105
少しふわふわとした現実感のないような、足元が定まらない気持ちのまま、俺は管理所を出た。
近くの自販機で適当にボタンを押し、転がり出てきた缶を手に取る。
取り出し口から冷えた缶の感触が掌に伝わってきた瞬間、俺は自分がその銘柄を無意識に選んでいたことに気がついた。
今朝、青木が幻覚の中で飲んでいた缶と同じ物だった。
自販機の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
朝の街の雑踏が、やけに遠く聞こえる。
人の死に間近で触れたのはこれが初めてではない。
探索者になってから、死は何度となく目の前で見てきた。
この目で見てきたはずだった。
なのに、自分自身、ここまで動揺しているとは思ってもみなかった。
プルタブを引いた。
微かな金属の音が、やけに鮮明に耳に残る。
一口飲んだ。
今朝、青木の幻影が美味そうに飲み干していたのと同じ味のはずだった。
だが、ほとんど味がしなかった。
青木は管理所管轄の対人組織だ。
その青木がダンジョン内で死体として見つかったという事実は、単なる事故死では説明がつかない。
今朝の会話を踏まえれば、答えは一つに絞られる。
旭技巧。
いや、正確には――旭場時が青木を殺した。
俺は上着のポケットに手を入れた。
指先が紙の感触に触れる。
取り出したのは、小さく折り畳まれた白い紙片だった。
管理所で家長と話している最中、別れ際に家長が俺の上着のポケットへするりと忍ばせてきたものだ。
家長の動作はあまりに自然で、俺自身、ポケットに違和感を覚えるまでその存在に気がつかなかった。
紙を広げる。
『監視されている。要石へ会いに行け』
簡潔な、しかし状況の全てを物語る一文だった。
口頭では言えないということ。
管理所ですら、安全ではないということ。
家長がかつての冷静さを失い、机に頭を抱えていた理由が、この一文の中に全て詰まっていた。
俺はもう一度その紙をポケットにねじ込み、手元の缶を一気に呷った。
社長へと電話をかけた。
呼び出し音が数回鳴った後、あっさりと通じた。
用件を切り出そうとすると、社長は俺の言葉を半ば遮るようにして、一軒の焼肉屋の名前を告げた。
昼時にはまだ少し早い時間帯だった。
指定された焼肉屋は、表通りから一本入った静かな場所にあった。
店構えは年季が入っているが、清潔感のある店だ。
常連客らしい雰囲気の男性が何人か、カウンター席で昼の定食を食べている。
店員に名前を告げると、すぐに奥の個室へと通された。
襖を開けると、そこには要石の社長だけが存在していた。
「よォ。昼飯に肉は重いか?」
社長は俺の顔を見ると、片手を軽く上げて挨拶してきた。
テーブルの中央では既に無煙ロースターが点火されており、何枚かの肉が音もなく焼かれている。
俺は軽く頭を下げて、向かい側に腰を下ろした。
俺の分の烏龍茶は既にグラスに注がれて届いていたようで、氷が涼しげに浮いている。
一口飲むと、ようやく喉の渇きを自覚した。
社長は顎髭を一度、指先でなぞるようにして触ると、上着の内ポケットから時計型の遺物を取り出してテーブルの上に置いた。
設置した途端に部屋の空気が微かに変わったのがわかった。
音が吸い込まれるような、奇妙な静寂。
防音の効果が込められた遺物だろう。
「最初に言うが、Aランクダンジョンの更に上のものがあったと知ったのはつい最近だし、水龍と俺だけだ」
社長は前置きなくそう切り出した。
俺はグラスを置き、社長の言葉に意識を集中させる。
「もちろん、俺達はそのダンジョンに入る。しかしなぁ、どれだけ調べてもそのダンジョンがどこに存在しているかが分からないんだよ」
焼けた肉をトングで摘み上げ、社長は俺の皿へと綺麗に並べてくれる。
俺は短く礼を言って箸を取った。
「読心やそれに準ずる遺物。探し物を探し当てるような遺物。様々な物を使用しても見つからない。これは異常なんだ」
社長の顎髭を撫でる指先が、微かに動く。
要石のリーダーがここまで困惑を滲ませているのを、俺は初めて見た気がする。
「徹底した情報統制って事ですよね」
「そんなチャチな物じゃない。現に情報が漏れているからな」
社長は一度、言葉を区切った。
そして、選ぶように続けた。
「ダンジョン――その場所だけがぽっかりと空いた穴のように掴めないんだ」
穴のように。
情報があるはずなのに、そこだけが欠落している。
誰かが消したのでも、隠したのでもない。
最初から存在しないように、世界から丁寧に切り取られている。
俺はそのイメージを頭の中で反芻しながら、口を開いた。
「――以前、第六階位はこの日本に居ないとおっしゃいましたよね、全員そのダンジョンで死んだと言う事ですか」
社長は考え込むように沈黙した。
「――その可能性が高いのかも知れない。はっきりとは分からない」
社長はゆっくりと顔を上げると、足元に置いていた鞄から一つの封筒を取り出した。
やや厚みのある茶封筒だ。
中から複数枚の資料を引き抜いて、俺の前に並べる。
「これは、アキの担当していた管理所の人間。家長から渡された資料だ」
俺は資料を手に取り、一枚ずつ目を通していく。
「旭技巧の目的は、ダンジョンと探索者の完全管理」
社長の声が、低く響いた。
「旭技巧は、その例のダンジョンを永久に閉じておきたいと考えている。管理するのにイレギュラーは排除したいからな。その考えは合理的で理知的で納得できる。しかし、それは俺たち探索者と言う人間を真っ向から否定している」
