1話 ルビーになった日
わたしの人生は終わったんだ。
生まれてこのかた十五年、アグニが心の底からそれを実感したのは此度が初めてではない。
一度目はそう、母が病で死んだ時だった。
流行病で衰弱して、医者にかかることも出来ずにアグニの母は死んだ。
その時アグニは十歳だった。子供とはいえ、物事の善悪も理解出来るようになった年頃だった。
母が死んで、初めて気づいたことがある。それは、アグニが母に守られていたという事だ。
母がいなくなったことによって、母が堰き止めていた村人たちの悪意がアグニに届くようになった。
心ない中傷、古い家にぶつけられる泥玉、切り落とされた鶏の頭が扉に吊るされていることもあった。
なぜひどい嫌がらせをされるのか、アグニにはまるで解らなかった。
次にそれを実感したのは一年後だった。男に襲われた。閉鎖的な村だったので、顔見知りの男だった。
何を求められているのかも解らずに、がむしゃらに抵抗した。
床に押し倒されたアグニは、手に触れた何かを男の目玉に突き刺した。スプーンだった。
男は逃げていったが、片目を失い、アグニはその凶行を村人たちから責められた。
その時にこれでお終いなんだと思ったのが、二度目のこと。
三度目はさらにその一年後のことだった。
寂しさを紛らわすために拾い、世話をしていた犬が村人に叩き殺された。
ひとりぼっちの暮らしの中で、犬は唯一の心の拠り所だった。
白い毛が赤く黒く染まっていた。目を閉じれば今でも鮮明に光景が浮かぶ。
あたたかかった生き物はただの硬い死肉になった。アグニはもう二度と白い生き物は飼わないと決めた。
弱者は温もりに寄り添うことも許されないのだと知り、絶望した。それが三度目のこと。
それからは人の目に触れないように、息を潜めながら閉鎖的な村の中を逃げ回るように暮らした。
人里離れた寒村から出ることは、子供の足ではかなわなかった。馬車を使ったとしても隣の村まで二日はかかることを、風の囁く噂話から知っていた。
村は山に面していたので、アグニはいつしか木々の上で過ごすようになった。山の実りは豊かだったし、鳥や獣は人間よりもよほど親切だった。
十四歳の半ばまで、アグニは山のカラスたちと友達になり、狸にアケビの場所を教えてもらい、ウサギを抱いて暖を取った。
カラスの一羽が話しかけてきたのは、そんなある日のことだった。そのカラスはアグニが知らないことを教えてくれた。
何故アグニが村人から虐げられるのか。
何故誰も助けてくれないのか。
カラスの語った物事は、アグニにはどうしようもないことばかりだった。
生まれや容姿。父親の不在。
──そんなことで?
カラスの言葉はアグニの胸に怒りの炎をともした。炎は力となった。
力を得たアグニは獣を操り、時には獣に乗り移って、村を荒らして支配した。
それは笑ってしまうくらいに簡単なことだった。
「あんなにわたしを虐めていた連中が、いまとなっては怯えて逃げ惑う羊のよう」
冷めた目で平伏す村人たちを見下ろすアグニの耳元で、カラスが囁く。
──お前には素質がある。世界を支配出来るよ。その気になりさえすれば。
「支配する。世界を? ああ、それも良いかもしれない」
どうせひとりだった。こんな不愉快で理不尽で正しくない世界なんか、壊してしまおう。
胸に宿った怒りの炎に、カラスが名前を吹き込んで宿る。アリス。
カラスは悪魔の化身だった。ワタリガラスは人々から恐れられる、悪き存在である魔女の使い魔だ。
「わたしは魔女になったのか……」
この世界は魔女の存在を許しはしない。けれど、それがなんだというのだろう。
居場所なんて、アグニには始めから無かったのだ。魔女に落ちたところで何も変わりはしないじゃないか。
『さあアグニ、最初は何をする? お前を犯そうとした男を燃やそうか。お前に泥をぶつけた性悪のガキどもを熊に食わせようか。アタシはなんだってやってあげる。だってアタシは、お前のたったひとりのトモダチなんだから』
「そうだね、アリス」
甘やかなワタリガラスの言葉は心地いい。アリスの言葉は悪意に満ちているけれど、その悪意はけしてアグニには向くことはない。
人を燃やしたらきっとうるさいだろうな、と思った。はじめは家畜を殺そうと決めた。
寂れた村においては、家畜は現金などより余程大事な財産だった。犬を殺された恨みを、手始めに晴らすとしよう。
アグニがそう決めた時、風が異変を教えてくれた。
──気をつけて、余所者が村にやって来たよ。
その囁きを聞き、アグニは四度目の人生の終わりを感じた。
魔女の存在は許されてはいない。きっと正規の魔術師が、噂を聞き付けてアグニを滅ぼしに来たのだろう。
ところが、話はそう単純ではなかった。
アグニの前に現れた人影はたったふたつ。脅威である魔女を滅ぼしに来たにしては、あまりにも少ない。
