第一話:甘い罠
セレネ・ガーデンの夕焼けは、最後まで甘ったるい色をしていた。
二つの太陽が水平線に沈み、海と空が溶け合う、その境目だけが燃えるように赤い。
あの歌声が、遠くでまだ揺れている気がした。
希望の歌。
ほんの少しだけ世界の形を変えた、あの夜の熱。
陸は、跳躍の直前にリラの横顔を盗み見た。
夕日に照らされた紫紺の瞳は、海ではなくもっと遠いものを見ている。
次の獲物。
次の危険。
次の答え。
そういうものを。
「行くぞ」
リラの声は短い。
感傷を振り払う合図みたいに。
陸は頷いて、右腕の内側に意識を沈めた。
惑星渡り。
白砂の感触を、鋼鉄に置き換えるように。
甘い潮風を、ネオンの匂いに塗り替えるように。
座標を組み上げる。
二人の“家”になりつつある、あの隠れ家の空気。
青白い光が、二人を包んだ。
海風がちぎれ、世界が裏返る。
次の瞬間には、アルカディア・ネクサスの雑多な温度が、肺の奥に押し込まれてきた。
油とスパイスと、湿った金属。
どこかで鳴るホログラム広告の安っぽいジングル。
天井の換気ファンの唸り。
懐かしい。
そして、安心できる。
この感覚を、陸は認めたくなくて喉の奥で笑いそうになった。
隠れ家の隠し扉を開けると、二人はほとんど同時に息を吐いた。
床に落ちる、重い疲労。
セレネでの騒動は、戦闘とは別種の神経を削った。
怒号でも銃声でもなく、世論という波に身を投げるような感覚。
そして陸にとっては、自分が踏み込んだ結果が誰かの人生を揺らしたという、初めての実感。
「……帰ってきたな」
陸が呟くと、リラは靴を脱ぎ捨てながら鼻で笑った。
「当たり前だ。帰れなかったら終わりだろ」
素っ気ない言い方。
けれど、あの海辺で“たまには悪くない”と言ったのは、確かに彼女だった。
それが陸の背中を、まだ少し温めている。
リラはすぐにコンソールへ向かった。
椅子を引く音が硬い。
指がキーボードに落ちる音が、いつもより鋭い。
仕事モード。
情報屋の仮面。
そこへ戻る速度は、異常なくらい早い。
陸はというと、部屋の隅に荷物を放り投げたあとも、しばらく立ち尽くしていた。
セレネの“勝利”が、まだ手の中で温かい。
でも、その温かさは薄い膜の上のものだと分かっている。
ヘパイストスで見たドローンの赤い単眼。
クロノス・オーダー。
カシウスの顔はまだ知らないのに、あの組織が持つ冷たさだけは、皮膚の下に残っている。
「なあ、リラ」
陸が声をかける。
リラはモニターから視線を外さない。
数十秒が流れる。
「…要件は三秒で言え!」
「……その、情報。歴史保存協会ってやつからもらったやつ」
「もう解析してる」
「早っ」
リラの指が止まる。
ほんの一瞬。
それから、ため息が落ちる。
「褒めてる暇があるなら、座れ」
陸は素直にマットに腰を下ろした。
リラの背中を見ていると、胸の奥が妙に落ち着く。
この背中は、何度も“生きる”を選ばせてくれた。
そして同時に、平気で突き放してくる。
その両方が、今は頼もしい。
モニターの光が、部屋の暗がりに反射して揺れる。
銀河図。
航路。
企業名。
暗号化通信のログ。
証拠データの枝分かれ。
それらが一本の糸に束ねられていく様子は、見ていて背筋が寒くなるほど美しい。
人間の脳ができることじゃない。
それでも彼女は、人間だ。
甘いものを隠れて食べる程度には。
「……結論」
リラが言った。
短い。
それだけで、陸の心拍が一段上がる。
「手がかりは二つ」
リラは画面を切り替える。
ひとつは、座標データ。
もうひとつは、古びた研究施設の外観写真らしきもの。
錆びた金属。
無人。
薄暗い通路。
それは、ヘパイストスの地下迷宮とも、ウロボロスの瓦礫とも違う。
もっと整然としていて、もっと冷たい。
「無人小惑星群の中にある、M-77」
「放棄された研究施設の存在が確度高く出てる」
「通称は――神々の涙」
最後の言葉だけ、リラはほんの少しだけ声を落とした。
わざとだ。
陸の心を動かすために。
あるいは、自分に言い聞かせるために。
