25 ロザリオ
結婚してから一年が過ぎて、おめでたに気付いた。
ローランドは……私に対してずっと腫れ物に触るような態度だ。家事すらさせたがらない。
「別に病気ではないのよ。普通に暮らせますから」
「そうだけど、とにかく万が一がないように動く前に考えてくれ。いつも君は無理や我慢をするだろう?それは絶対にダメだからね」
「無理も我慢もしてません」と言っても心配するローランドのためにも無事にお産にこぎつけなければね。
「移動販売をどうしようか」
「人を増やしましょう。そして力仕事は避けてください」
ネールにそう断言された。
それでもあんまり動かないのも良くないはず。調理と販売のみ担当して、買い物と洗い物は人に頼ることにした。
そういう事情で新しく雇った女性はリカルドさんの恋人だ。いつか二人でもう一台の移動販売をするのが目標だと言う。
「私、リカルドと力を合わせて頑張りますから。ルイーズさんは無理をしないでくださいね」
こうして助けられながら私も移動販売に関わり続けている。私のおなかが大きくなる頃にはお客さんまでが労ってくれた。
「ルイーズちゃん、おなかがだいぶおおきくなったわね。疲れたら休むんだよ」
「冷やすんじゃないよ」
「重いものは他の人に任せなよ」
女性たちはみんな母親のように声をかけてくれる。そして赤ちゃん用の靴下、産着、帽子などのお下がりをくれた。
「これはうちの娘が使った靴下よ」
「あたしはおくるみを持ってきたわ」
無事にお産を終え、赤ちゃんを育て終えた人から回ってくるお下がりは安産と子育てのお守りになるという。
その気持ちが嬉しくありがたくて、頂いたお下がりを一枚一枚たたみながら大切に衣装箱にしまった。
やがて始まったつわりは長く苦しく、ローランドは心配して色々な食べ物を買ってきては「これならどうだい?」と差し出してくれた。
正直言うと、吐き気が酷い時は(気持ちだけいただきます。口をきくのもしんどい。ほっといてください)と思ったりもしたけど、大きくて強くて優しいローランドがおろおろする姿は微笑ましく愛しくて、なんともふくふくした気持ちになる。
そんなある日、イーダスから魚卵の塩漬けが送られてきた。父さんの字で「海の味が恋しいだろう。栄養をつけるんだよ」とメモが入っていた。
小さくて金色のつぶつぶの卵。私の好物。王都で味わう海の味はしみじみ懐かしい。魚卵は塩抜きしてから小麦粉のお団子にクリームソースと一緒に和えて売り出した。お客さんの評判がいい。
「プチプチした歯応えが楽しいな」
「栄養たっぷりな感じね」
「王都ではなかなか食べられないんだよな。俺も海辺の出身だから懐かしいよ」
子供の頃、母さんがよく作ってくれた魚卵のクリームソース。小麦粉のお団子を一緒に丸めたっけ。
夜、夫婦二人の時にその話をした。
「母さんの料理の思い出は思いがけない時にひょっこり飛び出してくるの。私の作る料理も誰かの心の隅っこに残ってくれるのかな。そんなことがあったら嬉しいな」
私がそう言うとローランドは「そうか」と微笑むだけ。ローランドにも思い出の母の味はあるはずだけど。いつかローランドの思い出の味を作って食べてもらえる日が来ることを気長に待とう。
それから数ヶ月後の今、私はかれこれ半日以上おなかの痛みと向かい合ってる。
いや、おなかの痛みなんてものじゃないわ。背骨がへし折れるかと思うような凶暴な痛みよ。それが周期的に身体の中で生まれてガンッと襲ってくる。
(これはもうなにか問題発生じゃないの?異常事態じゃないの?)とお産婆さんを見るとベテランの彼女は冷静だ。問題はないらしい。これが普通ってこと?恐ろしい。
こんな痛みをみんな乗り越えてるのなら、全ての母親を尊敬するわ。私はもう二度とこんな痛みは無理だと思う。
ローランドは台所でウロウロしているらしい。最初は私の腰をさすってくれていたけど、私に陣痛が来るたびに青い顔をしてオロオロするからネールに追い出された。
何度も何度も凶暴な痛みを乗り越えているうちに強い眠気が来るようになった。
「だめよ。眠ってはだめ。お産が長引くわよ」
お産婆さんに叱られる。だけど泥沼に沈むかのようなすごい眠気が陣痛の合間にくる。
やがて恐ろしい痛みが間断なく来るようになって(もしかして私は死ぬの?)と思い始めたころ、やっと赤ちゃんが産まれた。
早朝に始まった陣痛が終わったのは深夜をとっくに過ぎて朝になりかけてた頃だ。
「んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!」
不思議なことに産み終わった瞬間に、痛みの記憶を思い出せなくなった。
「とんでもなくつらかった」とは思うけど、それだけ。
なるほど。これならまた産もうとするかも。
ヘロヘロの状態でぼんやりそんなことを考えた。
「さあ、抱いてあげなさい」と渡された赤ちゃんはきれいに洗われ拭かれてウトウトしている。我が子はローランドの黒目黒髪を受け継いでいた。理屈ではわかってるけど、金髪と青い目の私のおなかで育ったのにローランドに強く似ていることが不思議。赤ちゃんは大柄な男の子だった。
「これだけ大きいから大変だったのね、初産なのに苦労なさいましたね。よく頑張りました」
助産婦さんが誉めてくれる。
赤ちゃんを抱いて頬ずりしていたらローランドが入ってきた。
汗だくで力み続けた私はきっと散々な姿だろうけど、ローランドはそんな私に「ありがとう」「頑張ったね」を繰り返していた。
赤ちゃんの名前はローランドがつけた。
「ロザリオ」と。
「いい名前ね」
「俺、君があんなに長い時間苦しんでいるのを見ていたら、親を恨むのはもうやめたいと思ったよ。まだ恨む気持ちが全て消えたとは言えないけど。母はあんなに苦しんで俺をこの世に送り出してくれたんだ。それを感謝できる人でありたい」
「そう。そう思えたなら良かったわ。ロザリオはあなたにそっくりね」
「俺の父にもよく似ているんだ。父の顔を久しぶりに思い出した。俺の父も、俺が生まれた時に嬉しかったのかな」
「きっととても喜んでくれたわよ」
「うん、そうであって欲しい。優しい父だったし優しい母だったよ」
ローランドの顔が穏やかだった。