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道化の花冠  作者: 道草屋
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主催者の息子が自分の娘に手を差し伸べるのを、父親はじっと見つめていた。

娘が年上の男と並ぶたびに思い出すのは、三年前の誘拐事件のことである。当時入院していた病院から看護師の目を盗んで攫われた娘は、たった一日で別人のように従順な女の子になって帰ってきた。


二人目の妻が連れてきたその娘は、はじめ口数の少ないボーイッシュなスタイルの子どもであった。上の娘たちの母親は、もうこの世にいない。病死であった。彼女はあまり強い身体を持っていなかった。


身内は皆新しく妻を娶ることを勧めてくれた。悲しみはまだ拭えていなかったが、娘たちのことを考えると、新しい母親は必要に思えた。代用品としてではなく、数年の恋愛を経て迎えた今の妻についてきたのが、晶であった。彼女もまた体が強くなかった。


晶の母親が人見知りと表現した彼女の性格は一緒に住み始めてから棘を持つようになり、それは言動に現れていった。自分が本当の肉親でないが故の反応なのだと父親は解釈した。この理由以外に思い当たる節がなかった。


荒っぽい言葉遣い。女の子らしからぬ服装。妻も娘たちも特に気にしなかったが、父親には耐えられなかった。


親の素行が悪く周囲の視線と評価に苦しめられた子供時代の経験から、自分はそんな親にはなるまいと、また子どもにもそうなってほしくないと強く願っていた。今の生活を手に入れるにはそれなりの苦労があったし、失ったものも多かった。


子どもたちにはそれぞれしかるべき相手と結婚させて、幸せな家庭と生涯を築かせたい。それは三人の娘全員に対しての切実な願いであった。そのためにはきちんとした教養が必要不可欠であるというのが、父親の経験上の持論であった。


だからこそ父親は晶のおかしな言葉遣いを何度も戒めた。格好を正してもらおうと女の子らしい服を贈り、着るように言って聞かせた。自身の父親がしたような怒鳴りつける方法は嫌悪していたから、決して使わなかった。


他の二人と平等に扱っているつもりが、本人はそう思っていないのかもしれないと、事あるごとに声をかけ、愛情を示そうと躍起になった。だが、溝は深まるばかりだった。


家族になってから何年も経ったある日、晶が食事を吐いた。医師に診せようとしたが、ただの体調不良と言われ、ひとまず様子を見ることにした。だが一週間経っても快方から遠ざかるばかりで、病院に連れていった。


医師の診断は拒食症だった。そもそもが痩せているというのに、さらに細くなってしまうのか。痛々しいほどに骨の浮いた姿を想像して、涙がこみ上げた。


入院の手続きをするため父親だけが残り、病気について詳しく尋ねていると、ふいに医師が「お子さんが強いストレスを感じている、ということはありませんか?」と言う。


拒食症はストレスによって引き起こされることもあると医師は告げ、晶の性格や行動、生活スタイルなどに大きな変化はなかったか、改めて質問した。父親は、思い当たることはないと答えた。


このとき、常日頃の悩みのタネである晶の言動や服装について、愚痴をこぼすつもりで相談した。


「家庭の事情もありますし、年頃の子どもは言葉遣いが荒れますから」


高校生と中学生の子どもがいるというその医師は、さらにこう続けた。


「あんまりにもひどいと性同一性障害を疑う方もいますけど、そんなことはめったにありませんねぇ」

「性同一性障害?」


それはどういったものなのか、医師に説明を頼んだ。そして、聞けば聞くほどに、父親の表情は険しくなっていった。


受け入れられないことに耐えきれず、自殺してしまう者もいるとか、海外では子どもが幼いうちに性転換手術をする親もいるとか、そんな話は耳に入ってこなかった。


父親の頭の中で、一つの仮説が組み上がっていた。


晶が性同一性障害、もしくはそうでなくとも、女でいることに対して何らかの拒絶意識があるとして、そんな自分を受け入れてもらえないことにストレスを感じているとしたら。それが原因で拒食症に発展したとしたら。


ここまで考えたというのに、父親はありのままの娘を受け入れることができなかった。


拒食症を乗り越えたとしても、今のまま成長すればいずれ好奇の目にさらされる。ちゃんとした服を着こなし、ちゃんとした言葉遣いで話せる娘にしなくてはいけない。そうしなくては、彼女を幸せにはできない。父親はこの一念に憑りつかれた。


性同一性障害であるならば、しかるべき医師のもとに通わせて矯正しなくてはいけない。仮に問題ないと診断されても、なにかしら対処することを心に決めた。


まずは健康な体に戻すべきだ。父親は大学病院の心療内科から看護師を雇って、娘の専属にさせた。静かに療養できるようにと個室も用意させた。


自分が持っている人脈と金を駆使して、できる限りのことはやったつもりだった。入院中だけはストレスを与えまい、何も言うまいと、病室を訪ねることはしなかった。刺激を与えないよう、妻たちの見舞いも禁じた。しかし娘の態度も病状も悪化する一方であった。


