもらった」野菜を適当に刻んでどんどん放り込んでゆく。
大ざっぱな手つきだけれど的はけして外さない。まるで野菜が鍋に吸い込まれていくような様は、見ていて小気味良かった。
「ちょっとウォルフ、ぼさっとしてないで魚でも捕ってきてよ。この子、もう少し食べなくちゃだめだわ」
「ああ、そうか。すまない」
炎に照らされていたエチカの横顔をやわらかな眼差しで見つめていたウォルフは、その一言でさっと立ち上がって川へ向かう。
ルビーはそわそわと座り直した。どういうわけか、むずむずする雰囲気だった。
ただ側にいるだけにも関わらず、ウォルフがどんなにエチカを好きでいるのかが、気を伝ってルビーのなかに流れ込んでくるのである。
気恥ずかしくなる。居心地が悪い。自分がひどく邪魔者な気がしてならない。
ルビーはそれから逃れるために、自ら彼女へ問いかけた。
「その……ペンダント、学校を卒業すれば、もらえる?」
「学校を卒業しなくても、試験に合格して誓いを立てればもらえるわ」
「試験?」
「そう。魔術を教えてくれる人が身近にいない人が、資格を得るための試験に合格するために学ぶところが、学校。身近に魔術の師匠が居れば、べつに学校に通わなくてもいいの」
「……エチカがわたしの師匠になってくれればいいのに」
その言葉がぽろりと口からこぼれてしまった後で、ルビーははっと自分の口を両手で覆った。
何を言っているんだろう。調子に乗った。消えてしまいたい。出会ったばかりで厚かましい。彼女は仕事で来てくれただけなのだ。
うずくまって膝に額を押しつけたルビーの背に、エチカの手が触れる。
大丈夫、という彼女の静かな声が、恥ずかしさのあまりに熱くなった頬をゆっくりと静めてくれた。
「ルビー、私は学校の先生なんだから。学校に通えば、毎日だって会えるわ」
「うん……でも」
「同年代の子が怖い?」
「……だって、わたし、魔物みたいだから。目が赤くて、気味が悪いって。わたしのお父さん、誰だかわからなくて……村のみんなは、わたしが魔物の子だって言った」
ぐつぐつと煮立つ小鍋に塩やローズマリーを投げ込みながら、エチカはため息をひとつ。
「あのね、ルビー。村の人達があなたをそんなふうに言ったのは、無知だからよ」
魚を捕まえてきたウォルフが、川辺から戻ってきた。
塩をまぶして串に指したそれをたき火の近くに突き立てて、彼は再びルビーの隣に腰を下ろす。
「無知がなんだって?」
「あの村の連中、この子を魔物の子だなんて言ったんですって」
「なんだそりゃあ」
あきれた声音が笑う。ウォルフは明るい茶髪に指を突っ込んで、首をそらして夕空を仰いだ。
「あり得ないね。魔物の子は魔物だ。産まれた頃から人型だったんなら、君は人間だよ」
「おわかり、ルビー。これが知ってるということ」
小鍋にスプーンを突っ込んでちょっと舐めて、エチカはルビーを振り向く。
「知らない者は不必要に恐れる。知っている者は未知の世界があることを知っているから、理解しようと努める。狭い世界にいる人間の世界はずっと狭いまま。学校に行けばいろんなことが学べる。もう、知らないことを、怖がらなくてよくなる」
鞄から腕を取り出して水を呼んで清め、小鍋の中身をすくってルビーに押しつける。
エチカはぽかんと見上げるルビーの腕に、木製のスプーンを突っ込んだ。
「熱いから、やけどに気をつけて食べなさい」
「……はい」
「エチカ、私にもくれ」
「その前に魚をひっくり返して」
「まだ早いよ」
仲のいいふたりの会話を聞きながら、湯気のたつ温かいスープの腕に口をつける。
久々に食べた野菜のスープは、しょっぱくて甘かった。スプーンの使いかたを覚えていたことが少しばかりおかしかった。
無知やら未知の世界やらと、エチカの話は難しくてルビーにはよくわからない。しかしながら、ひとつだけ確かに解ったことがある。
彼らがルビーを虐め、嘲り、蔑んだのは、ルビーを「知らなくて怖かったから」だということだ。
「わたし、知っている人になりたい」
ルビーの言葉を聞いたエチカとウォルフが、会話を中断して顔を上げる。
「いろんなことを知りたい。もっと……たくさん、世界が怖くなくなるまで。エチカ、わたし学校に行く」
エチカの目に、うすく涙が滲んだ。焚き火の灯りが映り込んだ彼女の目は輝いて見える。
そう、と目を細めて微笑んだ彼女は、生きていたころの母と同じように優しい手で、そっとルビーの錆色の髪を撫でる。
「だったらとにかく、たくさん食べて元気にならなくっちゃね。ほら、遠慮しないで。魚が焼けるまでもう少しよ。エルシオンまで遠いから、とにかく食べて歩いて、体力を付けなくっちゃ」
「遠い?」
煮くずれた甘い玉葱を食べながら問うルビーを見下ろし、ウォルフが何でも無さそうに頷く。
「そうだなぁ。今の早さで移動したら、到着はひと月後かな」
「……ひとつき」
スプーンから落ちたにんじんが、ぽちゃんと腕に落ちた。
思ったよりも、ずっと長い道行きになりそうだ。