03 紅之蘭 著 文化 『ハンニバル戦争・エピソド』
【あらすじ】
紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。カルタゴのハンニバルは、敵対するローマがまったく予期していなかった、海路からではなく、陸路ガリアを横断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。そしてカンナエ会戦で二倍近いローマ迎撃軍を壊滅。南イタリアにあったローマ同盟諸市を寝返らせ、穀倉地帯と十五万の動員兵力を手中にした。
古代ローマの牛肉は、固くて調理に手間がかかるので、食材にはむいていなかった。農耕・運搬につかう役牛だったためだ。牛車の荷台には岩塩をすり潰した塩が満載されていた。それが一台二台ではない。集落ぐるみで、自ら耕してきた畑に、大量の塩をばらまいていた。奴隷はもちろん、男女の老人も、若い女も。しかし若い男はほとんどいない。カンナエ会戦でカルタゴ軍に皆殺しにされてしまったのだ。
ローマ共和国の勢力圏南部、対カルタゴ・ハンニバルの最前線である。
スキピオをはじめとしたローマ軍の将領たちは、申し訳なくて、彼らと目をあわせることができなかった。
農民たちは涙を流しながら、作業をしていたのだが、国家や元老院に対して呪いの言葉を吐く者は一人としていなかった。
「このような焦土作戦でしか、ハンニバルには対抗できぬのか」
将校たちのなかで、スキピオの横にいた男がグラックスという指揮官だ。――平時なら、執政官の任期は一年なのだが、ハンニバル麾下カルタゴ軍のために、一般兵もそうだが、指揮官たちも多く戦死した。前執政官の肩書きを官職として、経験豊富な将領を確保したのである。
共和制ローマ時代の文化は質実剛健なものだった。敵に対して策略というものをつかわず、同盟諸市に対しても戦争になれば戦闘員構成の大半を占め、自ら最精鋭を前面に繰り出して戦った。同じく共和制をとる商業国家・カルタゴが傭兵制であったのに対し、農耕牧畜が産業基盤のローマは徴兵制が国軍の基盤だ。金で雇われたのではなく、市民として義務を果たすべく誇りをもって戦ったのだ。そして義に厚く慎み深かった
元老院議員以下すべての貴族たちが、土地と屋敷以外のすべての資産を国のために供出した。戦時国債が発行され、平民でも、富裕層には強制割り当てがなされた。
同盟市ナポリは豊かな港湾都市だ。金貨を入れた壺、二十五個を贈ってよこしたのだが、ローマは一個だけ受け取って残りは返した。また、同盟市シラクサは当時の穀倉地帯だった。大量の兵糧と、援兵一隊を送ってよこしたのだが、ローマは援兵だけを預かって、兵糧の代金は後払いすると使者に申し伝えた。
年長のグラックスが、若いスキピオにいった。
「くれるというのだから、同盟諸市の厚意に甘えて、ありがたくもらっておけばいいものを……」
将校たちのなかで、筆頭格であるのがファビウス執政官だ。慎重さゆえに〝怠け者〟といわれていたのだが、慎重であるということは言い方を変えれば、手ごわいということだ。
「そう甘えているわけにはいかぬ。カンナエの敗北で、イタリア半島南部の同盟諸市が、カルタゴのハンニバル寝返った。シチリア島の諸都市もぐらついている。アドリア海を渡れば東岸のバルカン半島に、カルタゴと同盟を結んだ、マケドニアがローマを狙っている。――残った同盟諸市の心をつなぎとめておく必要があるのだ」
グラックスが言った。
「カルタゴ軍は強力だ。ハンニバル率いる軍勢に触れば壊滅させられることは必定。しかし、ハンニバル以外の兵団であれば、我らにも勝算が生じる。ハンニバルの動きを最低限封じつつ、ハンニバル以外のカルタゴ軍を一個一個潰して行けば……」
「そうだな……」ファビウスが答えた。
そこへ早馬に乗った使者がファビウスに伝えた。
イベリア半島派遣軍のコルネリアス執政官と弟君が、現地のカルタゴ軍との戦闘で勝利なされてとのことです。
「元老院は――国中にこの朗報を伝えたな」
「士気が高まりますな」グラックスがファビスの肩に手をやった。
そのグラックスが皆にこう告げた。
「自分は奴隷たちをかき集めて兵士にしようと思います。初陣で勝利したら解放し、市民権を与えたい。その旨を元老院にかけあいました」
「元老院はなんと?」スキピオがきいた。
「渋々ですが、裁可が降りました」
将領たちはそれぞれ自分たちの持ち場である戦線に散って行った。ある者はアルプス山脈の麓に割拠するケルト人たちを牽制、またある者は東のアドリア海を渡ってマケドニアを牽制、またある者は地中海を渡って西のイベリア半島に渡って戦いに加わった。――問題のイタリア南部は、ハンニバルがどっかりと居座って動かないでいる。穀倉地帯を握ったハンニバルは都合十五万の兵力が動員可能になった。
スキピオは考えた。
ハンニバルは、穀倉地帯を握ったことで逆に、機動力をなくしたのだろうか? ――いや、違う、何かを待っている。ハンニバルはリスクを承知で冬のアルプスを越えてやってきた。なぜか? 道をつくったのだ。恐らく、やがて、イベリアから第二派の大軍が押し寄せてくる。――北と南から挟撃する腹に違いない。……そうならぬように、イベリアを叩く必要がある!
スキピオは、父親と叔父とがいる、イベリア戦線への参加を元老院に要望した。
文化・了
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重なローマの執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。