「神々の涙……」
陸は復唱する。
その響きだけで、頭の中にきらきらした何かが浮かびかける。
だけど同時に、ヘパイストスで見た“予言”が重なる。
異邦人。
神々の力。
繋がっている。
繋がりすぎている。
「……それ、オーパーツってことか」
「可能性が高い」
「“歴史保存協会”が渡してきた情報は、筋が通ってる」
「じゃあ、行こうぜ」
陸は反射的に言った。
言ってから、自分の声が浮ついて聞こえて、少しだけ咳払いをする。
「先に取ればいいんだろ」
「クロノス・オーダーより」
リラの背中が、ほんの僅かに固くなる。
彼女は振り返らないまま、マウスパッドに指を滑らせた。
次の画面。
資金の流れ。
監視網の密度。
航路の検閲。
そして、M-77周辺の妙に不自然な“空白”。
「……陸」
リラが言う。
名前で呼ばれると、それだけで空気が変わる。
「ん」
「出来すぎてる」
その一言で、陸の頭の熱がすっと引いた。
リラは続ける。
「情報提供のタイミングが良すぎる」
「セレネでこっちが動いた直後に、これだ」
「それに、M-77の周辺だけ監視データが妙に薄い」
「事故じゃない。意図的な空白に見える」
陸は唾を飲み込んだ。
罠。
その可能性。
でも。
「……それでも、行かないと始まらないだろ」
言葉にして、陸は自分の胸の形を確かめる。
怖い。
怖いけど。
ヘパイストスで“鍵”だと言われた。
セレネで“声”に動かされた。
もう、戻れない。
この流れから降りたら、二人の旅はただの逃避になる。
リラは、画面の隅に表示された時刻を見た。
そして、椅子の背にもたれず、前のめりのまま言う。
「私も、行く」
陸が顔を上げる。
リラが補足する。
「勘違いするな」
「行く理由は三つ」
指を一本立てる。
「一つ。これが本物なら、オーダーの鼻を明かせる」
二つ。
「二つ。罠なら、罠の設計者に近づける」
三つ。
「三つ。……あんたの予言の話」
リラの声が、ほんの少しだけ硬くなる。
紫紺の瞳の奥が、痛みを思い出したみたいに翳る。
「この情報が、その中心に繋がってる可能性がある」
陸は黙って頷いた。
何か言えば、軽くなる気がした。
軽くしたくない。
「準備は?」
陸が訊く。
「私がする」
リラは即答した。
そして、ふっと口の端を上げる。
笑みには見えない。
刃物みたいな表情。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「現地で“勝手に正義感を燃やすな”」
陸は思わず、むっとする。
「まだ何も言ってないだろ」
「顔が言ってる」
リラは即座に返す。
そして、少しだけ声を落とす。
「……私の計算の外で動かれたら、今度こそ死ぬ」
陸の胸が、ちくりと痛む。
それは命令じゃない。
心配だ。
彼女なりの。
それが分かってしまうから、反発ができない。
「分かった」
陸は短く答えた。
そして、付け足す。
「でも、いざって時は、俺も動く」
リラは一瞬だけ黙って、モニターに視線を戻した。
それから、いつもの調子で言う。
「勝手に死ぬな」
「そっちこそ」
陸が言い返すと、リラは鼻で笑った。
「私は死なない。死ぬほど間抜けじゃない」
その言い方が、どこか安心の呪文みたいに聞こえて、陸は肩の力を抜いた。
部屋の空気が変わる。
休息から、準備へ。
次の一手へ。
リラの指が再び踊り、画面にM-77の詳細が積み上がっていく。
無人小惑星。
放棄された研究施設。
神々の涙。
(……出来すぎてる)
陸の胸の奥でも、リラと同じ警鐘が鳴っていた。
それでも足は止まらない。
止まれない。
だって、ここまで繋いできたものがある。
ウロボロスで拾われた命。
アルカディアで結ばれた取引。
ヘパイストスで結ばれた契約。
セレネで噛み合った二人の力。
今度は、自分たちから踏み込む番だ。
ネオンの海の底で、陸は右腕に触れた。
その内側で、惑星渡りのチップが静かに熱を持っている気がした。
まるで、先にあるものを知っているみたいに。