そして朗報のないまま一年が過ぎた。娘はますます痩せて骨と皮ばかりになってしまった。このままではいけないと次の策を練っていたとき、片桐から報告を受けた。娘の症状に改善の兆しがあると、そういう内容だった。


拒食から脱するということは、心境に何か変化があったのだろう。自分がどうあるべきか、その答えにようやく気づいたに違いない。さっそく手紙を書いた。大学病院の手配もした。ようやく自分の思いが通じたのだと、心の底から喜んだ。

娘が誘拐されたのは、手紙を送った翌日であった。


病院に駆けつけ犯人らしき男の素性を聞いて、腸が煮えくり返った。定職にも就かず、親の暗い過去をネタに医師を脅すような不遜の輩に、大事な娘を攫われたのだ。


役立たずの看護師には後日解雇を言い渡すとして、とにかく警察に連絡しなくてはならない。なんともタイミングが良いのか悪いのか、番号を打つ前に携帯電話が鳴った。知らない番号にいぶかしみつつも電話を取り、仰天した。電話の相手は誘拐された娘であった。


きっと男の目を盗んで助けを求めてきたのだ。どんなにか怖かったろう。早く助けなくては。そんな父親の心配をよそに、娘は誘拐犯の男を擁護し始めた。そして、とんでもない要求をしてきたのだ。


父親の望むように変わる。そのかわり、男を見逃せ。


それは、これまで自分と話すことを避け、何かを強請るということをしなかった娘の、初めての願い事であった。


これほど父親を怒らせたことはない。交換条件と共に約束はしたが、あくまで娘を取り戻すためであり、男を許すことなどできなかった。いや、どんな親でも許せないだろう。


所詮は子どもの考えることである。その場で見逃しても、警察に進言して後日男を捕まえてもらえばいいだけの話だ。


今度こそダイヤルボタンを押そうとしたのを、邪魔したのは片桐だった。ひどく狼狽して、口をぱくぱくさせ受話器を押し付けてきた。仕方なく受け取ると、

「おい、なにすんだよ」とノイズの向こうで誰かが言う。

「それはこっちのセリフだ」


片桐が何を考えているのか、全く分からない。声を頼りに顔を思い浮かべようとするが、できなかった。


「誰だこいつは」

「晶ちゃんを誘拐した、人です」


呆れすぎて声も出なかった。


「誰だ、あんた」と男が言った。

「高安晶の父親だ」

「へぇ」と緊張感のない返事。ふざけた奴だ。


その男は自身が誘拐犯であることを認め、あまつさえ父親を非難する言葉を吐いた。やはり警察に突き出そう。こんな男のために娘が連絡してきたのかと思うと、憐れみの念さえ湧いてくる。


父親は男に金が目当てかと問いかけた。そうだと言ってくれれば、これが奴の本性だと、娘に突きつけることができたのだ。


男は、期待を裏切った。


娘は返す。自分を警察に突き出してもかまわない。そのかわり、医者に疾患か否か診断させろ、そして娘を受け入れろ。そう、要求してきた。


(なんなんだ、一体)


示し合わせている様子はない。もしかするとそれぞれ別な場所から電話してきたのかもしれない。二人の間に何があったというのか。あの子はどこまでこの男に打ち明けたのか。聞くことが恐ろしい。冷や汗を拭う父親に、男はさらに畳みかける。


娘の意思にそぐわないことをすれば再び誘拐する、と。


恐ろしいことだ。父親は壁に手をつき頭を抱えた。沈黙の後、要求を呑むと答えた。


何を考えているか皆目見当もつかないが、自分が男の都合のいいようにばかり動くわけがない。男も分かっているはずだ。そうでなければただの馬鹿である。すぐ警察に連絡したかったが、今男が捕まれば娘は本当について行ってしまうだろう。そんなことはさせたくなかった。


電話のことは誰にも言うなと片桐に約束させ、別荘に向かうべく車を用意させた。夜の高速道路を走りながら、娘も同じようにしているのかと、一年ぶりに会う愛しい我が子の顔を思い浮かべては軋むほど杖の柄を握りしめた。


父親は別荘で朝を迎えた。約束の時間が近づいても、二人は現れなかった。雨が降り出して、どんどん強くなっていった。謀られたのでは? という不安はなかった。認めたくはないが、男の態度は本気であると父親に告げていたからだ。


