06 紅之蘭 著 初雪 『ハンニバル戦争・エピソド』
【あらすじ】
紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。カルタゴのハンニバルは、敵対するローマがまったく予期していなかった、海路からではなく、陸路ガリアを横断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。そしてカンナエ会戦で二倍近いローマ迎撃軍を壊滅。南イタリアにあったローマ同盟諸市を寝返らせ、穀倉地帯と十五万の動員兵力を手中にした。
「俺たちみえたいな奴隷を兵士にして最前線に送りこむとは、ローマも落ち目だな」「――まあいい、ものをいう牛馬よりは、剣をとって人として死にたい」
ローマの執政官グラックスは、カンナエ会戦で兵員の多くを失ったため、元老院にかけあって、有力者たちの奴隷たちを軍に徴集し、次の戦争に参加したら、奴隷身分から解放すると約束した。
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紀元前二一五年冬、ハンニバルは、良好な港湾都市が多いここカンパニア地方を、ローマから奪取するため、陣城設営を開始した。カプアに拠点を置いていた、カルタゴのハンニバル将軍が動いたとの報をきくや、直ちに、ローマ元老院は、ファビウス、グラックス、マルケスの三執政官を現地に派遣した。各執政官は四千名からなる軍団二個を麾下に持っていたから、計二万四千での対戦ということになる。
南イタリア、地中海に面した現在のナポリ市あたりは、カンパニア地方という。南イタリアといえば常春のイメージだが、冬になれば雪だって降る。二月になればドカ雪も降るが、十二月は行軍に支障をきたすほどの積雪ではなかった。それにしても、寒さは堪える。
三人の執政官は、ローマに通じる街道を完全に封鎖していた。
凸形陣形の主力と両側面の騎兵からなる横列陣形を基本とし、別働隊を動かし、敵が凸形のでっぱりでもたついている間に、世界最強騎兵で敵騎兵を潰し、さらに両側面を衝く。こうして三方を囲んでから、背後から別働隊が蓋をして袋の鼠にしてしまうという、包囲殲滅陣形で、ローマ軍は何度もハンニバルに壊滅させられてきた。――カルタゴの戦術メカニズムを完全に解読したのは、ローマの将軍たちのなかでは、ただ一人、スキピオだけだった。しかしその彼はイベリア半島にいる父親と叔父が待つ軍営に合流してここにはいない。
アルプス越え以降も唯一生き残った戦象ブケパロスの輿に乗った隻眼の将領は、憮然とした顔だ。麾下の猛将ハンノに、「騎兵を駆ってローマ兵を誘いだしてこい」と命じた。
「御意」
ハンノ麾下、ガリア騎兵一千が、敵陣の鼻っ面をかすめてゆく。
「ローマの小便小僧、男なら掛かってこい」
そんな罵詈雑言を浴びせかける。言葉が違うので意味は解らないのだが、だいたいのことは空気で読めるというものだ。
平民出身のローマ執政官・グラックスの軍勢の大半は、奴隷に声かけして集めた軍団だ。いわゆる奴隷軍団である。奴隷兵士たちは、勇み足になりがちだ。――この戦いが終わったら、俺たちは、ローマ市民だ!
馬上のその人が、後続に、「待て」の指示をだした。弓兵を預かる百人隊長たちが、麾下の兵士たちに、「有効射程から外れている。矢がもったいない、放つな」と命じた。
カルタゴ軍の騎兵は放物線を描いて小高い丘にかけ上がった。雪というよりはみぞれのようなものが積もっている野原を千もの馬が走るわけだから、地面はグチャグチャだ。後続の馬のなかには、数は少ないが、滑って横転・落馬する騎兵もいた。
「食いついてこぬか」猪首をした猛将ハンノがぼやいた。しかし走駆が泥を撥ねる音でかき消されてしまっている。――カルタゴ本国が、あと騎兵一万ばかりを補充してくれたら、力押しできるものを……。ハンノの尻目にははるか遠くにある港湾都市がみえた。ナポリの町あたりだろうか。あれを一つ落とせれば、物資の補給は楽になる。というより、いい港がないから、補給物資をやるにはリスクが高い、として本国の元老院は補給を渋っているわけだが。
戦象に乗った三十歳を超えたばかりの将軍の軍営も一万強というところで、本気をだしている様子ではない。それにしても、ローマの軍勢が、いままでの戦術方針をまったく変えたということを肌で悟った。ローマの三執政官は、これまでの自軍を壊滅させてきた執政官たちのように、一人として、ハンニバルの挑発に乗らない。
対峙と小競り合いで、その年の冬の戦いは終わった。春先、ハンニバルは自軍の兵をまとめて、南方にある拠点パプアに撤退していった。
遠くに去ってゆく敵勢をみやって、ファビウスとマルケスの二執政官も陣城を引き払う準備にかかっていた。
グラックスは、本格的な戦闘こそ起きていないのにも関わらず、参戦した奴隷たちを解放し、ローマ市民として迎えることにした。その上で、四十歳を少し越えた執政官は、解放奴隷八千を前に演説した。
「君たちは義務を全うした。これからは私と同じ身分、ローマ市民。同胞だ」
大歓声が起こった。
「ろくに戦ていないのに奴隷から解放された」「本当にいいのか?」「閣下と同じ身分、信じられない」「つぎにハンニバルがきたら次こそ首を跳ねてやりましょうぞ」「これからも閣下はわれらの閣下だ」
「おいおい、おまえたち、兵役は解除されたんだぞ」
「いえ、われらはローマ市民軍となりました、閣下」
睨み合いの冬季作戦だったが、ティベリウス・センプロニウス・グラックスにとっては、解放奴隷からの信頼関係構築に成功した貴重な時間となった。もう奴隷ではないのだけれども、忠誠心と勇猛さで歴史に名を残す通称〝奴隷軍団〟がここに誕生する。
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重なローマの執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。