「なんだ。てっきりもう手遅れなのかと思っていたけれど、まだ大丈夫そうじゃないの」
「そうだろうか? 毒芽は摘んでしまった方が賢明ではないか」
「ウォルフ、まったく。それが教育者の言葉なわけ?」
現れた余所者は、綺麗な金色の髪の若い女と、背の高い明るい茶髪の男だった。
どちらも髪が長い。長髪は魔術師の証だ。
アグニが風に乗って肩にカラスを止め見下ろせば、村人たちは怯えてうずくまるばかりなのに、このふたりには緊張の欠片もない。
「ちょっとそこのあなた。お話があるの、降りて来てちょうだい」
金髪の女がアグニに向かって手を差し伸べる。アグニは混乱した。
対等のように声をかけ、恐れることもなく手を差し出す人間など、母が死んで以来、一度だって会わなかった。
「……誰……何しに、来たの」
人間と話すのは久しぶりで、どうしたらいいのか判らない。彼らは話があると言う。
罠ではないのか。降りた途端に捕まって、殺されるのではないだろうか。
女と男は顔を見合わせ、胸元からペンダントを引っ張り出した。それは正規の魔術師の証である、黒い石のペンダントだった。
「私はエチカ。こちらはウォルフ、夫よ。私たちはそうね、わかりやすく言うとすれば学校の先生。魔術師を志望する生徒たちを教育するのが仕事」
「君の噂を聞いた学長の指示で、我々は学園から君を迎えに来た。このままだと君は、無資格で魔術を発動させた罪により魔道官に逮捕されてしまう。だが、無資格でも教員等の監督下による魔術の使用と見做されれば、君は無罪だ」
「つまり何が言いたいかっていうとね、あなた、魔術師を志す気はない? こんな狭い村に閉じこもって、力の使い方もわからないままでは不便でしょう。エルシオンはこの村より、よっぽどマシよ」
この人たちは何を言っているのだろう。
学園? エルシオン? 先生?
理解出来ない言葉の羅列のなかで、逮捕されるという現実だけが耳に残る。
「逮捕されるのは、嫌だ」
「そう。よかった。私も同意見よ。あなたみたいな子供が、生まれのために闇に落ちるなんておかしい。反吐が出るわ。冗談じゃない」
教育者にしては随分苛烈な言葉遣いをする、とアグニは少しばかり驚いた。
彼女の隣で、夫であるという男がげんなりと片手で顔を覆っていた。
「じゃあ、どうするの。私は来てほしいけど、決めるのはあなた。ここでいまのまま暮らすのか、挑戦するか。挑戦しても叶うとは限らないけれど、とにかくいま選びなさい」
意志の強い青灰色の目が、真っ直ぐにアグニを見ていた。こんなふうにアグニを見た人間には、会ったことがなかった。
結局アグニは、風から降りてその女を見上げた。
彼女はきれいだった。この狭く閉じた村に、彼女のような人間は死んだ母以外にいなかった。
アグニは差し伸べられたその手を、女の目を見つめ返したまま取った。彼女が自身を害するのではないかと、いまだに疑っていたからだ。
しかし彼女は、ただ安堵したように目を細めただけだった。
握り返してくる温もりを見下ろせば、薄汚れた自分の手と違って、白い肌の、形の整った爪の並ぶきれいな手をしていた。
「魔術師はね、親からもらった名は名乗らないの。真名を呪われると厄介だから」
彼女はアグニの汚れた手をしっかりと握った。もう片手では、汚れ絡まった伸び放題の錆色の髪をそっと顔から払い除ける。
あらわになった赤い両眼を見つめ、彼女はふわりと微笑んだ。
「きれいな目。赤い、紅玉……ルビーだわ」
「ルビー?」
「名前よ。旅名。今日からあなたの呼び名はルビー。魔術師としての、ひとつめの名前になるでしょう。試験に受かればね」
言い含める彼女の声音が、明るいことがひどく不思議だった。
──ルビー。
妙に胸に響く音だ、と思う。アグニのこの赤い両眼を見て、きれいだと言った人間はいない。
魔物のようで気味が悪いと、嫌われ嘲られ蔑まれてきた目だった。それを宝石に例えられるとは、思いもしない。
「さあ、まずはお風呂に入って服を着替えなくちゃ。ウォルフ、ちょっとそこらの家に話をつけて、水場を手配してよ」
なんの躊躇もなくアグニの背中に手を回して抱き寄せた彼女は、夫であるという男を顎で使うとその場に膝をついて視線を合わせる。
彼女はにこりと温かい笑みを浮かべて、優しくルビーの頬に触れた。
「さっきも名乗ったけど、私はエチカ。ルビーの魔術の先生になる、学園都市エルシオンの女魔術師よ。よろしくね」
「……うん。よろしく、お願いします」
そうして村を滅ぼそうとしていたアグニは、金髪の女魔術師に拾われルビーとなった。
ルビーは挑戦することを選んだのである。
それは村から出たことのなかったルビーが、初めて外の世界へ足を踏み出した、記念すべき日だった。
ほんの少しだけ広がった世界に向けて、ルビーは歩き始める。