玄関先で今か今かとその瞬間を待ち望んでいたときだ、娘の叫びが聞こえた。


傘も差さずに飛び出した。どこで叫んでいるのか、声は遠い。初老の体はすぐにへばり、娘を最初に見つけたのは、万が一のために連れてきた男たちだった。


ひどい格好だった。青ざめ、真っ白な唇を震わせ、なんとか立っている状態であった。抱きしめた冷たい体に反発されないことを密かに喜んだ父親だったが、


「あの人を」

と、うわ言のように言われ、凍りついた。


自分が言葉をかけているというのに、まるで見ていない。こんな状態になっても、娘は男の心配をしているのだ。


意識を失った娘を別荘に寝かしつけて、父親は男を捜しに出た。しばらく道を行くと、誰かが坂の下で倒れていた。まず、誘拐犯で間違いないだろう。


どんな顔をしているのかと覗き込んだが、すぐに離れた。体のあちこちに擦り傷があり、手足も折れているようだった。紫色に膨れた肌が気持ち悪かった。車にでも撥ねられたのか、はたまた何者かに襲われたのか。坂から転がり落ちるなんて間抜けではあるまい。


しかし何かしら事故に遭ったなら、なぜ男のみが倒れているのか。娘が一人でいたこともそうだが、なぜこんな山奥に徒歩なのか。疑問はいくらでも浮かんでくる。


目を覚ましたと言われて男のそばへ行くと、自分を見るなり言う。


「あの子は」


(この男もか)


殴り殺したい衝動をなんとか抑えこんだ。自分が手を下すまでもなく、男の命が長くないことは見て取れた。だが男は、父親が何の措置もしないことに異議を唱えなかった。


なぜ、娘を助けたのか。


そう尋ねたのは気まぐれなどではなかった。父親は分からなくなっていた。満身創痍で娘を送り届け、死にかけているのに、助けを請わない。なんの見返りも求めてこない。ただの優しさでできることではない。


男はしっかりと父親の目を見て言った。



惚れたから。



清々しいほど単純明快で、男を突き動かすに足る答えだった。


怒りに任せて男の頭を蹴飛ばした。男が目を閉じてからも、父親はその顔を目に焼きつけるべくその場を動かなかった。握られていた花は、掌ごと踏みつぶした。


それを後悔したことは、ない。



すぐそばを子どもが走り抜け、父親は今いる場所を思い出した。ホテルの会場の中心であって、雨に濡れた山の中ではない。


「どうかなさいましたか?」


人当たりの良い顔をした主催者が言う。父親はこの男と和やかに、子どもの話をしていたのだった。


「顔色が優れませんね」

「いや、大丈夫です」


世間に公表されていない誘拐事件を思い出していたなんて、口が裂けても言えない。


父親は男を警察に連れていかなかった。誘拐犯が逃走したと通報することもなかった。本当に、何もしなかったのだ。男の存在そのものを忘れたことにして、あのまま路上に放置したのだ。


それは男自身が了承したことであり、また娘の要求の中に彼を病院に運ぶというものはなかった。いつの間にか、男の姿は坂の下から消えていた。探すことはしなかった。どこかで野垂れ死んでいればいいと、そしておそらくそうなったのだろうと思った。


生きていたとしても、娘には指一本触れさせやしない。自宅の警備は万端、学校には送迎をつけてあるし、今日のような日は自分の目の届く範囲に置いている。


自分は娘との約束を見事に果たしている。自身が成した殺人にも等しい行為は、娘と対峙しても一切の罪悪感を感じさせないほどに、正当なものと位置づけられていた。


また父親は高岡との約束さえ守っていた。医師に診せた結果、性同一性障害とは診断されなかった。娘は転院し、体のみの治療に専念することとなった。


しかし彼女は自ら変わった。言葉遣いや服装は女の子らしく上品になり、一人称も「私」を使うようになった。それが父親との約束であり彼女の意思であったからだ。


退院後は体力的に無理のないものから習い事を始めた。家庭教師によって一年間遅れた勉学を補いつつ、外国語の習得にも力を入れた。茶道華道は妻が通う教室に同行させ、ピアノは通いの教師と姉たちが指導した。最近では声楽にも興味を持ったと聞く。しばらくしたら話を持ちかけるつもりであった。


習い事はあくまで勧めただけであった。強要はしていない。それを娘が自らやりたいと頼んできたために、了承しているのである。彼女の意思にそぐわないことは、何一つしていない。本人が望んだことをやらせているにすぎない。入院する前は何を勧めてもやろうとしなかったのだ。


そして自分は、今の娘を受け入れている。彼女は愛らしい声で話し、しとやかに振る舞う。学校と習い事以外に外出することは少なく、読書や花の世話にもっぱら時間を費やす。穏やかなものだ。教育が身になっているのだと、父親はこれらの変化を非常に好ましく思う。


自分の敷いたレールをまっすぐに歩む娘は、今も痩せている。結局体質の問題から、彼女が以前よりも太ることはなかった。だが、今年中学に上がった娘は遠目に見ても美しかった。長く伸ばした黒髪は三姉妹の中でも特に素晴らしい。春からは化粧もさせている。あと数年歳を重ねればより映えることだろう。


「娘さんは本当に可愛らしく成長なされましたね。うちの娘に欲しいくらいですよ」


主催者は自分の息子が年下の娘と肩を並べて話しているのを、温かい目で見守っていた。



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