ある司書見習いの応援
図書館にあって読まれない本とはどんな本を想像するだろうか?
私は、確実に読まれないだろう本の一冊として、図書目録を推す。
これを読む人は司書か図書委員しか居ないだろうし、私の時代においてその両者ともこの学園から消えようとしていたからである。
だから、図書目録の一冊に手紙が入っていた事に私はある意味納得していたのである。
本の中に手紙が入っている事は昔から気づいていた。
私は元々この学校の生徒で、この図書室を良く利用していた。
あまり利用者が居ないこの図書室で私がやっていた遊びの一つが、誰も読みそうもない本を読む事だった。
誰にも読まれない本は、本としての価値があるのだろうか?
そんな疑問とある種の使命を持って、できるだけ多くの本を読もうとしたのである。
読まれない本と言うのはどんなものだろうか?
小説などは最新の流行作家のものを入れておくと待ち人ができるぐらい読まれる。
逆に誰も手に取らない本と言うのは、おおよそ己の興味が無いものが多い。
たとえば、この学校の校史とかだ。
実際、退屈極まりない文字の羅列の果てにいくつかの手紙を見つけた。
彼らにとって、読まれない本は懺悔室であり、秘密の花園であり、いつか誰かに読んで欲しい日記みたいなものである。
その懺悔を聞き、秘密の花園を漁り、人の日記を読む背徳感が無かったと言えば嘘になる。
そんな伝統もいずれ消えるのだろうとは教育実習生であった私でも気づいていた。
携帯端末の普及と電子書籍の爆発的流行。
VRによる睡眠時常時学習と、記憶教育から検索教育への変換は必然的に授業を、学校を変えようとしていたからだ。
その時、本は残るのかもしれないが、この図書室は消える可能性がある。
事実、私は実習後には司書としてこの学校に戻ってきたかった。
だが、学校は司書を雇う気はないと私にはっきりと告げてきた。
私は厳密に言えばもはやこの学校の生徒ではない。
だが、この手紙を誰も読まないだろう図書目録に挟んで、この伝統を誰かに伝えようと思う。
その誰かがこの伝統にどういう結末をつけるのか見れないのが残念ではあるが、伝統というものはそういうものなのだろう。
この図書室が消える時、どういう選択を取るにしても、私はその選択を祝福しよう。
それが言いたくてこの手紙を残す。
最後の一人よ。
君が悔いのない選択をする事を望む。
手紙を机に伏せて、私は天井を見上げる。
私の前にこの手紙達を知っていた人が居たのだ。
それが嬉しくて、その繋がりが途切れてしまうことが悲しくて、私はしばらく天井を見上げることしかできなかった。
その後、机に落ちた水滴で私はやっと泣いていた事を知った。