08 雪波 著 樹木 『問い』
「わたしどうなっちゃうんだろうなぁ」
諦めたような笑みと、不安に震える声をナンを食べながら聞き流す。そして二人でため息をつく。新しくできたインド料理屋は、まだ人が少ない。今までの人生で一番美味しいナンは、バターが薄っすらと表面に浮かび、裏はカリッと香ばしい。小麦粉のもったりとした重さはなく、思った以上に軽かった。私は辛い物は苦手だから、ナンばかりをちぎっては口に入れた。
「これ、どう思う?」
テーブルの上に投げ置かれた薬の袋には、【アリセプト】と書いてある。
「ああ」
そういえば、父が飲んでいる薬と同じだ。
「わたし、やっぱりアレなのかな」
「医者はまだ、診断くだしてないんだろう?」
「ええ。でも左が、い、い、ほら、い。そう、委縮してるって。でも、時計も読めるのよ? も、物忘れだって、そんなに無いし……言葉だけ」
彼女はまだ60手前なのに、アルツハイマーなのかもしれない。父と同じなら、じきに彼女は別人のようになるだろう。
「わたしどうなっちゃうんだろうなぁ」
「そんな、医者にも分からないこと、わからないよ……とりあえず、ちゃんと薬を飲めとしか……」
私はもう、彼女の目を見ながら話すことはできない。不倫の代償なのか。後悔というより後ろめたさが、背中をひたひたと撫で上げる。彼女を放さず、孤独にさせたのは私だ。
「地元に帰るのか?」
「ううん、無理よ。母だって、アレだし。お兄ちゃんももう……うちは家族バラバラだからさ」
妻と別れて彼女と一緒になると言い続けた30年。もし私が彼女をもっと早くに開放していれば、こんな時に頼れる子供を持てただろうに。そもそも、どうして私は、この女に執着したんだろう。今気づいたが、結局大事なのは、自分の家族だ。そう思うと、目の前にいる女が急に不気味に感じた。
「わたしどうなっちゃうんだろうなぁ」
再びため息をつく彼女が厄介な荷物になった。
「そろそろ出ようか」
私はさっさと立ち上がり、会計を済ませた。
「あれ~、オキャクさん~、チッカリー食べてないね~。美味しいのにね~」
店のインド人が釣銭を渡しながら非難がましい事を言う。
「チキンは嫌いなんだ」
店を出ると、寒さに身が固くなったが、手をつなぐことはしない。街路樹を見上げながら歩いた。何本も、無言で街路樹を数えた。どの木も葉が落ちて、枝分かれした先がスカスカとしていて寒々しい。アルツハイマーの脳のイメージは、こんな枯れ木だろうか。いや、春になったって彼女は瑞々しさを取り戻して、青々とした葉を茂らせることはないんだ。自然とため息が漏れた。
そのため息に反応したように、彼女が私のコートの袖をそっとつまんだ。目が合った。逃げたい。
だが、私は逃げないんだろう。きっと。
了
第77集(11月号)はこれで打ち止め。第78集でお会いしましょう。ご高覧ありがとうございます。