社長は少し感情的に続けた。
「危ないから規制するって、俺達は子供か? 危ない所に入るから探索者なんだろうが。仮にそこで死んでも本望だろう」
安全な場所で管理されて生きるぐらいなら、ダンジョンの最奥で死ぬ方がいい。
それは俺にもわかる感情だった。
身体能力が上がらないという問題を抱えながらも、会社を辞めて探索者の道を選んだ俺自身の中に、同じものが確かにある。
「そして、さらに問題なのは」
社長はそう続けて、資料の別の一枚を指差した。
「人造遺物の作り方だ。これは、踏破したダンジョンのボスが再リポップするまでの間に人体を使用して作成する」
今朝、青木から同じ話を聞いていた。
しかし、こうして資料として目の前に提示されると、その重みが違う。
その資料にはご丁寧に、写真まで載っていた。
何かの実験の記録写真だろう。
粗い解像度で撮影された暗い空間の中央に、奇妙な肉塊が写っている。
全体的にテラテラとした光沢を帯びた、皮膚とも内臓ともつかない質感の魔物。
この魔物には見覚えがある。
それも、つい最近のことだ。
「なんだ? 見覚えがあるのか?」
俺の表情の変化を鋭敏に察知した社長が、箸を止めて身を乗り出す。
「先日、ヒナとのダンジョンにも出現していた魔物です。その時は更に肉の赤ん坊のような魔物まで出て来ています」
俺はそう切り出してから、記憶を手繰り寄せるように続けた。
「それに、それより前。俺がソロで入った水没遺跡のダンジョンで、フジツボから出現した魔物とほぼ同種の物でもあります」
社長の顔色が、露骨に変わった。
顎髭を撫でる指が完全に止まり、焼けていた肉が音を立てるのも構わずにじっと写真を見据えている。
「――赤ん坊か」
社長は呻くように呟いた。
「手に入れてる情報ではそこまで至っていない。古い情報なのはまずいかもな」
その言葉の含みに、俺は静かに頷いた。
この資料が古いということは、旭技巧の実験は俺たちが把握している段階よりもさらに進んでいるということだ。
そもそもこの資料を作成したのは、青木で間違いないだろう。
旭技巧の内部に潜り込み、情報を抜き出し、家長へと渡す。
そんな真似が出来るのは、あの男しかいなかった。
そして、その代償は今朝、ダンジョン内の死体として支払われた。
「ここで、整理をしておこう」
社長はそう言うと、右手の人差し指をピンと立てた。
「まず、俺達がやる事だ。俺達は探索者、ダンジョンに潜る事が生業だ。だからダンジョンに潜る」
単純明快だった。
そして、その単純さの中に確かな覚悟が込められていた。
旭技巧が何を管理しようと、何を隠そうと、探索者はダンジョンに潜る。それだけだ。
俺は頷いてから、一拍置いて口を開いた。
「一つ、大きな懸念があります」
社長は箸を置いて、俺の目を真っ直ぐ見据えた。
既に俺の懸念を察しているような、覚悟の決まった視線だった。
今までの情報を統合すると、確実によくないことが起きる可能性がある。
いや、可能性ではない。
ほぼ確実に、すでに進行しているだろう。
「わかってる、そしてそれは俺達が一番危惧している事だ」
社長は俺の言葉を先回りするようにそう言うと、再び顎髭を一度触った。
そしてその手を組んだまま、静かに吐き出した。
「ロレーヌがいたダンジョンで、同様の実験が行われている可能性がある」
俺は無言で頷いた。
ロレーヌが倒された後、次の再リポップまでの間に、もし旭技巧の人間が介入していたとすれば――。
あれは人に制御、管理出来るものじゃないだろう。
ロースターの上で、焼きすぎた肉の縁が焦げ始めている。
社長はそれに手を伸ばすこともなく、ただ俺の顔を見据える。
個室の中に張り詰めた沈黙は、さほど長くは続かなかった。
社長は何かを決めたように小さく息を吐き、椅子の背もたれに一度寄りかかってから、再び身を起こした。
「アキ、この後は空いてるよな?」
社長はそう言うと、手元の烏龍茶を一口飲んだ。
氷が微かに揺れ、グラスの内側に水滴が伝う。
俺はその言葉の含みを理解して、短く頷いた。
「はい、勿論です」
社長は俺の即答に満足したように一度頷くと、視線を焼きすぎた肉から個室の天井へと軽く向けた。
考えを整理するような短い間を置いてから、静かに言葉を続ける。
「ヒナと捻れは別のダンジョンに今潜ってる。――俺達はこのあとロレーヌのダンジョンを確認しに行こう」
社長は顎髭を一度撫でると、続けた。
「念の為、休暇中の水龍も呼ぶぞ」
その一言で、俺は社長の本気度を理解した。
その水龍をわざわざ呼び戻すということは、今回の確認作業が「念の為」という言葉では済まされない規模になる可能性を、社長が織り込んでいるということだ。
単なる偵察ではない。
「了解です」
俺は短く答えた。
長々とした確認は不要だった。
社長は小さく笑うと、ようやくロースターの上の焼きすぎた肉へと箸を伸ばした。
少し焦げた縁を見つめながら、ぼそりと呟く。
「飯ぐらいは、ちゃんと食ってから行くぞ」
食えるうちに食っておく。
それが探索者の基本だ。
次にいつ、ゆっくり飯を食えるかわからない。
「大丈夫だ、ダンジョン内に入る予定はない。ダンジョンがしっかり破壊されているかどうかを確認するだけだ」
俺は烏龍茶を一口飲み、改めて箸を取り直した。
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